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        理屈人間
    

 私は本当は理屈が嫌いである。それなら、なぜ、法律家になったのかと言われそうだが、それはともかく、法律家が理屈っぽくなるのは、ある種の職業病のようなものかもしれない。私は、法律家ではない知人たちから、「理屈っぽい」とよく言われるのだが、元来、私は理屈が嫌いなので、「理屈っぽい」と言われることを常々不思議に思い、時には反発を感じていた。
しかし、ある時、私は自分がいかに「理屈人間」であるかということに気づく機会があった。
 以前、山仲間とヒマラヤに遠征した時、遠征中の行動を撮影したビデオテープと遠征隊員の座談内容を編集した一時間番組がテレビで放送されたことがあった。残念ながら、このような番組は一般の関心を引かないので、視聴率は極めて低かったようだ。テレビ放映の後でこの番組の録画を見ていたら、録画したビデオの中に、打ち合わせや雑談など遠征の行動中のいろんな音声が入っており、その中に理屈っぽいことをしきりに言う者の声が入っていた。ヒマラヤの大自然が相手では何事も計画通りにはいかないものであり、小賢しい理屈など通用しない。「ヒマラヤまで来てこんな理屈を言う奴は誰だ?」と思っていたら、その理屈っぽい声の主は私だった。普段聞いている自分の声は脳器官を通して聞いているので、ビデオで録音された音声のように外部から聞こえる自分の声は、自分の声ではないように聞こえるのだ。世の中の多くの人は日常生活の中で理屈を言うことなどないのだが、どうやら法律家は理屈が自然に口をついて出るものらしい。
 このような次第で、私は自分が理屈人間だと自覚するようになった。
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 理屈でものを考える人間は、理屈で考えて行動することが多くなるだろうし、理屈でものを考えない人間は、行動の基準が理屈ではないことが多いということになるだろう。合理的な行動は理屈にかなった行動だから、理屈で考えて行動するほうがいいに決まっている。しかし、世の中に理屈に基づいて行動しない人は多い。
サラ金から借り続ければ破綻することは頭で考えればすぐにわかるはずだが、やはり借り続ける人は多い。彼らの多くは、金が足りない時に「何となく」借りるのであり、ほとんど何も考えずに借りている。何も考えず借りているので、気づいた時には返済不能となっており、なぜ、そのような状態になったのか自分でもよくわからない人が多い。そういう人に対し、「どうして、そんなにたくさん借りたのですか」と追及してしまうのは、弁護士や裁判官の悪い癖である。
 多額の負債を抱え客観的には経営が破綻しているのに、諦めることができない経営者がいる。夫婦関係が完全に破綻しているのに、なお未練を捨てない配偶者。得か損かとか、理屈だけで離婚事件が解決できればこんなに楽なことはないだろう。裁判での和解の話し合いの時、理屈で当事者を説得しようとすると、たいがい失敗する。それがわかっていながら、つい理詰めで説得しようとして、毎回同じ失敗をする。サルや人間には好き嫌いという感情があるが、これは遺伝子と学習経験がどのように影響するのか理屈では説明できない。道路の譲り合いの些細なトラブルから殺人事件を起こすのは、どう考えても理屈に合わない。最近は、後で考えてその「理由」や「動機」がよくわからない殺人事件が多い。親は勉強が役に立つと頭で考えて子供にうるさく「勉強しろ」と言うが、子供はなかなか「得か損か」とか理屈では行動しない。しかし、最近は、勉強すれば将来「楽ができる」と考える子供らしくない子供がいるようだ。
 敵対する国の戦力などあらゆるデータをコンピューターに入力すれば、戦争をした場合の結果が予測できる。理屈で考えれば、負けるとわかっている戦争はしないはずだから、あらゆる戦争は回避できるはずである。しかし、現実はそうではないのであり、ということは、戦争をする人たちはたぶん頭でものを考えない人たちなのだろう。
 人類の歴史を振り返った時、歴史上の出来事や、人間の生死、病気、災害などは、理屈で計算されたうえで生じているわけではない。世の中や人の一生は理屈通りにいかないことだらけであり、それだから、古代の人が自然を恐れ、自然を信仰の対象としたのだろう。環境心理学者のジェームズ・スワンは、現代の宗教と科学が人間と自然の結びつきを遮断したことが、人間が精神面で多くの問題を抱えるようになった原因だと述べている。
