選択の文化

                             広島弁護士会会報90号,2011

                                    
                                      弁護士溝手 康史
 
 かつての友人が数年前に自殺していたことを最近になって知った。享年51歳。彼は高校、大学の同級生で国家公務員だった。当時の肩書は財団法人の研究室長・理事。同時に14年間、大学で非常勤講師や客員教授として教えていた。彼の死は東京地方の新聞には載ったようだが、日本では1日に約90人が自殺しているので、自殺程度では新聞の全国版に載らない。国家公務員のいわゆるキャリア組の自殺は多い。そこには、午前0時を過ぎて帰宅することが珍しくない労働環境がある。彼の死は月曜日の早朝出勤途中のことであり、仕事が無関係だとは思えない。日本では自殺者の数が多く、先進国ではもっとも自殺率が高い。日本では、自殺者の78パーセントが生活・健康問題を理由とするが(平成21年)、仕事上のストレスが関係する自殺も多い。
 大学1年の頃、僕は彼と仲がよく、一時期、一緒に行動することが多かった。彼と2人で女子大の大学祭をハシゴしたことがある。彼は、およそ闘争などと無縁の、のんびりした性格の持ち主だったが、繊細な几帳面さもあった。その後、僕は社会的な問題に関心を持つようになり、昼頃起きて大学に行き、議論ばかりして深夜帰宅するというグータラな生活を送り、彼と疎遠になった。
 彼は大学卒業後、旧自治省に入った。権力志向の雰囲のある自治省が彼に向いていたとは思えないが、彼なりの考えがあったのだろう。当時、学生の間で、「自治省に入れば、将来、知事はともかく、副知事になることができる」という冗談がまことしやかに流れていた。実際、当時、自治省出身の副知事が多かった。
 大学を卒業後、彼と会うことも連絡をすることもなかった。彼は管理職としての仕事のほかに、自治体問題等について研究し、大学で教えていた。仕事は相当多忙だったはずだ。僕は大学を卒業した後に登山をするようになり、地方公務員を経て弁護士になった。僕が仕事を放り出して悠長に外国で登山をしていた頃、彼は外国の地方自治制度などを研究し、堅実に仕事上の実績を積んでいた。彼が大学で教える姿を僕は想像することができるが、僕が登山をする姿を彼は想像できなかっただろう。51年間の彼の人生のうち、僕が知っているのは僅か数年間でしかない。大学卒業後30年以上が経過しており、彼には僕の知らない別の人生があったのだろう。彼の51年の人生が充実したものだったと思いたい。

 最近、中学校の同窓会があった。田舎の公立の中学校なので、さまざまな人間がいる。覚せい剤の使用で逮捕された同級生もいる。僕が司法修習生の時、ある刑事裁判に同席していたところ、かつての中学校の同級生が窃盗事件の被告人になっていたことがある。被告人の顔を見てすぐにわかったので、あとは顔を伏せて同級生と顔を合わせないようにした。その数か月後、偶然、電車の中でその同級生と出会い、何事もなかったように数年振りの再会の会話をしたのだった(彼の受けた判決は執行猶予付だった)。
 中学校を卒業して、既に40年が経過しており、その間、2回くらい人生をやり直せるくらいの時間が過ぎている。僕は小学校の頃、「反社会的行動」が多く、「行為障害」というレッテルを貼られてもおかしくなかった。教師から毎日殴られ、「将来、犯罪者になる」と言われ続けたが、今となっては、そんな話を誰も信用しない。時間が経てば人間の考え方や性格が変わり、それは無数の偶然と選択との結果である。
 日本の学校文化は頑張りと協調性を重視するので、他人と同じことができない者には学校生活はつらい。社会になじめない人間の多くは、だいたい性格的、人間的な弱さを持っている。根気や意欲がなく、頑張ることができず、人間関係が作れない。そのような者は中学校の同級生の中にもいた。小さい頃から、学校で「頑張りなさい」と言われ続けても、どうにも頑張ることができない人間がいる。小学校の頃の僕もそうだった。教師から「協調性がない」とも言われ続けた。日本の学校が頑張りと協調性を重視するのは、日本の社会が頑張りと協調性を必要とするからである。これらが欠ける者は、社会から受け入れられにくく、人生の選択が難しくなる。

