人間の主体性について─── 弁護士の雑感


1、法律的な行動だろうとそうではない行動だろうと、自分でものごとを決めるという主体性が人間を人間ならしめる。法的紛争の解決のうえで、自分で判断して意思決定することは、そんなに簡単なことではない。
 弁護士に紛争の解決内容をすべて委ねてもそれほど支障のない場合もあるが、離婚をするかどうか、退職するかどうか、契約を締結するかどうか、破産をするかどうかといった重大な事柄については当事者が自分で意思決定をしなければならない。
 弁護士の立場では、弁護士の指示に服従する依頼者は扱いやすい。他人を自分の思い通りに支配することはある種の快感をもたらすが、他人を支配することは同時にすべての責任を負うことを意味する。
 自分で決めることは重要だが、自分で判断する内容が合理的であるとは限らない。巷にはテレビ、新聞、書物、風評などを通して大量の情報が溢れ、人間の頭の中を大量の情報が通り過ぎていく。さらに、人間の経験が知識として蓄積されるが、直接経験の機会はいっそう減る傾向にある。意思決定をするとき、どのような情報をどのように処理してその判断に至ったのかは意識されない。論理的に判断したつもりでも、あやふやな情報がその前提になっていることが多い。
 誰でも日常生活のうえで、いつ起きて、何を食べ、誰と会い、何を話すか、どのような仕事をするかなど、1日に何百回も意思決定を行う。そのような無数の意思決定の過程の結果として、結婚、離婚、売買、貸借、遺産分割、就職、事業方針の決定などの重要な判断が行われる。
 例えば、離婚の意思決定は、結婚して以降の夫婦間の無数の意思決定の集大成としてなされることが多い。「性格の不一致」とされるケースでは、離婚の理由は1000も2000もあり、言葉で表現することはおそらく難しい。「なぜ、離婚するのですか」と尋ねると、結婚して以降の物語が何時間にもわたって展開されるのは、ある意味では当たり前なのである。「不倫が離婚の原因である」とされる場合でも、論理的に考えれば、1+1=2のように不倫が離婚を帰結するわけではない。不倫の事実が配偶者の感情に作用し、複雑な脳の経路を経て初めて離婚が浮上するのである。人間の行動に関する限り、原因と結果の関係は人間の意識が生み出すと言ってもよい。人間の複雑な意思決定の過程を解明することは無理であるが、その過程を少しでも理解することは重要である。
 法律との関係で自己決定が論じられるのは、喫煙の自由や輸血拒否の自由といった自己決定を権利として構成できるかどうかについてであり、日常生活における意思決定の問題に関しては、あまり議論されない。自己決定を権利として構成できるかどうかという場面を離れた自己決定一般の問題は法律論ではない。しかし、弁護士としてはそのような場面で悩まされることが多い。
 私的自治の原則のもとでは、どのような意思決定をするかは各人の自由な判断に委ねられるが、人間が社会生活を送るうえで意思決定の内容は重要である。意思決定の内容が当人にとって不本意なものであれば、それを瑕疵なく表示するかどうかはあまり意味がない。
 近代市民社会では、人間が自由であることが合理的な選択をもたらし、それが自分の行動に責任を持つ根拠とされる。しかし、人間が自分の意思決定と行動を支配することは、そんなに簡単なことはない。
 
2、人間の意思決定に影響を与える要因として以下のものがある。
(1)権威
 「アイヒマン実験」という実験がある。これはアメリカのミルグラムという心理学者が、人間が権威に服従するかどうかを調べるために、行った実験である。アイヒマンはナチスで大量虐殺を行った幹部の名前である。実験者は被験者に対し、治験者に電気ショックを与え続けることを命じ、被験者がその命令を忠実に履行するかどうかをテストした。この実験で、人間は、自己の思想信条や意思に反して、簡単に権威者の指示に服従することが証明されたとされている(「支配と服従の倫理学」、羽入辰朗、ミネルヴァ書房、17頁)。ただし、これは限られた条件下での実験であり、それを一般化することは危険である。
