弁護士の増加と法曹資格の変容

                       「広島弁護士会会報」91号、2011
                                 弁護士 溝手 康史


1、社会の変化と法曹資格
 弁護士をめぐる最近の社会状況の変化は激しい。人口と経済活動の都会への集中、インターネットの普及、交通機関の発達、頻繁な法改正、不況、東日本大震災、国の財政赤字の増大、弁護士の営業の自由化、司法支援センターの設立、法科大学院の設立、弁護士の数の急増、弁護士の就職難、司法書士の法律業務の拡大などが生じている。
 このような状況の中で、弁護士の需要、司法支援制度、法曹資格のあり方、法曹養成などの問題について考えてみた。

2、司法へのアクセスの実態
 私は、平成12年に「裁判過疎地の現状」というタイトルの文章を広島弁護士会報に書いた。法律事務所や裁判所が近くにあっても、それらが利用されない問題性を痛感したのである。私は平成8年に三次市で開業し、当時、債務整理と破産事件の処理に追われていたが、訴訟事件は少なかった。訴訟事件は当時も現在も少ない(過払金請求事件を除く)。訴訟事件に限らず、近くに法律事務所や裁判所があってもそれらを利用しない人が多いという現実があった。私が訪問したかつてのブータンのように、紛争が少ないために弁護士や裁判所が利用されないのであれば、問題はないが、そうではない。弁護士に相談をしても、紛争の解決を弁護士に依頼しない人が多かった。
 現在でも、「法律や裁判所は関係ない。ワシらのやりたいようにやる」という人たちが少なくない。地方の一定の地域、集団、組織では、この種の部分社会の法理(?)に基づいて、集団のルールや因習が法律の適用を排除することが多い。企業でも法の支配ではなく、企業社会のルールの方が優先されやすい。法律事務所や裁判所があっても、それらが利用されなければ、私的なルールがそのまま通用する。百聞は「一験」に如かず。法律や法律家が考えるタテマエの世界が庶民にとっていかに空虚なものであるかを理解するうえで必要なものは、経験である。
 当時、受任する事件のはほとんどが債務整理と破産事件だった。土地の紛争や金銭取引に関する紛争、離婚、相続などの相談は多いが、人間関係が悪化して激情にかられない限り、弁護士に依頼されなかった。
 田舎にいくほど市民の行政に対する期待が大きく、行政関係の相談が多いが、そのほとんどが弁護士に依頼されない。行政訴訟が地裁本庁でしか受理されないこと、行政訴訟の勝訴率の低さ、行政訴訟に要する時間と労力、弁護士費用の負担などが弁護士への依頼の障害になる。年金に関するトラブルは多いが、弁護士に相談されるのは稀である。
 日本の行政訴訟件数は年間3,000件以下であり、人口あたりの数でいえば旧西ドイツの700分の1である(「人間の尊厳と司法権」、木佐茂男、日本評論社、316頁)。日本では行政訴訟に関する本を読むことは虚しい。行政訴訟の数はその社会の法の支配のメルクマールのひとつである。 
 労働関係の紛争は日常的にあり、弁護士への相談はたまにあるが、弁護士への依頼になると、フツーの人はしない。日本では年間の医療過誤訴訟件数は1,000件以下であり、実在する医療紛争の数に較べれば微々たる数である。
 私は、広島市内で弁護士をしていた頃、医療事件、過労死、労働事件、公害・環境事件、大規模消費者事件、行政事件、国賠事件などに関心を持っていた。弁護士は誰でも社会的に注目される事件を扱いたがるが、三次市で開業して以降、この地域ではこれらの事件が弁護士に依頼されることが極めて稀だという重大な事実に気づいた。仮にこの地域にこの種の事件があっても、通常、本庁で扱われる。
 また、マスコミを賑わす重大な事件は、「誰にでも起こる可能性のある事件」だが、「誰にでも起こる事件」ではない。これらの事件が自分にふりかかる確率は、一般にそれほど高くない。これらの事件について、市民は「自分が事件の当事者にならない限り」弁護士を必要としない。
 他方で、債務整理や破産のように、市民が心理的に追い詰められた事件は、田舎でも都会でも弁護士に依頼される。わかりやすく単純化すれば、弁護士に依頼される事件の多くは、@心理的に追い詰められた事件(債務整理、破産など)、A激情型事件(離婚、相続、境界紛争など)、B企業・資産家型事件である。平成8年当時、Bの事件については既に広島市内の弁護士の業務対象になっており、私の仕事は少なかった。私が扱う事件のほとんどが@とAの事件である。田舎では都会よりもBの事件が少ない。
 なぜ、@〜B以外の事件が弁護士に依頼されないのか。それは、a弁護士に依頼するには金がかかること、b裁判にかかる時間、労力、訴訟費用、訴訟制度など、c市民の法意識などの結果である。
この中で、司法へのアクセスの最大の障害は弁護士費用の問題である。これが訴訟件数の少なさに反映する。当たり前のことだが、弁護士費用がタダであれば、借金、行政、労働、家事、相続、土地などに関する事件を弁護士に依頼したい人はいくらでもいる。潜在的な弁護士の需要が現実の需要になるには、相応の条件が必要である。市民の法意識は、aやbの問題が解決されて、司法が利用しやすくなれば、自ずから変化していく問題である。
 その後、民事司法支援制度ができ、一定の所得以下の人は無料相談ができるようになった。そのため、現在、法律扶助基準を満たす人は弁護士に相談しやすく、何度でも相談に来るが、扶助基準を超える人は滅多に弁護士に相談しないという傾向が顕著である。そして、法律扶助基準を満たす人でも弁護士費用を償還しなければならないので、上記@とAの事件以外の事件は弁護士に依頼しない傾向がある。
 マスコミや日弁連は、弁護士の数が少ないことが司法が利用されない原因だと考えたが、そうではない。近くに弁護士がいても弁護士に依頼しない人が多いのである。
 弁護士の総数が増えなくても、司法を利用しやすい制度ができれば、「弁護士過疎地」の弁護士は増える。この点は、「弁護士過疎地」に多くの医者が開業していることを見ればわかる。私の事務所の近くには老人の住民が多く、開業医が多い。司法と医療の違いは利用しやすい制度があるかどうかの違いである。公的医療保険制度がなければ、どんなに医者の数が多くても医療の利用者は激減する。
 「司法を利用しやすい制度」がなければ「弁護過疎」と「弁護士の過剰」が併存する。司法試験合格者数が500人の時代でも仕事のない弁護士はいくらでもいた。弁護士の数が少なくても仕事のない弁護士が存在し、結局、弁護士が多くても少なくても、経済的に弁護士を利用できない人にとって弁護士は無縁の存在である。
 以上のことは、10年以上も前からいろんなところで書いてきたが、その度に、「三次は大変ですね」と人ごとのように言われてきた。しかし、私は三次市で開業する前に広島市内で9年近く弁護士をしており、広島市も三次市も程度の差でしかないことがわかる。都会と過疎地では所得格差があるが、弁護過疎は都会でも過疎地でも庶民に同様に生じる問題である。経済的に弁護士に依頼できない人は、弁護士の数が増えても依然として弁護士に依頼できない。
 ある有名な大学教授が「法曹人口が増えれば、自然に法曹が社会に浸透する」と述べたが、これは、「商品を大量生産し、店に商品が溢れれば、人々が豊かになる」と言うのと同じレベルの発想である。最高裁の調査によれば、弁護士の数が増えても、本人訴訟の数が増加している。
 
