自然から学ぶ     
                             
                       
自然の法則
 ノーベル化学賞を受賞した下村脩氏が、マスコミからインタビューを受けて、「自然から学ぶことが大切だ」と述べていたのが印象的だった。下村脩氏はクラゲに含まれる発光物質を研究したのだから、これは当然の発言と言えるが、この言葉には深い意味があるように思う。自然にはそれぞれ固有の性質や法則があり、それらから多くのことを学ぶことができる。
 私は20代で始めた登山が次第に高じて、縦走、冬山、岩登り、沢登り、山スキー、海外でのトレッキング、ビッグウォール・クライミング、ヒマラヤ登山などを30年近くしてきた。3回の海外登山で3つの7000メートル峰に登り、そのうち1つは「初登頂」ということになっている。そのために何度も長い休みをとって周囲の人にずいぶん迷惑をかけた。
 登山は自然を対象とするので、いつも自然について考える。人工的な都会文化の目で自然を見るのではなく、自然の側から人間とその社会を観察すると、それまで見えなかったものが見えてくる。
 自然から学ぶためには、自然に対する謙虚さが必要である。自然の法則はそんなに簡単にわかるものではなく、しばしば、わかったつもりで行動をしてひどい目に遭い、自然に対する思い上がりを反省させられることが多い。
 登山では、落石、雪崩、雪庇崩壊、滑落、凍死、道迷い、高度障害などの危険に対処するために、山岳地帯の危険性と、人間という自然物の能力、性質、意識などの法則を理解する必要がある。ハイキングとヒマラヤ登山の違いは程度と質の違いに過ぎない。ハイキングでも道迷い遭難があるが、これは迷いやすい自然条件とそれを引き起こしやすい人間の認識や心理が関係している。人間が判断ミスを犯す過程にはそれなりの法則がある。
 自然の法則を理解することが大切だという点は、登山に限らず、科学や文化にも当てはまる。現在の人間の文化は人工物主体の都会文化であり、田舎でも基本的に都会文化に支配されているが、人工物といえども自然の法則に支配される。過酷な自然環境のもとでは金属製品は錆びて劣化しやすく、ナイロン製品は紫外線や湿気などの自然の影響を受けて高山では1年程度しか持たない。鉄骨造りの小屋は雪崩で簡単に破壊されるが、岩小屋や雪洞は雪崩で破壊されにくい。山岳地帯では人工的な構築物よりも自然物を使用した構築物の方が信頼できる。ヒマラヤなど過酷な自然のもとでは、電器製品や車などの都会の文明の利器のほとんどが使えない。5000メートル以上の場所では、薄い大気のために通常のヘリコプターは飛べず、ヘリによる救助ができない。
 自然の法則を無視した人工的な構築物は災害の原因になりやすい。南アルプスのスーパー林道のように、自然の法則に反して作った道路は、大雨の度に何度でも崩壊を繰り返す。人工的な構築物で災害を防止する考え方は、人間の計算を超える自然災害に対し無力であり、予想を超える自然災害の度に、責任者が「予見できませんでした」という言い訳に終始する。
 日本では、沢に一切橋を設けないトレイルは「不便で危険である」とされ、当然のようにトレイルに橋が設置される。しかし、アメリカやカナダのトレッキングコースには、意識的に沢に一切橋を設けないトレイルがある。沢に橋を架けるなど人工物で整備したトレイルは沢の増水で破壊されるが、沢の浅瀬を渡渉するなど自然の地形を利用したトレイルは沢の増水でも破壊されない。トレイルを人工化しても自然の危険性をすべて排除することはできない。また、人工化されたトレイルはもはや自然とは言えない。安全性のためには、自然を人工化するのではなく、人間が自然の法則を理解して自然の危険性を回避することが必要である(ただし、自己決定と自己責任の能力が必要である)。
 人工的な都会文化が自然破壊と大量消費を前提とする現在の競争をもたらしたが、地球規模で考えれば自然資源は限られているので、このようなシステムは早晩行き詰まる。それに代わる新しいシステムを構築するうえで、自然の法則に学ぶことが必要である。
 
