責任回避社会の行方



                                                       弁護士 溝手康史

1、日本は、責任回避社会である。責任という言葉は、日常的にも、法律的にもいろんな意味で使用される。「責任財産」でいう「責任」と、「自己責任の原則」でいう「責任」は同じではない。ここでは、責任は、損害賠償責任や注意義務などの何らかの負担を負うという程度の意味で使用している。
 責任を負いたくないと考える人は多いが、誰もが生まれた瞬間からさまざまな責任を負っている。もっとも、日本では、小さな子供は不法行為責任を負わず、親が代わりに責任を負う。この点、アメリカでは、4、5歳の子供が起こした事故の損害賠償責任を子供が負うのが原則であり、親は責任を負わない(「アメリカ不法行為法」、樋口範雄、弘文堂、23頁)。この点は、日本とアメリカの文化の違いの現れだろう。
 日本でも、13、14歳くらいから、さまざまな民事責任や刑事責任を負う。誰でも道を歩く時は、他人にぶつかって損害を与えないようにする義務、他人から物を預かれば、うっかりと壊さないように注意する義務などを負っている。

2、個人に限らず、企業や役所、団体は、さまざまな義務や責任を負っている。しかし、この点に触れると、とたんに不安を感じる人が多い。そして、この種の責任を回避したがる人が多い。
 私は、登山の法律問題に関して、いろんな場所で話をすることがあるが(今まで、東京、大阪、長野、小笠原島などで、15回くらい話をしたことがある)、そこでは、必ず、行政関係者や山岳ガイドなどから、「責任を負わないためにはどうすればよいか」という質問がなされる。「責任=損害賠償」というイメージが強いせいか、損害賠償責任を負いたくないという気持ちが、「一切の管理責任や注意義務を負いたくない」という考え方に結びつく。「注意義務がある」と言うと、多くの人が拒絶反応を示す。
 英語では、「責任」に相当する名詞がたくさんあるが、日本語はすべて「責任」の一語ですますことができる。この点で、日本語は便利だが、名詞の数の少なさは、概念を厳密に区別しないことを意味し、思考のあいまいさをもたらす(他方で、日本語は、形容詞と副詞の数が多く、微妙な情緒的なニュアンスの違いを言葉で表現できる)。すべてを「責任」の一語で考えることは、イメージ優先の発想になりやすく、「とにかく、責任を負うのは嫌だ」という心理をもたらしやすい。
 私は、「山岳ガイドや役所は、事故を回避する努力をすべきであって、責任を回避することを考えるべきではない。むしろ、ガイドや役所は国民の安全のために積極的に責任を負う必要がある」と言うのだが、この私の発言は関係者にまったく歓迎されない。
 長野県の上高地を訪れた人は多いと思うが、上高地から横尾まで歩道がある。歩道沿いに「山小屋」と称する旅館がいくつもあり、電気もあれば風呂もある。横尾から先は登山道になるが、上高地・横尾間は、小さな子供でも歩けるような立派な歩道である。私の長男は3歳の時にこの歩道を歩いたことがある。この歩道は国有地にあるが、歩道上の橋が老朽化しても補修できないまま放置されている。その理由は、その橋は古い時代に設置されたもので、誰が設置したものか不明であり、今回、国が新たに補修すれば、国の管理責任が明確になってしまうという点にあるらしい。国から歩道の管理を任せられている県が、橋の補修を国に申し出たところ、国は、「奥入瀬渓流事故の判決のことがあるから、補修するのは、待て」と言い、補修の許可を出さずに何年も経過しているらしい。
 十和田八幡平国立公園にある奥入瀬渓流で、渓流沿いの歩道上に落下した落木によって重い後遺障害が生じた事故について、歩道等を管理していた県と国に高額な損害賠償が命じられた(東京地裁平成18年4月7日判決、東京高裁平成19年1月17日判決、最高裁で確定)。この事故の判決は、歩道や山林、公有地を管理する国や全国の自治体に、それまでの国立公園等の歩道行政を一変させかねないほどの大きな衝撃を与えたらしい。
