最高裁判決文

平成10年(オ)第1158

判    決

当事者の表示  別紙当事者目録記載の通り

上記当事者間の東京高等裁判所平成7年(ネ)第5529号損害賠償請求事件に

ついて、同裁判所が平成10年2月26日に言い渡した判決に対し、上告人らから

上告があった。よって当裁判所は、次のとおり判決する。

主     文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理     由

上告代理人石川寛俊の上告理由第一点及び第三点について

原審の適法に確定した事実関係の下においては、所論の点に関する原審の判断

は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、独自

の見解に立って原判決を非難するか、又は原審において主張、判断を経ていない事

項につき原判決の違法をいうものにすぎず、採用することができない。

同第二点について

原審の適法に確定した事実関係の下において、上告人らの慰謝料請求を認めなか

った原審の判断は、結論において是認することができ、原判決に所論の違法はな

い。論旨は、原審の認定に沿わない事実に基づいて原判決の違法をいうものにすぎ

ず、採用することができない。

上告人らの上告理由について

原審の適法に確定した事実関係の下においては、所論の点に関する原審の判断

は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。論旨は、原審の

専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って

原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よって、上告代理人石川寛俊の上告理由第一点につき、裁判官滝井繁男の反対意

見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官滝井繁男の反対意見は、次のとおりである。

原判決は、医師の注意義務の基準となるべきものは、当時のいわゆる臨床医学の

実践における医療水準であって、定期健康診断におけるレントゲン読影医の注意義

務の水準としては、これを行う一般臨床医の医療水準をもって判断せざるを得ない

とした上、本件レントゲン写真が定期健康診断において撮影された他の数百枚のレ

ントゲン写真と同一機会に、当該被験者に関する何らの予備知識も無く読影された

場合には、当時の一般臨床医の医療水準を前提にすれば異常を発見できない可能性

の方が高いことが認められるとして、非上告人小山にレントゲン写真読影上の過失

はないとした。

しかしながら、ある医療機関における医療水準は、それぞれの医療機関の性格や

所在地域の医療環境等諸般の事情を考慮し、個別相対的に決せられるべきものであ

って、個々の医療機関の特性を無視して一律に決せられるべきものではない(最高

裁判所平成4年(オ)第200号同7年6月9日第二小法廷判決・民集49巻6号

1499頁)。また、医療水準は、医師の注意義務の基準(規範)となるものであ

るから、平均的医師が現に行っている医療慣行とは必ずしも一致するものではな

く、医師が上記医療慣行に従った医療行為を行ったからといって、医療水準に従っ

た注意義務を尽くしたと直ちにいうことはできない(最高裁判所平成4年(オ)第

251号同8年1月23日第三小法廷判決・民集50巻1号1頁)。

定期健康診断は、その目的が多数の者を対象にして異常の有無を確認するために

行われるものであり、レントゲン写真の読影が大量のものを短期間に行われるもの

であるとしても、そのことによって医師に求められる注意義務の判断基準について

の考え方が上記と異なるものではなく、当該医療機関が置かれている具体的な検査

環境を前提として、合理的に期待される医療水準はどのようなものであるべきかと

いう観点から決せられるべきものであって、平均的に行われているものによって一

律に決せられるべきものではない。

現実に行われている定期健康診断の内容も、用いられている設備や携わる医師等

の知識経験は一様ではなく、それぞれの医療機関に期待されているものも自ずと異

なるのであって、受診者もそのような事情、すなわち給付の内容を前提として検査

機関を選択し、その検査結果に信頼をおいているのである。

したがって、定期健康診断における過失の有無も、一般的に臨床医間でどのよう

に行われていたかではなく、当該医療機関において合理的に期待される医療水準に

照らし、現実に行われた医療行為がそれに即したものであったかどうか、本件で

は、昭和61年に被上告会社東京本店において行われていた定期健康診断における

レントゲン検診が、どのような設備の下で撮影されたレントゲンフィルムを、どの

ような研修を受け、経験を有する医師によって、どのような体制の下で読影すべき

ものと合理的に期待されていたか、そして、実際に行われた検査がそれに即したも

のであったか否かを確定した上で判断されなければならないのである。