人間の認識
 登山では人間の認識について、しばしば考えさせられる。白一色の冬山や、スケールの大きい氷河などでは人間の距離感が完全に狂う。目の前の小さな四角い岩が遠方にある山小屋に見え、小さな雪の突起が遠方の巨大なピークに見えることがある。白一色の吹雪と深雪の中では、登っているのか、降っているのかさえ、わからなくなる。人間は、位置の異なるものの大きさや物体の移動を目で見て、頭の中の物差しに基づいて距離を判断するが、日常生活とかけ離れたスケールの光景や、白一色の状況では、頭の中の物差しが狂いやすい。また、空間の認識や上下の関係も視覚に頼る部分が大きい。
 人間は、外部の現象の変化によって、時間、空間、距離、色彩などを認識する。もし、万物に一切の変化がなければ人間に時間の観念は存在せず、移動が存在しなければ距離の観念はなく、万物がただひとつの色で構成されていれば色彩の観念は存在しない。哲学者のカントは、人間が認識するのは「現象」であって「物自体」は認識できないと言うが、人間は現象を通してものごとを認識する。その結果、天道説のような間違った考え方が生まれる。もし、「時間が伸びる」現象があれば、アインシュタインの理論がわかりやすいが、そのような現象は簡単に経験できない。犬には聞こえても人間に聞こえない音は、空気の振動を周波数で表示することによって初めて人間の視覚で認識できる。「雪山の急な斜面」のように、自然の危険性が明瞭な現象を伴えば、雪崩の危険性を認識しやすいが、ヒドンクレバス(隠れたクレバス)のように、危険性が明瞭な現象を伴わない場合には、思考によらなければ危険性を認識できない。
 人間の生物としての個体の違いは、認識の能力と態様の違いをもたらし、同じものを見ても人間の認識内容が異なる。ある地形を見て、雪崩、落石、滑落の危険性、ルートの位置、距離、困難度、さまざまな障害が見える人もいれば、何も見えない人もいる。裁判でも同じものを見ても人によって認識内容は千差万別である。
 人間の心理が認識に大きく影響し、人は根拠があってもなくても、確信することができる。人間の確信は元来いい加減なものである。登山では人間の感覚と認識のいい加減さを嫌というほど味わうが、最近の脳科学でも、人間の目で見た通りのものが脳に情報として伝達されるわけではないことがわかっている(「『見る』とはどういうことか」、化学同人、藤田一郎)。危険な登山では、人間の認識があやふやでいい加減な基礎の上に成り立っていることを常に意識する。
 ところが、都会での生活では、このような経験や実感を持つことが少ない。都会でも人間の認識は簡単に狂うのだが、ほとんどの場合、それを意識してもしなくても生活にそれほど支障がないので、自覚されにくい。また、人工物は人間の認識に基づいて作られているので、人工物の構造と人間の認識を一致させることはそれほど困難ではないが、このことは自然物には当てはまらない。
 人間は、おそらく地球上でもっとも複雑な自然物であり、特に人間の意識や心理、感情は複雑である。法律はそのような人間の行動を対象とするので、法律の適用は難しい。人間は簡単に事実を認識できるものではなく、陪審制は人間の認識に対する長年の不信の産物である。
 
問題を解決する能力
 未知の山の登山は数学の応用問題を解くのに似ている。未知の山の登山では、現実の山を直視し、過去の経験や知識を踏まえて自分の頭で考えることで、それまで見えなかったルートが見えてくる。
 岩登りでは、自然の岩を観察し頭の中で岩壁に「補助線」を引き、過去の経験に基づく「公式」や「定理」をフルに活用して、ライン(登攀ルート)とムーブ(動作)を考える。切り立った岩壁で重力に反してそこを登ることができるのは、手足の位置と身体のバランスと重力の微妙な関係による。数字に基づいた計算ではなく経験に基づいた計算を頭の中で瞬時に行う。ラインとムーブが自然の法則に適っていれば登れるが、それに反すると重力の法則に従い、落下する。ヒマラヤ登山では、生存することが最大の課題であり、自分の命を守る方法を自分で考えなければならない。