3、弁護士の需要
 弁護士の需要は社会的なものである。利息制限により、破産、債務整理事件が減少し、損害保険や社会保障の普及・充実により損害賠償事件が減少する。司法支援制度が不十分な国では、庶民は有償の司法よりも、市役所、警察署、労基署、法務局などの無償の行政の方を当てにする。
 もともと企業法務の分野はパイが限られ、内容的にも新規弁護士が簡単に市場参入できる分野ではない。顧問弁護士を置く企業は限られる。新規弁護士の仕事は過払金請求、債務整理、破産などが中心になるが、これらの事件は減少しており、増加した弁護士や司法書士を含めて競争が激しい。弁護士が少ない地域でも、既に簡裁代理権を持つ司法書士が多数開業していることが多い。今年になって東京の弁護士が三次市で新聞折り込みチラシを3回配布して無料相談会を開催したが、相談はほとんどなかったようである。
 弁護士の数が増えても、総体としての弁護士への依頼事件が増えておらず、既存の弁護士の仕事が減っている。弁護士の急増は、顧問先等を持たない経営基盤の弱い弁護士を直撃し、弁護士の格差が拡大する。本人訴訟が増えているが、本人訴訟は弁護士費用を用意できない場合と勝訴の見込みの低い場合が多い。法曹が企業、役所、社会に浸透しなければ、弁護士の増加は弁護士の過剰を意味する。司法改革は、法科大学院を作り、弁護士の数を増やしただけで、上からの改革の自己満足で終わっている。
弁護士の就職難や仕事の減少は個人の問題ではなく、社会のシステムの問題である。
 市民が経済的に弁護士に依頼できなければ、弁護士が過剰でも、市民は「弁護士が足りない」と感じる。マスコミは、「後見人を引き受けてくれる弁護士が足りない」ことを強調するが、これは後見人費用を用意できない後見人選任事件の話である。労力に見合った報酬さえもらえれば後見人を引き受ける弁護士はいくらでもいる。後見人に報酬を払えるシステムがあれば、すぐにでも「弁護士は足りる」。マスコミのいう「弁護士不足」の実体は、「市民が経済的に弁護士に依頼できない状況」を意味する場合が多い。
 最近、無料相談会や相談センターの相談件数が減少している。備北法律相談センターは設置当初から相談者が少なく、その存在理由が乏しかったが(相談枠利用率は約2割)、最近は相談が0件の日も珍しくない。「弁護士過疎地」に設置された相談センターがあまり利用されてこなかった現実を直視する必要がある。
 平成13年の司法制度改革審議会意見書は、「経済・金融の国際化の進展、人権、環境問題等の地球的課題、国際犯罪等への対処、知的財産権、医療過誤、労働関係等の専門的知見を要する法的紛争の増加、弁護士人口の地域的偏在の是正、国民の社会生活上の医師としての法曹の役割の増大など」を理由に、法曹人口が年間3,000人程度増加することが必要だと述べた。この3,000人という数字は外国の法曹人口との比較から導き出された。この提言は、今後、法曹の需要が増加するとの予測に基づいており、司法制度改革審議会は法曹の需要を無視して法曹人口を増やすことを提言しているわけではない。しかし、この意見書は、法曹の役割の増大や法曹人口の増加が望ましい事情を述べるだけで、法曹の需要の検証がない。
 何事も現実を直視し、分析し、そこから考えることが重要である。数字と理屈で考えていると、福島の原発事故のような事態が生じる。現実を把握することは容易でなく、法曹の需要を正確に把握することは難しい。
 司法制度改革審議会意見書は各分野の専門家による提言であるが、人間の認識と判断には限界がある。知識があることと認識、判断は別であり、専門的知識が的確な判断につながらないことは多い。専門家の判断も素人の判断も内容に大きな差がないことがある。私は山岳事故に関する国の安全検討会の委員をしたことがあり、事故を分析する中でこの点を痛感した。ところが、国民は専門家の権威を簡単に受け入れる傾向がある。司法制度改革審議会意見書を絶対視するのではなく、その内容を絶えず現実によって検証し、修正することが重要である。
 平成13年当時、過疎地が必要とした弁護士の数はせいぜい100人程度であり、年間3,000人の法曹人口の増加と結びつけて議論するほどの大問題ではなかった。マスコミや日弁連が弁護士過疎地の問題を過大視したのは、マスコミにはこの問題で世論形成の思惑があり、日弁連には長年の過疎地に対する無知と後ろめたさがあったからである。弁護士過疎地を特別扱いすることは、都会における弁護過疎の問題を隠蔽する機能を果たした。日弁連のいう「弁護士過疎地」は田舎の中心都市であり、ドイツのように人口5,000人の町で弁護士が開業するためには、ドイツのように弁護士強制主義、裁判所の存在、司法支援制度の拡充などが必要であり、そこに問題の核心がある。
 司法制度改革審議会意見書には組織内法曹に関する問題意識がない。同意見書は、弁護士が「公的機関、国際機関、非営利団体(NPO)、民間企業、労働組合など社会の隅々に進出して多様な機能を発揮し、法の支配の理念の下、その健全な運営に貢献することが期待される」と述べ、あくまで「弁護士の活動領域の拡大」という観点から考えている。そこには「組織内法曹の増加」という観点がない。
 私は、26年前に司法試験に受かった当時、広島県庁に勤めていた。当時、県庁に法曹資格に応じた職種があれば、公務員を続けてもよいと考えたが、そのような法律の職種が県にはなかった。当時の役所の法曹資格に対する評価は、「ゼロ」ないし「無関心」というのが実情である(この点は現在でも同じである)。当時、私は県庁で条例の改正作業や国家試験の法律問題の作成、市町村への補助金の審査などをしていた。役所では、日常的に膨大な量の法令の解釈と運用を行うが、自治体では基本的に通達、マニュアル、先例に従って法令を運用している。わからないことはすべて国の指示通りに動くのが日本の地方自治の実態である。法令に機械的に従うのではなく、法曹は「法とは何か」を考え、法の精神を企業や役所に浸透させる役割を担うことができる(はずである)。また、そのような法曹の養成が必要である。1981年頃、全国の自治体の組織内法曹は東京都に数人いたが、2006年の自治体の組織内法曹は全国で10人であり、そのうち6人が東京都の職員である(「企業内弁護士」、日本弁護士連合会、201頁)。
 現在、役所では弁護士の任期付任用が多く、組織内法曹の拡充に関して、日本ではまだスタートラインにすら立っていない(その意味では、今後の可能性は無限にある)。
 また、法曹資格者の終身雇用の民事・家事調停官制度が必要である。