 奥入瀬渓流事故の判決以前は、役所は、観光客を呼び込むための歩道の整備に熱心だったが、安全管理には熱心ではなかった。奥入瀬渓流事故の判決以降、役所は、安全管理を含めて歩道の整備を躊躇するようになった。
 役所が下手に関与すれば責任が生じるので、何もしないという傾向は、珍しいことではない。しかし、多くの観光客が訪れる歩道は、誰かに管理責任が生じるはずであり、役所が「何もしないこと」もまた管理責任を問われる理由になるだろう。役所内部では、結果的に、事故が起きて、施設の管理責任を問われるにしても、新しいことを行って責任を問われるよりも、何もしないで責任を問われる方が、都合がよいらしい。前者の場合は、「何かをした」公務員個人の責任が明確になるが、後者の場合は、役所全体の責任になり、公務員個人の責任があいまいになるからである。組織が責任を負う場合は、個人の責任の所在を曖昧にできる。「もし自分が責任を問われるならば、その前任者も、前々任者も、その前も、際限なく責任を問われることになり、自分は安泰である」という考え方が、前例踏襲をもたらす。あるいは、全ての責任をマニュアルに託すという責任回避方法もある。
 国賠法の規定により、原則として、公務員個人は損害賠償責任を負わないが、その点はほとんど意味を持たない。役所という部分社会では、法律よりも、役所内部のルールの方が重要な意味を持っている。
 行政が管理責任を問われることが、責任を回避する傾向をもたらし、安全管理の回避という無責任状態につながりやすい。
 以上の次第で、上高地・横尾間を歩く人は、老朽化した橋が崩れるかもしれないので、くれぐれも、安心して歩かない方が賢明である。ほとんどの人は、多くの観光客が列をなして歩いている歩道がきちんと安全管理されていないとは夢にも思わないだろう。しかし、実は、このような場所は日本全国に無数にある。その多くは、「安全管理がなされていないこと」が認識されていない。なぜなら、認識する主体が不在ないし曖昧だからである。国立公園内の歩道の管理を誰がするかをめぐって、全国の自治体と国が責任の押し付け合いをしているのが現状である。管理者が明確になっている歩道は、ほんの一部に過ぎない。上高地の歩道は、管理者が定まっている数少ない歩道のひとつだが、それでも、土地所有者である国は、管理責任を回避するために真剣に努力している。最大の問題は、歩道の管理に金がかかる点と、法的責任を負うことを恐れる点にある。ドイツでは、自治体が管理する歩道と、国が多額の予算を支出してドイツ山岳会に管理を委託する登山道があり、管理責任が明確である(ただし、ドイツでは、森林の利用の責任が利用者にあることを法律に明記し、民有林、公有林を問わず、国民が森林を自由に利用できることを保障する)。
 もっとも、通常は、よほど運の悪い時にしか事故が起きず、事故の被害に遭う確率は、飛行機が墜落する確率に近いかもしれない。上高地・横尾間の橋は、何十年も老朽化したまま放置されても事故が起きていないので、今後も、滅多なことでは事故は起きないだろう。万一、橋が崩落しても、危険個所が少ないので、骨折程度の怪我ですむ可能性が高い(歩道上からの落木事故は別だが)。大杉谷吊り橋事故(大阪高裁昭和60年4月26日判決、管理者の損害賠償責任を肯定)のように、登山道にある橋が崩壊して死亡事故が起きるのは、よほど運の悪い場合である。それまでに長年放置された吊り橋を何万人も渡ったのに、なぜ被害者の通行の時にだけ吊り橋のワイヤーが切れたのか、それは永遠の謎である。
 国立公園内のほとんどの歩道は、安全管理していなくても滅多に事故が起きない。仮に、橋が崩落するとしても、自分がたまたま橋の崩落に遭遇する確率は極めて低い。その意味では、このような歩道を歩いても「安全」であると言えなくもない。