 登山家やクイライマー、冒険家は、一般のイメージと異なって、あらゆる可能性や危険性について緻密に考える。登攀で使用するトイレットペーパーは、通常、事前に「芯」を抜いておくが、登攀は数グラムの軽量化の闘いから始まる。このような緻密さがなければ、危険な登山や冒険は単なる無謀になる。
 学校で出題される数学の問題には必ず正解があるが、未知の山や冬山には正解はなく、問題が解けるとは限らない。正解がなく、解き方を自分で考えるからこそ、面白い。この点で、ガイドブックに従って登山道をたどる登山は、問題の解き方を教えてもらって正解をたどるようなものであり、考える面白さはない(もちろん、自然景観、動植物の観察、運動、気分転換などはある)。
 中国地方の大山の北壁には約20本の登攀ルートがあり、今まで、冬の大山に50回くらい登った。崩壊の激しい大山の北壁ではルートが毎年変化し、その時々で雪や凍結の状態が千差万別である。雪と泥の凍結の程度とアイゼンの突起で保持できるバランスの加減、身体の体重移動の仕方、アイスバイルをどこに打ち込むか、どこにハーケンを打つか、岩の突起の形状・角度と手の位置・加重の微妙なバランスなど、あらゆることを瞬時に考えなければならない。
 大山北壁を登攀すると、縦走路のある稜線を経て頂上台地に出る。天候が悪い時には、頂上台地では、体重の軽い女性などは1人ではまともに歩けないくらい強風が吹く。風雪で視界のない時には、頂上台地では迷いやすい。風雪が強い場合には顔を上げることすらできず、数メートル離れただけで仲間を見失う。大山に慣れているという過信と油断から、地図や磁石を持っていても、通常、それらを見ることはない。北壁側に落ちないように気をつけつつ、多少迷いながら下山することは珍しくない。
 もともとルートのない山岳地帯を滑る山スキーでは、ルートは迷いながら自分で探さなければならない。ある時、一緒に山スキーをした人が、後で、「迷ってばかりで、大変だった」と言ったが、私は、「何の問題もなく、順調にいった」と考えた。2人の感想は矛盾していない。2人の考え方が違うだけである。
 未知の山や冬山では迷うことは問題ではない。迷いながら問題を解決するからこそ、面白い。誰もができない困難なことほど、登山家や冒険家の意欲をかき立てる。山で遭遇する困難を解決できないこともあるが、できるかできないかはやってみなければわからない。問題の解決は知識や経験が前提になるが、多様性と個別性が自然の本質であり、自然の中では知識や理屈が想定している条件と現実の条件がすべて微妙に異なる。したがって、問題を解決するためには、「現実」に応じて自分で考えることが求められる。
 問題を解決する能力は、そのような訓練をすることで初めて身につく。登山の場合には、未知の山で、自分でルートや危険の回避方法を考えながら登るという経験が訓練になる。遭遇する困難はすべて異なるので、過去の経験を類推しながら自然から謙虚に学ぶことが必要である。
 小さい頃から、自分で考え、判断する訓練によって、問題を解決する能力が身につく。しかし、常に、正解を見つけ、正解に従う訓練ばかりしていたのでは(それは、学校ではテストや規則と呼ばれる)、真に問題を解決する能力は身につかない。正解のないことはテストの対象にしにくく、テストでは一定の時間内に正解にたどりつくかどうかが試される。テストの偏重は正解の偏重をもたらし、正解がないと不安になる人間を生みだす。人間の思考は正解、規則、常識、マニュアルの前で停止する。正解偏重人間は、どんなに能力があっても危険な登山では役に立たず、有害である。
 今の経済はナレッジワーカー(問題解決に立ち向かう自律型社員)を求めていると言われるが、それにとどまらず、人間の生活そのものに問題解決能力が必要である。

生きる力
 自然は生命力の源である。
 ヒマラヤの高所では、高度、寒気、強風、薄い酸素や険しい地形などの過酷な自然条件のもとで、人間の心臓や肺、血管、筋肉、頭脳などの機能を極限まで使う。生命力は生物の本質であるが、生物としての機能を十分に発揮することで、生命力も発揮される。厳しい自然環境が筋肉や神経を刺激して細胞の持つ潜在的な能力を喚起し、それが人間の意識に反映して「生きている実感」を生む。
