弁護士のボランティア的業務について      弁護士 溝手康史

ある電話
 時々、司法修習生から、「そちらの事務所で弁護士を採用する予定はありませんか」という電話やメールがある。先日も、ある修習生からそのような電話がかかってきた。「採用の予定はない」と返答すると、その修習生は、「自分は環境事件に関心がある。環境事件を一緒にやってくれる関西地方の弁護士を紹介してもらえませんか」と言う。
 通常は、弁護士が環境事件から収入を得ることは難しく、それらは弁護士の「ボランティア的活動」であることが多い。現状では環境事件や再審事件などで弁護士の生活費・事務所維持費を得ることができる司法のシステムがない。弁護士が環境事件や再審事件などを生活の糧を得るための手段にしようとすれば、弊害が生じるだろう。弁護士がこれらの事件を扱うためには、弁護士が生活の糧を得ることのできる「生業」を持つことが必要である。
 私は、その司法修習生に、弁護士会の公害・環境委員会や日本環境法律家連盟(私は一応所属しているが、何もしていない)の活動を紹介し、弁護士が環境事件を扱うのは、ほとんどボランティアであること、交通費や研究活動の費用がかかること、自分の生活を成り立たせることが先だと説明しておいた。

弁護士の生業とボランティア的活動
 私が弁護士登録したのは昭和63年であり、当時は、ほとんどの弁護士はどこかの事務所に就職でき、自分の関心のある仕事を何でも自由にすることができた。私が弁護士登録後に就職した広島市内の法律事務所は、労働、過労死、環境、公害、国家賠償などの事件を扱っていた(現在、その事務所はない)。その事務所は、収入につながるような事件が少なく、当時としてはイソ弁の給料の安い部類の事務所だっただろう。その事務所では弁護士費用を払えない依頼者が多く、弁護士費用に関して苦労することが多かった(当時は、法律扶助の対象者が今よりも限定されていた)。しかし、当時の私は収入のことはまったく考えなかった。弁護士という職業の安定性があれば、収入が少なくても、不安を感じないものだ。福祉の充実したデンマークでは、国民はあまり貯蓄をしないらしい。他方、日本では、老後に備えて貯蓄しなければならないという不安が生じやすい。弁護士の心理も似たようなものである。
 私は、弁護士になる前から登山をしており、弁護士登録後の平成3年にハンテングリ(7010m)とポベーダ(7439m)に登頂、平成5年にアクタシ峰(7016m、初登頂)に登頂をし、それぞれ、1か月半と2か月間仕事を休んだ。登山のために休暇をとれることが、事務所選択の基準のひとつでもあった。就職先を決める時、「余りにも忙し過ぎる事務所」は避けた。
 一般に、登山は趣味ないし遊びであって仕事とは関係がないと考えられている。しかし、私はその後、登山の法律問題に関して、雑誌や本の執筆、講演、国の委員会等の専門委員、山岳団体の顧問、山岳事故に関する相談・調査・研究活動などをしており、現在ではこれらは弁護士の仕事の一部である。ただし、これらは、膨大な時間と労力をとられる割には、得られる原稿料や手当等の額は少ない。無償の場合も多い。したがって、これらは「生業」ではなく、「ボランティア的活動」である。ボランティアは、「自発性」、「非専門性」が前提であるが(かつては、「無償性」も掲げられることが多かった。「ボランティア社会の誕生」中山淳雄、三重大学出版会)、上記の活動は、法律家としての仕事である点や半義務的なものが多いので、ボランティアそのものではなく、ボランティア的活動と呼ぶべきものである。日本では、専門家と非専門家、自発的なものと義務的なものを区別することなく、「ボランティア」という言葉が用いられることが多いが、それはvolunteerとは異なる。
 「生業」、「ボランティア的活動」、「ボランティア」の区別が微妙な場合があるが、考え方を整理するうえで、このような区別が必要である。ボランティア的活動は、無償の場合、交通費等の経費が支給される場合、経費+少額の日当が支給される場合などさまざまである。法律扶助事件や国選事件は、通常は弁護士の生業に属するが、経済的採算がとれない場合はボランティア的活動に属する(補足:売り上げから経費を引いたものが利益であり、利益が出なければ採算がとれない。弁護士の経費とは、事務所賃料、事務員の給料、弁護士会などの諸団体の会費、リース料、光熱費、交通費、広告費、書籍費用などであり、私の場合には、1時間当たり約5000円の経費がかかる。1時間当たり5000円以上の売り上げがなければ、利益が出ず、赤字になる。これは、サラリーマンでいえば、給料0円、借金生活を意味する。最近、弁護士の広告費が増えている)。
