書評 「絶望の裁判所」、瀬木比呂志、講談社

 元裁判官が裁判所の内実について書いた本は少なくないが、その多くは、婉曲に書いたり、歯切れが悪かったり、どこかにためらいがあることが多い。誰でも自分のプライドが傷つくようなことは書きたくないという面もあるだろう。しかし、この本は、まったくそのような点がない。すべて赤裸々に書いていることに驚かされる。
 裁判所は、「精神的な収容所群島」であり、「骨の髄からの司法官僚」が最高裁判事になっていく。高慢で、嫉妬深く、プライドが高いが、幼児性のある裁判官、思想信条の自由が保障されず、上から統制される裁判官、自分でものを考えようとする裁判官を排除する組織の実像などが生々しく、大胆、かつ、けっこう具体的に、描かれている。従来から、他の元裁判官の断片的な発言や文章から推測されたことではあるが、ここまで具体的に(判決の心証形成過程などを含めて)書いてあると、思わず、「そこまで書いて、大丈夫?」と心配したくなる。しかし、読む者には、非常に興味深く、不謹慎だが、面白い。それは、その内容だけでなく、そのように書いてあるからである。一般に、法律家は面白くも何ともない無味乾燥の文章を書く能力にやたらと長けているのだが、この本の文章は法律家らしくなく、巧みである。

 このような組織は、異端者を排除し、同質的、役人的な裁判官を純粋培養する閉鎖社会を形成する。強固なヒエラルキーに順応する裁判官にとって、不満はあっても自分を守ってくれる居心地のよい組織なのかもしれない。しかし、ひとたび、自分で真剣に考えようとする人間にとって、このような組織は息苦しいムラ社会になる。人一倍鋭敏な感受性と想像力を持った著者には、裁判所の閉鎖的な空気が耐えられなかったのだろう。優秀な人材や多様な考えの持ち主は、ムラから出ていくしかないのだろう。組織は、ますます同質的になり、強固な一枚岩を形成し、組織を維持することが自己目的となる。

 同じ事実に接しても、それを認識する内容は主観性を免れない。「言いたいことが言えない」閉鎖組織でも、それほど自己主張しない者には、けっこう居心地がよかったりする。人間は、慣れれば、感受性が麻痺する。多くの裁判官は、この本の内容に反発するかもしれない。「組織に残っている者のことを少しは考えろ」と。あるいは、「裁判所から出た者のヒガミだ」と。しかし、そのような日本的な組織中心の考え方が組織の改革と発展を妨げる。どんな組織でも、組織を維持することに恩恵を感じる多数の者によって支えられている。裁判官に限ったことではないが、専門家の住んでいる世界は驚くほど狭い。原子力学会や電力業界なども同じ。狭い世界で激しい競争をし、毀誉褒貶を繰り返している。長年狭い世界に住んでいると、人間性も狭量になるようだ。井戸の中にいては、井戸全体が見えない。組織を外部からチェックすることが必要だが、著者は、おそらく、組織の中にいながらにして「組織の外からの視点」を持っている。アウトサイダーの視点。これは、裁判所以外の世界を知る者、世界の多様性を知る者でなければできない。そんな裁判官は少ない。

 民主社会は多様性が必要であり、この点は裁判所も同じである。裁判所にも、いろんな人が人間が必要なのだが、近時、裁判所の同質性に向けた管理強化の傾向が強い。その方が管理する側にとって都合がよい。しかし、これでは、最高裁がこけたら皆こける。人間は誰でも必ずどこかで判断ミスを犯すのであり、最高裁といえども例外ではない。人間や組織が判断ミスを犯すことが問題なのではなく、それを是正できるシステムのあることが重要なのだ。「金太郎飴」と「集団的無責任」は危険である。戦前は国家無答責だったが、今は、裁判所無答責である。トップの考えに従うことは楽だが、それでは誰も真剣に考えなくなる。最近、「悩まない」裁判官がけっこういる。判断ミスを是正するシステムとは、最高裁判決について、裁判所の内外で自由に議論、批判をすることである。また、違憲判決と行政訴訟によって、行政の判断ミスを正すことができる。違憲判決がほとんど出ず、行政訴訟が極めて少ない日本の司法は異常である。司法と行政が一体化すれば、司法の存在理由が稀薄になる。この本は、そのあたりのことを考える手がかりになる。集団の中で人々の善意の組織的行動が、いつの間にか歴史上の大きな失敗をもたらすというのが、人類の苦い歴史的経験である。閉鎖的な組織に風穴を開ける人間が必要であり、「出る杭」が必要である。そんな印象をこの本から受ける。