 他方で、都会では、人間が持っている生物としての能力を発揮する機会が少ない。乗り物に乗って移動すれば、人間の心臓や肺の本来の能力の一部しか使わない。人間は歩かなければ、「移動する能力」が低下し、この点は、他の動物も同じである。人間は歩かなくなれば、やがて歩けなくなる。考えなくなれば、やがて考えることができなくなる。都会の人工的な生活環境のもとでは、雨、風、寒気、雪、熱射などの厳しい自然条件から保護されているので、これらの自然条件に耐える身体的能力を要求されない。また、これらの自然条件から自らを守るための創造性を要求されず、それを考える能力が低下する。文明の便利さは、ある意味で人間の持っている能力を発揮する機会を人間から奪い、普段使うことのない人間の能力は低下する。
 都会では、人間は、無意識のうちに、地位、名誉、肩書、知識、規範、文明の利器などの人工的なものに包まれて生活しているが、厳しい自然の中では、そんなものは何の役にも立たない。そこでは、地位や名誉、肩書や文明の利器などを取り去った後の生物としての人間の能力が試され、本当の自分の姿を知る。自然の中では都会と違って、経済的利益に関係する能力ではなく、「生物としての能力」が要求される。もちろん、「生物としての能力」には個人的な「格差」があるので、「格差」に見合った行動が必要になる。「格差」を無視した行動や、「生物としての能力」の優劣を競う競争は、危険な登山では死につながる。
 同時に、それまで自分でも意識することがなかった多くの潜在的な能力が人間に備わっていることを知る。食う、寝る、遊ぶ、生きる能力などがそれである。子供は何もないところでも自分の手足や石、土などを使って遊び、犬はじゃれ合って遊ぶように、子供や動物には生まれつき遊ぶ能力が備わっている。自然の中では、大人の遊びは、それ以外に遊びようがないので、子供の遊びに近づく。自然の中では、眠ることや食べることは、生きることを意味する。
 マイナス20度の強風が吹き荒れる中で生命体以外の万物が凍りついても、人間の細胞は生きるために本能的な努力をし、体温を維持しようとする。人間の意識に関係なく、生命体には生きようとする本能がある。死と隣り合わせの行動をする登山家やクライマーは、皆、自らの生物としての生命力を自覚している。生存に対する強烈な意欲と緻密な自信がなければ、危険な登山や冒険はできない。「山岳作家」と称される新田次郎は自殺願望のクライマーをしばしば登場させたが、それは単に作家自身の経験の欠如と無知に基づくもので、事実はその逆である。生きる力は人間が生物として生まれつき持っている能力であるが、都会の過度に人工的な生活環境のもとで、本来持っている生命力が低下する恐れがある。
 登山は「生物としての能力」に基づく行為であり、登山という心身の活動は価値の実現である。その意味で登頂できるかどうかはそれほど重要ではない。そのような登山体験による価値の実現という経験が人間の意識に反映し、生きる力を生みだす。
 引きこもり、無気力、家庭内暴力、子供の虐待、うつ病、過労死などは、さまざまな要因が関係しているが、人間の環境に人間の性質と相容れないものが生じたことが影響している。登山は人間にもともと備わっている生きる力を思い出させてくれるが、そのような経験は登山に限ったことではない。デンマークの「生のための学校」(「生のための学校」、清水満、新評論社)のようなシステムを考えることが、自然から学ぶことを意味する。人間の自然性を尊重する社会環境や社会のシステムを構築することによって、人間の生きる力を高めることができる。
 人間が本来の性質を失わないこと、すなわち、人間の自然性の保護は、価値観の多様性や個性の尊重、人権保障、民主主義の思想に結びつく。多様性や個性の尊重という言葉は高尚に聞こえるが、これらは自然界では当たり前のことである。自然には同じものは2つとして存在せず、危険な登山では人間の多様性や個性を無視すれば死につながる。自己決定や自己責任は自然界では生死の問題である。