3、責任を回避する傾向は、ボランティア活動でも顕著である。ボランティア活動には、自分が損害を受けるリスクと他人に損害を与えるリスクがあるが、多くのボランティア関係者はそのリスクをほとんど考えない。リスクを考えないからこそ、日本で、「義務的な」ボランティア活動がさかんだとも言える。日本では、素人が専門家の真似ごとをするボランティア活動が多いが、素人の行動は見ているだけで恐いことがある。素人でも、責任をまったく自覚しないからこそ、安心して義務的なボランティア活動ができるのだろう。
 ボランティア活動中の事故に関して、ボランティア団体の役員の損害賠償責任を認めたケース(子供会のキャンプ中の事故)として津地裁昭和58年4月21日判決がある。この事故の刑事責任は否定された(名古屋高裁昭和59年2月28日判決)。ボランティア活動中の事故の刑事責任を認めたケースとして広島地裁平成26年3月5日判決がある(NPO法人のスキーキャンプ中の事故)。公刊された判例集を見る限り、それ以前に、ボランティア活動中の事故に関して刑事責任を認めた判決はないようだ。
 ボランティア活動でも注意義務を負うことは当たり前のことだが、この点を説明すると、「責任を負うのであれば、ボランティアはできない」と言う人が多い。それでも、義務的なボランティアを頼まれると、断われない人が多い。

4、弁護士の日常業務のうえでも、誰もが負う当然の注意義務や責任について、文書化しようとすると、尻込みする人が多い。
 別居中の夫婦間で、「暴力を振るったり、つきまといをしない」という念書を書かせようとすると、尻込みする夫が多い。「では、あなたは、今後、暴力を振るったり、つきまといをするつもりなのですか」と尋ねると、夫は、「そのつもりはない」と返答するのだが、責任の明確化を恐がるのである。
 企業でも、学校でも、近隣関係でも、責任の明確化に対する抵抗は大きい。ものごとを曖昧にしておくことが、人々に安心感を与えるのだろう。法律は、ものごとを、黒か白かに線引きする世界なので、日本では嫌われる。責任を回避したいという心理が、このような行動に現れるのだと思われる。

