「裁判過疎」地の現状 広島弁護士会会報68号,2000

                           弁護士  溝手 康史

 以下の文章は、平成8年に、当時の「弁護士過疎地」で法律事務所を開業し、その経験を平成12年に書いたものである。
 日本で、法科大学院の開設や弁護士の大増員政策がとられたのは平成13年以降であり、それ以前の「弁護士過疎地」の状況は、今となっては貴重な資料である。
 人口数万人程度の地域の状況は、日本の司法の大勢とは関係がないと考えて無視されることが多い。しかし、以下に述べる状況は、都会でも当てはまる。日本の都会は、巨大な「田舎社会」に過ぎない。経済的に言えば、田舎で大半の人に当てはまることは、都会では、平均以下の階層の人にそのまま当てはまる。田舎の平均的な所得層は、都会の平均以下の所得層に相当する。都会ではわかりにくいことが、田舎では非常にわかりやすい。

 平成13年以降の司法をめぐる状況の変化は激しい。法科大学の設立、司法試験合格者の急増、就職難、法科大学院の人気低下と国の削減政策。法科大学院の崩壊。法学部の人気低下。弁護士の不正事件の増加。平成12年頃は、破産事件が多かったが、平成15年をピークに破産事件が減り、過払金請求事件の増加とその後の減少、民事訴訟事件の減少。かつては、弁護士への相談は有料が原則だったが、現在では、司法支援制度で無料相談の制度ができ、大半の相談者が、無料相談を受けられるようになった。かつて、最高裁は、裁判所支部別の司法統計を公表していたが、その後、最高裁は、なぜか、裁判所支部別の司法統計を公表しなくなった(研究上の支障が大きい。支部の問題性を顕在化させないためか?)。

 しかし、弁護士への委任は、現在の司法支援制度でも、生活保護受給者以外は有料である(費用の分割払いが可能)。日本では、現在でも、所得の少ない人を除き、弁護士費用の分割払いの制度がない。
 司法に関して、マスコミ、大学関係者、司法関係者を除き、相変わらず国民(庶民)の関心が低い。国民の司法に対するイメージは、もっぱら、テレビドラマ、テレビのワイドショー、マスコミ報道を通じて形成され、司法の実態をほとんど知らない。ほとんどの国民は、司法は「自分とは関係がない」と考えている。日本の社会は、企業、役所、団体、私人間などで法的なルールとは無関係に動いている(法の支配の欠如)。司法に関する政策は、庶民とは関係のないところで、すべて上からの政策で決定されている。

 広島県北地域の弁護士の数は、当時、2人だったが、現在では6人に増えた。しかし、以下に述べた点は、ほとんど何も変わっていない。現在でも、弁護士へ委任するうえで経済的な障害があり、この地域では裁判が少なく、相変わらず本人申立事件が多い。弁護士は増えたが、訴訟件数は減っている。弁護士費用の額は、以前よりも、高額化の傾向がある(この点は、アメリカでも同様の傾向がある)。現在でも、この地域では、フツーの市民は裁判所を利用しない。裁判をする者は、資産家、心理的に追い詰められた人、感情的対立の激しい場合に限られる傾向がある。当時と現在での大きな違いは、無料扶助相談の制度ができ、低所得層の無料相談が一般的になった点であるが、それは単なる法改正であって、「司法改革」と呼ぶような大袈裟なことではない(2015年記)。


一、三次市内に事務所を開設して約3年になる。
 実のところ、事務所開設前は、人口4万人程度の三次市内に2番目の法律事務所を開設しても、経済的に事務所を維持できるかということを心配していた。とはいえ、平成10年に、海外のクライミングのために2か月間事務所を留守にしようとして、さすがにそれは無理で、1か月間だけ事務所を事務員に任せたが、事務所は維持できている。