 ルソーは「自然に還れ」と言ったことはないが、自然状態の人間を想定し、国家と人間の関係や教育のあり方を考察した。最初に「自然に還れ」と言ったのは古代中国の老子であるが、既に中国の古代都市で、一生の間、城壁の外に一歩も出ることなく思索に耽り、人生を終える階層の人たちが出現していた。
 
自然の感性
 自然の法則を認識するためには、そのような感性が必要である。アメリカの自然保護の父と言われるジョン・ミューアは、初めてヨセミテの自然に触れたとき、「空気はあまい飲み物のように肺にしみわたり、からだは感じることでいっぱいになり、全身がうちふるえる」と書いたが(「はじめてのシエラの夏」、宝島社、ジョン・ミューア)、これは自然の中の放浪生活から得た実感だった。「沈黙の春」を書いたレイチェル・カーソンも、自然と深くかかわる研究の中で、自然の感性の重要性を述べている(「センス・オブ・ワンダー」、新潮社、レイチェル・カーソン)。自然の感性の出発点はあるがままの自然を受け入れ、それに感動することにある。あるがままの自然に出会った時、人間の体内に宿る自然性が呼び起こされ、細胞や筋肉、神経などが喜びの声をあげる。
 自然の感性は経験を通して形成される。文字や映像はそれ自体が人工物であり、雰囲気、感銘、インスピレーション、味覚、触感、体感などの感覚的なものを言葉や映像だけで伝えることは不可能である。自然物である人間についても同じである。
 自然の感性の欠如の例として、三島由紀夫と芥川竜之介があげられる。三島由紀夫が初めてヨーロッパアルプスを見た時、そこに「抽象的な匂い」を感じようとし、「正確な稜線の計算」を探し、「何とかして地上最醜のもの」を見つけようとしたが適わず、「もはや美に期待しなくなった」(「日本アルプス」、みすず書房、宮下啓三)。三島由紀夫は意識的に「現実や存在を拒否」し(「太陽と鉄」、講談社文庫、三島由紀夫)、蛙の鳴き声すら知らなかった。三島由紀夫が構築した華麗な物語は、完璧に計算された虚構の世界であり、三島由紀夫は文学における天才的な錬金術師だった。
 芥川竜之介は人間の微妙な心理を技巧的な文章で描写することに才能を発揮したが、自然を描くことができなかった。芥川竜之介は、「槍ケ岳に登った記」の中で、岩小屋の石を「長いしかも乱雑な石の配列」、山を「頭のうえにおおいかかるような灰色の山々」、雷鳥の鳴き声が「人を呪うかもしれない」と書き、槍ヶ岳に登頂した時、「死のしずけさ」を感じたと書いており、要するに自然からほとんど何も感じなかった。芥川竜之介の作品の登場人物の心理は緻密に計算されていたが、芥川竜之介は文学という目的のために登場人物を操作したのであって、それは現実の人間ではない。
 養老孟司が、芥川竜之介は「丸善で育てられた」と述べていることは意味深い(「身体の文学史」、新潮文庫、養老孟司、「丸善」は芥川竜之介がよく利用した書店の名前である)。三島由紀夫の「金閣寺」、「音楽」、「仮面の告白」などは、いずれも「現実や存在を拒否」して構築された虚構の世界である。三島由紀夫と芥川竜之介には類稀な才能があったが、自然に対する感性の欠如という点で共通性がある。
 養老孟司が、三島由紀夫について、「個人というより社会現象である」、「その出現が先見性を持っていた」と述べたように(「身体の文学史」、養老孟司)、人工的な都会文化は、三島由紀夫的、芥川竜之介的人間を生みだす傾向がある。自然の感性は生に対する感性でもあり、2人の作品からは、その思想の当然の帰結として死が予見されていた。2人とも自殺したことは偶然ではない。
 あるがままの自然から学ぶ感性は、一般に大人よりも子供の方が優れている。と言うよりも、サン・テグジュペリが言うように、大人は自分が子供だったことを忘れてしまうのである(「星の王子さま」、岩波書店、サン・テグジュペリ)。
 
自然は曖昧である