5、他方で、日本では、ミスや失敗に対し、厳しい責任が課される。
 歩道での事故については、歩道等の管理者の営造物責任や工作物責任が広く認められる傾向がある。
 従来、この種の事故で、刑事責任が問われることはなかったが、十和田八幡平城ケ倉渓流歩道事故(青森地裁平成19年5月18日判決は民事責任を認定)では、自治体の観光課長が刑事責任を問われた(結果的に、不起訴処分になった)。
 近年、過失犯の刑事処分の厳罰化の傾向があり、この点が、歩道での事故、山岳事故、ボランティア活動中の事故の刑事処分の厳罰化に反映している。前記のNPO法人のスキーキャンプ中の事故に関して、起訴がなされたのは、このような流れに沿ったものと考えられる。平成18年に北アルプスの白馬岳でガイド登山中に起きた事故について、事故から8年近く経過した平成26年に山岳ガイドが起訴されたのも、同じ流れにある(公訴時効の期間が延長された)。
 ほとんどの事故は人間のミスによって引き起こされるので、起訴されれば、ほとんどの事故について過失責任を認定することが可能である。以前は、不起訴になることが多かったような過失事故について、最近は、起訴されるケースが増えている。
 ヨーロッパでは、重大な事故に関して、事故の原因調査を優先させ、医師やパイロットなどを刑事免責すべきだとの有力な主張がなされ(「ヒューマンエラーは裁けるか」、シドニー・デッッガー、東京大学出版会)、事故の原因調査のために刑事責任追及を制限する国もある。日本でも、平成17年に日本学術会議が作成した「事故調査体制の在り方に関する提言」の中で、事故の原因調査を優先させ、刑事責任を問う範囲を制限すべきだとの提言がなされている。
 アメリカでは、全ての州に「よきサマリア人」法があり、緊急時の行為の民事免責がなされ、刑事免責は当然のことなので議論されない。欧米では、緊急時かどうかに関係なく、医師や山岳ガイドが過失事故について刑事責任を負うことは、ほとんどない。
 しかし、日本では、過失事故の刑事処罰の範囲が広い。国民は、事故原因の究明と関係者の厳罰処分を要求し、マスコミもそれに沿った報道をする。私は、ある山岳事故の「安全検討会」に法律家として関与したことがあるが、事故の遺族の「何故」という問いは永遠に続くのであり、遺族の真相究明の思いに際限はない。しかし、もともと、事故原因の究明と関係者の厳罰は両立しにくいというのが人類の歴史的経験である。刑事責任を問われるかもしれないと考えれば、関係者は誰も本当のことを言わなくなる。現実の人間に対する科学的な認識を無視して、事故原因の究明と関係者の厳罰を追及しても実現は難しい。その結果、国民は、事故の裁判に対し、「真相が究明されなかった」ことに失望し、あるいは、「刑事処罰が軽すぎる」ことに不満を持ち、司法に対する不信感を募らせる。
 過失犯の厳罰化の世論が強まれば、厳罰化に向けた法改正がなされ、過失事故について起訴されるケーが増える。ほとんどの事故が人間のミスによって起こるので、起訴されれば、裁判所の有罪判決が出やすい。
 この傾向は、関係者の責任回避的傾向をいっそう強める。責任回避社会と過失犯の厳罰化は表裏の関係にある。
 ある会議の時、大学の刑事法の先生が某県の課長に、「歩道をきちんと管理しないと、あなたが刑事責任を問われることになりますよ」と、法律上の注意義務のあることを強調した。これを聞いた課長はすっかりびびっていた。橋が老朽化して補修の必要性があることを担当課長は認識しているので、もし橋が落下して事故が起きれば、裁判で担当課長の過失が認定されやすい。この課長は、県内にそんな個所をたくさん抱えており、気の毒である。
 私は、担当課長に、「責任を負うことを恐れてはいけません。滅多に事故は起きないので、刑事責任を問われる確率は、飛行機が墜落する確率と似たようなものです」と言ったのだが、その点に、それほど確信があったわけではない。今後は、歩道の管理に関して刑事責任を問われる確率は、自動車事故程度になるかもしれない。自動車事故による刑事責任を可能な限り回避しようとすれば、注意して自動車を運転するよりも、自動車を一切運転しない方が、確実である。同様に、歩道の管理に関して刑事責任を回避するためには、歩道の安全管理の努力をするよりも、歩道の管理者であることをやめる方が賢明だと考えたとしてもおかしくない。いっそのこと、全て利用禁止にするという便利な方法もある。
 厳罰化は、管理の拒否や利用禁止につながりやすい。責任回避社会は禁止社会でもある。
 医療、航空、登山、危険を伴うスポーツなどの危険性がある程度予想される場面で起きる過失事故については、民事上の責任は認めるとしても、刑事責任は悪質な場合に限る必要がある。

6、責任回避社会と過失犯の厳罰傾向の中で、弁護士は、責任回避のノウハウを関係者に伝授し、加害者を弁護することもあれば、被害者の代理人として、事故の関係者の責任を追及することもある。
 弁護士の仕事としては、責任回避社会であるかどうか、過失犯の厳罰傾向の有無は関係ない。弁護士の立場では、事故に関して、損害賠償責任の範囲と刑事処罰の対象が広がることは、業務の拡大につながる面がある。
 過失事故に関して、「弁護士の数が増えると、アメリカのように訴訟が増えるので、困る」と言う関係者が多い。しかし、現実には、弁護士の数が増えても、訴訟の数は増えていない。この点を関係者に話しても、それでも、弁護士の数の増加を恐れる人が多い。その根底には、「責任を負いたくない」という心理がもたらす影響がある。責任を負うことを恐れる気持ちが、訴訟を恐れる気持ちになり、それが弁護士の増加の影響を心配するのである。1件でも過失事故が訴訟になると、「事故が起きると、訴訟になるのではないか」という人間の不安心理をもたらす。山岳事故や医療事故ではこの傾向が顕著である。その萎縮効果として、弁護士の増加=訴訟の増加という不安が生じ、関係者の責任回避傾向がますます強くなる。
 