しかるに、原判決は、被上告会社の胸部レントゲン写真がオデルカ100mmミラ

―方式による間接撮影で、医師2名による同時読影が行われていたことを認定した

のみで、当時の一般臨床医の医療水準なるものを指定し、それによってレントゲン

の読影についての過失の有無を判断すべきものとし、そのことによって注意義務の内

容が異なるものではないというのである。

しかしながら、被上告会社が実施していた健康診断が、定期健康診断におけるレ

ントゲン読影の重要性を考えて、呼吸器の専門医など豊富な経験を有する医師を常

駐させて読影に当たらせることとし、被上告会社がそのことを標榜していたとすれ

ば、そのような読影条件を抜きにして当該医師の過失の有無を判断することはでき

ないはずである。なぜならば、注意義務として医師に求められる規範としての医療

水準は、それぞれの医療機関の給付能力への合理的期待によって定まるのであっ

て、一般的に定められるべきものではなく、このことは、定期健康診断においても

基本的に異なるものではないからである。

したがって、原審としては、被上告会社における健康診断が、どのような水準の

ものとして実施することを予定されていたかを確定し、その水準をみたすものであ

ったかどうかを審理判断すべきであったのに、一般臨床医の医療水準に照らして過

失の有無を判断したのは、審理不尽の結果、法令の適用を誤ったものといわざるを

得ず、この点を指摘する論旨は理由があるというべきである。そうすると、上記の

点について、更に審理させるため、原判決を破棄して原審に差し戻すのが相当であ

る。

最高裁判所第二小法廷

裁判長裁判官      梶 谷   

裁判官      福 田   博

裁判官      北 川 弘 治

裁判官      亀 山 継 夫

裁判官      滝 井 繁 男


本判決に対して当方のコメント

今回の判決は、裁判には正義など通用しないということについて
司法自らが表明したといえます。


今回の最高裁判決に対し、
ジュリスト(2003.9.15 bP252)中の「司法記者の目」が
判決を批判する記事を掲載しています。)

当方の主張の内の一つのいわゆる期待権について、

判例タイムス(1065)の判例解説によれば、
当方の高裁判決の後で、他の裁判で(肝臓がんの見落とし事件)の
判決が同じ東京高裁であり、それは過失と死亡との間に因果関係の立証がなきも過失あれば、
慰謝料の支払いの責任があるという、
(すなわち不誠実な医療自体についての損害賠償請求を認める)
いわば期待権(簡単にいうとやれる限りの悔いのない医療を受けたいという権利)
を認めた判決でした。

(本件裁判では、レントゲン写真での見落としの過失は認めながら、
どうせ死んでいたのだから、見落としても見落とさなくても責任は無いという判決、
すなわち認めないとの判決です)

この件も敗訴した医療側が上告したため、期待権に対しての本件高裁判決との不整合につき
最高裁が結論を示すだろう、との判例タイムスの評釈で予測が述べられていました。

(現状の医療裁判の流れは期待権を認める方向でほぼ確定しているのですが、
本件では敢えてそれを否定した判決となっていたのです)

さらには、本件裁判について、
健康診断の過失判断の基準となる医療水準の捉えかたの誤りを指摘し、
安全配慮義務について企業側に責任があり、
一、二審判決は誤りとまで指摘する筑波大学判例研究会の評釈をはじめとして、
同様主旨の複数の判例研究の論文・評釈が高裁判決後に出ており、
これらは当方の主張を後押しするものとなり、
最高裁としてもこれら批判に対して法律論からの返答を述べざるを得ない、
必ず言及せざるを得ないと期待させるものがありました。

そのような中で、平成12年に出た最高裁判決
(平成12年9月22日第二小法廷判決平成9年(オ)第42号)が、
不誠実な医療自体、損害賠償の責任がある
(過失あるも死亡との因果関係が証明されない場合でも過失に対しては慰謝料を支払う責任がある)

というもので、医療裁判では画期的判決と評価されるものが出ました。

又、先ほどの肝臓癌の見落とし事件も医療側の上告が退けられ、
期待権を認めることがほぼ確定される状況になっていました。

これによって当方の主張していた一点が逆転勝ちとなることが決定したと
言っても過言でなくなったとの判断をしていたのですが、


しかし、最高裁は争点に関して判断を回避して、
原審の結論は是認できると前置きした上で、
だから、その結論に至る過程の論議の主張は
すなわち上告理由の主張は聞く耳持たないという内容の判決を出しました。


私たちが今まで闘ってきた中で、
裁判そのものに法律論からだけでは理解できない不審な点が多々あったのですが、
(裁判官、裁判所の言動、訴訟指揮が被告側に偏っていて
公正を損ねていると考えざるを得ない多くの点)
それを言うと支援者の中からでさえも、被害妄想だとか、気違いだとかの批判を浴びることもあり、
(裁判は公平に正義が通る場所という大前提があり、
これを否定することはそもそも裁判を闘う意義を失うことにつながるからでしょう)
当事者しか分からないこととあきらめている部分ですが、