4、司法支援制度
 司法支援制度のあり方が法曹の需要を大きく左右する。 
 私は今まで20数年間に数百件の法律扶助事件や国選事件を扱ってきた。現在、私が受ける相談のほとんどが法律扶助相談である。その中で以下のような問題点を感じている。

(1)司法支援の対象
多くの弁護士は意識していないが、平成18年に法律相談が法律扶助の対象となったことは画期的な出来事だった。当時、私の事務所では相談件数が激増したので驚き、その後、利息制限法の改正で相談が激減したので、再び驚いた。
 扶助基準を満たさない平均的な市民層は相変わらず弁護士に相談・依頼しにくい。また、扶助費の償還が原則であること、零細企業を司法支援の対象外であること、後見人選任申立事件に要する経費、破産予納金(生活保護受給者を除く)などが司法支援の対象外などの問題がある。
 ある有名な大学の法学部教授が、司法支援制度を拡充することについて、「なぜ、国が弁護士の収入の面倒まで見なければならないのか」と発言したことがある。このレベルの人が法科大学院を運営していると思うと、情けない。また、実に奇妙なことだが、マスコミは司法支援制度の問題を必ず避ける。
 日本では、法律扶助事件は弁護士の「公益活動」に分類され(「法曹の倫理」、森際康友編、名古屋大学出版会、203頁)、弁護士のボランティア的活動とされる。しかし、スウェーデンでは国民の80パーセントが法律扶助の対象とされ、フィンランドでは国民の75パーセントが法律扶助の対象とされている(「スウェーデンの新しい法律扶助法」菱木昭八朗・リーガルエイド研究2号70頁、「立替金償還制度をめぐって」大石哲夫、判例タイムズ1186号、75頁)。このような国では、法律扶助事件は弁護士の「正業」に属する。

