「人」とは何なのか、私の考える「宇宙観」「自然観」に対比させながらこの想いを整理してみます。
 
 (平成10年7月30日より書き始めて現在も進行中の為、未完了文です。)
 
《前書き》
慌ただしかった一日の仕事が終わり、家に帰りくつろいでソファーに腰を下ろす。
世間では今日どんなことがあったのかと思い、ニュースでも見ようと部屋のテレビにスイッチを入れる。
処が、テレビからはアナウンサーの声が聞こえているのに画面が乱れ映像を見ることが出来ない。
こんなとき人はどうするのでしょう。多くの人はTVのスイッチを入れ直したり、或いは手で軽くたたいてみたり、
チャンネルをくるくる回すなどし、何とか画像が見れる状態にしようとするでしょう。
しかしそれでも映像が映らなければ、初めて人はTVが故障したと判断し修理する事を考え始めるのです。
昨日まではスイッチを入れればTVにニュースとかドラマの画面が普通に映っており、其れが当たり前と
思っていた。しかし今日は其れが映らない。そして故障したと知ったとき人はTVの修理を考え始める、
どんな仕組みでTVには映像が映るのだろうか。多少でもTVの構造に興味を持つ人であれば、
TVに映像が映し出される仕組みを理解し故障個所を見つけて、出来れば自分で映像の映る状態にした
いと思うでしょう。そして、何とか映像が映し出される様になったとき初めてTVは丁寧に扱わなければ
故障するものだと知るのです。このことは、人間と其の社会生活に於いても同じ事が
言えるのではないでしょうか。ただし、出来るものならば人は故障する前に自らを見直す
ことが出来た方が望ましい、また、そうでなければならない様に思うのです。
この地球上に誕生し、その寿命の訪れる迄に、「人」は何をするのであろうか。
しなければならない何があるのであろうか。地球上の生物の生物全ては生態系維持の為、
その役割の一端を担って生存していると言われています、「人」はその役割をどの様に
担っているのでしようか・・・。
 
最近、「人」の行いに、より顕著に現れるようになってきている様に見えるのですが、「人」は、発達した
頭脳を持っている故に、過ぎた自己生存本能を発揮し自らの生活基盤でもある地球環境を破壊し、
ひいては他地球上生物の生存をも危うくしている。これが「人」であるように思えるのです。
しかし、本当に人が「人の考え」で地球環境を破壊できるだけの能力を有しているのでしょうか。 
確かに「人」はいろいろと思考する能力を授かっています、故にすばらしい動物であるという
考え方もあります。しかし「人の思考」そのものが、人間を地球上での迷惑な存在にしてしまった
という見方も出来るのです。私は最近、次の様に考えることがあるのです。
「人」を含む生物は勿論のこと、宇宙に存在している全てのものが、自らの意志で存在し
或いは誕生している訳ではない。この宇宙に存在し、誕生する以上は「自らでは知り得ない
何らかの役割を担っているのだろう」という理屈です。
この理屈を前提として、いろいろな事を考えて見たいと思ういます。
 
    目 次
 
「宇宙」とは「人」とはなにか
「病と治癒」
「生存と滅亡のプログラム 」
「脳」の役割
「本能と思考」
「人の思考」とは何か
「人の欲」
「人としての仕事」
「宇宙」とは「人」とはなにか。
 
私たちの住んでいるいる地球そのものは、何か「偉大な物体」の細胞の一部分ではないだろうか。
このようなことを想像しているのです。
 
我々の住む地球は、宇宙に浮かぶ天の川星雲の太陽系に位置しています。
夜空を見上げるとき、夜空一面に無数の光がきらめき散らばっている様に見えている星は、大小無数の星が、恰も空に浮かぶ雲の様に団をなして宇宙空間で星雲となって幾つも浮かんでいるのです。そして、それぞれの星雲は渦巻き状の形に列をなしていることも、宇宙の観測により究明されているのです。
此を、地球上の生物に対比させて見た場合、この星雲は何か途轍もなく大きなものの細胞の一つに該当するのではないかという想像です。
「我々が望遠鏡を通して他の星雲を覗き見るのは、丁度「偉大な物体」を構成している組織の細胞の一点より、隣接する細胞を覗き見ているのと同じ状態だと考えたのです。これらの細胞により構成されているであろう、途轍もない物体が存在しているのではないかと言うことです。
私達は日常の生活に於いて、空中に浮遊している塵とか細菌を意識することは滅多にありません。ましてやそれらの細菌が躰に付着している事等は、健康に生活している限り考える必要もないのです。
一昔前であれば、日本人の多くの人には、回虫など寄生虫が消化器内に居て、いろいろな影響を人に与えていたのですが、最近ではそれもほとんど無くなっているようです。
或る学者によると、日本人の寄生虫を駆除と時期を同じくして、日本人のアレルギー体質、花粉症などを訴える人が増えて来ているという研究発表を耳にしたことが有ります。
実際、顕微鏡で人の顔の毛穴の脂肪を取り出して観察すると、数ミクロンと小さなダニが発見出来るのです。また病気などで極端に体力が減衰した場合には人の生命にも影響を及ぼす、一般にはMRSAの言葉で耳にする、無数の有害な細菌も人の体内に入り込み生存しているのです。これら、細菌の大きさで人間の躰をみると、きっと無限大にみえる事でしょう。
この様な観点にたって物事を観察し想像してみる、いろいろと面白い事が解るような気がして来るのです。
 
 
私が幼い頃住んでいた田舎は、自宅から小学校まで2、3キロメートルの道程がありました。遠景に山の姿を望みながら、田圃の中のまっすぐな道を歩き、池の側を通り、火葬場のある鬱蒼とした松林に囲まれた山の麓は、荷車がやっとすれ違う事のできる路幅の山道となる、そんな道を毎日通学路として通っていたのです。
春、松が新芽を伸ばす頃、その新芽を折り池の水面に浮かべ、新芽の折口から出る樹油を推進力とて水面を進んで行く、それを眺めて楽しんでいたのです。夏は途中の農業用水路の水で水遊びをし、体中ずぶ濡れになりながら涼を求め。
秋には昆虫を追い掛けたり、道側の山になる木の実を食べ。
冬、池に張る氷上に上がったり、道端の霜柱の上を歩いては霜柱の壊れる時の音を聴いたり、その感触を楽しみながら進むのです。
このように一年を通じ、幼いなりに自然を身近に満喫していたのです。
そんな幼なかった当時は「人の死」はとても怖く感じ、火葬場のある山道を通る時などは、途轍もなく不安を感じ、心細く、恐怖さえも感じてしまうのです。そして、その山道を歩くのがとても嫌だった幼い頃の記憶が今でも残っています。
ある夏の夕方、学校の帰りが遅くなり、一人で家路についている時突然の夕立に出会しました。空が突然薄暗くなったのですが、その周囲の暗さに反して、山の木々は薄暗い空にくっきりと明るく美しく緑色に浮かび上がって見えたのです、しかし自分の歩いている周りの景色は不思議な程に薄暗いのです。まるで異次元の世界に入り込んだようで、何とも不思議な場所にいるような、気味悪ささえも感じる光景なのです。 雷鳴が轟くなか、丁度その嫌な火葬場のある山道に通りかかったのです。そして、その山の上空を見上げると、恰も大空一面を覆い尽くすかの様に暗雲の塊が幾重にも重なり合い、今にもその塊が転がり落ちそうな光景なのです。暗い雲の上端はクッキリと日光に照らされ、僅かな雲の隙間から降り注ぐ日差しは、光る棒となって遠くの地上に突き刺さっているのです。突然、轟音の雷鳴と共に稲光が走ったのです。まさに空と地を裂く様な光景だった事を覚えています。その時の印象としては、想像を絶する天空のスケールの大きさです。
自分の立つ周囲の景色は殆ど暗闇で、上空は黒い雲と白い雲が折り重なる暗黒の世界の様相をなしている、見上げていると自分の躰が吸い上げられそうな、あくまでも薄暗い空なのです。そんな光景の中、天と地を繋ぐ程の稲妻が光ったのです。瞬間、空が裂けて地球に向けて何か落ちて来るのではないかと思う程でした。例えようのない天空の大きさを感じました。
この時見た木々の色彩の緑色の美しかった印象は例えようのないもので、その後、二度とそんな感動的な光景に出会うことは有りませんでした。
只、後年写真に興味を持った二十歳前後の頃、写真雑誌の記事に、色温度というものがあり「色温度は晴れた時より曇った時の方が高くなり、色が鮮やかに見える。」という記事をみつけ、即座に当時見た感動的で不思議な色彩の感覚を思い起こしました。
 