二、司法統計では平成10年の広島地方裁判所三次支部及び広島家庭裁判所三次支部の事件数は次のとおりである。
    民事通常事件新受件数     68件         
     人事訴訟新受件数         4件
    破産事件新受件数        87件
    刑事事件新受件数        33件
    家事調停事件新受件数     92件
 破産や家事調停の件数よりも民事通常訴訟の件数が少ないのが極めて特徴的な点である。3年間の私の経験では、県北では、土地の境界争い、水利、排水、通行権、所有権の範囲、隣地の木が伸びてきたとか、隣地の崖崩れ、共有物の分割、宅地造成、建築紛争などの不動産に関する複雑でややこしい紛争、相談が実に多いという印象があるが司法統計上、民事通常事件の件数は多くない。
 土地をめぐる紛争が多いのは、ほとんどの人が持家を有し農地、山林の所有者が多いことによると思われる。老人の多いこと、親と同居している家庭が多いことから、離婚、相続、家族関係をめぐる紛争、相談は本当にうんざりするほど多いが、前記家事調停の事件数からすれば裁判所に申し立てられる調停は紛争の一部だと思われる。また、離婚の相談が多いが、離婚訴訟の数は少ない。
 一般に家事事件は人口に比例すると言われるが、管内の人口(約14万人)に比例する家事事件の紛争、相談は確かに存在する。                      
 破産申立件数は近年急増しているが、それでも、私が破産申立の相談を受けた事案のうち、破産申立の委任を受け破産申立に至るのはほんの一部である。
 実在する解決すべき法的紛争のうち、裁判所に申立がなされるのはほんの一部でしかないが、人口に比較した場合の裁判の件数は地方にいくほど少なくなる傾向があるように思われる。
 裁判所に持ち込む必要のない紛争は裁判外で解決すればよいが、当然訴訟提起、調停申立、破産申立をしなければ解決不可能と思われる事件で相談者が申立をしない事件がたくさんあり紛争が解決されないまま放置されているのではないかという気が常にしている。
三、訴訟や調停等の申立をしない理由として、以下の点が考えられる。
 1、裁判所に係属する事件数が少ない最も大きな理由は、裁判の手続の煩雑さ、時間、費用、労力、訴額の小さいこと等から裁判が敬遠されるということではないだろうか。
 前記のとおり、不動産の所有権、境界、通行権、相隣関係等に関する紛争、相談は多く、裁判をしてくれと言ってくる人は多いが、費用、手続を説明すると、「考えてみます」と言ってその後連絡のない相談者は多い。
 土地に関する紛争の場合、裁判を起こすためには測量図面が必要となることが多いが、訴額は格段に小さいので、測量図面を作成してまで裁判を起こすことが経費的に割に合わないという点 、まして高額な鑑定費用をかけることなど考えられないということがある。
 さらに、裁判の長さ、高額な印紙代、判決に基づく強制執行でも債権の回収が困難なこと、強 制執行に費用、時間を要すること、判決を得ても実効性に問題があることが多いことなども提訴を断念する理由になっている。
 判決を得ても、強制執行の予納金が何十万円もかかり、農村部の自宅や農地の競売手続に何年もかかり、その結果買手がいない物件が多数あるので、弁護士の立場で言えば、判決を得ても「ほとんど意味がない」という事案が多い。また、そもそも差押の対象となる物件がないケースも多い。
 「本来、裁判すべき事案ですが、裁判をしてもあまりメリットはないですよ」というアドバイスをするのは弁護士としては情けない話である。
 公共工事により自分の所有権が侵害されたとか、騒音、水利、地籍測量に関する行政機関に対する苦情、役所の処理に関する不満や相談も多いが、この種の相談者は、
 弁護士に相談する時点で既に行政機関と十分感情的にこじれているので、たいてい 「すぐに裁判をしてくれ」と言って来る人が多いのだが、裁判の仕組や手続、費用を 説明するとたいてい裁判を断念する。