 誰でも権威に弱いことは、わざわざ「アイヒマン実験」をしなくても、常識的に誰もが経験的に知っている。かつての日本では「長いものにはまかれろ」が当たり前のこととして通用していた。自分ではおかしいと思うことでも、権威者の意見になんとなく従ってしまうことはよくある。権威に従うことを自覚している場合もあれば、無意識のうちに権威者の考えが自分の意識内容に反映する場合もある。人間は生まれて以降、親、教師、書物、テレビなどを通じて、常に権威の影響にさらされている。自分の考えのうち、どこまでが権威の影響で、どこまでが自分の固有のものか区別できない。そもそも他人の影響を離れた固有の自分が存在するのか疑わしい。
 弁護士や医者は依頼者や患者に対し専門家としての権威を持っており、弁護士や医者の言うことに従う依頼者や患者は多い。政治の場面では、庶民の多くは、難しいことはわからないので役人と政治家に任せ、無関心になるという傾向があった。
 人間が権威に服従しやすいのは事実だが、人間の服従はさまざまな要因が関係している。権威の根底に一定の権力構造や社会経済的構造が存在している。エーリッヒ・フロムは、社会経済的要因が権威に服従する人間の心理を生み出すと述べる(「自由からの逃走」東京創元社、159頁)。「長いものにはまかれる」のは、権威のみならず、権力構造や経済的利害などが複雑に影響する結果である。
(2)権力関係
 権力という言葉は政治権力をイメージしやすいが、ここでは人間関係における力関係という意味で使用している。「内的転向論」(関根牧彦、思想の科学社、43頁)では、権力を「人が他者との関係の中で行使され、また行使する力の要素」としている。この本の著者が現職の裁判官であることは公知のことだが(関根牧彦はペンネームである)、著者は私の大学の先輩であり、学生時代に何度か話をしたことがある。このように権力関係を個人レベルで理解することは、意思決定という個人に関わる問題を考える場合には有用である。
 人間関係における力関係が人間の意思決定に影響する。「アイヒマン実験」は、被験者が実験者の命令に従うことを条件に、被験者にアルバイト料が支払うことが約束されており、その意味の力関係が存在する。
 弁護士と依頼者間には、依頼者が利益の実現のうえで弁護士に依存するという関係があり、その意味で弁護士と依頼者の間に権力関係がある。
 保険契約などでは、保険外交員を信用するあまり、保険外交員の勧めに従って契約内容を正確に把握することなく契約する人がいる。信頼、同情、愛情、激情などの心理状態が支配服従の関係をもたらすことは、珍しいことではない。交際中の金銭授受に関して、愛情が冷めた途端に、「金を騙し取られた」という主張をする人は珍しくない。愛情にはそれなりの力関係がある。
 取引先から頼まれて債務の保証人になる場合、取引先との間に一定の力関係が存在すれば、保証人になることを拒否しにくい。このような場合、保証人承諾の意思表示は法的に有効であるが、当人にとっては「本意」ではないことが多い。
 雇用する側は採用を拒否できる強い立場にあるために、採用される側が雇用条件について意見を述べることはほとんど不可能である。どんなに悪い条件でも採用される側は承諾するしかないが、それについて「同意した」と言われても、それは「本心」ではないことが多い。長時間労働を容認する法体系、賃金体系、仕事量、労働環境、人間関係のもとでは人間の意思に関係なく長時間労働が行われる。
 登山パーティーにおける力関係は簡単に依存関係をもたらす。冬山や岩登りなどの危険性の高い登山では、初心者を引率することはトラブルの原因になりやすい。
