Margaret Morris
(1891-1980)
英国モダンダンスのパイオニア。 英仏2ヶ国語で詩やシェイクスピアのセリフをすらすらと暗誦する彼女は神童といわれ、サラ・ベルナールからトレーニングの申し出があったほどだった。
1910年、ロンドンのサボイ劇場のマリ・ブレマ制作のグリュックの「オルフェオ」の振付とダンスをしてデイリーエクスプレス紙で好評を得た。 |
(C)The International Association of MMM Ltd. photo:FRED DANIELS |
マーガレット・モリスはゴールズワージーをプラトニックな関係ながら深く敬愛し、彼から大きな影響を受けている。当時のことを彼女は「マイ ゴールズワージーストーリー」に書き、またゴールズワージーはこのエピソードをもとに小説「ザ ダーク フラワー」を書いている。 1912年、チェルシーのより敷地の広いところに、学校ともども移り、敷地内にスタジオシアターを開設、その結果ロンドンで一番若いアクター・マネージャーとなった。
彼女がスコットランド人の画家、J.D.ファガーソンとであったのは1913年、彼女のカンパニーがパリのマリニー劇場を訪れていたときで、後に彼は夫となる。
マーガレット モリス ムーブメントとして知られるようになったモダンダンスのテクニックのシステムを開発して行くうちに、彼女は自分の生徒たちの姿勢や健康状態が著しく改善されているのに気がつき、このことから療法としてのダンスとムーブメントにかかわるようになる。
戦争が始まるまで、マーガレット モリス ムーブメントは発展を続け、学校がロンドン、パリ、カンヌ、エジンバラ、グラスゴー、マンチェスター、アバディーンに出来た。戦争が始まるとグラスゴーの他の学校は閉鎖されたが、彼女と夫のファーガソンはスコットランド芸術界で活躍を続け、1947年にはケルティック・バレエ、1960年にはスコティッシュ・ナショナル・バレエというプロのカンパニーとして活躍する。 |
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1961年、夫の死を悲しんでグラスゴーの学校を閉鎖しロンドンに帰ってきた彼女は、MMMをレクリエーションとしてのダンスの形、特に生涯教育として普及を再開。1962年以降、飛躍的な発展を遂げ、1984年には海外支部の協力のもと、年間50万人以上の人々がMMMのクラスに参加した。 1980年2月29日、マーガレット・モリスは89歳で亡くなった。彼女はダンスと教育の未来を予言した人であった。意欲的なダンスアーティストであったばかりでなく、数多くの著作を残し、画家としても才能を発揮し、ダンスの表記法まで開発した。 |
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MMM JAPAN 15周年記念誌より要約・転記 |