 日本の裁判所の行政事件の数が、人口比率では旧西ドイツの800分の1以下だという資料があるが、なるほどとうなずける。                                           
 不景気に伴って、解雇、賃金不払、賃金の減額、降格処分などに関する相談も多い。こういう相談者はたいてい労基署から「回されて」来る人が多いのだが、弁護士や裁判所に「任せれば」簡単に解雇が撤回されるなどと「素朴な幻想」を抱いている人が田舎には多い。
 残念なことに、現実はそのような期待を見事に裏切ることとなるのだが、この種の事件の法律の仕組みや裁判手続を説明すると、権利意識が極めて強い人は稀に調停申立をするが、それ以外のほとんどの人は「そんなに面倒なら、いいです」と言って断念する。普通の市民にとって現在の労働裁判の時間、労力、費用を考えると、裁判所はほとんど機能していない。ドイツではできるだけ市民が裁判を起こしやすいように制度上の配慮がなされており、日本と対照的である。
 しかし、訴額が小さく内容に問題があっても強い感情的な対立がある事件は、どうしても裁判をしてくれと依頼してくる。そういう人は、前述のような経済的採算を無視するので裁判になりやすい。受任を断っても住居が事務所に近いため頻繁に事務所に来るので断りきれずに受任し、その後の訴訟遂行に苦労することが多い。
 かくて、権利保護のためには当然裁判を起こした方がよいと思われる事件で裁判を起こさない人が多い一方で、感情的な対立がある事件は、少々内容に問題があっても、依頼者が経済的採算を無視して事件を依頼するので、訴訟になりやすいという皮肉な結果になる。
 2、田舎の人ほど紛争を表沙汰にすることを嫌う傾向がある。                       農村部の人は、破産ではなく債務の任意整理を依頼する人が多く、所有権や金銭貸借、損賠償等でも「感情的対立がない場合には」裁判をできるだけ避けようとする傾向がある。
 3、裁判の数が少ない理由として経済的な理由がある。
 一般に県北地方は広島市近郊地域よりも所得が少ない。
 極めて感覚的ではあるが、広島市などと比較した場合の県北地方の住民の所得水準の低さや、中小企業の多い県北地方は不況の影響が大きいことをいつも感じている。
 相談時に法律扶助の説明をすることも多いのだが、実際にその申請をしようという人は少ない。法律扶助申請のために広島市まででかけていくためには、一日仕事を休まなければならないことや、交通費がかかること、法律扶助費の返還が原則となっていることなどが申請を諦める理由だろう。
 また、所得の格差は、土地をめぐる紛争の場合、測量費用、鑑定費用等を用意できないということに結びつく。
 もちろん、高額な印紙代を要求する現在の制度も裁判の提起を妨げる一因になっている。また、破産申立の相談に来ても弁護士費用の一部すら用意できず破産申立できない人は多い。
 三次支部管内では、本人申立の破産事件や調停事件、本人訴訟が多いが、それは主として経済的理由によるものと思われる。
 日本の裁判制度は、金のない者にとっては利用しにくい制度だが、このことは所得の格差のある地方に行くほど市民が裁判から縁遠くなる。その結果、県北地方は人口の割に裁判の件数が少ない「裁判過疎」地になっている。
 因みに民事通常訴訟1件当りの人口でいえば、三次支部管内は1件当り2,153人であり(2015年も、ほぼ同じ)、東京地裁では1件当り338人になる。むろん、経済活動の違いがあるので単純な比較はできないにしても、前述のような裁判を起こしにくい状況と照らし合わせると、県北地方はまさに「裁判過疎」地という実感がしている。
 4、弁護士が少ないということが、裁判、調停等の申立の少ない原因になってるだろうか。
 この点は私には確認できないが、しかし、前記のように経済的理由や裁判手続上の障害から裁判を断念する人は近くに弁護士がいても裁判を起こすことを断念してしまうのではないだろうか。
