「ものづくりへ発展させる教材」
 鉄砲生産の技術は
     自動車生産世界一につながる
 
 日本人のものづくりにかける気概を伝える授業である。長篠の戦いの絵を示す。(長篠合戦図屏風)
http://www.ntt-west.co.jp/nagoya/wnn-c/contents/hourai/rekisi/nagasino.html
「武田信玄の後をついだ勝頼は、天正三年(1575)五月、一万五千の軍を率いて長篠城を囲んだ。城主奥平貞昌(後の信昌)は二十一歳、五百の城兵と共によくこれを防ぎ、鳥居強右衛門の働きもあって、織田・徳川の援軍三万八千は設楽原に進撃し、連吾川にそって陣地を築き、武田軍の進撃を待った。日本最強を誇る武田軍の騎馬隊の壮絶な突入も、連合軍が放つ三千抵の鉄砲の前に敗れ、多数の名将勇士を失った。この戦いによって武田
氏は没落し織田・徳川の勢力は絶対的なものになった。まさに関ヶ原・小牧長久手の戦いと共に、日本史上最大な意味を持つ戦いであった。」
 いつ、武将名などの確認をしたあとの展開である。

1 この戦いの勝敗の原因はズバリ何で
  しょう。
 
@武器の差(鉄砲・火縄銃) A兵の数 B大将の差 C作戦や知恵の差
 何といっても「鉄砲」の差が大きい。鉄砲についての確認を行う。

2 鉄砲は何年から日本で作られるよう
になったのですか。
 
 鉄砲伝来は1543年であると年表に出ている。作られるようになった年代までは出ていない。

3 鉄砲は外国から伝わったようですが
 どこの国からどこにどのように伝わっ
 たのですか。
 
 ポルトガル人によって種子島に伝えられた。詳しくはHPなどで調べさせる。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/tepponosato/国友鉄砲の里資料館

4 当時の火縄銃の弾はどのくらい飛ん
 だでしょうか。
 
 資料集などから80〜100mと分かる。(ねらいを付けた場合)

5 対する「弓矢」は火縄銃よりも飛距
 離は長かったでしょうか。短かったで
 しょうか。
 
 「短かった」とした意見が多数。火縄銃を使った織田・徳川軍の圧倒的な勝利だからである。昔の名人は128mとばした記録を教える。

6 この戦いに織田信長は何丁の鉄砲を
 用意しましたか。
 
 約3000丁である。

7 この鉄砲は国産品ですか、輸入品で
 すか。
 
 すべて国産である。

8 織田信長が世界に先駆けて取った戦
 法とは何でしょう。
 
 鉄砲の集団撃ちである。

9 鉄砲が伝わってから約30年でこん
 なにもたくさん生産されるようになっ
 たのです。その秘密は何でしょう。
 
 調べてみましょう。

10 種子島で初めて鉄砲を見た島の人た
  ちや領主はどう思ったでしょうか。
 
ア 驚いた(多数)
イ こわかった(半数)
ウ お金を出して手に入れよう(3分の2)
エ 作り方を習おう(多数)

11 当時の種子島の島主種子島時堯(と
 きたか)(16才)は2丁買いました。
 鉄砲2丁分の銀で買ったそうです。今
 ではどのくらいの値段だったのでしょ
 うか。
 
 「2千金(現在のお金で約1億円)」
 →HP参照(同上)
 さらに部下に命じて作り方を習わせました。

12 種子島時堯は家来たちに鉄砲づくり
 を研究させました。ついに国産の鉄砲
 ができました。鉄砲が伝わってから何
 年後にできたのでしょうか。(「日本が
 ますます好きになる歴史クイズ」(安
 住順一 p56)
 
 「翌年」

13 どのようにして生産することができ
 たのでしょうか。(HP)
 
1)高価をいとわず購入
2)火薬調合の方法を学ぶ
3)銃筒の模造
4)銃尾がネジの付いた鉄栓でふさがれていた。ネジの製造を当時の日本人は知らなかった。翌年再び来航した外国人から矢板金兵衛が製法を学ぶ1年後に数十艇の製造。(「地球日本史1」扶桑社文庫 p222 川勝平太)

14 ポルトガル人は鉄砲と交換にたくさ
 んの銀を得て自分の国に帰りました。
 これは儲かると鉄砲を船山盛りにして
 再び日本にやってきました。大もうけ
 するためです。ところが思ったほど高
 い値段で売れませんでした。なぜでし
 ょう。
 