その小学生の頃、通学に片道を30〜40分かけて歩いていました。 その通学の山道を一人で歩いているとふと孤独を感じる時もあり、幼いなりについあれこれと想いをめぐらす事も度々でした。        山間の通学路は道幅が差ほど広くはないので、歩いていれば自然に周囲の木々の姿が視野に入ってくるのです。
ある晩秋の学校の帰り道、その山道を一人で歩いてる時、周りの木々の木の葉が地面に落ち、樹々は枝だけが目立つ枯山の景色が目に止まったのです。ごく普通の秋の光景だったのですが、夏の暑い日差しを遮ってくれた緑の木の葉は、今では茶色く変色し、落ち葉となって地面に積もっている、例えようのない、閑散とした寂しい風景でした。
その光景を見ながらふと頭に思い浮かんだのは、自分の周囲に生活している「人」の姿です。見ている山の姿と同じように、私の家族、或いは近所に住む人々、その人達には壮年代の人もいれば、老年代の人もいる、そして隣村に住む、祖祖父母のように、とても歳を取った老人の姿などを思い浮かべたのです。
自分は今幼いけれど、いずれ自分の親とか祖父母と同じのように徐々に年をとり、いずれ老人となる、そして何れは誰もが死んでゆく、死ねば火葬にされ灰となるはずである。丁度、山に生えている木々の一生と、人間の一生の姿をオーバーラップさせながら考えていたのです。
 
当時、田舎の家庭では、山の木、葉、小枝を家庭の燃料として燃していたのです。山から木・木の葉を掻き集め焚きつけとして利用し、火がつくと順次大きな木(割木)を燃やしていたのです。冬の時期が近づくと、家々では燃料を確保するため、それぞれの所有する山に出かけて、来年の冬までの1年間に必要と思うだけの木の葉をかき集め、小枝を適当な丈に切り揃え、それを背負ったり、荷車に載せて家に持ち帰り、専用の小屋に整然と分けて保存するのです。子供は学校から帰ると、親たちの作業している山を探し、遊び方々親の仕事を手伝うことが当時の一般的な学校から帰った子供の行動だったのです。 
夕方になると、学校の宿題を終え、夕食の支度をする親を手伝うのです。
竈(カマド)に向かい、中の灰を掻き出し竈に火の燃えやすい状況を作り、炊事に使う湯を沸かし、煮炊きする為の火を燃し、風呂を沸かす。
これらも当時の子供の一般的な日課でもあったので。
従って、「山に生える木々は、冬に枯れ朽ちると燃す」ということは、当時の生活からしてみれば極当たり前のことなのです。
 
その頃に「自然」とか「宇宙」を想ったことはありませんが、日常の生活そのものが自然に直接関わったものであり、四季それぞれにに合わせた生活を送りながら「自然」を体感していたのです。
 
小学生の時、世界大戦終戦のきっかけとなった、原子爆弾投下による広島の被害印象も生々しく、8月6日の朝は原爆忌念日として、全校生徒が朝礼で被害を被った市民の方々に向け、黙祷をしてたのです。
原子力に関しては、担任の先生からその爆弾の恐ろしさを、被爆した多くの犠牲者が苦しんでいる様子を通して教えられたのです。原子爆弾の威力がどれ程大きく、火薬を利用した普通爆弾と比べ、比較にならない破壊の力を持った爆弾であったかなどを知らされていたのです。
知識として、「原子力」とは想像を絶する強大な威力を持った「モノ」と理解していたのです。しかし、太陽は絶え間ない原子爆発を繰り返しており、その爆発が私達に光輝いて見えているいることを知りました。人間の作った原子爆弾の規模とは比較にならない規模の原子爆発が絶えず繰り返されていることを知ったのです。
 
その頃の私は、見聞きする科学技術の進展に対し、とても興味を持っており、取り分け、軍事目的で開発される最先端技術の不思議さには驚きさえ感じていました。戦闘機から発射される、意志を持たない機械であるミサイルが、逃げる戦闘機を追いかけ続けることなどには、何故、機械が人と同じように物を追い掛ける事が可能なのか。これらは、とても不思議であり驚嘆に値するものだったのです。
しかし、それも、熱を関知して反応する動物とか昆虫の習性を真似、機械の発する熱を追尾させていたのです。身近では、自動車の窓で雨水を拭うワイパーが、昆虫が自らの手で眼球を拭う姿を真似たものであるなど、人の英知をもって開発されていると思っていた技術開発の多くが、自然界を真似た行為であることなどと、その様な仕組みを知るに従い、人間の作り出す物、行っている事が、自然界に存在するもののコピーでしかないように思えてきたのです。
人間が発明としていること、地球上で起っている事はすべて、相似の形でその原型は自然界の何処かに存在している。「自然の姿」にすべて説明できる原型が存在しているのだと確信できるようになりました。
 
 
 
 
全ては相似である。
この観点で物事を見つめようとするには、その原型を探すことが必要となります。そして、その時の視点・観点をはっきり定める事も大切となります。そして判断の尺度、基準を知ることも大切なのです。
 
私たちは、「音」が伝達して対象に届くまでには或程度の時間を要することを知っています。一方、「光」の進行は一瞬の事であり、発光と同時に目的地に達している。
これらは極当たり前の事と考え理解しているのです。
昔、田舎の小高い山に登り、麓の田圃を見下ろしたとき、丁度農作業を行っている人が隣の田圃で働く人を呼ぶ為に手を叩いてその相手に注意を促している光景に出会しました。この時、話に聞いていた、「音が届くまでには時間が掛かる」その現象を目の当たりに出来たのです。 
丘の頂上に立つ私には、田圃にいる人が手を叩いている姿は見えているのですが全く音がしない、口に手を添えて大声で相手に向かって叫んでいるであろう姿も見えるのですが、全く声は聞こえない。
その時考えた事は、きっと自分の立っている場所と田圃が遠すぎる為、自分の居る所までは音が届かないのであろうと。そう思った瞬間、見えていた動作に大きく遅れ、手を叩く音、叫ぶ声が聞こえてきたのですのです。
その一寸ずれた光景の不思議さに感動し、暫くその光景に見入り喜んでいた幼い頃の記憶があります。
この幼い頃の体験が、その後「自然」を見つめようとしたとき、「音」の場合と同じように、「光」の進行に時間を要する距離がこの世に存在するという、それまで殆ど意識していなかった概念が生まれ、諸々の考え方のきっかけとなってくるのです。
 