(2)リーガルエイド
 日本の司法支援制度はリーガルエイドではなくリーガルローンである。庶民の多くは、よほど困った場合でなければ弁護士に依頼しないので、弁護士費用がかかることに対する不満が大きい。「市役所はタダだが、裁判所は金がかかる」ことが庶民を司法から遠ざける。

(3)リーガルローン
 リーガルエイド基準を超える市民層については、低利もしくは無利子のリーガルローン制度が必要である。この点は、住宅ローン制度がなければ、ほとんどの人が自宅を購入できないのと同じである。司法支援の対象外の小企業にはリーガルローンが必要である。

(4)合理的な弁護士報酬
 現在の司法支援制度は、弁護士の労力と弁護士報酬額がまったく比例しないという欠陥がある。また、償還制を前提にすれば、弁護士の報酬額が償還可能な金額という制約が生じる。現在の制度では、少額事件、法律扶助を利用した複雑な破産管財事件、医療過誤事件、労働事件、行政事件などの扶助額は、弁護士の労力を無視した扶助額になる。何年もかかる不動産訴訟の扶助額が63,000円であれば、敬遠する弁護士がいるのも当然である。
 庶民の日常的な紛争のほとんどが訴額が小さく、現在の扶助額の不合理性が弁護士へのアクセスの大きな障害になっている。経済的利益を基準にした弁護士費用の考え方は、リーガルエイドになじまない。庶民の事件のほとんどが法律扶助事件なので、庶民の事件を扱うことは法律扶助事件を扱うことを意味する。これは弁護士の「正業」に属する。庶民の刑事事件もそのほとんどが国選弁護事件であり、国選事件は弁護士の「正業」である。弁護士の「正業」が成り立たなければ、長期裁判の冤罪事件や再審事件などのボランティアは成り立たない。弁護士を過剰にして、弁護士の「正業」をボランティアでやらせようという発想は間違いである。スウェーデンなどのように、事件処理に要する時間に応じた法律扶助額にする必要がある。

(5)ジュディケア制とスタッフ制
 法律扶助制度に関してジュディケア制とスタッフ制がある。ジュディケア制は開業弁護士が法律扶助事件を扱い、スタッフ制は国から給料の支給を受けるスタッフ弁護士が法律扶助事件を扱う制度である(「日本の法律扶助の再構築とその課題」、小島武司、リーガルエイド研究1号、3頁)。スタッフ制を採用する国は、自由競争の弥縫策としての救貧思想に基づくアメリカだけであり、世界の主流はジュディケア制である。市民にとってジュディケア制の方が利用しやすいことはいうまでもない。スタッフ制の採用は、法律扶助額を低く抑えるためのテクニックである。法テラスの法律事務所は、日本にジュディケア制が確立するまでの過渡的な制度である。
 
