「人生に絶望なし」中村久子氏の生涯に学ぶ
加古川市立志方小学校 松本 俊
「人生に絶望なし。如何なる人生にも決して絶望はない。」中村久子氏の生き方を授業する。
「今から1枚の写真を貼ります。」と言って中村久子さんの写真を提示する。
(中村久子氏のHP http://www.nakamura-hisako.co.jp/)
指示1 写真を見て、分かること、気づいたこと、ほんのちょっとでもいいから
思ったことを箇条書きにしなさい。
幼いときに病気で手足切断。指のない短い手で糸を挟み口に針の写真。
「2個書けたらもってきなさい。」一つを板書させる。
・手に包帯を巻いている。
・女の人だ。・日本人だ。・口に針がある。・手が短い。・足はどうなのか。・不自由そうだ。・この人はだれか。・・・
「中村久子」という名前を教える。この後久子の生涯を語る。HP上にある年譜を示しながら。 http://www.nakamura-hisako.co.jp/1profile.htm
「 久子女史は1897年(明治30年)11月25日、岐阜県大野郡高山町(現高山市)に畳職人の釜鳴栄太郎・あや の長女として出生。2歳の時左足の甲に凍傷をおこし、それがもとで特発性脱疽(だっそ)になり、3歳の時 両手両足を切断、闘病生活が始まる。7歳の時父を亡くし、また10歳の時弟と生別、母の再婚等苦労の生活 が続いたが、祖母丸野ゆきのやさしい指導と、母あやの厳しいしつけの中で努力と独学を重ねた。結果、無手足の身で文字を書き、縫い物、編み物をこなすことを独特の方法で修得した。」
■1897年(1才) 父釜鳴栄太郎、母あやの長女として出生。
■1899年(3才) 特発性脱疽にかかり、今の日赤病院で両手両足を切断。
■1903年(7才) 父死亡。母とともに実家丸野家に帰る。
■1904年(8才) 身体障害のため入学不能。母は久子をつれて藤田家へ再婚。
■1907年(11才) このころより独学と母の厳しいしつけが始まる。
子どもたちの目がまん丸に見開かれている。真剣な表情で教師の語りを聞いてくれている。
発問1 中村久子さんはどんな人生だったと思いますか。
「つらい人生」「大変な人生」などと出てくる。また「つらいけれど前向きに生きた人生」「人一倍がんばった人生」といった意見も出た。これは最後に示す久子の言葉を対比させることができる。
小さい四肢は高熱で真黒に焼けて、痛みと苦しみは昼夜の別なく、嵐の前の樹
木の如く襲います。ある日、けたたましく叫び泣く声に母は台所からかけ込んで
みると、白いものがころげおちている・・・・・
左手首が、ぽっきりと包帯ごともげおちていたのです。母は、正気を失いまし
た。あまりの驚きと、悲しみのために・・・・・
『私の越えて来た道』より
右手は手首、左足は膝とかかとの間、右足はかかとから切断する。その後幾度
も手術を繰り返す。
痛みのため、昼も夜も泣く久子は近所から、やかましい、うるさい、汚いと言
って嫌われ、月に一度くらい住居を変えなければならなかった。
(中村久子女史年譜よりhttp://www.nakamura-hisako.co.jp/1_nenpu.htm )
発問2 中村久子さんはどんなことができなかったと思いますか?
次々といろいろなことができなかったと発言がある。
補助発問 では、中村久子さんができなかったことは、次の内でどれでしょうか。
@ハサミを使う。
A子どもを生む。
B包丁を使う。
C掃除をする。
(立石佳史氏の発問 http://www.page.sannet.ne.jp/tate-y/hisako.doutoku.htm )
どれもできなかったと子どもたちは予想する。しかし、この4つはすべてできたのである。
次の2つだけできなかったことはHPの情報で示した
http://www.nakamura-hisako.co.jp/1profile.htm。
「久子ができなかったことは、帯を結ぶことと髪を結うことだけだったという」
次の書籍から久子の母の厳しいしつけの場面を読んで聞かせた。
1・ 「手足なくても 中村久子の一生」(教育書籍刊)
2・ 「こころの手足」(春秋社刊)
3・ 「こころの手足CDブック 私の越えて来た道」(春秋社刊)
4・ 「中村久子の生涯 四肢切断の一生」(致知出版)
5・ 「中村久子先生の一生」(致知出版)
久子の生涯に沿って授業を進める。
発問3 手足がなくても、お金をかせがないと生きていけません。
久子さんはどんな仕事を見つけたでしょうか。
発問4 見世物小屋で縫い物を見せる時の、久子さんの思いを想像して書きなさ
い。
(TOSSランド http://www.tos-land.net/
ナンバー 1600003 小宮孝之氏のHPより)
「死んでしまいたい」「もうやめたい」といった思いが出される。
発問5 大人になった久子さんは、2人の人物の存在に励まされて生きるように
なりました。だれでしょうか。
子どもたちには想像もつかない。
そっとヘレンケラーの絵を貼る。子どもたちにはあらかじめ「ヘレンケラーについて調べる」課題を出しておいたのだ。ヘレンケラーとの出会いの場面を話して聞かせる。そして問う。
発問6 昭和12年に久子はヘレンケラーと対面しています。ヘレンケラーは
このとき久子の体にさわり
「わたしより( )な人、そしてわたしより( )な人」
と言い熱い涙を流して久子をぎゅっと抱きしめました。
( )にはどんなことばが入るでしょうか。
(立石佳史氏の発問 http://www.page.sannet.ne.jp/tate-y/hisako.doutoku.htm
わたしより(不幸)な人、そしてわたしより(偉大な)な人」
■ヘレンの言葉
ヘレン・ケラー女史との会見。”そうっと両手で私の両肩から下へ撫でて下さる時、 袖の中の短い腕先にさわられた刹那、ハッとお顔の動きが変わりました。下半身を 撫でて下さった時、両足が義足とお分かりになった
・・・再び私を抱えて長い間接吻され、両眼から熱い涙を、私は頬を涙にぬらして 女史の左肩にうつ伏しました。
『こころの手足』より
久子氏が前向きに生きる原因となったもう一人の人とは厳しくしつけてくれた「母」である。さらに、久子氏の娘(中村富子さん)による母久子への思いを読んで聞かせる。
最後に晩年の久子氏の言葉と詩「ある ある ある」を紹介した。
http://www.nakamura-hisako.co.jp/1_nenpu.htm
「ひとのいのちとはつくづく不思議なもの。
確かなことは自分で生きているのではない。
生かされているのだと言うことです。
どんなところにも必ず行かされていく道がある。
すなわち人生に絶望なし。
いかなる人生にも決して絶望はない。」