自分(人間)を中心に世界を眺めて、見つめていたため、考えのすべての基準・尺度が自分(人間)の知識を基準としていたのです。
物事を観察するとき、何を基準として観察しようとしているのか、そして其の「基準」を変えると、全く別の世界がそこに現れてくるということです。とりわけ、「時間」に至っては、考え方を改め、視点を変えてみる、その大切さと必要性を強く感じるのです。
 
時空を旅するという「タイムトラベル」、このことを初めて耳にした時は訳の解らない事であり、即座にその概念を理解する事はできませんでした。要するに、私の考え方から、時間とは確実に過ぎてゆく絶対的なものであると言う固定観念の枠がはずれなかったのです。
 
地球より遙か遠くの宇宙の彼方に位置しているある星の光が、地球に届くまでに何億光年もの時間を経て地球に届いている。従って地球で見るその星の姿は、何億光年も昔の姿なのである。すると、光より僅かでも早い速度で一光年分その星に向かって進んだとすれば、その時見える星は地球に居て眺めるよりは一年分、星の未来の姿を見る事となるのです。
反対に、一光年分星から放たれる光の進方向と同じ方向に進んで星を眺めたとすると、一年過去の星の姿を見ることとなるわけです。
この様に考えると、何となくタイムトラベルが理解できるような気がしてくるのです。
こんな経験もありました。高校生の時、自動車のディファレンシャルギヤ(差動装置)の仕組みを知りたくて百科事典を開いたことがありました。そこに差動装置の詳細な図解がしてあったのですが、描かれている歯車に動きがない為なかなか理解出来ません。その図解を暫く眺めながら組み合わさっている歯車の動きを想像していると、徐々にその仕組みが理解できていったのです。
丁度、下がっているエレベーターに乗り、その中で飛び上がっている事と同じことに違いない。こう理解したのです。
そして、この仕組みを他人に説明しようとしたのですが、説明の仕方が分からず、結局理解して貰うことは出来ませんでした。
 
この「光年」の考え方は明らかに人間の時間を基本とした距離の感覚なのです。1日を24時間とし、365日を1年とする。1年は12ヶ月で、生物には××年の生存期間があって、その時間を経過したとき生物の寿命が尽きたと考える。
世界的な長寿国民となった日本人の昨今の平均寿命は、70〜80歳にまで伸びています。これら「人」が長寿なのに比べ、他の多くの生物達は寿命が短い、例えば「蝉」は地中に数年間もの期間を生きている。
けれど、それに比べ地上で飛び回りながら生きる期間は僅か10日程度と非常に短い。人間と仲の良い犬・猫でも僅か十数年の寿命である。
庭に生える草花は、1年の間に花を咲かせ、実を付け、種を残してその短い一生を終えてしまう。
私達はこのように思っています。
 
これら、「長い」「短い」の考え方は、明らかに人間の寿命、年齢を基準とした見方なのです。
蝉は本来地中に生息する生物であり、地上で過ごす事が本来の蝉の在り方ではないのかも知れないのです。
陸上に這い上がる魚がいます。私たちの知る魚の多くは地上ではなく水中を泳ぎながら生きています。この陸に這い上がる魚をみて、人間は其れを「魚の進化する姿」と見るのかも知れません、人間が進化を続けた結果の生物であり、何れは全ての生物が陸上に上がってくるものであるとすれば、それは進化に違い有りません。しかし陸上に住んで居る私たちを基準にして、その真実の如何の判断は出来かねるのです。
 
アメリカの行った宇宙開発のアポロ計画では、1969年7月人類史上初めてアポロ十一号の月着陸船イーグルを月に着陸させ、人類を月の上に立たせることに成功させました。
そのアポロ計画で、1970年のアポロ十三号は、宇宙で大変な事故に遭遇したのです。
地球の引力を振り切り月に向かう途中、アポロ十三号の燃料タンクが爆発を起こし、宇宙飛行士の生還が危惧 されたのです。アメリカ航空宇宙局NASAは全ての飛行計画を中止させ、宇宙ロケットの地球帰還に全精力を注ぎ、無事に宇宙飛行士全員の地球生還を達成させたのです。その生還に際し、アポロ十三号の遭遇した最後の難関として、地球を取り巻く大気の存在がクローズアップされたのです。地球への帰還を目前にした宇宙船が、地球の大気圏に再進入する際、僅かでもその進入角度を違えると、宇宙船は地球に激突するか、或いは大気層にはじき飛ばされ宇宙の彼方に飛び去ってしまうというのです。
 
我々が池に向かって小石を投げる時、石が水面に当たる時の角度が急過ぎると石は水中に沈んでてしまい、その角度が浅いと、石は水面を飛び跳ねるのです。この様な経験をした人は少なくないと思います。
我々は空中に浮かぶものは落ちてくると考えており、地球を取り巻いている大気中を超高速で物体が進むと大気との摩擦熱で物体を燃やしてしまうこと事自体を不思議にとっていたのに、重い宇宙船を跳ね飛ばすほどの力を大気が有していたとは、其れまで想像した事すらありませんでした。
第一に、地球の厚い大気の中にいてその大気の存在など何ら意識することすらないのです。しかし、現実にはその大気に含まれる酸素をはじめとし、いろいろな物質の恩恵に肖りながら生きているのです。また空気の浮力或いは抵抗を利用して金属の塊である重い飛行機を浮かばせているのです。では「水」はどうでしょう、勿論「水」も我々にとってなくてはならない物質です。地球上の生物は水によってその乾きを防ぎ、人は水の流れる力を利用したり、その大きな浮力を利用して船を浮かべたりと利用するのです。しかし、その水中では我々は溺れてしまう。そこには人の生活の場を求めません、従って我々人間は水中を別の世界として認識しているのです。「水」は私達にとって液体という別な物質なのです。それでは水中に生きる生物は「水」をとりわけて意識しているのでしょうか。恐らく、人が「空気」を意識していないのと同様に、水中の生物は「水」の存在など、意識していないと思えるのです。
取り分けて意識する必要のない事に関しては、ついその必要性、存在すら考えることは少ないのです。
 
「基準」の話に戻りますが、人は、時間の最小単位を「秒」とし、更に短い時間を一瞬としている、これが人間の時間に対する観念であると考えるのです。長さに関する観念はどうでしようか。フィートという長さは人の躰を基準とした長さの単位ですし、日本での長さの単位はメートルです。1000メートルをもって1キロメートルとし、地理上の2点間を表現するとき、数キロメートル、あるいは数千キロメートルと言い表し、それより大な距離の場合、地球の何倍と言うような表現を用います、さらにそれより遠い距離の場合、光が1年間で進む距離「光年」を用いてその距離を表現し捉えているのです。
 
