9月のもう一言
利孟
夕映えの空に照り浮く木守柿
秋暑し店に煙の焼鳥屋
台風過スカイツリーに並び富士
夜半の秋切子グラスの硬き角
酒をやり湯に入れ柿の渋を抜く
比呂
豆腐屋のふやけし指や秋気澄む
秋気が澄むというのはうるさい感じがするんです
朝地震は天のため息秋の風
やっぱり地震は地のもので天のはおかしいでしょう、地:つちと読みます
磨かれて次郎富有の尻たひら
富有は人名には珍しかろうが柿と言えるかは疑問
秋雨や笑ひ閻魔の目は笑まず
顔は笑っていても目は恐いてのは結構月並みな物言いです
濡れ縁の端に焦げ鍋晩夏光
焦げ鍋は擦ったりするよりお日様にしばらく当てておいたほうが綺麗になりやすいのだとか、知らなかったから取らなかったが、知っててもどうかな?
信子
寺巡りして読む句碑や柿日和
蚊に好かる好かれぬ母娘談義かな
好かれぬが連体形で談義の内容よりも好かれぬ母娘と繋がって話の筋が見えずらくなります
父に供ふ父の育てた富有柿
後出しのじやん拳ごつこ法師蝉
先に出した手に勝つ手を出すとか負ける手をだすというゲームだそうだがそれで?だな
秋の夜や一〇〇Kマラソン待つゴール
24時間テレビでの感動だろうが、分かる人も瞬間的な話題でしかない
ミヨ
秋の夜やしばし目に立つ旅雑誌
しばしで、目立つはないでしょう、本屋、コンビニの店頭かと読んだが家でのことならこんな風で
樽柿の熟れ頃計る会津弁
樽柿というのは渋を抜くために樽に並べてし焼酎かけたりしたやつのこと、熟柿にするためではなく渋を抜くためでしょう
御朱印の天狗賜はり涼あらた
藁葺きの煤けし駅や柿処
柿処とすると単なる駅の観光案内になってしまう
皓皓と銀漢渡るカルデラ湖
どんなに条件の良い星空でも銀河が皓皓とはないでしょう
良人
腹見せてブリキ金魚の浮いて来い
素直な句です
闇を打つ強き雨音夜の秋
夕暮れの街路の風に夜の秋
夕方なの?夜なの?てことがある
鈴生りの柿立ち並ぶ村街道
村街道ってのがどうかというところから、柿の並木みたいなのも変で
里中のそちこちに見る木守柿
里中、そちこち、いずれも同じ事を言ってます
敬子
絵手紙に目玉の大き赤とんぼ
ちと季語性が薄いかもしれんね、絵手紙の赤とんぼてのは
リハビリの小径の野辺に月見草
リハビリの小径て場所があるとも思えない、小径の野辺ってのもうるさい
気力こそ故老の命秋の夜
次郎柿授かり幼な微笑めり
柿なんぞ「授かる」ものか?、幼なってなに、こういう表現は好かん
尺八の流る窓辺に蝉が鳴く
事実としてあったかもしれないが、そこに何の風情があるか?、音と音の重なりてのもうるさいね
一構
秋の旅蕎麦殻枕一人寝る
柿簾老婆笑顔で皮を剥く
柿簾の皮を剥いてるみたいな表現です
秋の宵座布団五枚客を待つ
秋の夜机に置きしエンジンキー
何を暗喩しているのか、そのままというだけなのか
秋の夜や眼鏡落として土間暗し
眼鏡落としてでは横山やすしみたいで、土間の暗さを詠えば良い句になりそうだが
昭雄
亡き母の土間に藁打つ夜の秋
亡き母などと感傷的なだけで面白くも無いでしょう、夜の秋というようやく夏も終わりかけた季節の夜鍋は風情が無い、やはり秋の夜の兼題通りにした方が結構で
夜の秋孤独を刻む古時計
まあ良いでしょう
筑波山より男体山親し柿簾
栃木ケンミン特有の感傷でしょうね
柿簾裾に小さな旅鞄
なんか寅さんの放浪みたいだ
柿の実を灯のごとく供へけり
鬼灯は字の通りだが・・
聖子
柿青し全国制覇の高校生
柿青しは初夏の話ですよね、どっちにしてもごくローカルな話題となりますからはっきり書いて楽しみましょう
糠小屋の木箱入りの熟柿
こういう破調は当会では評価しません
夜の秋かつてにうなる冷蔵庫
冷蔵庫も今も季語として使われておりますので
夜の秋正庁の間のシャンデリア
ちと分かりかねます
帰郷して静かな川の流れかな
風の音目には見えねど秋漂う
山あいの家の軒下吊し柿
当たり前すぎでしょう
秋の夜のページの進む読書かな
天高く食欲わき夕餉かな
声に出して音律が正しいかくらいは確かめること、姿勢が粗雑です
熟柿たる人も同じや円熟味
熟柿と熟しを掛けて使っているのだろうが現代俳句ではそのような形の言葉遊びは流行りません
木瓜
白桃や稚児の産毛の肌ざわり
稚児は幼子の意味もあるが、いずれにせよ普通名詞であり話が一般論化してしまいますから面白くない
柿食ひぬ幼き頃のままの味
これでは他人にはどんな味なんか分かんないですに
秋の夜のセレナーデ発つ庭の闇
そんな非日常があるんですか?、セレナーデが発つとはどこへ?
豊かさや昼夜にわたる虫の声
虫の声が四六時中響いていたからってそれが豊かとは思わないでしょう
切々と声刻み込む秋の蝉
岩にしみ入るというのもあるのだから、刻み込むのも悪くはないのだろうが