 犬などの動物は雷をひどく恐れるが、人間は現在では雷の原理を知り理屈で考えるから、雷をそれほど恐れない。しかし、人間は雷がどこに落ちるかという計算と予測まではできないので、時々、雷に打たれて死ぬ者がいる。山や原野の中では、理屈で考えて行動する人も本能で行動する人も、未開人も現代人も、雷に対してはほとんど無力であり、古代と較べて、雷の前で人間の置かれている状況が進歩したとは到底思えない。
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 もともと自然や人間は計算不可能なものであり、理屈は通用しなかった。未開人の世界では腕力と勇気と体力がものをいうが、現在は腕力よりも知識の方が重宝がられる。文明は人間が頭の中で考えた人工の世界であり、そこでは計算可能性と理屈が支配する。文明の発展は、自然や人間という計算不可能の世界を、人間が理屈で支配していく過程でもあった。聖書には、「生めよ、増えよ、地に満ちて地をしたがわせよ。海の魚、空の鳥、地の上に這う生きものをすべて支配せよ」と書かれているそうである。
 文明の発展は同時に自然破壊の過程でもあり、自然の破壊は自然の一部である人間の自然性の破壊をもたらす。心理学者のフリッツ・パールズは、「我々は、環境に対して行っていることを、自分に対しても行っているのだ」と述べている。長い時間をかけて徐々に釜で茹でられるカエルが、自分の置かれている深刻な状況になかなか気づかないように、人間は何千年もかけて徐々に進行している環境破壊と人間の自然性の喪失の危険性になかなか気づかない。
 現在、高度に発達した科学技術や文明のもとで、人間は自然を理屈で支配可能だという幻想に陥りかけているが、自然は極めて複雑なので、どんなに高度な科学技術でも自然災害を防ぐことはできない。危険な登山の経験から考えると、どんなに科学技術や用具が進歩しても、人間が自然の危険性を察知する能力は二〇〇〇年前とほとんど大差ないか、むしろ退化している。
 経済活動は計算可能性と予測可能性を要求するが、人間はしばしば予測に反する経済行動をとって市場経済を困らせる。
 法律は人間の意識が作ったものであり、完全な人工物であり、理屈でできている。あるいは、法律は理屈そのものと言ってもよい。法律の解釈、適用が理屈に基づいてなされ、経済活動の計算可能性と予測可能性を担保するはずだが、法律は生身の人間に適用され、人間は自然物であり理屈でできていないから、始末が悪い。人間が理屈通りに行動すれば、法律の適用はコンピューターの操作のように行えるので楽だが、現実の人間は理屈どおりに行動しないので、人間を裁くことの難しさがある。
 「ビュリダンのロバ」の話は、二つの全く同じ干草の山の間に入った馬鹿なロバは、どちらを食べてよいのか迷ってどちらも食べることができず、飢え死にするという逸話であるが、コンピューターは判断に迷うと同じ処理を永遠に繰り返すことがある。これでは、コンピューターは賢いのか馬鹿なのかわからない。
 こういう現象は人間でも起こりうるが、普通の人間はそれほど考えることなくどちらかに決めさっさと餌にありつく。しかし、ものごとを理屈で考える人の中には、どちらかに決めることができず、いつまでも悩む者が出てくる。私の大学の同級生で「ゼミのレポートがうまく書けない」という遺書を残して自殺した人がいるが、似たようなものかもしれない。どちらの餌を食べるかを決めるのは理屈ではなく、たぶん、その時の「気まぐれ」によるのだろうが、それについて「どうしてそちらに決めたのですか」と尋ねても、理由などあるはずがない。理由がないからこそ、どちらか一方に決めることが出来るのである。
 人工的な都市文明のもとでは、ものごとには必ず理由や意味があるはずだと考えるが、自然には理由や意味がないことが多い。人の片手の指がなぜ五本あるのか、六本ではどうして駄目なのかを考えてみても仕方ないし、ギフチョウの幼虫はその遺伝子のプログラムによってカンアオイという植物しか食べないそうだが、その理由や意味を考えても仕方ない。
 自然は自然の摂理にしたがって存在しているが、自然の摂理に理由や意味がないことは多い。人工物は必ずその構造に理由や意味があるが、自然物はその存在に理由や意味があるとは限らない。写真家の星野道夫は、「何の意味もない」アラスカの大自然が、自分に生命力を与えてくれ、自然に対する興味は自分の生命に対する興味に他ならないと述べている。