 では、法律事務所の存在が市民に知られていないことから、法律相談を受けにくく裁判等の申立件数が少ないという結果に結びついているだろうか。
 私の経験だけで言えば、私の開業後、三次市内では事務所の存在が比較的早く知られたように思う。しかし、三次市以外の地域、特に郡部では三次市内の2つの法律事務所の存在を知らない人がけっこういるようである。広島市内の法律相談センターで相談し、そこから紹介されてくる相談者がいることは、このことを物語っている。
 右のような事情と裁判の件数とは関連があるのかもしれない。
四、法的紛争がある時、市民が気軽に弁護士に相談でき、裁判所で解決すべき事件については気軽に裁判所に持ち込むことができるというのが理想だが、現実はほど遠い。
 備北法律相談センターの開設は、弁護士に相談する機会を増やすという意味で存在意義が大きいが、「法的相談の機会の保障」からさらに「法的解決の機会の保障」までなければ、真の意味で法治国家とはいえないだろう。
 また、将来は、ドイツのように、一定の所得以下の人については法律相談に法律扶助を適用することが必要だと思われる。実のところ、県北では法律相談の後で、「え、相談料がいるんですか?お金は今持ってないんですが」と言う人が実に多いのに驚いている。
 私は、広島市で九年、三次市で三年弁護士をやった経験から、弁護士の仕事はどこでやろうと大差ないと思っているのだが、多くの弁護士から見れば、前述のような県北の状況を聞けば、むしろ、都会と地方では弁護士の仕事に「大きな差」があると言うべき かもしれない。多くの弁護士が都会に集中する傾向を私はよく理解できる。
 地方の小都市では、人口に比較して訴訟事件の件数は多くなく、交渉事件や調停事件、家事事件、煩雑で人間関係の調整に苦労する事件が多い。そして、一部の交通事故の損害賠償請求事件などを除き訴額の大きな事件が少ない(したがって、多額の報酬の望めない事件が多い)。また、国選弁護人、破産管財人、当番弁護士、各種法律相談、特別代理人、後見人、各種公的委員、調停委員などの仕事もあり相当多忙になることは覚悟しなければならない。
 これらのことから、裁判過疎地は同時に弁護士過疎地であるが、市民が気軽に裁判を起こせるようになり、訴訟事件数が増えればそれなりに弁護士の数が増えていくのではなかろうか(訴額を基準にした弁護士の報酬基準にも問題がある)。
 もっとも、裁判過疎地では裁判の件数が多くないと言っても、それは人口に比較した場合の話であって、裁判過疎の程度以上に弁護士が少ないので、結局のところ、裁判過疎地の弁護士は忙しい。
 因みに、弁護士1人当りの人口でいえば、三次支部管内では弁護士1人当り73,223人(2015年では、約2万人)、東京では弁護士1人当り1,691人であり、43倍の開きがある。

五、弁護士の少ない地域では、弁護士は法律相談や裁判といった本来の業務以外の面でも、その地方の数少ない良識ある知識人として、地域の発展のために活動することが期待されており、 弁護士に対する市民の信頼と期待が極めて大きいことに驚かされる。
 これは、本来裁判官も同様なのだが、残念なことに日本の裁判官は仕事が忙しすぎ、転勤も多く、制約が多すぎて、その結果市民と接することが少なく、現状では「市民としての裁判官」は想像しにくい。
 ドイツでは、市民が日常的に政治や行政に「参加」し「地方分権」が確立しているが、その中で裁判官や学者、公務員の多くが地方の小都市に居住し、本来の職務以外の分野で市民として活動を行なっている。この点で知識人が果たすべき社会的役割は何かを考えさせられる。
 現職の多数の裁判官(元裁判官ではない)が地方議員になったり積極的に地域の活動に参加しているドイツの話を聞くと、格差がありすぎて、どこかよその天体で行なわれている話のように聞こえてしまう。
 しかし、1960年代以前のドイツの司法は現在の日本に似ていたとの指摘もあるので、ドイツと日本は「僅か40年」の差しかないと考えれば、全く希望が持てないこともない。(2000年記)