 人工物は「明快」であるが、自然物には「曖昧さ」という性質がある。自然物については、曖昧なものや不条理なもの、よくわからないものを、あるがままのものとして受け入れる精神が必要である。
 崩壊しかかった脆い岩と泥混じりの砂礫が中途半端に凍結し、それが湿った大量の雪で覆われているのが、冬の大山北壁である。すっきりとした岩壁や均整のとれた雪壁とは無縁の、あやふやで、すべてが中途半端で理屈で割り切れないのが自然の姿である。「なぜ、そうなのか」と考えても、もともと自然はそういうものである。自然は基本的に不条理である。そのような人間の理解と想像を超えた自然は、あるがままのものとして受け入れることが必要である。危険な登山では、自然に対して「ねばならない」という考え方ではなく、次第に老子的な心境に近づいていく。
 自然物である人間も同じである。どんなに仲の良かった夫婦でも、年月が経過すれば、些細なことがきっかけで憎しみ合うことがある。長い年月の間に、人間の細胞は入れ替わり、細胞に伝達される情報は変化し、人間の意識も変わる。人間の心理や感情は理屈では説明できず、基本的に不条理である。離婚事件の当事者がこの点を理解していれば、紛争の解決が早いが、残念ながらそういう人は少ない。家族や親子の関係について、価値観、規範、道徳などに縛られると深刻な悩みや葛藤が生じるが、「あるがままの人間」を理解することが解決の糸口になる。
 三島由紀夫は深沢七郎の「楢山節考」を読んで、「恐い」という感想を持ったそうだが(「身体の文学史」、新潮文庫、養老孟司)、それは山に捨てられることを望む老婆と孝行息子の「計算不可能な関係」を受け入れることができなかったからだろう。「楢山節考」の老婆と息子の関係は不条理な人間の象徴であり、ある種の逆説的なユーモアの面がある。
 人間の不条理の最たるものは、生、死、病気、能力、好みなどである。人間はなぜ生まれ、なぜ死ぬのか、理由はない。自然物の個体差や人間の個性、資質、能力の「格差」も不条理であり、危険な登山ではこれらを無視すると死に直結する。自然物は画一性とは無縁であり、人工的な都会文化が効率や利益のために人間を画一的に扱う。
 自然物はその仕組みが完全にはわからないので、完全な管理ができない。この点が、仕組みが完全にわかっている人工物との大きな違いである。自然を支配しようとするのは、聖書(「創世記」)以降の人間の思い上がりである。
 人工的な都会文化のもとでは、自然の未知の危険性が理解されにくい。山岳地帯は本質的に危険であるが、登山方法によってはそれほど危険ではなく、危険性はその人に応じて内容と程度が異なる。都会では、「危険でなければ安全である」という二者択一の発想をしがちであり、客観的に「危険性」と「安全性」が存在するような錯覚が生じるが、何の変哲もない山の斜面で転倒して事故になることがあるように、危険はどこにでも存在する。2008年に神戸市内の河川の増水で5人が死亡した事故はその例である。自然をどんなにコンクリートで固め、安全管理をしようとしても、自然の危険性をすべて取り除くことはできない。自然の危険性に対しては、人間がそれを予見し、人間の判断で危険を回避する能力を高めることが必要である。
 人工的な都会文化は自然を安全管理することを要求するが、自然は「未知」や「人間の手が入らないこと」が本質なので、自然と危険性とは不可分である。遺伝子組み換えや化学薬品の問題性は、その危険性や副作用が「未知」という点にある。「未知である」ことは「危険性が解明されていない」ことであって、危険でないことを意味しない。自然の持つ危険性をどのように理解するかという点は、自然が関係する損害賠償責任の予見可能性を考える時に重要な問題になる。
 人工物はそのように作られているので、「正しい方法」があるが、自然物には「正しい方法」はない。自然も人間も多様だからである。人工的な都会文化のもとでは、人間を含めたあらゆるものについて「正しい方法」があるかのような錯覚が生じる。