そこで、この距離の尺度基準と視点を変えて宇宙を想像してみようと思います。
 
「生物を構成している細胞はそれぞれが細胞膜で区画されており、その細胞膜の内にはエネルギーの発生源ミトコンドリアが存在しており、中心には細胞の核がある。その細胞の中心に位置する核の大きさを基準として細胞膜までの距離を計算すると、太陽と銀河星雲との大きさに対比する距離である。」
このように教わった記憶があります。
宇宙に浮かぶ星雲を一つの細胞に置き換えて宇宙全体を考えると、丁度、人間が顕微鏡で細胞を観察している姿を思い起こせば、この宇宙も驚く程無限大のものではなく、むしろ地球が・人間自体が、とても微細な存在であるように思えてくるのです。
そして私の考える概念では、「この世界に生存している物体(生物も鉱物も全ての宇宙に存在している物)は自然界の、ほんの微細な一つの部分であり、私の言う「偉大な物体」の尺度を基準にすれば、その大きさも、時間も、ほんの僅かな一瞬の存在であるに違いない。
このように考える事が出来るのです。
人は数十年を生き、その間いろいろなことを行っている。そして我々人類は、地球上に誕生して以来何千年何億年もの永い歴史を持ち、科学を行い、文化をつくり、今では宇宙開発まで出来るまでに進化してきたと考えているのです。極身近な自然界に目を向けてみても、例えば樹木です。屋久島に生える「縄文杉」は人間の幾世代もの時間を過ごし、地球の環境変化を経験しながら悠然と生存し続けているのです。確かに、これらは或る点に於いて素晴らしい事であり、偉大な事なのかも知れません。しかし、観点、基準を変えればほんの一瞬の事なのかも知れないのです。
視点を変えたものの見方で、別のケースがあります。
人は頭脳によって全てがコントロールされていると考え易いのですが、人の消化器の一つである「腸」に、不思議なメカニズムが存在しているのです。人の躰が栄養を必要とすると、脳が空腹を指令し、食べ物を口に入れる事に始まり、粗食・消化・吸収・排泄と順次一連の栄養吸収のメカニズムが働きます。水分が不足し、血液濃度が上がれば、やはり脳は水分補給の指令を行い、人は喉の渇きを感じ水を飲むのです。
これら通常の消化器の働きは、多くの場合脳の指令によるものなのですが、この脳の指令によらない腸の働きが有るのです。消化器内に毒素、或いは雑菌が進入したとき、小腸は自ら指令を発して単独で活動をし、その毒素を体外に排出しようとするのです。それ故に、腸は第二の脳とも言われているのです。
消化器内に毒素が進入した儘で脳の指示通り、通常の栄養吸収のメカニズムが働くと、その毒素は体内に吸収され、あらゆる臓器はその毒素に侵され、最悪の場合、人の生命に影響を与えることとなるのです。
従って、毒素を察知した腸は、脳の指令を待つことなく、腸が独自に活動を始めるのです。体中の水分を腸に集め、「下痢」という形でその毒素を体から排泄しようとするのです。
これら身体の働きを、一連の生命維持の活動と見るか、それとも、それぞれの細胞が存続を図る為、環境の変化に対する対処として捉えるかの違いなのです。
人体の持つメカニズムは、人類が創造してきた現在の最先端の科学技術をもってしも、自らの躰に存在する臓器の真似すら十分にできていないのです。原子単位を見つめる顕微鏡の発達、或いは最近のコンピューター技術により、やっと人類の起源と、その仕組みを解明し、その歴史を研究し始めたのです。人類が地上に誕生し、今頃やっと、人間の躰を構成する臓器細胞が発する一瞬のホルモンなどの役割をある程度にまで究明することが出来ているのです。また、DNAの研究により、生物の形成プログラムを発見し、最近では臓器を再生する技術も或程度にまで完成させているようです。
では人間は将来、それらの機能・組織をもつ生物の形成を可能にし、 更には、自然界に存在する以上の生物を創造出来るのでしょうか。
確かに最近の医学では、合成した膵臓タンパクでインシュリンを分泌させることに成功しているようです。何れ、これらの医学技術により人工の膵臓が作られ、糖尿病に苦しむ人々が少なくなる時がやって来るでしょう。そして将来あらゆる人工の臓器が人の病気を治す時代が到来するのかもしれません。
但し、自然界に目を向けると、我々は、蜥蜴の尻尾が再生することを知っています。水中に住むイモリに到っては失った手足が再生してくるのです。自然界に存在するメカニズムは、まだまだ人間の真似ることの出来ない、壮大な仕組みが存在している筈です。
 
以上述べてきたように、人が頭脳の指示により行っていること、行おうとしていることは、自然界の仕組みに比べると、本当に微細なものなのです、そして、その人の存在そのものも、ほんの僅かな一瞬に何らかの役割を行うための、壮大なものを形作る無数の部分のほんの微細な一つでしかないと考えられるのです。
人間が自己を中心とした単位で物事を考える故に、人間の知恵が素晴らしく思え、人間そのものが偉大に見えるだけなのです。
宇宙の観点・単位で考えるとき、人間はさほど大きな存在ではなくなり、ましてや人間一人の役割等は、別の人(別の部分)で充分にその役割を分担できる筈であると考えられるのです。
 
「病と治癒」
 
人の躰を例に取って、次のように考える事ができます。
 
人は無数の細胞の集合体であり、一つ一つの細胞が一つ一つの役割を果たして一人の人間が存在している。しかし、細胞の一つが、或いは数個が欠如したとき、人が人間として存在できなくなるのかと考えたとき、決してそうではないと思うのです。たとえその細胞が再生をしない、非常に貴重な細胞と思われている脳細胞であっても、それは同じなのです。
人間として、誕生の細胞分裂が始まった時は、その必要が有って分裂し、存在している筈です、しかし、一つ一つの細胞は決して「絶対不可欠な存在ではない。」これが自然の仕組みではないかと考えられるのです。
事実、周囲に良くない影響を与える存在となった細胞は、それを取り除く必要があると判断され、取り除く事も出来ているのです。
人体の病の一つ「癌」。急速に細胞分裂を繰り返しながら増大し続け、次第に周りの臓器を圧迫し、破壊するため、人体の機能障害の原因となってくる不要な細胞の塊である「癌」を例に考えてみるとき、癌細胞となるまでは普通の細胞の一つだった筈です、しかしこの細胞が何らかの原因により突然癌細胞へと変態してしまうのです。恐らく人の精神的ストレス、あるいは不規則な生活習慣、ウイルス感染等、何らかの外因に影響されることで、人体にとって必要な存在であった細胞が、邪魔な細胞へと姿を変えてしまうのです。
このとき、医学では、不要になった細胞を取り除く、或いは死滅させることにで、その躰の機能を維持しようとします。手術と称してその行為を実行するのです。その行為により、躰は本来の役割を取り戻し、再び平常の活動ができるように変身できると考えらます。
 
 
人間の社会に於いてはどうでしょう。
 
古来より、人は社会の秩序に従わない人を罪人として社会から隔離し、社会秩序を維持しようとしてきました。其れでは、この罪を犯した人は、生まれたときから罪人だったのかと言えば、けっしてその様なことはなかった筈です。
では、この罪人である人を社会から隔離すると、その社会は正常な社会活動が維持できなくなるのかと言うと、その様なこともありません。
 
これらも、私の考えている「相似」の一つなのです。
細胞と人間とを置き換え、それぞれの視点で考えた例の一つなのです。
 
病の治癒に関しても、そこに自然界の仕組みの相似を見ることができるのです。
例えとして、現代医学で治癒を諦めた癌が、民間療法によりそのガン細胞が死滅して癌が治癒してしまった。こんな話を耳にした人はすくなくないと思います。病としての癌がなぜ人体に発生するのか。その仕組みが未だはっきりと究明されていないため現代医学で治癒を諦めた「癌」の消滅は非常に不可解な現象と思われているのです。
しかし、この不思議な現象を、人間のひきおこす社会現象の視点に置き換えて考えてみるとき、ある程度その仕組みが見えてくる様に思えるのです。
 