 最近、高校の同級生が何人か集まって話をした。やたらと昔話をするのは歳のせいである。商社、テレビ局、新聞社などで管理職になっている多忙な同級生たちが60歳で定年を迎えたら、アフリカにあるキリマンジャロに登ろうという話をしている。彼らは人生に対し意欲的であり、頑張ることができ、協調性がある。世の中には、頑張ることができない人間もいれば、頑張ることができる人間もいる。頑張りと協調性があれば日本の社会で活躍できるが、同時に過労死予備軍でもある。同級生たちは多忙で休みがとれず、仕事でいつも疲れているが、気力は旺盛である。
 高校3年の時、「自分は何者であるか」を悩み、大学を受験せず山に籠もった同級生がいた。その後、彼は大学に入ってカントを研究し、現在、大学で哲学を教えている。高校の同級生に大学の研究者になった者が多い。彼らの多くは目的意識を持って大学を選択したのだと思う。
 僕は、高校の頃、文学書を乱読していた。大学受験の願書を出す時までは、文学部に進むつもりだったが、大学に入って勉強したいことがなかった。何かを選択するためにはそのような意欲が必要だが、僕にはそれがなかった。当時の僕のもっとも興味のなかったものが法律だった。しかし、何となく法学部に入った。もし、「自分は○○である」という確固としたものがあれば、おそらく法学部には入らなかっただろう。
 僕は法学部進学コースに入学したものの、法律にまったく興味が持てなかった。文学部に進むことを考えたが、文学部で勉強したいことがあるわけではなかった。その頃、後に北海道大学の文学部の教授になった花井一典さんを訪れたことがある。当時、花井さんは東大の文学部の大学院生だった。花井さんの生家は、僕の郷里の実家の近所にあり、僕は花井さんの弟と同級生で親しかったので、小学校から高校までの間に、花井さんの家に何度も遊びに行ったり泊まったりしたことがあった。
 花井さんは大学に入ったばかりの僕に、「これからフランス語を勉強するのであれば、これを読むとよい」と言って、フランス語の参考書を買ってくれた。しかし、僕はその本を開くことはなく、間もなく古本屋に売った。花井さんは西洋古典文学を専攻し、大学紛争などに影響されることなく、横文字の書物で埋もれた部屋の中で、ラテン語で「イリアス」などを読んでいた。その後、花井さんは日本では数少ないヨーロッパの中世スコラ哲学の研究者になった。社会との関係を遮断したところに、花井さんの学問的な関心があった。花井さんは「変わった学者」と言われることが多いが、世間の風評に関係なく一貫した学者人生を送った。花井さんは2010年に癌で亡くなった。享年60歳。 
 フィンランドでは高校卒業後、数年間、アルバイトや旅行などをして自分のやりたいことを考えたうえで大学に入る者が多く、大学の新入生の平均年齢は23歳である。フィンランドでは、僕のような者は、高校卒業後、数年間放浪すべき人間だろう。僕の場合、大学にいる間が放浪の時間を意味した。

 20代で山に登るようになってから、自分の世界観と人生観が変わった。そこにはそれまで僕の知らない世界があった。危険な登山は徹底した自己選択の世界であり、そこにはあらかじめ決まったものは何もなく、すべて自分で考えて行動しなければならない(ただし、登山は多様であり、マニュアル化された登山やツアー登山などもある)。
 山で亡くなった知人は多いが、広島の高見和成さんもその1人である。高見さんは1998年に大山の天狗沢を登攀中に滑落し、亡くなった。享年52歳。高見さんはK2やエベレストでの登山などをし、当時、日本で有数の登山家だった。天狗沢は傾斜60度、長さ300メートルの雪壁のクライミングルートであるが、冬の登攀としてはそれほど難しくない。高見さんが天狗沢でなぜ滑落したのかは誰にもわからない。