 登山は基本的に計算できない世界であり、未知の山に登ることができるかどうかは、その時になってみないとわからない。計画を立てても、危険な登山では、計画通りにいくことはほとんどない。登山では、計画通りにいかなくても、「失敗」ではなく、単に、そのような事実が残るだけである。しかし、人工的な都会文化における競争は、あらゆるものについて予測可能性と効率を要求し、計画通りに成果が上がらないと、それは「失敗」であり、必ずその「原因」があると考える。「失敗」、「成功」、「原因」、「責任」は人間の意識の産物であり、それは人間の文化がもたらす価値観に規定される。
 養老孟司が言うように、「こうすれば、ああなる」というのが都会文化であるが、自然は「こうしても、ああなる」とは限らない。自然物は計算通りに動くものではなく、人間も同様である。人間のミスや勘違い、物忘れ、病気、事故、怪我、要領や能率の悪さなどが必ず生じる。人間は、その性質上、自然物としてのいい加減さから免れることができない。
 もともと、人間は完全な予測可能性や管理可能性に欠ける自然物であり、特に子供は自然性が強いが(「子どもと自然」岩波新書、河合雅雄)、人工的な都会文化のもとでは、大人の期待や愛情が子供を管理できるという錯覚を生じさせやすい。しかし、自然や人間には自然の法則があり、謙虚にそれを学ぶことが必要である。
 典型的な人工物である法律はものごとを「割り切る」世界であり、法律は、「曖昧なものや不条理なものを、あるがままのものとして受け入れる」ことを拒否する。裁判では黒か白か区分けをするが、現実の黒と白は無限の連続性の中の相対的なものであり、そのどこかに線引きをして黒と白を区分する。人の死、過失や故意なども連続性のある概念である。現実の人間の行動は千差万別であるが、法律はそれらを法律上の概念に区分し、分類する。
 法的知識のある人は、法的知識を前提に行動を選択できるが、法的知識のない人は、法的な意味を意識して行動しない。その結果、法的知識のない人の行動は法律的に曖昧だとされるが、当人は法律とは別の基準に基づいて行動しているのであって、意識のうえで行動の基準や意味は明確である。その点を理解しなければ、ヨーロッパアルプスを見た三島由紀夫、あるいは、「楢山節考」を読んだ三島由紀夫に似た状況になるだろう。
 
自然の可能性
 自然の仕組みは完全に解明されていないので、その可能性は未知である。
 かつて、8000メートル以上の場所では、人間は酸素ボンベなしでは生存できないと科学は考えていたが、1978年のR・メスナーのエベレストでの無酸素登頂によって、人間の創造性と意欲が科学の常識を見事に裏切った。
 平地における通常の人間のSPO2(血中酸素濃度)は100パーセントに近い値であり、SPO2が80パーセント程度では人間は集中治療室の中でなければ生存できない。しかし、ヒマラヤ登山では、SPO2が80パーセントでも激しい登山活動ができる。1993年に私は2か月間仕事をサボってヒマラヤで登山をしたが、私たちはパルオキシメーターでSPO2を測定し、SPO2が80パーセント以上では登山活動可能、70パーセントでは激しい登山活動をしないなど自分で体調管理をした。医者は、SPO2が80パーセントでは人間は生存できず、私たちの方法は医学的根拠がないと言う。しかし、現実に、私たちはその方法で登山を行ったのであり、医学が人間の可能性を認識できないだけである。人体が高度に順応することで、高所においてSPO2が低くても人間が生存できるというのが登山家の経験と常識であるが、大学の医学部の教授でさえ(あるいは、それ故に)、「考えられない」と言う(ただし、2009年1月8日のアメリカの医学雑誌に、エベレストの8400メートル地点で登山者から採血して検査した結果、高所でのSPO2の値が平地では人間が死亡するほど低いことが「初めて」確認されたという内容の医学論文が発表されたそうである)。
 自然の法則について科学はそのほんの一部しか認識していない。数字偏重の科学は、数字で確認できないことを否定する結果、自然の法則を認識できないことが多い。ヒマラヤの高所では、人間はほんの少し身心のバランスが崩れただけで生命の崩壊が生じるが、他方で、人間には驚くほど強靭な適応能力がある。このような人間の複雑な可能性は数値化できないために、数字偏重の科学には認識できない