地球上には幾つもの国があります。それぞれ民族、宗教、政治思想などの違いにより、国境で分断し、各々の国に人々が生活しているのです。その国同士の利害が反して、そこに戦争が勃発したとします。
このことは、丁度地球を人の躰に置き換えて考えて考える場合、身体の一箇所に癌が発生した状態に例えて考えることが出来るのです。
地球を人の躰に置き換えると、国に住む人々が細胞であり、国は躰の組織です。組織の一つが癌細胞に侵されている状態に例える事が出来るのではないでしょうか。
暫くは互いの国同士が争い、やがて人々は平和を望むようになり、やがて平和条約が締結されて紛争が収まるのです。
この、もとの平和な状態が取り戻された状態は、人体に於いて、躰の癌細胞が消滅し自然治癒した状態と同じではないか と考える事ができるのです。
紛争が起こり戦争状態の時、周りの国々はどうするでしょう。必ず自国に紛争が及ばないように何らかの対処を行うはずです。或る国は、何れかの国を支援する形で戦争に荷担してゆくでしょう、これは躰の病が進行している状態に似ていると思うのです。反対に紛争が拡大しない為に平和外交を行う、あるいは別の国が武力をもって紛争の収拾を図る、これは躰において、病気に侵された箇所が発熱したり、血流が増し、白血球が集中するなどの免疫作用による防御反応、このことに似通っているように思えます。
 
 
人間の社会に於いても同じように、人体に生じる病と同じものを見ること出来るのです。
ごく普通に活動していた団体、或いは人が、社会活動を続けている間に、政治の変動とか、経済の変動、個人的な欲などが原因となり、其れまで「普通の人」がそのことを契機に「社会の罪人」である「社会の癌」へと変わってしまうのです。 
刑法上の罪人・民法上の罪人・商法上の罪人といずれの場合も人間社会にとっては好ましくない存在です。人間社会ではそれらの罪人を、場合によっては投獄し、裁判で最も罪が重いと判決された場合「死刑」とい形で抹殺することもあり得るのです。
経済組織である企業の場合はどうでしょう。経済的な行き詰まりが生じると、会社社更正の手続き等を行い、倒産整理と称して、経済社会から抹消・隔離しようとします。躰の病で、手術等の方法により人為的な治療を行ったと同じ状態です。その行き詰まった企業が、経営の無駄を省くなどの経営改革を実施し、社会からも企業再建の余地があると認めら、再建企業として再び健全な経営を営む企業も有ります。この場合、躰の病で、自然治癒した状態に該当するのでしょうか。この「社会的に好ましくない存在」は丁度、躰に癌を発見した状態で、先ほど癌が消滅する例を述べましたが、人間社会で自ら努力し更正して、健全な社会活動が送れる状態を取り戻した人・団体は、人体の「病の治癒」と称している状態ではないかと思えるのです。このように、人間社会と躰とを対比させて考えても、非常に似通ったものを見出すことが出来るのです。
 
私は、人の躰に突然発生してくるこの「癌」を人の進化の現れの一つではないかと考えているのです。
水中に住むほ乳類の手足がヒレとなったように、生物はその環境に適応して生存し続けています。人間は知識の発達により、食料事情を改善させ、医学の発達により病を少しずつ克服してきました。このことにより、人類の生存期間は延び、地球上その環境の影響を長期間受けるようになったのです。例えば紫外線です、昔は日光を浴びることが健康に繋がると思い、積極的に日光浴を行っていました、しかし最近、この紫外線は人体に悪い影響を与えていることが分かったのです。寿命が長くなった事とは、この紫外線を以前より多く浴びているのです。また、最近、太陽光線のなかに、今まで確認されていなかった新しい光線(粒子)の存在が明らかになっているのです。この光線は地球をも瞬時に突き抜ける粒子なのです。
他方では、最近、新聞紙上などで盛んに取り上げられている、人類による地球環境の汚染です。二酸化炭素の増加による地球の温暖化現象、フロンガスによるオゾン層の破壊により、地上に降り注ぐ紫外線量の増加などです。少しずつにしろ、我々の住む環境は変化しているのです、すると、今までの儘の人体では近況に適応できなくなる筈です。生物の進化が徐々に行われて来たように、人の躰も少しずつ変化することが必要となるのではないでしょうか。
「癌」などの細胞の変化を、現在の医学知識でもって簡単に判断し、切除することを繰り返すことは、考え方を変えると、人の進化の芽を人間自ら摘んでいると言うこととなるのかも知れないのです。
社会経済に目を向けても、経済組織の改革はその経済活動に不都合が生じたことを契機に、組織・仕組みを改革しながら現在の経済組織が構築されてきているのです。
これらははあくまでも私の考える仮定の話しです。
但し、「人間社会」も「人」も、生物を構成する細胞と同じように、そのもの自体に、潜在的な「病の要因」即ち「適応能力」を持ち合わせていることを忘れてはならないのと思います。
 
 
 
 
 
 
「生存と滅亡のプログラム」
 
太陽を中心に宇宙に浮かぶ塵が衝突を繰り返しながら 寄り集り、そこに星が誕生した。その誕生した星のなかに地球があったのです。
誕生した地球には太陽が放射する色々な光線が降り注ぎ、また頻発する地球の火山活動により炭酸ガスと水蒸気が地球表面に充満している、
やがて水蒸気は地表で海となり、そこに、降り注ぐ太陽光線と充満する二酸化炭素をエネルギーとする植物が地球上に発生してくる。発生した植物が炭酸同化作用を繰り返すためやがて植物から排出される酸素が地球上に溢れるようになり、地球の環境は変化してくる。
当時の地球環境は、植物の生育にとって快適な条件であったため、植物は巨大に育っていたのです。これら植物により発生してくる酸素が、酸素を消費する新たな生物である「動物」の発生の原因となるのです。 また、この動物のある種は、食料として植物を体内に取り込むことにより、自らの活動エネルギー源とすることが出来たのです。      地球は、鉄を主成分とする核を中心に、周りに灼熱の マグマが流動している、マグマには地球の持つすべての成分が含まれており、このマグマは地表で固まり地殻を形成する、この地殻の表面の風化した土壌に根を張り、土壌に含まれる地球の構成要素を栄養源としているのが植物なのです。そして、動物もまた、植物を体内に取り込むことで、間接的に地球の構成要素を栄養源として体内に取り込み生育しているのです。この様に、地球上の生物全ては、地球のもつ成分が有る故に生存できている考えられます。そして、ここには共通したそれらの発生に関わる存続のルールが存在しているはずです。
「植物」と「動物」の生態を例にとってこの存続のプログラムを考えることが出来るのではないでしょうか。
 