 自然を意味する英語のnatureには「自然」という意味と「本性」という意味があるが、そのラテン語の語源には「誕生」と「生まれる」という意味があるそうだ。自然に生命力の源泉を見いだした点は、どの民族でも共通している。自然の中で、人は、ある瞬間に自然の啓示を受け、自然の悠久の時間や無限の可能性、生命力、神秘性などを感じ、自らが自然の一部であることを悟る。自然の中で生活している人は、昔から、自然の摂理の理由や意味を考えることなく、あるがままの自然を受け入れて生きてきた。雑草のように、効用という観点で見れば価値がないとされる植物でも、あるがままの自然の生態系の一部として受け入れなければならない。私が訪れたブータンのように、人々があるがままの自然を受け入れて生活している国では、あるがままの人間を自然なものとして受け入れることができ、少年や子供の凶悪事件はありえない。
 「人は、なぜ、生きるのか」、「人生にいかなる意味があるか」という哲学的な議論が文明とともに生まれたが、そういう疑問が生まれること自体が、人間が理屈で生きるようになったことを示している。ソクラテスは、「都市の城壁の外では重要なことは何も起こらない」と言ったそうだが、古代ギリシャや古代ローマ、中国の孔子の時代でも、自然に触れることなく城壁の中で一生を終える人は多かったようである。古代の都市文明が都会的哲学者を生み出したのだった。
 子供の勉強嫌いに理由はないのだが、「どうして、うちの子は勉強が嫌いなのか」と親は考えてしまう。男女の間で、「なぜ、自分に好意を持ってくれないのか」と考えても仕方がない。これを余りに真剣に考えて行動に出れば、ストーカーになりかねない。解決の困難な離婚事件では、しばしば、当事者が「なぜ、相手は離婚したいのか」という疑問を考えなくなることが、解決のきっかけになることが多い。「なぜ、山に登るのですか」という質問も同じである。山に登る者にとって山登りに理由は必要ない。自分では登山をしない人や、登山をする者のことが理解できない人が、登山に理由を求めるのである。
 パスカルは、「人間にとって、自然の中でもっとも不思議な対象は人間である」(パンセ)と書いたが、地球上でもっとも理屈ではわからないものは、自然物の生命力と人間の心理かもしれない。それにもかかわらず、人は、人間がわからなくなればなるほど、その心理や行動を理屈で考えようとする。科学の天才だったパスカルは、やがて科学を捨てて信仰の道に入ったが、理屈では説明できない人間の行動や自然現象を理屈で証明しようとすれば、神の存在を認めるしかないのだろう。ルドルフ・シュタイナーが霊的な教育学を考えたのも、経験上、人間を理屈で考えてもうまくいかないことを知っていたからだろう。
 最近、人間関係のもつれについて、「慰謝料を請求したい」という相談がやたらと多いが、人間関係を理屈で処理したがる人が確実に増えている。ストーカーの多くは自分を被害者だと考えており、頭の中に自分の行動を正当化する理屈を持っている。理屈偏重の現代は誰もがストーカーになる危険性を持っている。現在、人間関係をめぐるあらゆるトラブルが法律事務所に持ち込まれる傾向があるが、理屈人間が確実に増えている。
 本来、人間の行動に理由がないことは多いのだが、裁判では余りにしばしば人の行動に理由を求める。人の行動には必ず理由があり、人は不合理なことはしないはずだという理屈がその前提にある。例えば、「本当に犯行を行っていないのであれば、捜査段階で自白をするはずがない」という考え方はその典型だろう。不合理なことは信用できないという考え方は、理屈を盲信する宗教に近い。
 少年の凶悪事件が起きる度にその動機が問題とされ、多くの専門家が事件の動機を解明しようとするが、結局、完全には解明できないことが多い。成人の凶悪事件でも、動機の不明な事件が時々ある。恐らく、この種の事件については、加害者本人も自分がそのような行動をとった理由はよくわからないのではなかろうか。
 もともと、人間はよくわからない存在だったのだが、社会の人工化とともに人間自体が変質したこと、学問の専門化は細分化をもたらし、自分の専門分野以外のことはわからない専門家が増え人間を全体として判断できなくなっていること、現代の科学や学問は理屈で考えるので理屈ではますます人間がわからなくなったことなどが影響しているのだろう。古代のセネカやアリストテレス、モンテーニュなどの哲学者の時代と較べて、人間の理解がそれほど進歩したとは思えない。
 人間は理屈で割り切れるものではないので、人間を裁く裁判では、人間を知ることが必要であるが、現実の人間を知るもっとも簡単な方法は現実の人間体験である。自然科学の分野ではフィールドワークの重要性が言われているが、人文科学や社会科学でも同じであり、現実に「実物」で知ることは非常に大切である。