 力関係において「弱い人間」は、僅かな力で支配されてしまう。子供は親に対し弱い立場にあり、親が愛情という名のもとに権力的にふるまえば、子供を支配することは容易である。取調室における捜査官と被疑者の力関係のもとでは、「弱い人間」は簡単に虚偽の自白をしてしまう(「自白の心理学」、浜田寿美男、岩波新書、「取調室の心理学」、浜田寿美男、平凡社など)。権力関係における人間の弱さは、資力、年齢、契約関係、社会的地位、身体状況、習慣、愛情、信頼、性格、名誉、プライドなどによってもたらされる心理的なものである。 
 人間関係には必ず一定の力関係が存在し、それが意思決定の内容に大きく作用するが、このような力関係が「悪い」ということではない。愛情、友情、信頼感などに基づく力関係は悪いことではない。夫婦間で微妙な力関係のあることが、適度なバランスをもたらすことは多い。人間関係における一定の力関係を理解したうえで意思決定をすることと、そのような力関係を想定したシステムが必要である。
(3)利害関係
さまざまな利害関係が意思決定に影響する。その最大のものは経済的利害関係であるが、心理的な利害関係もある。
「長いものにはまかれる」のは、権威のみならず、権力構造や経済的利害などが複雑に影響する結果である。「アイヒマン実験」では、アルバイト料という対価が支配のために利用された。
利害関係に基づく意思決定は意識的な場合もあれば、無意識的な場合もある。裁判における証言では、証人に悪意がなくても無意識のうちに利害関係に左右されることが多い。利益への過度の執着心は無意識のうちに冷静な判断を妨げることが多い。「目の前の大金に目が眩んで間違った判断をする」ことは、しばしば昔話の題材になる。金銭的困窮や利益獲得に対する執着心の強い者ほど詐欺の被害に遭いやすい。
人間と人間の関係には必ずさまざまな利害関係があり、誰もがそういうしがらみの中で判断をする。
(4)知識
知識や経験の欠如は賢明な意思決定を阻害する。高校を卒業していても、分数、割合、パーセントを理解できない人がおり、簡単に多重債務に陥る。刑事事件で虚偽の自白をする被疑者は、法的な知識・経験の乏しい人が多い。クーリングオフの知識がなければ、クーリングオフ権行使の機会を失いやすい。知識や経験は適切な意思決定をするうえで必要であり、生きるために必要な知識を学校で教えることや、知識や経験を補完するために専門家を利用しやすいシステムが必要である。
 知識のあることと判断することは別の次元のことなので、知識があっても判断を間違えることは多い。
 常識、習慣、固定観念、流行、思い込みなどの既存の知識が人間の意思決定を制約することは多い。人間は未知の世界のことはわからないので、自分が住んでいる世界の制約を受ける。
(5)認識過程
 意思決定のためにはさまざまなことを認識することが前提になる。的確な認識ができなければ、的確な意思決定は難しい。認識は、目、耳、鼻、皮膚など人間の五感を通して行われるが、人間の感覚はあまり当てにならない。人間が認識した内容を言葉に変換し、言葉を通して認識する場合には、言葉を認識するのであって事実を認識するとは限らない。
認識は、認識主体が受動的に受け入れる過程ではなく、認識主体の意識内容が認識内容に反映する。意識していなければ音は聞こえず、見ようと思わなければものごとは見えない。思い込み、偏見、感情、経済的執着などが、しばしば認識や判断を妨げる。
認識は思考に左右される。危険性の認識は「こうすれば、ああなる」という因果法則の認識であり、これは経験と思考に基づく。登山経験の程度に応じて危険性の認識が異なるが、さらに考えることで、自然の持つ因果法則を深く認識できる。
 前記の「内的転向論」では、著者は、かつては「目を閉じれば世界はなくなるんじゃないだろうか?」(「内的転向論」、23頁)と考えたが、その後、著者は、「目を閉じて見る世界は、この私達の日常の世界、小さな政治の世界と無関係ではないのかもしれない」と考えるようになる。目を閉じても想像力によって世界は見えるが、それは認識主体の主観を反映した現実のメタファー(隠喩)である。心理的防御が強い場合には、自分に都合の悪い事実を見ることを回避し、自己欺瞞が生じる。誰でも、自分に都合の悪い事実は見たくないものだ。現実を直視せず、想像力を使って見るならば、人間の意識は現実には存在しないものでも見ることができる。完全に関係が破綻してもなお配偶者が戻ってくることを期待する人など。