 従来、弁護士の仕事の対象として、訴訟、調停、破産、交渉、法的アドバイス、書類作成などが考えられてきた。弁護士が扱う仕事は、以前よりも拡大したとはいえ、法律を扱う仕事であること、有償であるということが前提とされる。弁護士が無償ないしほとんど無償で行う法律的業務は、弁護士の生業ではないが、弁護士の仕事に属する。しかし、法律的業務以外の仕事については、ほとんどの弁護士は関心を持たない。
 
ボランティア的活動の意義
 弁護士に限らず、どんな職種でも必ずボランティア的活動がある。ボランティア的活動の動機、経緯、内容はさまざまである。日本では、ボランティア的活動が公的サービスを補完する場面が多いが、有償の公務員と無償の民間人の共同作業がもたらす問題や、事故が起きた場合の補償問題などが生じる。
 主体的なボランティア的活動は、すぐれた業績を生み出すことがある。業績がすぐれているかどうかということと、利益をもたらすかどうかは、結びつくこともあるが、そうではないことの方が多い。ある仕事が利益につながるかどうかは、社会、経済、文化、政治的状況に左右され、運、不運もある。どんなにすぐれた仕事をしても、その仕事に対する経済的需要がなければ、収入は得られない。
 弁護士の主体的なボランティア的活動は、社会を変え、歴史を動かす大きな力になる可能性がある。利益と結びつく仕事にはさまざまな制約が伴い、自分のやりたいことができるとは限らないが、主体的なボランティア的活動では、自分のやりたいことを実現できる可能性がある。
 利益をもたらす仕事に人が殺到し、利益と無縁の仕事に人が集まらないことは、当然である。しかし、利益と無縁の仕事は、「利益に結びつく」という制限がない分、対象者の階層が広く、事件の内容も多様である。多種多様な人間と事件を扱うことは、苦労も多いが、人間と社会に対する科学的探求心を刺激する。そのような苦労は、10年、20年という単位で考えれば重要な意味を持つ。弁護士のそのような仕事のスタイルには、経済的、精神的な余裕と安定性が必要である。弁護士が自分の生活費と事務所の家賃を支払うことに汲汲としていては、10年、20年という単位でモノを考えるのは難しい。日弁連が推奨するプロボノ活動は、「ボランティア的活動」に似ているが、別の次元のものである。
 弁護士の「ボランティア的活動」の潜在的需要はほとんど無限にある。たとえば、法律の専門家のアドバイスを必要としている団体や組織は無数にある。環境・自然保護団体、スポーツ団体、PTA、自治会、子供会、学校、宗教団体、労働団体、消費者団体などの多くが、さまざまな法的な問題に直面する。あるいは、法的処理が必要な問題があっても、その認識がないことが多い。オリンピック選手を輩出するようなスポーツ団体ですら、コンプライアンスの観念に乏しい。
 大きな団体や組織は別として、小さな団体や組織は、通常、弁護士を顧問にしたり、弁護士に依頼できるだけの金がない。本来、この領域でも、弁護士が生計を維持できるだけの収入を得られる司法のシステムが必要だが、現在の日本はそうなっていない。団体は、司法支援制度の対象外である。そこで、これらは弁護士の「ボランティア的活動」の対象になる。零細企業のほとんどもそれに近い。無償で法的アドバイスをする弁護士は、どの団体でも歓迎されるだろう。国(法テラスを含む)や自治体も、しばしば、弁護士の「ボランティア的活動」を当てにする(国や自治体は、訴訟等で自らの責任が追及されたり、政治的な場面では多額の弁護士費用を使うが、市民への法的サービスに関する場面では弁護士の「ボランティア的活動」に頼る傾向がある)。弁護士会の委員会活動なども、「ボランティア的活動」に属する。たぶん、弁護士会の委員会活動に熱中すれば、それだけで弁護士人生をまっとうすることになるかもしれない。
 弁護士になればすぐに、すぐれた「ボランティア的活動」ができるというものではない。弁護士が環境団体に法律的なアドバイスをしたり、環境団体から受任するためには、自然保護や環境法に関する学識や弁護士としての経験が必要である。消費者団体や労働団体にアドバイスをするためには、一定の知識や経験が必要である。そのような知識・経験を身につけることはそれほど難しいことではないが、弁護士がどんなに努力してすぐれた法的サービスを提供しても、その団体に金がなければ、弁護士の収入につながらない。