 司法のあり方に関心のある者には非常に面白い本だが、そうではない人は、この本に反発するかもしれない。この本で書かれたような内容は、日本のどこの会社、役所、団体、ムラ社会でも日常茶飯事であり、もっとひどい実態がある。傍若無人のワンマン的管理職やトップの不正や汚職、談合、セクハラ、暴力、暴言、陰湿なイジメ、村八分など。上司に文句を言ったり、営業成績が悪ければ、「明日から来なくてよい」と言う経営者も多い。解雇が無効というのは法の世界の話であって、日本に法の支配はなく、ほとんどの者は弁護士などに相談しない。国の高級官僚のエリート意識、国民蔑視、偏見、差別観、野心、俗物性、法令無視、法の支配の欠如、家庭内暴力。日本を代表する公的なスポーツ団体でも、内実は、田舎の村落団体の野合の談合のレベルでものごとが決まる。八百長がなければまだ公正な方だろう。裁判所はタテマエが通用するので、まだマシである。日本の社会のあらゆる組織・団体に憲法上の自由と法の支配がなく、社会全体が開放型の刑務所のようなものである。
 裁判官の転勤のどこが問題なのかというマスコミ記者の純朴な質問に、この点がよく現れている。日本の社会では、理不尽な一方的な転勤が日常化しており、法的紛争にすらならない実態がある。
 また、生活するだけで精一杯で、本を読んだりものを考える時間的余裕のない人にとって(そういう人はこの本は読まないだろうが)、この種の問題意識よりも、高収入の裁判官に対する羨望と反発の方が勝るだろう。この本のエリート臭さが鼻につく人もいるだろう。誰でも、生活環境の違いの影響を免れない。「裁判官を特別視するのは、エリート主義だ」という意見も、当然、出る。
 
 裁判所といえども、日本の社会が持つ価値観の影響から無縁ではありえない。経済のグローバル化に伴う管理の強化は企業や役所を含め、社会全体に浸透している。裁判所もその例外ではない。しかし、司法は、法の支配の最終的な番人であり、企業や役所に法の支配を徹底させる役割を持つ。その裁判所が企業や役所と同じことをしていては、もはや「絶望」と言うほかない。裁判所の中で、思想信条の自由、表現の自由、学問の自由などが保障されなければ、裁判所は、日本の社会でこれらの自由を保障させることはできない。一般社会では、競争、管理、左遷、差別、賞罰、官僚制、経済的効用の重視などが蔓延しているが、裁判所もそうなってしまえば、公正な裁判を実現できない。
 日本では、庶民の間で、事件や事故の裁判に関して裁判所や弁護士を非難して「そんな司法はいらない」(行政が代替すればよい)という感覚の人(理屈ではない)が少なくない。他方で、国民の行政に対する不信感も強い。NHK会長の発言についても、法の支配の視点からの報道は一切ない。日本の社会でいかに法と司法が軽視されていることか。国民の役所への依存心が強ければ、司法はますます軽視され、ますます司法がパターナリスティックになり、司法と行政が一体化する。国民は、そのレベルに見合った司法を持つ。
 
 この本の中の「人々は司法のあるべき姿を、本当には知らない」という一文は印象深い。誰でも、見たことがないことは理解できない。明治になるまで日本に「権利」の言葉と観念はなく、人々は「権利」を理解できなかった。司法も似たようなものかもしれない。司法、法の支配、民主主義なども、日本人は本当の意味では体験したことがない。「司法らしきもの」はあるが、それは、司法の名に値するか疑問である。しかし、経験しないことでも、想像し、考えることは可能である。(2014年2月、アマゾン書評) 
 この本は、裁判所に対する攻撃的な表現が多少あるものの、結局のところ、裁判所を変えるにはどうすればよいかという問題意識が出発点になっており、決して「絶望」を勧める本ではない。「希望」は「絶望」の先にある。(2014年2月、アマゾン書評)