判決を決めたのは正にこの部分だったと、今は確信しています。


上告して5年以上たってからの棄却で、
非常に政治的配慮が働いた判決との思いを強く感じています。
引き伸ばすだけ伸ばしておいて、
当方の気力耐力が萎えたころを見計らって
ぱっと出すという手口もきわめて卑劣という感じを持っています。

5年以上も待たせておいて、待たせたそのこと自体についての釈明もなしに、
一丁上がりのやっつけ仕事みたいなことをしやがって、
許せんという気持ちを非常に強く思っています。


判決文の内容は明らかに平成12年に確定した最高裁判例に違反しており、
しかも先の判例を出したのも今回の本件も同じ第二小法廷であるにもかかわらず、
先の判例を自ら反古にして、なぜ、そこまでして被告側を勝たせなければならないのか?


私は一審のときから感じていた政治的配慮が最後まで働いたとしか考えられないと思いますが、
そうであれば、裁判なんて意味がありませんし、
弁護士はその職業としての存在意義を失うことですから、
この点、弁護士はありえないとしか言いませんから、
そうすると、弁護士にはなぜだか分からんという結論にしかならないようです。

法律論的によれば、今回の判決は先の平成12年の判例を反古にして、
過失あるも死亡との因果関係が証明されない場合は責任を負わなくてよい、
という従来の考え方に戻したと解釈されます。

しかし実際の裁判の現状は
平成15年11月11日 第三小法廷判決 平成14年(受)第1257号 損害賠償請求事件
に見られるように、
その判決理由中に以下の記述があります。

医師が過失により医療水準にかなった医療を行わなかった場合には,
その医療行為と患者の死亡との間の因果関係の存在は証明されないが,
上記医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた
相当程度の可能性の存在が証明される場合には,
医師は,患者が上記可能性を侵害されたことによって被った
損害を賠償すべき不法行為責任を負うものと解すべきである
(最高裁平成12年9月22日第二小法廷判決・民集54巻7号2574頁参照)
と述べた上で、原告逆転勝訴を言い渡しています。
すなわち、平成12年の判例は反古になってはいないのです。

本来は判例を変更した場合はその理由を述べるのが当然であるが、
本件では理由を述べていないので、おそらく最高裁は本件を例外として処理をした
扱いではないだろうかということです。

 どのような批判を浴びようが、判例違反を言われようが、
認めることにより今後に波及していく問題の大きさを考えると
絶対に本件の主張を認めてはならないと判断したのだろう考えられます。

(現状の健診制度の欠陥を認めれば、法律で実施が義務づけられているわけですから、
その是正が当然求められることになりますが、
本件はあくまで欠陥によるものでなく、
たまたま運が悪かったで終わりにしておいたほうが都合がよいということ)

これが当たっていると思いますが、
これは簡単にいうと裁判所も同じ穴のムジナだったということでしょう。

いろいろと長く書きましたが、これで本件裁判は当方の敗訴で確定となりました。

法律的な手段としてはこれで道が閉ざされたことになりました。
世間一般的には、負ければ賊軍という扱いで、当方の主張はもう、
負け犬の遠吠えでおそらく相手にされないと思いますが、
裁判に負けたけれど、当方はこの件を死ぬまで引きずっていくことになるわけで、
何らかの発信は続けていくつもりです。

思えば一、二審のときから既に結論ありきということであり
13年間闘ってきたことが、ただの茶番劇だったのかと、極めて悔しい気持ちでいっぱいです。
法治国家の国民であるなら、全て法の上の土俵で闘えと言っておきながら、
司法そのものが相手によって土俵の形をどのようにでも変える
ことをまざまざと
見せつけられたと痛感しています。

裁判では正義が通用し、法は公平であるという妄想をいだいていたこと自体、
ただただ甘かったということでした。
下手なスケベ根性をおこして最後のチャンスとばかりに
最高裁に判断を仰いだこと自体が間違いだったということです。

裁判所の出した結論であるから、それはそれで正しいという論で
あるなら、なるほどと納得できる理由を判決で述べるべきである。
それが無く、ただただ現状の矛盾したなりの社会の安定を第一に考えて
どちらを勝たせておいたほうが、波風が小さいかで決めているような
裁判であるなら、裁判なんかも不要である。以上です。

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