 個人のレベルでも、 弁護士の「ボランティア的活動」に対する潜在的需要は無限にある。弁護士費用がタダであれば、誰でも弁護士を顧問にしたいと考えるだろう。
このような弁護士の「ボランティア的活動」に対する無限の需要に対し、何をどこまでするかは、結局、自分の限られた「人生の持ち時間」の配分の問題になる。
 弁護士の「ボランティア的活動」が成り立つためには、弁護士がそれ以外のところで収入を得ることが必要になる。従来は、弁護士が収入を得られる仕事が多かったので、弁護士がそれらの仕事で事務所を維持しながら、「ボランティア的活動」を行うことが可能だった。しかし、弁護士の増加とともに、その条件が年々厳しさを増しているように思われる。

弁護士の需要 
 平成13年の司法制度改革審議会意見書、法科大学院の創設、弁護士の数の急増、大学法学部や法科大学院の人気低下、法曹養成制度検討会議による司法試験の年間合格者数の見直しの提言など、司法をめぐる状況は変化が激しい。
 弁護士の仕事は、社会、経済、政治、制度の影響を受ける。明治8年に民事訴訟件数が32万件以上あり、明治16年には勧解(調停のような制度)が109万件あったが(日本人と裁判」川嶋四郎、法律文化社、101、108頁」)、その後、印紙制度の導入により民事訴訟が減少し、勧解制度が廃止された。当時の日本の人口は現在の3分の1であり、、当時の民事訴訟件数は現在の100万件に相当する。しかし、当時、これらが弁護士(代言人)の収入に結びつくことはほとんどなかった。
 大正の終わりから昭和の初期にかけて、弁護士の数の急増(大正12年には1年間で弁護士の数が35パーセントも増加した)と不況の影響を受けて、弁護士が経済的に困窮した。戦前の弁護士には、もともと法廷の内外で表現の自由がなかったが、経済的に困窮した弁護士は無力化し、やがて弁護士業は「正業」とは評価されなくなった(「職業史としての弁護士および弁護士団体の歴史」大野正男、日本評論社、125頁)。
 弁護士の仕事の需要は、社会、経済、政治、制度の影響を受ける。弁護士の数が増えただけでは、相談件数や訴訟件数は増えない。弁護士に紛争の解決が有償で依頼できるためには、それに応じた社会的、経済的構造が必要である。弁護士の「有償の仕事」は限られているが、前記のとおり「ボランティア的活動」は無限にある。弁護士の需要に関する議論は、しばしば、有償の需要とボランティア的需要を区別することなく行われる。日本の司法界では、このような非科学的な議論が当たり前のように行われてきた。大金と努力を費やして試験に受かっても、経済的処遇が悪ければ、そこに優れた人材が集まらないのが、人間社会の現実である。 
 弁護士の「ボランティア的活動」に対する潜在的需要は大きいが、それは弁護士の生活が成り立つことが前提である。この点はあらゆる職業に共通する。研究者の生活が成り立たなければすぐれた学問研究はできず、医者が生活費に事欠くようであれば、まともな医療はできない。ただし、生活が保障されれば、すぐれた仕事ができるというものでもない。
 従来、弁護士は、法律を扱う仕事に従事するのが当たり前だとされ、法律を扱う仕事に従事できなければ、「就職難」とされる。そこでは、弁護士の仕事として、@有償の業務であること、A法律的な業務であることが暗黙の前提になっている。
 あらゆる仕事は社会的な需要によって規定され、有償の法律的業務に対する需要は国民の購買力に左右される。弁護士が有償の法律的業務を「生業」とする限り、弁護士の数が国民の購買力以上に増えれば、弁護士の「就職難」が生じるのは当たり前である。職業に関する資格者の数は、需要とのバランスが重要である。また、有償の法律的業務の需要以上に弁護士が増えることは、弁護士の「ボランティア的活動」の基盤を崩壊させる。

弁護士の生業と自己実現
 従来、弁護士の生業の対象として、有償の法律的業務に限定する考え方が一般的だった。しかし、弁護士の生業はそれに限られるものではない。平成15年の弁護士法の改正により、弁護士は多様な職種との兼業が可能になった。ドイツでは新規に登録した弁護士のうち「本業」で生活できるのは18パーセントに過ぎない(「ドイツにおける弁護士の状況」、ペーターゴッドヴァルト、立命館法学308号)。ドイツでは、兼業やパートで弁護士の仕事をしている人が多い。アメリカではロースクールの卒業生のうち裁判官、検察官、弁護士になる者は約半分であり、残りは企業や役所などに就職する。彼らは「企業内弁護士」ではなく、「組織内法曹」と呼ぶべきだろう。