 自然の法則に反する勤勉や努力、頑張りは、無益であるばかりか、危険である。ヒマラヤで高度順応をすることなく、いきなり7000メートルの高度(酸素濃度は平地の約3分の1)に行けば人間は死ぬというのが自然の法則である。高度への順応の能力は個人差が大きく、個人の能力に応じて科学的な高度順応の方法を考える必要がある。人間の個体差を無視して画一的に扱っても都会では直ちに死に結びつかないが、高所では死に直結する。
 自然の法則は簡単に人間にわかるものではなく、そのために多くの悲劇が生じる。極地探検と壊血病の関係もその一例である。極地探検の時代、まだ壊血病が知られておらず、多くの極地探検家が奇病(壊血病)で犠牲になった。やがて、果物や野菜を食べればこの奇病を防止できることが経験からわかってきたが、果物や野菜は長期の保存ができないという難点があった。壊血病と関係のあるビタミンCが発見されたのは、ずっと後の1932年のことである。ヨーロッパ人が探検した北極圏はイヌイット(エスキモー)の生活圏だったが、彼らは壊血病とは無縁だった。見知らぬ多くの白人たちがやってきて目の前で次々と倒れたというイヌイットの伝承が残されているが、これは1845年のイギリスのフランクリン探検隊137名全員が壊血病のために遭難・死亡した事件をさしている(「世界探検史」、白水社、長澤和俊)。イヌイットがアザラシなどを主食とするのは、極地にそれ以外の食べ物がないからであるが、それを生肉のまま食べるのは、野菜が育たない極地でビタミンを補給するためである。イヌイットはビタミンの存在を知らなくても、極地では生肉を食べなければ生きていけないことを自然から学んでいた。ヨーロッパの探検隊がエスキモーを「生肉を食べる人」と呼んで蔑視し、自然の法則に反したために自滅したことは皮肉である。
 その後、イヌイットはヨーロッパ文明の恩恵を受け、現在、生肉を食べるイヌイットはほとんどいない。野菜は空輸して簡単に手に入り、ほとんどのイヌイットは北極圏で都会同様の文化的な生活をしている。彼らに生肉を食べるという習慣は必要なくなったが、伝統的な文化や価値観の喪失という問題が生じた。1998年に私は1か月間仕事をサボってクライミングのために北極圏のイヌイットの島に滞在したことがあるが、そこには麻薬中毒、アルコール中毒、失業が蔓延していた。人間の文化は人間の可能性を広げると同時に、その内容如何によって人間の可能性を奪う。
 最近、「できるか、できないか」が自明のことであるかのように考え、できるかどうかわからないことはしない人が多い。法律相談の時に、「できるかどうかわからない」と言うと、「それでは、無理なんですね」と諦める人が多いことに驚く。あらゆることについて、出発点を終了点だと思い込む人が多い。現在の日本では、物わかりの良さが好まれ、しつこさや冒険が嫌われる。
 人工物については、その性能は人間が設計したものなので、「できるか、できないか」が最初から決まっているが、自然物については未知の部分が大きく、可能性も未知である。最初は不可能だと思えることが、訓練と努力により、あるいは、まったく偶然にできることがある。運、不運にも自然の法則がある。病気や怪我からの回復も人間の可能性に基づくのであり、それはしばしば医学の予想を超える。どんなに努力してもできないことがあるが、それは努力の内容が法則に反しているのである。人間は可塑性に富み、人間の行為の可能性は固定的なものではない。人間は自然物であり、「何ごとも、法則を見つければ実現可能である」ことを、自然が教えてくれる。このような可能性を考えれば、人間の資質や能力に「格差」のあることは問題ではない。人工的な都会文化の影響を受けた人間の意識が、人間の可能性を限界づけるのである(中国地方弁護士連合会会報「かがやき」に掲載、2009年)。
 
 


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