5、法曹資格のあり方

(1)法曹とは何か
 アメリカやドイツでは、裁判官、検察官、弁護士にならない法曹(jurist)が大量に存在する。ドイツでは毎年6,000人が司法試験に合格し、そのうち約16パーセントが裁判官、検察官、弁護士になり、残りは他の職業につく。ドイツの法曹資格者は、裁判官、検察官、弁護士、法律職の行政官(行政法律家)、法律職の社員(企業法律家)、公証人、大学教員、国会・大学・教会の行政担者などである。日本の法曹は裁判官、検察官、弁護士を意味するが、ドイツの法曹はそうではない。ドイツでは、法曹の職業として、裁判官、検察官、法律職の行政官の人気が高い。ドイツの法曹資格を持つ行政官は行政法律家(Juristen in der Verwaltung)と呼ばれ、日本の国家公務員T種試験の法律職に相当する。ドイツでは企業に雇用される法曹資格者は企業法律家(Wirtschaftsjurist)と呼ばれる。企業法律家は法律で企業の代理人として訴訟活動をすることが禁止されており、日本でいう企業内弁護士とは異なる。ドイツには、1996年当時既に行政法律家が35,000〜40,000人、企業法律家が15,000〜20,000人存在した(「ドイツ法曹養成思潮の衝突と融合T」、鈴木重勝、早法81巻2号)。この数は現在ではもっと増えているだろう。
 15年間ミュンヘン大学の法学教育に関与していたことがある慶應大学の加藤久雄教授は、平成12年の日弁連法務財団のフォーラムで、「ドイツには10万人の弁護士がいて、その3分の1以上が法律家の仕事がなく半失業状態だ」と述べている。また、ドイツでは1年間に600人の弁護士が破産しているらしい。ドイツでは弁護士の数が増えた結果、最近の弁護士の平均年収は500〜800万円、兼業弁護士も含めると弁護士業の平均月収は約22万円である(不足分は副業で補っているようだ)。ドイツでは新規に登録した弁護士のうち「本業」で生活できるのは18パーセントに過ぎない(「ドイツにおける弁護士の状況」、ペーターゴッドヴァルト、立命館法学308号)。
 アメリカではロースクールの卒業生のうち裁判官、検察官、弁護士になる者は約半分であり、残りは企業や役所などに就職する。企業や役所に就職する場合の初任給は年間500〜700万円であり(「米国ロースクールの就職事情について」中網栄美子、法曹養成対策室報2号を参考)、日本の弁護士の初任給に較べて悪くない。アメリカでは路上生活をする弁護士もいるが、巨大ローファームの弁護士の初任給は年収1,500万円であり、格差が大きい。
 オランダでは警察署長になるには法曹資格が必要とされる。
 日本では、司法改革によって企業内弁護士が数倍に増えたとされるが、2009年において日本全体で412人である。日本では、組織内法曹がアメリカの企業内弁護士のイメージで理解されている。「企業内弁護士」(日本弁護士連合会・弁護士業務改革委員会編、2009)では、「企業内弁護士の依頼者は誰か」が問題とされ、組織内弁護士に弁護士職務基本規程の適用を問題としている。しかし、組織内法曹は必ずしも弁護士とは限らない。
 弁護士とは何かが問題だが、形式的には弁護士登録をした者、実質的には他人の法律事務を報酬を得る目的で業として扱う者を意味する(弁護士法3条、72条)。組織の中で組織自身の法律事務を扱う者に弁護士法72条の適用はない。弁護士法の適用がない法曹を弁護士と呼んでも意味がない。組織の中で弁護士業をしない法曹や行政庁に出向した元裁判官、元弁護士は組織内法曹として理解すべきである。
 従来、企業や役所では、大学の法学部、国家公務員試験T種試験、地方公務員上級職試験を通して法律職を採用してきた。また、役所は裁判官や検察官の役所への出向という形で役所内の法曹を補充している。このようなシステムや年功序列制が組織の中で強固なヒエラルキーを形成してきた。
 日本では、「法曹=裁判官、検察官、弁護士」という固定観念が強く、裁判官、検察官以外の法曹は弁護士に分類される。しかし、欧米の法曹(jurist)の観念は前記のように広い。「法曹=裁判官、検察官、弁護士」という観念では、裁判官、検察官、弁護士の仕事をしない組織内法曹を正確に理解することができない。日本の法曹の観念の狭さは、法曹が果たす役割が狭いことの結果である。法曹人口の増加に伴い、法曹の観念と活動領域が拡大しなければならない(本来は、逆の関係だが)。欧米のように法曹資格者が組織の中で働くシステムがなければ、早晩、日本の法曹資格者の行き場がなくなる。