 高見さんは20歳で登山を始め、32年間山に登り続け、その間に14回の海外登山を行っている。リスクをできるだけ避けるのが合理的な選択であるが、登山家はしばしば敢えてリスクの大きい登山を選択する。危険性の高い冬の岩壁の岩登りなどは、合理主義の文化では考えられない。無酸素でエベレストに登るのは自殺行為であり、馬鹿げているというのが、多くの科学者の考えだった。しかし、それでも、そのような困難に挑戦しようとする人間がいる。登山家が山に登るのは、自分の生物的な本能に近い欲求に基づいており、それを言葉で表現することは難しい。登山家は、「自分は○○である」という強固なアイデンティティを持っている。
 登山家の選択は、一般的には賢明な選択とは見られないが、主体的な選択であり、自分の好きなことをするという選択が意欲をもたらす。ただし、この意欲は登山にのみ向けられ、通常、仕事や学業に向けられることはない。

 僻地で生活するという選択に対し、以前から強い関心があった。
 昨年2月に、小笠原島へ、エコツアーガイドの研修会で法律の話をしに行った。エコツアーは自然の教育的機能や地域住民との結びつきを重視したハイキングであり、コスタリカ、オーストラリア、ニュージランドなどがエコツアー先進国である。日本でのエコツアーの認知度は低い。
 小笠原諸島で日本人が住んでいるのは、父島(人口2000人)と母島(人口500人)だけである。小笠原島までは週に1便の船便しかないので、東京から片道25〜27時間、往復に1週間かかる。私は、小笠原島が何の意味もなく時間のかかる場所にあること、そして、そういう場所に好きこのんで住んでいる人たちがいることに興味を持ち、小笠原島に行くことにした。実際にエコツアーに参加して法律的なアドバイスをすることになり、父島と母島でそれぞれ5〜6時間歩くエコツアーを体験した。その後で約2時間の講演と懇親会、父島と母島の間の移動などけっこうハードなスケジュールだった。
 日本の敗戦により、1946年に日本人はすべて小笠原島から引き上げ、以後、アメリカが小笠原諸島を統治した。1968年に小笠原諸島が日本に返還され、以後、日本人が移住するようになった。現在の島民のほとんどは1968年以降に小笠原島に移住した日本人である。そのほとんどが若者だった。小笠原島は過疎地であるが、若者の人口比率が高く活気がある。
 なぜ、彼らは小笠原島に住んでいるのか。一般には、自分の意思によることなく居住場所が決まる場合が多いので、「なぜそこに住んでいるのか」という質問はあまり意味のある質問ではない。しかし、小笠原島の場合には、島民のほとんどが、1968年以降に自分の意思で小笠原島への移住を決意した人たちであり、島に対する思いが強い。
 父島の観光名所を案内してもらった小笠原村の観光課の大田泰史さんは、埼玉県で生まれ育ち、大学生の時にたまたま小笠原島を訪れて気に入り、そのまま島に居着いてしまったという。小笠原島のどんなところが気に入ったのですかと尋ねると、彼は「うーん、のんびりしたところかなあ」と答えた。
 母島でガイドを務めた茂木さんは、大学の農学部を卒業後、母島に移り住み、農業を営んでいる。自分のやりたい農業の適地が母島だったと言う。その植物の博識ぶりに驚かされた。時々、大学の植物の研究者を案内するらしい。母島は父島から約50キロ離れており、父島から船で2時間以上かかる。母島から直接本土に行く船はない。母島の人口は500人であり、店は小さな飲み屋が1軒あるだけで、他には何もない。
 小笠原村の村会議員の一木重夫さんは北海道の大学の水産学部を卒業して小笠原に来て、現在、水を採取して販売する会社を経営している。一木さんは「仕事は水商売です」と自己紹介したが、名刺を見ると水産科学の博士号を持っておられた。
 環境省の自然保護官の立田理一郎さんは転勤族である。小笠原の前は釧路が勤務地だった。趣味のテレマークスキー(山スキーのスタイルのひとつ)ができないとこぼしていた。山スキーはマイナーなスポーツであるが、テレマークスキーは山スキーの中でもさらにマイナーなスタイルである。「最近、北海道の自然保護官の間で、テレマークスキーがブームなんですよ」と立田さんが言う。雪のない小笠原でテレマークスキー談義をするとは思わなかった。