 エーリッヒ・フロムは、人間の心理に社会経済的な構造が反映すると述べており(「自由からの逃走」、東京創元社)、社会が変われば心理や意識も変わる。人間が「当たり前」と考えることの多くは、社会的なものが人間の心理に反映したものに過ぎない。日本に弁護士を利用しやすい制度ができれば、弁護士の利用に関わる市民の意識も変わる。江戸時代や明治初期に訴訟が激増したが、その後、訴訟の抑制政策がとられ、訴訟件数が減少したように、制度次第で訴訟に対する人間の意識が変わる。「日本人は訴訟よりも調停や話し合いを好む」と考えるか、ホッブズの言うリバイアサン的人間像を想定するかは、現実の人間を見るしかない。「目を閉じて見る世界」は判断者の主観を反映した現実のメタフ
ァーであり、村上春樹の「海辺のカフカ」や「1Q84」などの小説の世界に限った方がよいだろう。
(6)思考
 主体的な意思決定は、考えることが前提になる。
 「アイヒマン実験」では、実験者の命令と自分の考えの葛藤に悩む者と、まったく葛藤なしに機械的に実験者の命令を遂行する者がいた。それは、残虐なことを実行することに対する葛藤の有無である。
 アイヒマンは、ヒトラーの命令に基づいて大量虐殺を行う時の技術的課題以外にはほとんど興味を示さなかった。細かい技術的問題や手続に対する過度の関心は、行動の意味に対する思考の停止をもたらしやすい。カフカの「流刑地にて」(「カフカ短篇集」、岩波文庫)という作品には、流刑地で囚人を自動的に処刑する機械が登場する。処刑を担当する将校が主人公の旅行者に対し、囚人にできるだけ苦痛を与えながら効率よく処刑するために自動処刑機に多くの工夫をこらしたことを延々と自慢する。この小説は1914年の作品であるが、細かい技術的問題に対する強い関心と結果の残虐さのアンバランスの異常性という点でアイヒマンの行動と共通する。「流刑地にて」から核兵器の製造を連想することもできよう。
 知識や理論は考えるための道具に過ぎない。何も考えずにひたすら知識と理論の修得に努める人間の中から、自動処刑機の考案者が生まれる。
 子供は考える力が未熟なので、簡単に他人の意見を受け入れ、他人の意見に同調しやすい。大人の場合でも、考える力が弱いければ、権威や権力に服従しやすい。逮捕された被疑者に対し、「何か質問がありますか」と尋ねると、「例えば、どんなことですか」と問い返す者がけっこういる。ある大学生の多重債務者に「どうして多額の借金ができたと思いますか」と尋ねたところ、しばらく考えた後に、「たぶん、金を借りすぎたからだと思います」と答えた。
 多くの場合、集団行動への服従は無意識のうちに行われる。イジメや村八分では、おかしいと思いつつやむを得ず参加する者よりも、確信犯として参加する同調者の方が多い。「集団の和を乱す者は、差別されても仕方がない」、「わがままだから、皆で懲らしめているのだ」という感情などがその例である。
 考えることは本質的に論理的思考を含むが、権威や権力への服従は論理的な思考を排除することから始まる。犯罪者集団や狂信的な宗教も人間の思考力の欠如を利用する。
