架空塗装機
鐘馗(1/48、成層圏戦闘機 ザ コックピット ki-44 II SHOKI(TOJO)

今回の塗装はドイツ機の緑を使って、機体マークは百里基地のものです。

模型を作りながら、架空戦記ものを思いつき、書いてみました。


「もうこの戦争は負けだ、日本はどうなるんだ」
1945年の夏、中島飛行機の太田工場にいた技師はつぶやいた。

「戦争の為とはいえ、我々は持てる技術を全て使って、この機体を作り上げた。だが
アメリカが上陸してくれば、全ての飛行機は破壊されてしまうだろう。後世にせめて一機だけでも
機体を残したい」

 当時、軍の管理下にあった工場も3回の空襲をうけ、かなりの損害を受けていた。
軍には、「最後の抵抗用に機体を地下に隠そう」と説明し、地下の格納庫を作りはじめて数カ月、
やっと2機分の地下格納庫が完成したのが1945年の初夏。出来上がった格納庫は横幅が狭く、
鐘馗しか格納できなかった。40ミリ砲搭載の鐘馗。それに一機分の予備部品を格納し、
入り口をコンクリートで固めた。地下の格納庫が発覚しないように、格納庫の上には、廃材を
置き、その上から土で固めた。

 換気用のダクトも作られ、偽装されて地上に突き出していた。

 数通の手紙もこっそりと予備部品の中に入れられた。
1通は英語で、敗戦直後に発見された場合の米国向けの手紙。1通は将来の中島飛行機の技師へ宛てた手紙。

「この機体を発見した中島飛行機の技師へ。
 帝国が平和な状態であることを祈る。此の機体は、昭和20年に格納したものである。考えられる最高の
保存ができるようにしたが、痛んだ部品も多いと思う。予備の部品と設計図が置いてある。それで再生して
どうにかこの機体を平和な帝国の空で飛行させてほしい。中島飛行機の技術を将来に伝えてほしい。
そして、戦争のない、平和な國を作ってほしい。

                                         昭和20年8月」
 時は流れた。敗戦後の米国の略奪と破壊からなんとか逃れた。日本は平和を取り戻し、
経済発展が続いていった。機体は静かに再度飛ぶ時を待っていた。

そして。。

2007年、中島飛行機の太田工場の建物が改築されることになった。
戦火を逃れた本社建物の一部は太田市が保存することとし、いよいよ工事がはじまった。

 「おーい。地下に何か空間があるぞ!」
 その一言が全てのはじまりだった、天井のコンクリートが慎重に壊され、1機の飛行機が光を浴びた瞬間。
「おい、2式単戦じゃないか。あの水平尾翼の位置は!」

62年の時を経て、鐘馗は地上に戻った。タイヤは完全に劣化していたが、奇跡的な保存状態だった。
中島飛行機をはじめ、日本国中で大騒ぎになった。時の石原総理は、急きょ復元のための費用を一部
國で負担することを条件に、中島飛行機に復元を指示。社を挙げて復元が進められた。

 2008年、復元を終えて、完全に飛行可能になった鐘馗は、百里基地にて飛行可能な状態で
配置されることになった。

 火星エンジンの音を響かせながら、今年も基地航空際で鐘馗は快調に飛んで行く。平和な日本に
思いをはせた、たくさんの人々の思いと共に。。