 少年の凶悪事件のいくつかをみると、一九七九年祖母殺し事件の少年は家族を惨殺するという小説の影響を受けたり少年自身が短い物語を書いており、二〇〇四年長崎女児殺害事件の少女は無人島で殺害を繰り返す小説「バトル・ロワイヤル」の影響があると報道されたが、この類の小説はハードボイルド小説など巷に氾濫しているし、推理小説やテレビのサスペンス物でゲーム感覚で人が次々と死んでいくのは珍しくはない。一九九七年神戸児童連続殺傷事件の少年は、自分で「バモイドオキ神」を信仰する物語を創作し、「さあ、ゲームの始まりです」と新聞社に投書した。オウムを信仰する若者たちの頭の中にも、やはり非現実的で不自然な人間像があるに違いない。
 少年達に現実の体験と自然な感性があれば、「バトル・ロワイヤル」という小説に、嘘で塗り固めた幼稚さのあることすぐに気づくはずだが、自然な感性の欠けた少年達には大きな影響を与えるのかもしれない。この類の文化は今の社会に蔓延しており、少年たちだけではなく多くの若者たちに大きな影響を与えている。
 書物、漫画、テレビ、ゲーム、映画など文化はすべて現実そのものではなく、実在の人間や自然とは異なる。古代ギリシャの叙事詩「イリアス」などに登場する自然な人間像と、「蛇にピアス」(金原ひとみ)などに登場する人工的で不自然な人間像の間には、人類の二〇〇〇年以上に及ぶ文明の屈折がある。人工的な文化の中で人工的に生み出される人間像にしか接していないと、生身の人間がわからなくなってしまう恐れがある。現在の文化のもとでは子供たちに現実の人間体験、自然体験が希薄になり、「人を殺してみたかった」と言って実行する子供が出現したりする。
 ある調査によれば、アメリカ人は人生の時間の八四パーセントを屋内で過ごすそうだが、日本人も似たようなものだろう。かつて、私は、役所に勤めていた頃、冬は毎日、朝暗いうちに家を出て出て出勤し、夜中に役所の庁舎を出るという、太陽を見ることがない生活をしていたが、当時、これでは冬の北極圏のイヌイットの生活と同じではないかと思ったりしていた(冬の北極圏では一日中太陽が出ない)。太陽を見ない生活に慣れてしまえば、人は何も違和感を感じなくなるが、それは感性が麻痺したからである。
 古代より自然の恵みの中で最大のものは太陽の恵みだとされてきたが、太陽の恵みのもとで農耕などの自然に関わってきた人と、一生のほとんどを屋内で過ごしている人では、太陽の恵みの理解に雲泥の差が生じるのは当然である。屋内のように人工的な生活環境の中では、人が、見たり、聞いたり、感じることが「実物」からではなく映像や文字を通じることが増え、知覚が間接的なものになることの問題性が指摘されている。
 現在、フィールドワークを必要とするような自然科学は人気がないと言われているが、これは現在の理屈万能、理屈偏重の傾向の結果である。「実物」は計算通りにいかないことがあるし面倒なので、全てのことを机上で理屈だけで操作できる学問に人が集まるのだろう。しかし、自然災害を見てもわかるように、机上の理屈だけでは自然災害は防げない。裁判も、「実物」を見ることなく、机上で書類を読み理屈で結論を出す方がよほど手っ取り早いが、供述調書や陳述書などの書面を重視する裁判は、事実からますます遊離する恐れがある。
 現在の文化は人工的な人間観を生みだす傾向があるが、それを知識偏重、理屈偏重の今の教育がいっそう押し進める。人工物や理屈は、計算可能、予測可能、管理可能であり、要するに人間が「思い通りにできるもの」であるが、自然物である人間が「思い通りにならないもの」であることは鴨長明や夏目漱石も書いている。それを「思い通りに」しようとするところから、ストーカー、DV、少年非行、校内暴力、家庭内暴力などが起こる。現在の人工的な都市文明の中で、親や学校は子供の将来が計算可能だと信じ、子供を「思い通りの人間」にしようとして管理を強め、子供は、人工的な生活の中で何でも「思い通りになる」ことに慣らされてしまう。
 「人生は一行のボードレールにも如かない」と書いた芥川龍之介が自殺し、徹底的に自然を排斥して人工的な美の世界を構築した三島由紀夫が割腹自殺をしたことと、多くの少年の凶悪事件、池田小学校事件、多くのストーカー事件、オウム事件は、密接な関連性がある。
 文明の発展のためには、学問や文化といった人工的なものや理屈は当然必要であるが、自然や人間を理屈だけで考えるのはやめた方がよさそうである(広島弁護士会会報に掲載)。