 島に飛行場を作るべきかどうかが島の返還当時から議論されているが、結局、反対が強く、島に飛行場はない。小笠原島には大型ホテルや大型の観光施設がない。これも村民の反対が強いからである。大型ホテルができれば、島内の民宿の多くがつぶれるだろう。飛行場ができれば、現在の1週間の観光客の滞在期間が1〜2日になるだろう。東京から日帰り海水浴なども可能になる。そして、本土の大手観光業者が進出し、小笠原の零細観光業者は仕事がなくなるだろう。現在の小笠原の活気は、東京都の不便な僻地という現在の立地条件が、過度の競争を制限している結果としてもたらされている面がある。
 小笠原島では条例により島内全域でキャンプを禁止している。小笠原村観光課長の渋谷正昭さんが、「車の中で寝るのも、空き地でのゴロ寝も条例で禁止されます」と面白いことを言うものだから、議論になった。私が「眠らなければいいのですか」と尋ねると、「眠らなくても、横になってはいけません」と渋谷さんが言う。「昼間でも横になってはいけないのか」、「夜だけである」、「夜とは何か」、「日没から日の出の間である」、「雲っていれば日没や日の出を認識できないのではないか」、「横になるとは、どういう状態を意味するか」などのソクラテスの対話集のような議論になった。これは、帰りの船の中でアルコールと船の激しい揺れのために酔った状態で行われた議論である。かつて、本土から来た人が島で野宿を始めたため、島民の通報を受けた役場の職員が説得して本土に帰ってもらったことがあるらしい。
 ちなみに、アメリカのジョンミューア・トレイルでは、キャンプはどこでもできるが、キャンプの方法を細かく規制している。たとえば、キャンプ場所はトレイルや水辺から60メートル以上離れること、一定の標高以上の場所での焚き火の禁止(トレッカーは高度計でキャンプ場所の高度を測定して焚き火をする)、焚き火に枯れ枝は使用してよいが枯れ木は使用禁止、燃やしてもよい枯れ枝の大きさの制限、新たな石積みの禁止などの細かな規則がある。日本的な大雑把な包括的禁止ではなく、自然を利用する権利に対し「必要最小限の規制」をしている。環境保護官がパトロールしており、これに違反すれば直ちに現行犯逮捕される。アウトドア先進国にはそれに見合った法文化がある。
 小笠原の人たちは環境に関する関心が高く、市民度が高い。そして、どうやら理屈と議論を好む人が多いようだ。そのため、日本でまだ関心の低いエコツアーを実施し、さらに、エコツアーに伴う法律問題に関心を持つことができるのだろう。人口500人の母島で、それほど面白いとは思えない法律の話を聞くために人が集まることは、本土では考えにくい。
 小笠原島を生活の場所として選択することは、生き方を選択することである。彼らの主体的な選択が島に対する愛着と高い市民意識を生むのだろう。
 
 僻地での生活の話をもう1つ。
 以前、北極圏にあるバフィン島に登山のために1か月間滞在したことがある。イヌイット(エスキモー)の住むツンドラ地帯には、夏でも草木のないモノトーンの広大な世界が果てしなく広がっている。広大な無意味な空間。もともと自然に意味はない。人間は小さな無意味さは理解できるが、無意味さが余りにも巨大になると頭が混乱する。かつて、三島由起夫は、ヨーロッパアルプスの山々を初めて見た時、そこに何らかの意味を見つけようとしてそれができず、完全に興味を失った。人間の思考には、頭の中にやたらと空中楼閣を構築したがるやっかいな性質があり、あらゆるものに意味を見つけたがる。ものごとの意味は、人間の頭の中の物差しで初めて与えることができる。人間も自然の一部であり、自然物としての人間には意味がないが、その存在や行動に意味を与えることができる。人間が何かを選択する時、選択と同時にその選択に意味を与える。
 もし、自分がこの場所で生まれ、ここで一生を終えるとすれば、日本で長年身につけてきた雑多な細かい知識がどれほどの意味を持つだろうか。
