6月のもう一言

利孟
みつ豆の蜜の白黒つけられず
三線を見過ぎ世過ぎに花梯梧
茶柱を舌に転がし水羊羹
梅雨の底消えては点いて街路灯
花の名を問はるも知らず梅雨深し
比呂
心根は明かさず睦ぶ水羊羹
藍の花甕にふつくら更衣
田蛙の昼は呟くやうに鳴く
覗色夕立の後の空染めて
遅く出て梅雨月赤く多佳子の忌
蹠痛き珊瑚の浜や海紅豆
昭雄
青空を押し上げ燃ゆる海紅豆
海紅豆燃ゆれどノラになり切れず
水羊羹冷めた番茶の甘きかな
まあまあ
水羊羹提げて小路の江戸かしげ
江戸仕草って言葉が嫌いだし、勿体ぶってそんな事を言って見せるのも野暮だが、まあ時代かね
沖縄の語り部髪に花でいご
デイゴの花を髪にってどうも絵にならない感じです
聖子
制服の背の皺取れず衣更え
包み紙紐も水色水羊羹
衣更え並木は更に枝広げ
巡回の休憩室の麦湯冷ゆ
長唄の鼓程良き夏の宵
良人
酒蔵の古き瓦や海紅豆
蕎麦店のメニューに並ぶ水羊羹
見舞ひ来し友のベッドに水羊かん
南国の陽射しに染まる海紅豆
海紅豆の赤の強さは多分南国の陽射しに対抗できるでしょうね
水羊羹瑞々として皿に載る
そういうものですね
まさおなる空と海とに海紅豆
沖縄は風なく揺れる海紅豆
縁側の会話が弾む水羊羹
手土産の水羊羹を持ち歩く
まあ、そうね
墓参り水羊羹を差し上げる
輝子
万緑や会津の山を三つ越えし
水ようかんすだれ通して鈴の音
鈴の音がはてなにか?、風鈴が季重りだからと言って鈴に変えれば、神社か何かだよ、まあ、女主人がメイドを呼ぶのに鈴を鳴らすってのはあるけど
雨上がり川面に集う花しょうぶ
山藤のツリーを連ね奥只見
ツリーってのはクリスマスツリーとか電飾の木を言ってるのだろうが、それをツリーで終わらせるわけにはいかないでしょう
万緑の風穴埋めしおおてまり
風穴がカザアナ、フウケツ、いずれにしても分からない、万緑と大手鞠も重なってるしね
登美子
喉までの流れの早き水羊羹
寝ころんで酔をさますや夏座敷
語部の戦争体験海紅豆
草笛を吹いた少年喜の祝
あんまり良いとは言えないけど、そんなお祝いの時の句には使えますね
六月の軽井沢人疎らなり
なんか前書きみたいな句です
一構
青葉闇小枝を運ぶ鳩夫婦
入梅や農協跡の道の駅
雲の峰鼻にピアスの山ガール
雲の峰金のピアスの山ガール
添削の一字に学ぶ麦の秋
その姿勢は良いのだが、やはり俳句のことを詠むのはあんまり嬉しくない・・他に見たり触れたりしたものがないみたいで寂しいでしょ
夏帽を阿弥陀に被る山の上
史行
職を辞しこの地に植えん海紅豆
元句では海紅豆を植えるために辞めようという句です
水羊羹淡い甘さの半世紀
その前の半世紀はしょっぱかったの?としか読めない、私はこう思って作ったと言って縷々説明しても、書いてないよで終りというのが俳句、それが読みとれるように俳句は作るから、ひねるという・・難しいことは一句で表現できませんが
憂鬱を振り切らんかな海紅豆
茶の香と連れ添ひ泳ぐ水羊羹
チャノコウてのはいわないでしょう、水羊羹は泳げないし、擬人化は難しいものです
西瓜苗蠢く若さ弾けたり
気持ちばかりが先行して、言葉で表現する事をまず考えなければ
敬子
海紅豆揺れつつ蝶のさまとなり
蟠りとけて小皿の水ようかん
母の日のオカリナ響く森の家
なにかおとぎ話見たいで現実性が?
若葉光梢葉裏を輝かす
びつしりと十薬咲きて世継なし
世継てのはよほどの名家じゃないといわないでしょう、将軍様とか、そんな家なら十薬を引くくらいの人手はあるでしょうし
ミヨ
砲台や雨の岬の海紅豆
なんか岬の砲台に海紅豆をぶつけたいんだけど
草蚊遣日ぐれの土間を煙らしぬ
滴りもトロッコ音も廃鉱区
廃坑にはトロッコの音はしないよね、見てきたような嘘ってのは大切ですよ
路地奥の隠れ茶屋らし水羊羹
隠れナントカって今流行りだけど、人目を忍ぶ茶屋っていうと、どうしても茶屋女とか、そっちの茶屋に結びつくので取らなかったんです
老二人手間だう野地や猿猴草
おかわりを催促されて水羊羹
歩き止めしばし眺める海紅豆
そう、そこで見た海紅豆がどうだったかを読むのが俳句
大玉のキャベツ居並ぶ畑かな
人目引く赤絨毯の罌粟畑
すき腹に水羊羹の旨さかな
空き腹に不味いもの無しですがねー
蹠に痛き珊瑚の浜や海紅豆
これくらいまでか?