植物には個体としての「幹」があり、幹は枝を張りその枝ごとのコロニーを形成し、枝の先には葉・花・実をつくる。多くの植物は地球の公転である一年を周期として、葉・花・実を地表に落とし、落とした葉・花に含まれる地球の成分を再び栄養として幹に取り入れる。この事を毎年繰り返しながら、さらに幹は大きく育つのである。
育った幹は周囲に種子を落とし、その種子からは新たに同種類の植物が育ち、植物は次第にその子孫を増やすことで、徐々に「種」の勢力を増してゆこうとするのです。
土壌の養分を直接吸収するために地中に根を張った植物は、自らが生存しやすい環境を求めて移動する術を持たないのです。従って、存続をより確実なものとするには、丈夫な大木に育ち、より多くの太陽光線を浴びる事が必要となるのです。日光を求めて枝葉を広げようとするのです、しかし、此の広がった 枝葉はお互いが日陰をつくる結果となり、植物同士は日光を求め、争って幹を空に伸ばす努力を続けようとします。 伸びすぎた幹は倒れやすくなり、樹木の中には、幹を支える根を太くしたり、板根を形作ってより高く幹を伸ばすなどの新らしい「種」が 発生してくるのです。
一方、背が低く枝葉の陰に根を張った樹木は日光を遮られ、充分な太陽光線を浴びることが出来ないのです。 そのため炭酸同化作用が充分に出来なくなり、大木に育つことは困難となるのです。幹の細い植物は空に伸び過ぎると自ら倒れてしまう危険も生ます。それを防ぐ為、蔦となって太い幹の植物に絡まりながら日光の当たる上空を目指す。或いは日陰を作る大木の幹に絡まり締め付けることにより大木を死滅させ、自らが生き残り、その勢力を伸ばそうとする植物も現れてくるのです。
その他、地中に張る筈の根を高い場所に移動させ、他の植物の幹に根を張ることにより、多くの太陽光線を浴びる術を身につける植物も発生してくる。太陽の光を充分に浴び、多くの栄養を吸収することが出来るようになった植物は、更にまた幹は太く生育してゆく。しかし、繁殖しすぎると再び互いが日陰を作るため、一定の密度で植物は生育しようとするのです。
この繁殖に於いて、植物の仲間には変わった能力を持つものが居るのです。私達の身近にある果物とか野菜です。
これらの植物は驚く能力を持っていたのです。
 
植物には海を泳ぐ能力が有りません、恐らくあの濃い濃度の海水に長時間浸かっている事も出来ないのではないでしょうか。
しかし、果物とか野菜の仲間には、人間の作った船、或いは飛行機を利用して世界中に分布しその勢力を拡大したものがいるのです。
元来植物は、昆虫とか動物の力を借りて受粉を行ったり、種子を風に乗せて他の場所に運び子孫を残す能力を持っているのですが。広大すぎて不可能とも思えるあの大海原を越え、しかも自らの能力だけでは到底種の育成さえも困難な土地にさえも、農耕という人間の労力を借りて、その勢力を広げているのです。これらは明らかに生存の為の能力です。強い「種」が生き残るための自然界に存在する存続のルールと思えてくるのです。
これらの植物の仲間で、しっかりと土壌に根を張り、大きく枝葉を広げる樹木は、大きく広げた枝からは種子を落としながら、少しづつ周りに勢力を拡大し続けようとするのです。幾度となくこのことを繰り返すのです。しかしそのうち、幹のつける葉・花の数は少なくなり、やがてその幹は枯れ朽ちてしまう。そして、樹木はその一生を終えるのです。
 
この様な一連の樹木の生態を、「種」である人に当てはめて考えてみる事とします。「幹」に当たるのが人の「類」であり、日々の生活を営むおおくの人「種」(植物の葉に該当する)がいます。この人類(幹)には、それぞれの人種毎にコロニー(小枝)を形成し、形成されたコロニーは、次第に勢力の拡大が行われる。更にコロニーが寄り集まり国(大枝)を形成するようになる。やがて、国を単位とした人種の勢力が増大してくると、それが国同士の勢力を争う事になり、互いに吸収合併を繰り返す、やがて人種(葉)は減少し、人口が少なくなり、人類の勢力が疲弊し、やがてその人「類」が消滅してゆく。これも自然のルールのように思えるのです。
古代、地球を支配していたと言われている恐竜の滅亡も、このような自然のルールに基づいた自然現象の為の滅亡であったように考えるのです。
現代の地球上に目を向けてみても、滅亡の危機を訴え、人間が保護しようとしている多くの動物たちがいることも、この法則に基づく現象ではないでしょうか。勿論、視点を変えた場合、宇宙の星も或いは宇宙自体もこの法則に従っている筈だと考えます。
では何故、「存続」と「滅亡」という相反するルールがそこに存在するのでしょうか。
私は、地球上の「生命の起源」を考えたとき、「存続」がその基本にあると考えるのです。
宇宙に漂う塵は互いに寄り集まろうとする。生命が地球上に誕生した時から、生物はより確実に、生き残る為の工夫を積み重ね続けていると思うのです。海に誕生した生命は、当然の事ながら、海中が最適の生存環境であったと考えられます。繁殖、栄養摂取、移動などの全てが海に依存出来たのです。やがて生命は生物へと進化し、あるものは、陸上にその繁殖の場を移し、別の進化を続けたのです。
陸に繁殖の場を移した植物の中で丈夫な幹を持つ樹木は、一度土壌に根を張ると移動ができません。生存に適した環境に移動するには、世代の交代の都度、種子を周りに落としながらその場所を移す以外に方法はありません。従って子孫を残す迄の間、環境変化に耐える事の出来る丈夫な表皮を幹に纏い、土壌が乾きに難いよう枝葉を茂らせ、多量の葉を地表に落とすのです。地中深く丈夫な根を張ることで幹の倒れることを防ぎ、地球の栄養を摂取したのではないかと思います。
草花は、樹木のように丈夫な幹を待たないため激しい風雨に耐えることが出来ません。厳しい外部環境に耐えるだけの表皮も持たない為、冬の厳しい環境の訪れる前に子孫を残し短期間で世代の交代を行うことが必要です。或いは、必要な日光が当たり、栄養豊富な土壌の快適環境が訪れるまで地中に種子を残し、やがて訪れる環境の変化を待つのです。 また土壌の乾燥を防ぐため密集して生息する術も知っているのです。
 
陸上での動物はどうでしょう、動物は快適環境を求めて簡単に移動出来るのですが、移動に多量のエネルギーを必要とします、その為には多量の食物摂取が必要となるのです。従って動物は自分に適した食物を探し確保するという、植物には無い別の能力を必要としたのです。繁殖をし過ぎると、栄養源である食物の確保が難しくなるため、勢力の拡大に関しても、動物は、植物が多数の種子を周りに落とし、そのうちより生命力の強い種子だけが育つという非効率な方法ではなく、限られた数の子を親が確実に生育の手助けを行い、子孫繁栄の確率を高める方法をとっているように思えるのです。
このように、移動し難い植物は、環境に適応できるように自らを変化させ、移動の可能な動物は移動することにより、自らに適した環境を探し出し、その場所へ即座に移動し、環境に適応した生活を求め、子孫存続の努力をするのです。この、存続の判断を的確に行う機能として、動物には「脳」が発生したのではないでしようか。
植物も動物も、全ての生命は、自らの存続を工夫する事で、子孫の繁栄を行い、勢力の拡大を目的にしている。
このことが自然界での生存・存続の法則なのです。
 