 現在では、イヌイットのほとんどは文明化された家で都会生活をしている(都会と言っても人口2000人程度の町であるが)。伝統的な生活様式を喪失したイヌイットの間に、自殺、失業、無気力、麻薬中毒、アルコール中毒などが蔓延していた。そのため、カナダ政府は、この地域をアルコールの持込禁止地区に指定し、生活保護などで手厚く保護している。イヌイットの文明化は彼らの選択の結果というよりも、カナダ政府のパターナリズムの結果であるが、伝統的な文化を喪失しつつあることが、彼らの人生の選択を困難にしている。
 かつて、ヒマラヤの奥地の村を訪れた時、「なぜ、彼らはこんなところで生活しているのか」をずっと考えていた。彼らはここでの生活を選択したというよりも、生まれた時からここで生活をしている。ヒマラヤの奥地の村で生まれ育った人が、都会に出る機会がないわけではなく、実際に村から出ていく者も多い。しかし、都会に出る機会があっても、村から出ていかない者も少なくない。彼らにとって何が賢明な選択であるかを判断することは難しい。
 
 人間の選択は無数の偶然の結果の積み重ねのうえに、ほんの僅かの人間の意思が加わることで決定される。人間の選択は環境と偶然に左右されることが多く、環境と偶然がもたらす人間の運命は残酷である。運命の残酷さの前では、人間の意思による選択は取るに足らないものなのだろう。しかし、ほんの僅かの限られた選択がその人の人生の中で持つ意味は大きい。事故のほとんどは、多くの不運が重なったうえに、ほんの僅かの人間の選択の結果もたらされる。もし、あの時、こうしていなければ、事故に遭わずにすんだということが多い。そのために、事故者や自殺者の周囲の者はさまざまな後悔の念にとらわれる。
 「ジャム研究」によれば、選択の種類の少ない方が選択しやすくなるとされる。選択の余地がなければ選択に迷うことはない。現在では選択の幅が広がっており、進学、就職、恋愛、結婚、離婚などで選択に迫られる。誰でも大学に行けるようになれば、大学に行って何をするかを悩む者が増える。商品の流通量が増えれば、何を買うかを悩み、買い過ぎに悩む。自由と選択が拡大すれば、人間の悩みが増える。
 自分の意思で環境を選択できるかどうかが重要である。生活・健康問題を理由とする自殺が多いが、生活や健康に関して選択の困難な状況が自殺をもたらしている。かつて、ブータンは貧しく医療も不十分だったが、自殺者はほとんどいなかった。これは家族、地域の強い絆や相互扶助の仕組みが生活・健康問題を解決していたからだと考えられる。
 賢明な選択が意欲をもたらすとは限らないが、登山家の選択、イヌイットの伝統的な文化の選択、ヒマラヤの奥地の村で生活するという選択などのように、主体的な選択は意欲をもたらす。選択には必ずリスクが伴う。このリスクが余りに大きければ、選択が困難になる。
 日本には「人間のミスを認めない文化」があり、これが選択の幅を狭める。外国には過失犯を処罰しない国がある。酒気帯び運転による人身事故のように道義的非難の強い事故もあれば、医療事故やガイド登山中の事故などのように、そうではない事故もある。後者の事故の多くは、医者やガイドなどが最善の努力するのだが、危険性の高い業務の場合、さまざまな悪条件と些細なミスが重なれば事故が起きる。この種の事故について、日本では過失を非難する文化が強いので起訴され、執行猶予付の禁錮刑になることが多い。
 ミスはあってはならないし、ミスがない方がよい。几帳面な日本人の気質が現在の日本の経済的発展をもたらした面がある。しかし、人間は常にミスを犯しながら生活している。日常生活上の些細なミスは、滅多に重大な結果をもたらすことがないので、ミスに気づかないだけなのだ。そのようなミスにたまたまいくつもの不運が重なると、事故になる。
 他人のミスに対する厳しさは、自分がミスを犯した時に他人からの非難をもたらす。失敗を許さない文化は厳しさの悪循環をもたらし、引きこもり、うつ病、自殺、過労死などにつながりやすい。自己責任という日本語には非難のニュアンスがあり、他人を基準にして自分を厳しく規律する文化を反映している。
選択するためには、考えることが必要であり、小さい頃から選択する経験を積むことは考える訓練になる。そのような経験が人間のアイデンティティを形成する。主体的な選択が意欲や幸福感をもたらす。