(2)資格の理念
 資格には理念が必要である。また、資格に関して競争が生じるので、どこで競争が生じるのが社会にとって望ましいかを考えなければならない。その際、資格の理念や、社会的な無駄、混乱、弊害などを考える必要がある。人間の個体差や欲望がある限り、必ず競争が生じるが、人間には「どこかで努力が報われる」という心理的安心感が必要である。安心感と無縁の際限のない競争は、やがて人間の意欲を喪失させる。際限のない競争は、一時の社会的刺激はもたらすが、いずれ社会の活力を喪失させる。
 ある大学教授が「法曹資格は就業を保障しない」と述べたが、その意味をよく考える必要がある。資格は、社会的な分業における特定の地位に関して一定の条件を設けるものである。あらゆる資格は社会で行使されて初めて意味を持つ。自動車運転免許やアマチュア無線免許のように就業と関係なく行使できる資格もあれば、医師、薬剤師、弁護士、教師などの職業上の資格もある。後者は、「就業できる可能性」が資格に人を集めるのであって、就業の可能性がなければ、高額な学費と労力を使わせて資格を付与することは詐欺である。
 有資格者のうち10人に1人しか就業できなくても、理屈上は「就業の可能性」がある。人間は「可能性」という言葉に簡単に騙される。しかし、医師、薬剤師、弁護士、教師などのように多額の税金と学費を使って養成に何年もかかる資格の場合には、資格者の大半が資格を活用できないことはあらゆる意味で無駄であり、社会のシステムとして詐欺的である。多額の金をかけて何年も勉強して苦労して資格を得ても、就業できず、やむを得ず資格以外の職業に就く事態は、人間の意欲と社会の活力を喪失させる。職業上の資格については、資格の需要と供給のバランスが必要である。
 以下に述べるように、日本では資格の理念よりも、資格をめぐる関係団体の利権が資格の運用を左右してきた。法曹資格の問題は、日本における資格のあり方の問題である。
 日本では、教師の資格(教員免許)は比較的簡単に取得できるが、教員の採用試験は4〜10倍の競争がある。臨時採用の教師をしながら、何年も教師の採用試験を受け続ける人が多い。最終的に採用試験に受からず、教師を諦める人も多い。2008年に国は教師を養成する教職大学院を作ったが、教職大学院が濫立し、制度創設当初から多くの教職大学院で定員割れしている。教職大学院を修了しても教師になれる保障がなく、この点は法科大学院と同じである。
 教師の資格者の過剰が教師の不安定雇用の手段になる。日本では教師の定員の相当部分が臨時採用の教師である。臨時採用の教師は正教師と同じ仕事をしているが、給料が安く、短期雇用の繰り返しである。教師の資格者の過剰が教師の臨時採用を可能にしている。
 現在の日本の教師の資格制度は、学生を集める大学と教師を雇用する自治体、私学のために都合がよい。教師の資格を得ても教師になれなければ学費と努力の無駄であり、市民から見れば無用の有資格者を大量に作る制度は税金の無駄である。
 これに対し、フィンランドでは教師は医師や弁護士のような専門職として養成される。フィンランドでは大学の数が少なく、学費は無償であり、学生に生活費が支給される。フィンランドの教育学部は非常に人気があり、教育学部の入試倍率が10倍の大学もある。さらに、教師の資格取得には大学院の教職課程をとらなければならないが、教師の養成数が限定されているので、教師の資格を取得した者は、皆、教師になることができる。フィンランドで教師の人気が高いのは、自由で開放的な専門職としての処遇があるからである。フィンランドでは、教師に国家斉唱を義務づけるかどうかなどの低レベルの議論はなされず、教師が教育内容の研究に専念できる労働環境がある。
 山岳ガイドの資格(民官資格)について、日本では、従来、一応試験を実施するが、一定の登山経験がある者すべてに資格を与えてきた。山岳ガイドの資格を認定すれば、高額な検定料や登録料、会費などがガイド団体に入るので、ガイド団体にとって認定する資格者が多い方が都合がよかった。これは漢字検定の仕組みと同じである。高額な費用をかけて山岳ガイドの資格を取得しても、資格者が過剰なので、山岳ガイドはツアー会社に従属しやすい。その結果、日本では低料金の強行日程のツアー登山が一般化し、事故やトラブルが多い。日本では、ツアー会社が雇用する山岳ガイドの地位は添乗員に近く、ツアー会社の指示通りに動かないガイドはその日からツアーガイドの仕事がなくなる。このように資格者が雇用する側に従属する関係は建築士や公認会計士などと同じである。
 他方で、登山客の多くは、事故が起きても自分さえ被害に遭わなければ、山岳ガイドの養成問題は他人ごとである。山に登らない人は関心を持たない。この点は法曹の養成問題と同じである。ツアー登山中に8名が死亡するなど、「想定外の事故」が繰り返し起きているが、安全管理に金をかけるよりも、ツアー料金が安く自分のわがままを聞いてくれるツアーの方がよいと考える登山客が多い。
 これに対し、フランスでは、山岳ガイドは国立の登山学校で養成する。国立の登山学校に入るには厳しい競争があり、登山学校の生徒には国から給料が支給される。登山学校などでの4年間の研修を修了して試験に受かれば山岳ガイドの資格が与えられる。山岳ガイドの養成には何年もの専門的な訓練が必要であり、山岳ガイド資格=職業になっている。フランスでは山岳ガイド資格者は1年間に40名しか養成されない。その結果、フランスの山岳ガイドには権威があり、ツアー業者や登山客に対し徹底した安全管理指導をする。
 スイス、ドイツ、オーストリア、イギリスなどでも、山岳ガイド資格のあるべき姿を考えて養成システムを構築している。日本では、ある資格の人気が高まると、すぐに大学の資格養成コースや専門学校成が濫立して資格が営利の対象になり、資格者が過剰になる。山岳ガイドが過剰な方が雇用する側にとって都合がよいが、ヨーロッパでそのようにしないのは、山岳ガイドが国民の生命身体の安全を守る重要な職務であるというphilosophyがあるからである(もともとphilosophyの観念は日本に存在せず、明治になって「哲学」という訳語が造語された。その語源は「知を愛する」という意味である)。
 国は大学院の数を増やし、博士の数を増やしたが、博士の就業先がない。就業先があっても、専門外の職種に就業する者が多い。個人の趣味のために博士を増やすのであれば別だが、国は産業立国をめざして博士を増やしたのであり、それを活用できないことは税金、学費、人間の努力の無駄である。
 公認会計士試験について、2006年に多数の会計大学院を設置して合格者を倍増させたが、試験の合格者の約4割が実習の受入先がなく、会計士の資格を取得できない状況になった。これは需要を考えることなく会計大学院を設置した結果であり、公認会計士試験の合格者を削減することになった。
 かつて7校だった大学歯学部は1980年代に29校に増え、歯学部の定員を3000人に増やした。私大歯学部の定員が1人増えれば何千万円単位の学費が大学に入り、国の補助金も増える。歯科医の大増員のおかげで、自分の子供に歯科医院を継がせることができた歯科医も多いはずだ。歯科医の過剰は診療報酬の不正請求や過剰診療をもたらし、私大学歯学部の6割が定員割れしている。現在、歯科医の5人に1人は年収300万円以下だと言われ、閉鎖される新設歯科医院が多い。国は歯科医が過剰であることを認め、国家試験の合格者数を半分に削減するために、試験の合格率を50パーセントまで下げ、受験回数を制限することを検討している。