しかし、ここに大きな問題が発生します。というのは、地球上の環境が長い年月を経るに従い変化してしまうということです。
地殻変動、地表の風化などによる地形の変化、この地形変化による水の流れ、水位の変化、あるいは火山活動の減少による気温の変化、大気成分の変化、地球自体の冷却化による地熱の変化など、諸々の環境条件が一定ではないということです。植物も、動物も、これら地球環境の変化に対して敏感に対処できない「種」は、その存続が危うくなってしまうのです。自らの勢力を広げる為には、適した環境を求めて移動しなければなりません。しかし植物は、適した環境を求め移動するには時間が必要です。従って、もとの場所で繁殖できず消滅を余儀なくされる植物が生じてきます。この植物の消滅は動物の生活環境に影響を及ぼすこととなり、動物もまた適した環境を求めて、生活の場所を移動する必要が生じてくるのです。
このような、絶え間ない生息環境の変化に的確に対処できるよる能力を供えた生命力の強い子孫が必要なのであり、自らの「種」の繁栄を託すことのできない子孫は存続する必要が無くなって来るのです。
また、過ぎた「種」の繁殖・繁栄は、植物も動物も、自らの「種」を滅亡に導くことにもなるのです。植物は密生しすぎると、根を張っている土壌の水、栄養が不足してきます。動物も同じ餌を栄養源とするため、食料が不足してくるのです。従って「種」が繁殖し、勢力の拡大をするためには、環境適応能力に優れ、生存能力に優れたものが淘汰により生き残り、子孫を残す以外術はありません。
この「淘汰」による消滅も自然の法則だと考えるのです、即ち滅亡の法則の一例と見ることが出来ます。自然の摂理は一定の法則に基づき、 その法則が全てのものに当てはまることを前提としているとすれば、「種」としての人も例外ではなく、人類が環境適応の能力を増す事ができれば、まだまだ存続し続けるでしょう。適応できない環境が地球に生じ、その環境への適応能力を持つことが出来なければ、いずれ人類も消滅する筈である。この様に考える事が出来るのです。
 
 
 
「脳の役割」
 
それでは、永遠には存続し得ない「種」である「人」は何のために、なぜ地球上に存在しているのでしょうか。
人類の存在は、宇宙の塵が星に成長していったように、必然の存在ではなく、偶然の存在ではないかと思われるのです。既に宇宙の塵が集まり始めたとき、或いは、宇宙に塵が存在したこと事態が、人の存在を定義付けたとも考えられます。
 
では人間の存在とは何なのでしょうか。
 
「人は考える葦である。」フランスの哲学者パスカルは自書「パンセ」でこう表現しています。確かに人間は思考する生物なのです。
地球の構成物質マグマ等に含まれるのと同じ地球の構成元素が寄り集まった末に誕生したものが生命です、やがてその生命は生命体となり細胞となったのであす、 そしてその細胞が人間を形作っているのです。原子のレベルで人間の体を考えたとき。人間の一部である一つの元素がそこに有り、その隣にも別の元素が存在する、永遠に隣には元素が存在しているだけで、元素は、自らが構成している「人間」というものも形すら確認はできていないでしょう。また、人間を元素にまで分解したとき、その元素には「思考」というものは存在していない筈です。
しかし、元素が寄り集まって単細胞が形成される、形成された無数の単細胞は互いの存在を確認し合う術を持つようになり、自らの存続を図ることを目的に無数が寄り集まりながら、細胞の集団をなしてゆく。各細胞の集団はお互いの存続の利害を目的にさらに大きな集団へと化して行く。このとき、細胞の集団は互いに連絡を取りながら諸々の役割を分担しようとすることで、より効率的に存続出来る環境を形作るようになり、一層大きな集団が形成される。その大きくなった細胞の集団は次第に集団としての特徴を有する様事となり、いろいろな特徴を持った細胞集団がさらにお互い影響し、協力しあう集合体へと組織化され、やがて生物が形作られていったのであろう、と想像するのです。
その役割を分担する細胞の集団のなかには、複雑・巨大化した諸々の集団の情報を伝達し制御する為の「神経細胞」と称される細胞集団が発生し、この神経細胞がより緻密に連携できる状態に形成されたものが、動物の「脳」と言われるものなのではないでしょうか。
それぞれの細胞は形作られた生物の生存を目的に存在するのではなく、細胞自らが存続し易い環境集団を形成した結果として、植物・動物の生物が形成されたのであろうと考えるのです。
すると、「脳」を形成する細胞も、動物の肉体を形作っている細胞集団を制御し生物そのものの生存を目的としているのではなく、脳細胞、ひいては脳組織の生存し易い環境づくりを目的としているのであり、生体の存続を図ること自体は、「脳細胞」自らの存続維持を目的としているに他ならないと考えられます。
 
事実、人は極寒の中で凍傷により手足の指を失うことが有ります。人の体が極端に冷えて来ると、脳組織は、脳細胞の生存出来る血流・体温を保持とようとする指令を発します。 限られた体内の血液を脳組織に優先して送る為に、頸動脈以外の血管を収縮させる指令を発し、脳に送る血流を増やし、脳細胞の生存し易い環境を保持しようとします。やがて血管の細い体の末端から血流が滞り、結果、手足を形作る細胞の栄養は不足し、栄養不足となった手足の細胞は破壊されてしまうのです、その結果凍傷となるのです。
また、脳は多量の栄養を必要とします。脳細胞の栄養となり得るのは上質の「糖」だけです、脳は血液をとおして栄養を補うのですが、体が食べ物を摂取しないと脳細胞は十分な栄養を吸収出来なくなります。栄養の不足する脳は、体の組織に蓄えた脂肪を糖に分解する指令を肝臓組織に発し、そのことで脳細胞の栄養摂取を継続しようとします、さらに栄養補給が不十分な状態で続くと、「脳」は体の筋肉組織にまで糖を求め分解摂取しようとする指令を発します。従って栄養不足の体は筋肉がやせ細り、やつれた姿となるのです。
これらの例から推測できるように、脳は脳細胞の生存環境を維持するために体のあらゆる臓器に指令を発して自らの生存環境を保持しているのであり、生体の生存そのものを目的としていない事が見えてくるのです。
勿論、「脳」の指令により、生体が全体のバランスを保ちながら生存出来ていることも事実です。そのことで生体は健康であり、生体を形作るそれぞれの組織の細胞も快適な環境の確保でき、そのことにより生存が可能となっているのも事実です。 
では、人間の「脳」のもっている、自らが属する細胞の塊である体の存続維持を目的とする以外の作用である「思考」は何のためなのでしょうか。脳が組織の存続のみを目的としているのであれば、取り分けて「思考」をしなくても自らのおかれている環境の状況判断を確実に行うことだけで充分であるように考えられます。
私達人間の観点からしてみれば、植物はその様に見えるのですが、思考しなくても生物は自らを取り巻く周囲の環境判断を的確に行うことで地球上に生存出来ると思えるのです。
 
 
 
「本能」と「思考」
 
前にも述べましたが、宇宙空間の塵が寄り集まって無数の星が誕生し、その誕生した星の一つである地球上に我々の先祖となる生命が誕生した。偶然に誕生したこの原子生命は地球上で生物へと進化して来たのです。
これら地球上の生物は、誕生以来自らの子孫を残すため、あらゆる工夫を繰り返しながら環境に適合する学習をしてきました。
それは我々人間の視点で見るとき、植物・動物の仲間たちは自らのおかれた厳しい環境下で、その神秘さに感動を覚える、驚く様な方法でもって子孫を残そうとしているのです。
そもそも生物は、地球の有機質が生物に形態を変化させた時点から、生物であり続けるため、環境に適合し、同じ特性の類を増やし寄り集まるなど、生物としての形・特性を残し続ける必要、或いは使命が生じているのではないでしようか。
今日からでは想像し難い程の厳しい環境下に誕生した生物は、先ず、その環境の変化を上手に捕らえ存続し続ける工夫を行ったに違い有りません。やがて同種の生物が増えてくると、より環境に適合し易い仲間だけが生き残る様な工夫をし、やがて生物の種類が増える様になってくると、そこに競争という新たな生存環境の変化が生じる事となったのです。 そこで生物は、環境適合に優れ、且つ他の生物と共存、或いは特性を活用出来る能力を携えることが生物生存の必要条件となり、その代を経る毎にこれらの特性をより複雑化させて現在に到ったっているのでしょう。
 