 弁護士の数が増えれば、弁護士の生業の対象を有償の法律的業務に限定することに限界が生じる。いずれ、日本でも、ドイツのように、弁護士の兼業が一般化すると思われる。ただし、日本の弁護士会の高額な会費が弁護士の兼業の大きな障害になる。弁護士会の高額な会費は、かつての「弁護士の兼業禁止」と「稼げる職業としての弁護士業」の時代の名残と言うべきだろう。
 従来、弁護士が有償の法律的業務以外の仕事を生業とすることは、弁護士のプライドが許さない風潮があった。かつての弁護士は、「武士」か「殿様」だった。しかし、今や、弁護士は「平民」である。弁護士がやりがいを感じる仕事は有償のものとは限らないし、生業は法律的業務でなくてもよい。
 仕事のやりがいや達成感は自己実現の過程で生まれる。自己実現を追求する者にとって、生業の内容は自己実現のための条件でしかない。登山家は、登山以外の生業で生計を立て、登山で自己実現をめざす。もし、登山が生業になれば、制約が増えて自己実現が難しくなることが多い。弁護士は、兼業弁護士や、会社員、公務員として生計を立て、弁護士としての自己実現をめざすことが可能である。フルタイムの弁護士だけが、弁護士のスタイルではない。法律事務所にイソ弁として雇用される形態や、事務員を雇用する開業弁護士は、歴史的に形成された弁護士の仕事のスタイルのひとつに過ぎない。固定観念にとらわれなければ、世界が広がる。弁護士の「ボランティア的活動」の需要が無限にあるということは、同時に、無限の可能性を意味する(この点は、弁護士に限ったことではない)。
 自己実現に関して、日本では、仕事が自己実現の対象でなければならないかのような風潮が強い。医者や弁護士は自己実現の対象たる職業の例にあげられることが多い。「13歳のハローワーク」(村上驕A幻冬舎)に象徴されるように、「自分のやりたいことを職業にしよう」という考え方が強調される。学校教育の場で自己実現が強調され、それが職業に結びつけられる。「自分のやりたいことがわからない」と言って、転職を繰り返したり、引きこもる若者が少なくない。しかし、自己実現の対象は、「収入の対象としての仕事」以外のところにあることが多い。「収入の対象としての仕事」には、収入を得るためのさまざまな制約があり、しばしば「自分のやりたいこと」を犠牲にしなければならない。労働を過度に美化する日本の社会では、仕事と自己実現を無理に結びつければ、過労死につながりやすい。
 マスローは、自己実現できる人間は人口の1パーセント以下だと述べるが(「完全なる人間」A・H・マスロー、誠信書房、258頁)、少なくとも、収入を得る仕事で自己実現できる人は極めて少ないだろう。実業家、研究者、政治家、芸術家には、仕事と自分のやりたいことが一致する人がいるが、多くの人は、人生のほとんどの時間を、収入を得るための義務的な労働に追われる。しかし、その中でほんの僅かでも自分のやりたいことができれば、充実感や達成感が生まれる。収入を得る仕事で充実感や達成感を感じることはあるにしても、経済的採算という枠の中での行動に限界がある。誰でも本当に自分のやりたいことをしようとすれば、採算を度外視することにならざるを得ない。それは、しばしば、ボランティア的活動になる。
 マスローは、自己実現の過程でしばしば「至高経験」が現れると言う。「至高経験」は、最高の幸福と充実の瞬間であり、自己合法性と自己正当性の瞬間、それは手段ではなく目的であり、評価を伴わない自我超越的、自己忘却的瞬間とされる(「完全なる人間」A・H・マスロー、誠信書房、92、99、100頁、「人間性の心理学」A・H・マスロー、産業能率大学出版部、246頁)。かつて、7000メートルを超えてから3日間、ほとんど食べることができない状態でかろうじてポベーダ(7439m)に登頂した時、それに近い感覚を経験したことがある。残念ながら、仕事では、まだ、そのような経験をしたことがない。自己実現の対象としての弁護士の仕事は、有償的な業務だろうとボランティア的業務だろうと何でもよい。 (広島弁護士会会報95号、2013)。