 ヒトラーは人間を冷静に観察して研究し、人間の心理をよく理解していた。ヒトラーは著書の中で次のように述べる。宣伝は人間の知性ではなく感情に向けるべきこと、大衆の理解力や記憶力が小さいこと、宣伝は重点を制限し、短いスローガンとして継続的に行うべきこと、もっとも簡単な概念を何千回も繰り返さなければ大衆は覚えないこと、宣伝は主観的で一方的なものであり、理論や真理の客観的な探求とは無縁であること、大衆は動揺して疑惑や不安に傾きがちな子供であること、大衆の圧倒的多数は冷静な熟慮ではなく感情から行動を決めること、大衆の感情は「正か不正か、真か偽か」のように非常に単純で閉鎖的であること、組織は最高の精神的指導者と数多くの非常に感激しやすい大衆から成り立つべきであること、人間は群れをなすと安心感を得ること、扇動者は心理研究家でなければならないこと、大衆暗示の魔術的影響への屈服など(「わが闘争」、ヒトラー、角川文庫)。日本でも、似たようなことを実行した政治家や教団の教祖がいる。
 意思決定をするためには自分で考えなければならない。人間はそのように育てられなければ、考えるようにはならない。自分の考えは「自己」から発生し、それは思考主体としての意識の活動状態である。「人間は考える葦である」(「パンセ」、パスカル)という言葉にあるように、人間は考えることによって他の動物から区別され、考えることで人間となる。
(7)自己責任
 意思決定は、その結果について自分で責任を負うことを意味する。
 家庭での児童虐待の兆候を学校側が把握しても、児童虐待の確認ができるまで児童相談所や教育委員会に連絡をしない校長が多い。学校でのイジメの兆候があっただけでは学校はなかなか動かない。事件や事故が起きて初めて学校の管理職が意思決定をする傾向があり、通常、それは手遅れを意味する。モンスターペアレントに対しても、自分の権限と責任において決断できない校長が多い。権限のある者が意思決定をすることは、自分の行動に責任を負うことを意味する。
 確実に「こうすれば、ああなる」のであれば、人間の判断は不要である。結果に対す不確定要素のある場合に判断が必要となるのであって、判断には常に判断ミスの可能性がつきまとう。イジメの確実な証拠を見つけるまで対処しないことにすれば、学校側の判断ミスは生じないが、それではイジメによる被害を防止することはできない。
 意思決定は、不都合な結果や判断ミスがあってもすべてを受け入れる責任感と、人間のミスに対する他者の寛容の精神が前提である。責任という言葉は当然には非難の意味を伴わないが、自己責任という言葉は、当人を非難する意味で使用されることが多い。そのため、自己責任に対する拒絶感が生じやすい。本来、責任(responsibility)は支配可能性を前提としており、自分の支配可能な範囲で自分が責任を負う自己責任は当たり前のことである。当たり前のことを表現する言葉は発達しないので、欧米では、責任という言葉があるだけで自己責任という語法はないようである。また、日本は、山岳事故に対する非難に見られるように、人間の主体的な行動に対する寛容の精神が乏しく、人間のミスに対して厳しい国である(日本は過失犯の処罰の範囲が広い)。
 第二次太平洋戦争中にリトアニア領事だった杉原千畝は日本政府からユダヤ人難民にビザを発給してはならないという命令を受けていた。しかし、杉原千畝は、激しい葛藤の末に人道的見地から領事の権限と責任において多くのユダヤ人に、日本への入国を認めるビザを発給した。ビザを取得したユダヤ人はリトアニアを出国でき、ナチスの虐殺を免れた。組織の命令と内面的な価値観の対立は古典的なテーマである。ここでは、当時、杉原千畝の発給したビザに基づいて、ユダヤ人の日本への入国に協力した外務省の同僚や、杉原千畝の行動を黙認した外務省の上司がいた点が重要である。杉原千畝がユダヤ人にビザを発給したのは1940年のことであり、その後、杉原千畝はビザ発給の責任を問われることなく、チェコスロバキア、ドイツ、ルーマニア領事として勤務を続け、そこで終戦を迎えた。もし、当時の外務省が杉原千畝のビザ発給行為の責任を問うのであれば、すぐに領事の職を解任したはずである。外務省は戦後になって杉原千畝のビザ発給を問題視し、1947年に杉原千畝は外務省を退職させられた(「六千人の命のビザ」、杉原幸子、大正出版)。組織のあり方次第で、組織における個人の主体的な行動を生かすことも殺すこともできる。優れた業績は、管理と統制ではなく、人間の主体的な意思と行動によってもたらされる。組織が優れた業績を残すかどうかは歴史が判定することであり、長い目で見れば、組織における個人の主体的な行動を生かすことが組織の発展につながる。