 人間は自分の頭の中の物差しに基づいて選択する。この物差しは、自分が所属する社会や集団の持つ文化の影響を受ける。登山家の世界では仕事や家族よりも登山を優先させる傾向があり、それは登山家の登山至上主義の文化に基づいている。家族全員がまったく別個の原因から破産することがあるが、彼らは浪費的な文化を家庭内で共有している。親から虐待を受けた者が親の文化を学習し、同じように自分の子供を虐待するケースがしばしばある。特定分野の専門家は、専門性の文化に縛られ、判断の視野が狭くなることが多い。
 誰でも限られた選択の文化を持っており、その影響を受ける。選択の文化はファッションの流行のように短期間に変化するものもあれば、そうではないものもある。社会制度が変われば文化も変わる。日本で周遊型のパック旅行が多いのは、休暇が少ない社会制度と自立が重視されない文化に基づく。自立の観念は小さい頃からのそのような教育システムがなければ身につかない。契約の文化は商品経済などの発展の影響を受ける。弁護士の数が増えたが、最高裁の統計によれば、本人訴訟が増えている。本人訴訟は庶民や零細企業レベルの現象である。庶民や零細企業レベルで弁護士を利用しやすい制度がなければ、弁護士を利用する法文化は生まれない。逆に、文化が制度を作る面がある。環境保護先進国では、環境に対する市民の高い意識が制度を作る。
 心理学では内発的動機づけが意欲をもたらすとされる。内発的動機づけがなければ選択できないが、逆に、自分で選択することが内発的動機づけにつながる面がある。選択肢が多様でなければ選択は成り立たないが、選択肢が多くても、選択の文化が選択の幅を限定し、「自分にはこれしかない」と考えやすい。多様な選択可能性のもとで「自分にはこれしかない」と考えれば意欲につながるが、限られた選択可能性の中での「これしかない」という選択は、意欲につながらず、うまくいかない場合の逃げ道を閉ざす。
 日本や中国で多い過労死について、欧米では、「そこまで働かなければよいではないか」、「厭ならやめればよい」と考える人が多い。欧米では多様な選択肢の中で働き過ぎが問題になるが、日本では限られた選択肢の中で働き過ぎが生じる。アメリカでは、従来から高学歴の専門職や企業幹部の仕事中毒が指摘されているが、彼らは自らの意思でそれを選択しているとみなされ、「過労死」として意識されない。日本では一般職員や中間管理職、教師などの過労死が問題とされ、キャリア官僚や企業幹部などの過労死に対する関心が低い。しかし、選択肢が限られた日本の文化の中では、キャリア官僚、企業幹部、医師、研究者などについても過労死が生じる。
 「厭ならやめればよい」と考えることは、日本の自己規律の文化のもとでは無責任とされる。「苦しいのは皆同じであり、自分だけやめることは許されない」、「自分がやめると周囲に迷惑がかかる」などと考えやすい。このように周囲との関係を重視するのもひとつの文化である。
 人間には生物としての客観的な限界があり、その点の個人差は大きい。高所登山でいえば、高所順応の能力や心肺機能の個体差が大きく、これを無視して同じように行動すれば死に至る。人間の生物としての個体差は、厳しい登山では現れやすいが、人工的な都会生活ではこの点が隠蔽されやすい。「他人にできることは自分にもできるはず」はトレーニングの段階では当てはまるが、現実の登山に直面した時は、当てはまらない。
 しかし、頑張ることに慣れると、自分の限界を超えて「もっと頑張れるはずだ」と考えやすい。人間の意識が考える限界は感覚的なものであり、感覚的なものは慣れにより際限なく上昇する。いわゆる感覚の麻痺である。自分の限界に近い登山を繰り返していると、限界を超えたことに気づかなくなる。限界を超えた登山では登山中に急死することがある。冬でもシュラフなしのビバークに慣れた人が、ある時、耐寒能力の限界を超えたために、登山中に凍死することがある。日常生活では肉体の限界を超える前に気力を消失するのが普通なのだが、精神的に強い人は、精神力が生物的な限界を超えるのである。