「日本がますます好きになる歴史クイズ」(安住順一 p56)より。すでに日本では鉄砲の大量生産ができていたからである。

15 大量生産を支えた日本の技術とは何
 だったのでしょうか。
 
「たたら・刀づくり・火薬の供給」日本刀を製造する高度な鉄の加工技術があったから。
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  製鉄技術の到達点
 そこで最初に注目されるのは、鉄砲製作を直ちに可能にした製鉄技術の水準であり、鍛冶・鋳物師(いもじ)の鍛造・鋳造技術のレベルであろう。(「週刊朝日百科22 日本の歴史 鉄砲伝来」p36)(中略)こうした鋳物師や鍛冶(かじ)の活発な動向には、当然、それを可能にした鉄生産の発展があったと見なければならない。すなわち中世の製鉄は、従来推測されていたよりもはるかに発達していたと考えられるのだが、しかしこの時期にどのような製鉄技術が行われ、どのくらいの鉄生産がなされていたのかはまだよく判っていない。(週刊朝日百科22 日本の歴史 鉄砲伝来 p36〜37)
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 次のような兆候・状況証拠が示されている。
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1)農民の家財までさまざまな鉄製品が行き渡っていた。(絵画資料から)鍬(すき)馬鍬(まぐわ)鉞(まさかり)鍬(くわ)釜・鍋・鑓(やり)金輪(かなわ)
2)戦国末期ににおける中国山地(備前・備中・播磨)で作られた原料鉄の 集散地、鉄製品の供給地・・・鉄生産の中心が堺であった
3)刀剣の輸出量(日明貿易での輸出品 1432〜1539年15万本近く・原料鉄の供給量増大)
4)鉄穴流し(かんなながし)(流し流法)の開始製鉄原料として純度の高い小鉄を大量に生産できるようになった。
5)千種鋼(ちぐさはがね)(白鋼)出羽鋼(いずははがね)(水鋼)の伝承。野タタラから高殿タタラへの移行期(週刊朝日百科22日本の歴史 鉄砲伝来 p36〜37)
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 他に「戦国時代の領主の要請」が考えられる。火薬の供給はどのようになっていたのだろうか。
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 火薬の材料。木炭1,硫黄1,硝石8。硝石は熱すると大量の酸素を出して木炭と硫黄を爆発させる役割を果たす。硝石は当時の日本ではほとんど産出されなかった。多くを輸入に頼っていた。輸入の窓口になったのが堺。
 堺をおさえることは火薬の供給源をおさえること。(「堂々日本史第1巻」KTC中央出版 戦国日本 銃大国はこう作られたp44)

16 2丁だった鉄砲が32年で6000
 丁余りにも増えました。
  鉄砲伝来から半世紀の天下分け目の
 戦い1600年の関ヶ原の戦いでは両
 軍で約5万丁の鉄砲が投入されたと言
 います。世界最大の鉄砲生産国となっ
 のです。世界中の鉄砲の半分くらいの
 数をもっていました。(「堂々日本史第
 1巻」KTC中央出版 戦国日本 銃
 大国はこう作られた)
  感想を言ってください。
 
「早すぎる。」「すごい。」「技術力がすごい。」「初めてみてすぐに作れるなんてすごい才能だ。」

17 その後の鉄砲は徳川時代に生産が大
 きく制限されます。かわりにある技術
 として発達しました。何でしょう。
 
「花火」「鉄砲を花火に変えた」
(「週刊朝日百科22 日本の歴史 鉄砲伝来」p48)

18 鉄砲を生産する技術はその後どのよ
 うに変わったのでしょうか。
 
「鍬や鍬の生産財生産に切り替わる。関ヶ原の戦いから元禄時代まで耕地面積は2倍。江戸経済の発展は鉄砲生産を規制したことによってもたらされた。
(「堂々日本史第1巻」KTC中央出版 戦国日本 銃大国はこう作られたp60)
 戦後の日本経済の発展と相通じる。
(軍備抑制が経済発展につながる)

19 鉄砲生産の技術が幕末の蒸気船、蒸
 気機関車づくり、明治の近代化の技術
 につながるのです。
  HPで調べてみましょう。
 
→HP「日本自動車百年史 第1章 前史」http://www.st.rim.or.jp/~iwat/zenshi-2/zenshi-2.html#sagahanno
【参考文献】
1 鉄炮伝来 宇田川武久 中公新書
2 堂々日本史(第1巻)戦国ニッポン銃大国 はこう作られた KTC中央出版
3 「地球日本史 1」扶桑社文庫 川勝平 太「鉄砲が動かした世界秩序」
4 「週刊朝日百科22 日本の歴史 鉄砲 伝来」 朝日新聞社
5 時代別日本の歴史6 安土桃山時代
6 日本がますます好きになる歴史クイズ  安住順一 明治図書
7 社会科教育別冊2 教科書にない疑問に 答える歴史資料集 p108〜明治図書
8 鉄砲伝来物語 花村奨 国土社
9 たたらと村 千草鉄とその周辺 鳥羽弘 毅 千種町教育委員会
9 再現日本史 第21号 織豊3
10 再現日本史 第48号 戦国6
11 社会科読み物資料活用小事典 明治図書12 有田式調べる力を育てるワーク明治図書