7、日本で、責任の回避が重視されるのは、ミスや失敗に対する社会の非難の強さが影響している。ミスや失敗を防止することは重要だが、人間は誰でも必ずミスを犯す。過失事故は、必ず、運、不運が関係する。
 マンションの上階からうっかりと植木鉢を落とした場合、下に人がいなければ、植木鉢の破損で終わる。しかし、たまたま下を人が通行していれば、重大な事故になる。そこには運の悪さがある。
 都会では、注意義務としての天候判断は事故の直前で足りることが多いが、登山では、事故の直前の判断では役に立たない。既に、引き返すことが困難なことが多いからである。しかも、山岳地帯では得られる情報に限界があり(携帯電話がつながらないエリアが多い)、平地の天気予想は山岳地域で役に立たないことが多い。このような難しい天候判断を迫られる山岳ガイドは、些細な判断ミスが重大事故に発展する。そこでは、偶然や運・不運が大きく影響する。
 このようなミス、プラス運の悪さに対し、刑事罰で厳罰を科すことは、社会に大きな萎縮効果をもたらす。難度の高い手術なども、同様である。リスクを説明することが重要だが、日本では、リスクをきちんと説明しても、事故の責任を軽減されるとは限らない。
 厳罰化すれば、故意犯は減る可能性があっても、過失犯は減るとは限らない。山岳事故や医療事故は真面目に職務を遂行しても起きるものであり、厳罰を課しても人間のミスが減ることはない。マニュアル通りに行動しても、マニュアルに書いてなければ、ミスを犯すことがある。人間行動のすべてをマニュアル化できない。科学の世界では、人間のミスを防止するために厳罰を課す方法は最も無駄な方法とされている。刑事責任の発生を恐れて、リスクを伴う行動を回避する傾向が生じる。
 失敗やミスを許さない文化のもとでは、リスクを伴う大胆な挑戦よりも、失敗しない堅実な方法を選択することが、無意識的で本能的な習性になる。

8、事故の被害者や遺族は、加害者の厳罰を望むが、それには際限がない。事故の遺族はすべて、可能な範囲で最高刑を望むことが多い。
 酒気帯び運転事故に対する厳しい非難から始まった世論は、酒気帯び運転(これは故意犯だが)に対する厳しい非難に発展し、今では、酒気帯び運転をしただけで、懲戒免職処分をする役所が増えている。これが適法かどうかが問題であるが、世論の厳しい非難のもとでは、裁判所の判断以前に、酒気帯び運転をした公務員が役所にいられなくなる。民間企業でも、酒気帯び運転をすれば、解雇の口実になる。
 最近、自治体、学校、企業などに対し、些細なミスに関する謝罪要求や責任追及をする人が増えている。飲食店で店員の些細なミスに対し、土下座を要求する客がいる。格差の拡大が他人のミスに対する非難を強める。誰もが、ミスを犯さないことに汲汲とし、企業や役所では、責任を回避するための管理業務が増える。問題が発覚する度に、責任者探し、責任者隠し、責任回避のための文書やマニュアルの作成に無駄な時間をとられる。これらは、事故の再発防止にほとんど役立たない。
 丸山真男によれば、日本の社会の無責任の系譜は歴史的に根が深いらしい。責任の回避傾向も根が深い。法的責任に関する限り、その範囲を画するのは司法であり、それは、今後の「責任回避社会」の動向に大きな影響を与える。
(2014年、広島弁護士会会報97号)