 現在、薬剤師、臨床心理士、理学療法士、医療・福祉関係で多くの学部や学校が新設され、国家試験の合格率が高いので、いずれこれらの資格者が過剰になる。
 日本では、資格の需要があることが資格者の増加の根拠とされるが、そこで使用される「需要」は、空港や道路建設の際の利用者の「需要」と同じく恣意的な操作がいくらでも可能である(私も、役人をしていた頃、その経験がある)。机上の計算や理屈に基づく「需要」はほとんど意味がなく、常に現実を分析し、現実の「需要」と乖離しないことが重要である。
 苦労して資格を取得しても資格を社会で行使できなければ、多額の税金、教育費、人間の意欲と努力が無駄になる。資格を得ても就業できないことは、努力と能力の欠如という自己責任論によって正当化される。「仕事がないのは、努力しないからだ。甘えるな」というわけである。しかし、もともと、資格者が需要に較べて過剰であれば、必ず社会的に就業できない者が生じる。資格者の過剰が不安定雇用の手段になる。現在、国民の多くが何らかの資格を持っているが、使えない資格が社会に氾濫している。資格の大量生産は、社会全体で見れば、国民が金を浪費して就業できない不運と自己責任を共有し合う不幸な社会的システムである。
 格差社会では、資格者に対する反発と羨望というアンビバレントな心理が生じやすい。いわゆる「公務員たたき」も同様の人間の心理が関係している。このような大衆心理が資格の過剰の推進力になり、さまざまな利権がそれを支える。資格者を過剰にして、弊害が生じれば非難し、弊害の後追い規制をすることに限界がある。日本では、一生懸命に働いてもその大半が子供の教育費や資格取得費に消える。苦労して資格を得ても就業できなければ、無力感や社会に対する不信感が生じやすい。法曹資格も同じである。「法曹資格は就業を保障しない」という主張は、法曹資格を活用できない者が生まれる前提のもとに、法曹資格者を増やすという意味である。
 自由主義経済においても、教育、福祉、医療、司法、環境、人命などに関わる分野は、国が資格者の需要と供給のバランスを管理する必要がある。それが税金と国民の財産と人間の意欲を有効に活用し、調和のある社会をもたらすことにつながる。学問、芸術、スポーツなどの分野での内容のある競争は進歩をもたらすが、過払金請求や破産事件、消費者事件などの取り合いは有害無益である。小売業者は金のない消費者を相手にしないが、弁護士には人権擁護、社会正義、裁判を受ける権利の実現という使命がある。
 小売業の場合、消費者は商品の内容を選択するのではなく、購入する店を選択する。小売業では既成の商品をめぐる競争が生じるが、どの店で買うかは、価格とサービスの違いであって商品には個性がない。しかし、弁護士の場合、販売する商品の内容に弁護士の個性が反映し、販売する商品がすべて異なる。しかも、その商品の善し悪しの比較が難しい。弁護士の仕事は、飲食店の料理のように食べ較べが簡単にできず、比較してもよくわからないことが多い。消費者は弁護士の個性的な商品を、その内容を判断して選択しなければならないが、専門知識のない一般市民がこのような選択をすることは難しい。
 小売業は需要と供給の関係によって市場参入が調整されるが、法曹はそれまでに多額の資金と時間をかけて資格を取得すること、法曹の進路が限定されていることから、市場による弁護士の受給調整ができず、弁護士が際限なく増え続ける。この点は医師や歯科医も同じである。歯科医が過剰になっても、歯科医が資格と関係のない企業に就職することはない。
 弁護士が過剰になれば、無用の紛争を作り、紛争の解決を引きのばし、当事者が和解に応じても、代理人弁護士が利益を増やすために和解に応じないことなどが起こる。弁護士の強引な勧誘、利益の偏重、巧みなセールストーク、過剰・誇大広告などが日常化する。かつて、ヒトラーは、短い単純なスローガンを繰り返し連呼すれば、大衆はやがてそれを信じるようになると述べたが(「わが闘争」、角川文庫)、最近、その類の弁護士の広告が増えた。
 弁護士の競争による価格低下を期待する人が多いが、弁護士業は小売業と違って商品の内容が消費者に見えにくい。アメリカでは弁護士の報酬は経済的利益の3〜5割であり、日本よりも高い。報酬の見込める事件では、着手金をタダにして報酬を高く取る傾向が生じる。庶民は「タダ」と「必ず勝てる」というセールストークに弱い。弁護士の競争の激化は「金になる事件」で「報酬を取れるだけ取る」傾向をもたらし、報酬をめぐるトラブルが増える。日弁連が債務整理に関する規程を整備したが、この種の弊害は経済的要因から生じており、規程の整備は弥縫策に過ぎない。
 アメリカの弁護士は訴額50万円以下の事件を扱わない(「入門アメリカの司法制度」、丸山徹、現代人文社、192、196頁、「現代アメリカの司法」、浅香吉幹、東京大学出版会、169頁)。この点で、アメリカでは弁護士の数が多いだけで、弁護士が庶民に浸透しているとはいえない。この点では日本の方がまだマシである。弁護士が小売業化すれば、採算のとれない商品を扱わず、人権活動やボランティア活動をしないことが当たり前になる。
 弁護士の過剰はもっぱら経済的基盤の弱い弁護士層に関係する問題であり、弊害を受けるのは企業や富裕層を除く一般市民である。
 弁護士や医師などの専門性は不正を隠蔽することが容易であり、職業倫理が重要である。弁護士や医師の過剰が職業倫理の妨げになることは、理屈ではなく、経験上の知恵である。自由競争のもとで、弁護士倫理の強化と、弁護士の選択における市民の自己責任に委ねる手法は、必ず失敗する。倫理は強制できるものではなく、弁護士と一般市民の情報量の差のもとでは市民の賢明な選択は困難である。
 資格の理念が資格の養成方法に反映し、職業的な倫理に影響する。ヨーロッパの山岳ガイドは自営業者であるが、警察官や消防職員のように市民の安全を守るべき責務と倫理感がある。ドイツでは、山岳ガイドが一般の市民にアドバイスする義務があるかどうかが議論されている(「続・生と死の分岐点」、ピット・シューベルト、山と渓谷社、205頁)。ヨーロッパの山岳ガイドの高度な職業倫理はその養成方法と資格制度に由来する。これに対し、日本では、契約社員として低賃金でツアー会社に雇用されるガイドにガイドとしての職業倫理を期待できない。高度な公益性や職業倫理が要求される資格については、資格の需要と供給のバランスを維持することが重要である。
 日本の法曹は、戦後の新憲法のもとで、法の支配の実現のために高い社会的使命を担うことが期待された。司法修習生の給費制の根拠もこの点にある。日本の法曹がフィンランドの教師やフランスの山岳ガイドなどと同じく、国の費用で養成されてきたのはそのためである。フィンランドの教師やヨーロッパの山岳ガイドは、資格にふさわしい社会的使命を果たし、社会的尊敬を受けている。日本の法曹が自らに課せられた社会的使命を果たすことが、その資格の前提である。