 うまくいかないことをすべて他人のせいにする人がいる。非行少年は、自分に不都合なことを親や教師、社会のせいにすることが多い。これは「他者帰責型人間」と呼ぶことができる。最近増えているモンスターペアレントやクレーマー、ストーカーなどもこれに属し、反社会性パーソナリティ障害的な人間である。このタイプの人間は自分の決定に責任を負わないので、自分よりも強い者の支配を受けやすい。裁判の当事者にもこのタイプの人間がおり、パーソナリティ障害(人格障害)に関する診断基準(「DSM-W-TR」、アメリカ精神医学会)の項目のどれかは、裁判の当事者に当てはまることが多い(診断基準の1つに該当するだけではパーソナリティ障害とはいえない)。
 俗な言い方をすれば、「自分というもの」を持っている人は、安定した意思決定をすることができ、自分が決定したことに責任を負うことができる。そういう人間は失敗することをそれほど恐れない。このタイプの人間は「自己責任型人間」、「自立型人間」と呼ぶことができる。夫婦関係が完全に破綻している場合、離婚を決断できる人と決断できない人がいる。故阿左美信義弁護士は、何年も別居状態にある夫婦の離婚訴訟の和解の時に、「離婚する決断のできない人間は結婚するべきでない」と述べた。名言である。
 自己責任を負うためには自分で決定する過程が必要であり、自己決定するためには自己の確立が必要である。その中には自尊心や倫理感、人間性なども含まれ、生きる意欲の前提になる。

3、主体的であること
意思決定をし、その結果を受け入れるのは自己であり、自己のあり方が意思決定のあり方を左右する。自己は、生物的な意味の身体や細胞とそれらから生じる人間の意識から成り立つ。自己は誕生以降のさまざまな影響を受けながら形成されたものの自己認識であり、人間が自己と考えるものは意識の世界に属する。
 他人や環境の影響を受けない自己はありえず、人間の生育過程や環境のあり方が自己の形成に大きく影響する。自己のあり方如何で精神的な不安感や神経症状などがもたらされる。現在、何をやっても不安で仕方がないとか、自分が本当の自分ではないような漠然とした不安を持つ人が少なくない。
 自己は、自分で決定したことを経験し、自分が他者から受け入れられるという自己確認の過程を通して形成される。人間の行動は意思決定と自己確認の連鎖であり、その蓄積が人生と呼ばれる。自己確認は他者との関係の中で行われる。自分の行為の意味は、他人との人間関係を通して、自分の行為に対する他人の反応の中で初めて確認できる。地球上に存在する人間が1人だけであれば、自己は意識されない。
 「自分で考えて行動する」ことは、結果がうまくいかない場合にそれを自分で引き受けるという自己責任の観念を必要とする。事故や病気、災害など人間の意思ではどうにもならない出来事があるが、それらを引き受けるのは自己以外にはない。
 自己決定と自己確認の稀薄な環境の中で育つと、自己の不安定感が生じやすい。学生の頃、私の周囲に、そのような不安から不安神経症になったり、新興宗教に入信する者がいた。オウム事件はずっと後のことだが、その兆しはその頃からあった。現在では死語になったセツルメント活動(地域の中で教育、法律、医療などの奉仕活動を行う社会運動)などのはなやかりし頃、現実を無視することのできない真面目さと、それに対処できるだけの自己を持たない学生は、さまざまな葛藤に翻弄された。当時、学生の間でベストセラーになった「二十歳の原点」(高野悦子、新潮文庫)もその例である。自殺した著者は、学生運動の波の中で「自分というものがないこと」に悩み、自分を「ピエロ」だと述べる。
