9月のもう一言
利孟
湖の水澄みて毬藻の揺れ太る
燈火親し輪ゴムで束ね文庫本
望の夜の唸り谺す動物園
動物園の夜の姿:木/想像出来る:栃
雨戸繰る音の軽やか野分後
お百度を踏み積む小石秋海棠
境内の隅の日陰などにと:美
昭雄
水澄むや硯に湖といふ窪み
やはり、硯の海を湖と言い換えるのは無理があります
帰省子や四股投げ出して大昼寝
四股は踏むもの、大昼寝が正解かは知らんが三尺根もあることだし
秋日傘優しき会釈遠ざかる
会釈が遠ざかるってなんかあったようだが、会釈って対面するもので行っちゃうものではないでしょう
木々の影深く沈めて水澄めり
似たのを見た気がするけどね/二重の深く沈むが:堀江
水澄むや流れに空が降りてきて
映ってるんでしょうが、表現に無理がある
木瓜
薄々と母の口紅秋海棠
赤とんぼ風に吹かれて突き向かふ
突き向かうなんて日本語にならん表現を平気でする感覚が分からん、文豪なら許されるけど、駆け出し俳人には不遜
水澄むや正直者のため息の
金の斧銀の斧の正直樵を思い起こしておもしろい
朝ぼらけざざとひと息すがれ虫
ざざって鳴き声?、かすれ声のことかもしれないけど、鳴きはしないがザザムシなんてのもいるしどうかね
碁で圧され膝打ち撫でる秋扇
秋扇ってこういうふうに使うのでは無く、夏過ぎてちとくたびれた扇子なんだけど、秋日傘とは違うんだ
比呂
露けしや杜氏の狭き仮眠室
狭きは仮眠室には当たり前かも、もう一つ欲しかった/実際の労働の様子が
秋海棠心耳に母の子守歌
心耳はちょっと違うんじゃ無い/心耳という表現が、
欹てて聞く鳴き出しの鐘叩き
欹てて聞く、って使い方は奇異
水澄むや底まで青きカルデラ湖
底まで青いてのが透き通っているのか表現として?
新涼や足に吸ひ付く竹の下駄
竹貼りの下駄の表ってのは汚れがつかなくて良いが履き心地がこういう風でもある
信子
水澄むや貴婦人と呼ぶしらかんば
栃木の人なら分かるからね
人けもの物にも寿命鰯雲
秋の空をみてなにか哲学的に物思うのでしょうかね
水澄むや花影揺らし風の道
花影って確立したした春の季語ですね
父母の商ふ記憶秋海棠
記憶っていわれても作者の中にしか無い、それを具体化して言ってくれないと、算盤帳簿付き合わせて夜なべしているとか
朝刊の涼しき折目届けらる
涼しき折り目ですか、新涼とか、朝涼と新聞配達組み合わせるんですね
ミヨ
四つ目垣ゆるぶ棕梠縄秋明菊
なるほどありそうだが、三句切れっぽいのは解消しましょう、四つ目垣好きね
燕去ぬ烟らす駅の伝言板
烟らすはイミフ/読み取れないような感じか:栃
蓑つりし庵の裏手ばつたんこ
ばつたんこを使いたければどうぞだが、どうも侘び寂びの雰囲気はない気がするんですよね
年月の大黒柱冷えのぼる
利根の口戻る木船の水澄める
理解不能、皆さんは利根の河口というけど、戻る、木船、どういう状況なのか?
美恵子
当校児つぎつぎ揺らす芒の穂
〇〇小の子というのでは無いから
瓔珞草庭隅の陽を集めおり
秋海棠で良いと思うけど
天高し赤き山肌剥き出して
赤い山肌っていえばむき出しですよね、ちと良人風になりましたけど、朝日に映えるなら赤いだけでは足りないでしょう
水澄むや馴染みのカフェの写真展
馴染みのカフェってイメージがそれぞれでしょう、いつものカフェくらいなら良いかも
水澄むや橋より放つ紙の鳥
紙の鳥ってなにかおまじないめいているな、鳥形の飛行機?一般的では無いかも
英郷
雌雄異花秋海棠の古賀志山
雌雄異花を言いたいのに古賀志山はいらぬ
仔犬連れ朝日に見頃の秋海棠
朝日に見頃って、桜じゃあるまいしってなりますね
長雨後ものみな澄みて敬老日
長雨で澄むは無理でしょうが、敬老日は季語ですか
水澄みてせせらぐ底の姿川
鳥見ざる秋海棠が咲き誇り
秋海棠といえば咲いてるのね、咲き誇るってのをどう表現するかだけど、鳥が見ないってなんなのかわからんから
良人
秋海棠野寺の風に上向きに
上向きには無理矢理めいて詩情を感じられないでしょう
水澄みて野川の底の草立てり
水澄みてせせらぎの音静まりぬ
しづもる」は「鎮まる」をきざに言い換えた明治期の造語らしいが
四万十の水澄む流れ四国嶺
流れが清いというのと水澄むとはちょっと違った心証的感覚なんだな、四万十=清いがあるから材料としてはありがちかも、四万十が四国は誰もが知ってるわけで、一句に地名が二つあるてのも無駄でしょう
那須野原秋海棠をいたわれり
どういうこと?
雅枝
大地震来るぞ来るぞと猫じやらし
最近の季語入り川柳の形ですが、すぎなみきの目指す俳句ではありません
こりこりと胡桃鳴らせし祖父の指
これは読み込みでも季語としては働かない、季語を斡旋することex夜寒とか
水澄みて写る我が顔怖怖と
水鏡ならそれなりに詩情たっぷりに謳って下さい、戯れ言に聞こえます
秋海棠花咲くころに友逝きぬ
いつ、どこで、だれがって記録じゃないの、友逝くなんて老人句会では受けますが、悲しみを花の揺れに託すくらいなことはないと
マスクにも隠れぬ瞳心なり
目は口ほどにってことだが、瞳と目はちがうし、マスクは季語としては冬だから