(3)法曹養成
 アメリカでは法曹人口は多いが、法曹の就業先があり、ロースクールの人気が高い。ドイツでは弁護士は過剰で人気がないが、法曹の進路が多様であり、法学部と法曹の人気は高い。
当初、法科大学院の数は20校程度が想定されていたが、74校が設置されたのは、空港や港の濫設と同じく、成り行き上そうなっただけのことで、深く考えた結果ではない。法科大学院に年間200億円以上の税金が投入され、多額の学費が法科大学院に入る。いったん設置された法科大学院は大学の既得権益になる。
 7年間で法科大学院の志願者が7割減少し、2011年に8割の法科大学院で定員割れが生じている。地方の法科大学院では授業についていけない学生が続出している。司法試験の合格率を上げれば一時的には法科大学院の志願者が増えるが、やがて、法曹資格はあまり意味のあるものでなくなる。行き場のない弁護士が増え、混乱と弊害が増える。
 現在の法科大学院は、多額の税金を使うこと、市民に高額な学費を使わせること、司法試験の受験予備校化、私のように働きながら法曹資格を取得することが非常に難しく、社会経験のある者が法曹資格を得にくいなどの問題がある。社会人でも受験可能な予備試験経由で多様な人材が法曹になることが可能だが、司法試験の採点の上で、予備試験経由者に不利な採点がなされると思われる(法科大学院修了生と予備試験経由者の採点を公平に行えば、法科大学院の存在理由がほとんどなくなる)。
 法科大学院はどうしても必要なものではないが、仮に、法科大学院を有効に活用するとすれば、法科大学院は、弁護士、司法書士、検察官、裁判官、企業・役所などの法曹を養成する機関として位置づけるべきである。簡裁代理権を持つ司法書士は、国際的には「簡裁事件だけを扱う弁護士」とみなされ、法曹養成から除外する理由がない。
 法科大学院について、入口、進級課程、出口での競争がありうるが、法科大学院が多額の金と時間を使う点からいえば、入口(入学試験)で課すのがもっとも合理的である。法科大学院の定員は法曹の需要に応じて決定し、法科大学院を終了すれば、9割くらいの者が司法試験に合格でき、ほぼ全員が法曹として就業できる制度が必要である。司法支援制度が拡充され、組織内法曹の数が増えなければ、法科大学院の定員を減らすしかない。その場合、法科大学院の入学における競争が激しくなるが、やむをえない。
 市民が法曹の社会的使命を理解し、法曹が自分たちにとって重要な存在だと考えれば、法曹の養成方法に大きな関心を持つ。しかし、そうでなければ、市民は法曹の養成方法に関心を持たず、単純に「弁護士の数は多ければ多いほどよい」と考えやすい。
(広島弁護士会会報91号に掲載、2011)

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