 前記の関根牧彦氏は「内的転向論」の中で、学生時代の著者に「君はこうあるべきだ」と迫ってきた「活動家の友人や知人たち」のことを書いているが、この本を読みながら「ああ、これは先輩の○○さんらのことだな」と思うのだった。当時の青春の1ページの光景と記憶が、必ずしも快適とはいえない懐かしさを伴って甦ってくる。わざわざ本の中に書くくらいだから、当時の著者にかなりの葛藤があったのだろう。前記の「アイヒマン実験」の被験者の中に、「こうあるべきである」ことに関して葛藤する人とそうではない人がいたが、自己が稀薄であれば葛藤は生じない。確信犯も恐らく葛藤することはないだろう。その中間にいる人(多くの人がこれに属する)が、葛藤し、悩むのである。
 今の社会には人間が主体的であることを妨げるものがたくさんある。リースマンのいう「他人志向型」の社会では、娯楽すら集団への適応行動として行われる(「孤独な群衆」、リースマン、みすず書房)。競争や管理は人間の意欲よりも規則やマニュアルを重視する傾向がある。日本では、家族や地域での人間関係において自分で考えて行動し、その結果を自己の責任のもとに受け入れるという環境が稀薄であり、これが親族、親子、地域の人間関係をめぐる紛争の原因になりやすい。
 自己の形成過程が重要であると同時に、意識的な自己の回復とでも呼ぶべき過程が重要である。それは趣味を通じた人間関係や友人や家族などの自己確認を可能とする人間関係であり、組織や労働における人間疎外からの回復の過程である。
 カフカに「巣穴」(「カフカ寓話集」所収、岩波文庫)という作品がある。小動物である語り手が半生をかけて巣穴を作り、そこでの生活が安全ではなく、不安を感じながら、なおも巣穴から出ることができないという物語である。関根牧彦氏はカフカの「巣穴」を素晴らしい作品だと評価し、この作品には、「身を切る切迫感があり、このようにしか生きられないという絶対の生の形式がある」、「まさに、永遠の中で透視された私達の生の形式そのものである」と述べる(内的転向論」関根牧彦、思想の科学社、77頁)。この作品のそのような解釈に異論はないが、私は、「巣穴から出ても出なくても、どちらでもよいではないか。どうするかは自分で決めればよい」と考える。
 現実の社会には人間が生きるうえでの障害がたくさんあり、人間の意識が人間の生存を難しくする。「このようにしか生きられない」のは人間の意識の産物であって、野生動物はそのような「生の形式」とは無縁である。動物の主体性は本能であるが、人間の主体性は本能プラス思考力に基づく。人間の意識は既存の世界によって規定され、人間の意識には限界がある。人間の意識は既存の世界による支配の影響から免れない。人間の意識の限界を超える試みが冒険であり、巣穴から出ることもひとつの冒険である。冒険はその人の意識の限界を超える試みであって、そこに創造性が生まれる。ただし、冒険は人間の限界を超える試みではない。人間の限界を超える試みは失敗するが、冒険がその人の限界を超えるかどうかは、やってみなければわからない。冒険は人間の主体性の表現形式であり、動物は決して冒険をせず、創造性を持たない。
 巣穴の外に出れば確実に世界が広がるが、巣穴の外の世界も、地球や人間社会も、ひとつの巣穴である。人間には家族や家庭などの安心感の得られる巣穴が必要な面もある。どんな巣穴であっても、そこに人間の主体性があるかどうかが重要である。
 冒険をするかどうかは個人の自由であり、自分で選択したことが自分にどのような結果を招くかわからない。人間の選択には、必ず、病気、災害、偶発的事故など、運、不運がつきまとう。ものごとが想定通りにいかないからこそ無限の可能性があると言えるが、それが不本意な結果をもたらしやすい。そういう世界を不条理と言うことができるが、人間と人間の住む世界は元来そういうものであり、それが自然界である。その中で人間は意思決定をしなければならず、法的な意思決定もそのひとつである(2010年、広島弁護士会会報掲載)。