 過労死も似た面があり、頑張ることができる人が過労死する。一般に、高学歴の者ほど頑張ることのできる人が多い。人間がどこまで頑張ることができるかという点について、登山では生物としての個体差のあることが自明であるが、仕事に関しては生物としての個体差が無視されやすい。その点は、誰もが同じように頑張れるはずだという文化の影響がある。日本の学校では、小さい頃から、誰もが同じように頑張ることができると言われ、頑張りなさいと叱咤激励され続ける。しかし、登山の経験から言えば、身体的、精神的に頑張る能力の個人差は大きい。「誰もが同じように頑張ることができる」という文化は、人間に努力させるために考え出された手法である。根気や意欲がなく、頑張ることができない人間に対し、「頑張れ」と言うだけでは余りに能がない。どのようにしたら人間の意欲を引き出せるかという学問的成果を取り入れた別の手法を考えるべきだろう。主体的な選択の文化が重要である。
 意欲の限界と生物としての限界を区別することが重要である。前者はほとんど限界がないが、後者は限界がある。自分の能力を発揮する前に意欲を喪失する人も多いが、頑張ることができる人は、意欲が生物としての限界を超える危険を孕んでいる。
 人間の生物としての限界を超えないためには、そのような労働環境が必要であるが、たとえそれが不十分だとしても(ほとんどの職種において、日本ではこれが不十分である)、「自分の命は自分で守る」という発想が重要である。
 危険な登山では、自分の限界を考え、いつでも「自分はここでやめる」と言えることが必要である。もちろん、途中で登山をやめることは仲間に迷惑をかけるが、自分の命は自分で守らなければならない。自分をもっともよくコントロールできるのは自分自身であり、そこに自己責任の根拠がある。responsibility(責任)は、その語源に照らせば、自分の意思に基づいて行動に応答できることから生じる。自分の行動をコントロールできないところに自己責任は成り立たない。自分の状況を把握し、自分に関わる環境をコントロールできて初めて自分が自身の主人公になる。それが人間の主体性である(J・S・ミルも似たようなことを書いている)。「自分はここでやめる」と言うためには、それを可能とする「自己」と、それを支える文化が必要である。途中で登山をやめたとしても、自分のアイデンティティが変わるわけではない。
 他方で、ツアー登山などの集団登山では、周囲に迷惑をかけることを恐れて、体調が悪くても無理をする登山者が多く、事故が起きやすい。ツアー登山は日本の集団文化に基づく登山形態であり、ツアー登山で起きる現象は日本の社会でも起きる。ツアー登山においても社会生活においても、「自分はここでやめる」と言うことが重要である。
 仕事優先の日本の社会を登山優先の登山家の世界から眺めると、ずいぶん奇異に見えるが、仕事偏重の日本の文化の中では、登山家の方が奇異とされる。山岳事故を起こすと、「仕事をサボってわがままなことをして、社会に迷惑をかける不届き者」として非難を受ける。イラクで誘拐された3人の若者の場合も同じである。
 自分が所属する文化は、生活環境、職業、趣味、宗教などによってもたらされ、それぞれの文化は固有の自己完結の世界を形成する。そのような世界の中にいると、自分が所属する世界が持つ文化に気づきにくい。
選択することは、選択しないものを捨てることを意味する。捨てるか捨てないかを決断できなければ、選択できない。人間は、過去の思い出やしがらみ、周囲からの期待、感情、利益、地位などを簡単に捨てることができない。人間は2つのことを同時に選択できないとわかっていても、両方を手に入れたがる。私が大学受験の時に、選択できなかったのは、捨てることのできないものがあったからであり、それは「周囲からの評価」だったような気がする。 
 自分が所属する文化とは別の世界の文化を知ることで、捨てる決断ができることがある。自分が非常に重要だと考えていることが、他の文化では軽視ないし無視されることがある。その場合、多くの者は、驚き、怒る。この驚きや怒りが選択の文化を意識するきっかけになる場合もあれば、単に、驚きと怒りで終わる場合もある。
かつての友人の死を知り、こんなとりとめもないことを考えた。
(広島弁護士会会報90号,2011)