私は、これらの生物が誕生して以来、自らの子孫を残すために培ってきた特性が「本能」というものであると考えているのです。
 
この本能を「鳥の生態」に当て填めてみます。
私達は、動物が子を育てるのは、親が子に愛情を感じ、その可愛さ故に育てていると考えています。では本当に自然界の摂理として、親の愛情が子を育てているのでしょうか。これを鳥の生態を例に見てみます。
 
鳥は子孫を残すため、先ず巣作りをします。外敵を防ぐため、あるものは木に穴を開け、ある物は樹上に小枝を組み合わせ、最近では人工の針金とかプラスチックさえも上手に利用した巣を作るのです。
鳥は、出来上がった巣に数個の卵を生みます。そして雛の誕生までは一時も休まず、大切に卵を温めます。この時、外敵が巣の卵を狙えば、親鳥は自らを外敵の標的に晒し、或いは果敢に立ち向かったりしながら、巣の卵を外敵から守ろうとします。これら、鳥の巣作りにしても、外敵への対処の仕方にしろ、決して親鳥から見習ったりなどしている訳では無いのです。やがて、温め続けた卵は孵化を始め、順次雛が誕生してくるのですが、鳥の種類によってはこの時から生存競争が始まります。 最初に孵化した雛が、同じ巣に有る未だ孵化していない卵を巣から押し出し、高い木から地上に落としてしまうのです、そうすることで先に孵化した雛は、親鳥の運ぶ餌を独り占めにし、成長するのに必要な栄養確保を確実なものにしようとするのです。殆ど全ての卵から雛が誕生する他の鳥の場合でも、一羽が餌を独り占めしないにしても、先に孵化した雛は親鳥からの餌にありつく機会は多いのです、その分早く体が出来上がり、外敵、或いは環境に対する抵抗力を早く身につける訳です。
孵化した雛鳥は独力では餌を食べることが出来ません。孵化した雛の各々は親鳥に餌を催促します、親鳥は雛の成長に合わせ餌を運ぶのです。
親鳥の一度に運ぶ餌は雛一羽分です。餌を見つけては巣にいる雛のもとに何度も何度も運び続け、雛は我先にと争って首を巣の外に伸ばして親鳥の運んできた餌を食べようとします。その雛に対し親鳥は見事なまで平等に餌を与えるのです。
月日が経つにつれ雛鳥は大きく成長します、その分雛の食事量も増し、親鳥は其れに併せて大量の餌を確保し雛に与えなくてはなりません。
何時の日にか雛鳥は成鳥となり。雛の育った巣を飛び立つ時が訪れると、親鳥は巣にいる雛に対して巣立ちを促す行動をとるのです。餌を催促する雛への運ぶ間隔を延ばし、やがては自らの力で餌を捜すことの必要を感じるにまで徐々に間隔を広げ、ついには雛鳥自らが巣を飛出すのです。生長して巣立った鳥はもとの巣に立ち戻る事は有りません、巣立った雛鳥は自力で他の成鳥と同様の生活を始めるのです。無事に子育ての役割を終えた親鳥も、それまでと何ら変わることのない生活を再び続けます。この時の、親鳥が雛の生長に合わせて餌を運ぶ間隔を変える、雛鳥が育った巣を生まれて初めて飛び出す時、その飛びたちを躊躇する姿など、そこには本能に導かれた判断が存在していると思います。
ところで、私は今まで、鳥が巣立つ時を機に、親鳥と雛との親子関係は終了するものと考えて居りました。ところが先日、思わぬ光景に出会す機会に恵まれたのです。
その日は、事務所近くにスズメが多く飛び回り、鳴き声も普段の日より賑やかに聞こえる朝でした。気候も良く心地良い朝だったので、事務所入り口のガラス扉を開けた儘で仕事をしていると、今朝、近所の屋根裏で巣立ったばかりであろうスズメの雛が事務所に迷い込んで来たのです。恐らく、その雛は、スズメにとって何処が安全な場所なのか等の外界の事情が正しく理解できていなかったのでしょう。
スズメは暫くの間、観葉植物の枝に止まって、大きな鳴き声で囀っていました。私がスズメの存在に気付き、近付こうとすると、スズメは我が身の危険を感じ逃げようとします。
この行動はスズメにとっては悲惨な経験の始まりとなりました。
スズメには硝子の存在が理解できません、事務所の外に逃れようとするのですが、見えない障害物に前方を妨げられ、なかなか仲間の居る方向に進むことが出来ないのです。私がそのスズメを出口に導こうと近付けば、スズメは危険を感じ逃げて物陰に身を潜め、囀る事を止めるのです。私が静かにしていると再び大声で囀り始めるのです、しかし何か気配を感じると、また囀りを止め物陰に身を潜めるのです。そのとき、硝子扉の外に目を向けると、なんと親鳥が扉の直ぐ側にまで雛を迎えに来ているのです。親スズメにとっては危険領域への異常接近です。明らかに親鳥は我が身の危険を省みないで雛の声に反応しているのです。雛が人の気配を感じて黙ってしまうと、親鳥は雛を探してあちこちと近所を飛び回るのです、雛が鳴き声を発すると親鳥は扉近くに飛び降り、歩き回りながら雛に呼びかけるのです。数時間後、雛はやっと出口を見つけ、勢い良く親鳥の側に飛びだしていったのですが、その飛び方には、まだ、ぎごちなさが感じられました。
 
以上述べた「鳥」の姿をみるとき、人は、「雛に対する親鳥の愛情」或いは「雛に対する親鳥の母性」をそこに見出すのでしょう。
親鳥は自らの生んだ雛が愛らしく、その愛らしさ故に、時には自らを犠牲にしてまでも雛に愛情を注いでいる。
確かに「親の子に対する愛情」と見ることも出来ます、しかし、親鳥の「愛情」が雛を育てているとした場合、前に述べた、「先に孵化した雛が卵を落とす」この行為を親鳥が容認していることに矛盾が生じるのです。又、時鳥(ホトトギス)の習性も子育ての習性に不可解なものを持っています。時鳥は必ず鶯の巣に卵を産み付け、自ら雛を育てることなく鶯に雛を育てさす事により、自らを子孫に引き継ぐのです。
 
鳥以外の他の動物の場合はどうなのでしょう。
鳥と同じく、卵で子孫を継ぐ海ガメがいます。
海ガメは魚類ではありません、従って海中では呼吸が出来ません、そのため、親ガメでも動き難く外敵からも逃れ難い環境でありながら、産卵と子孫の誕生に適した砂浜に上がって産卵します。しかし産卵の終わった親ガメはその場にとどまることはありません、従って、卵から孵った子ガメも無防備のまま、自力で海に戻る事となるのです。体力の無い子ガメは途中外敵に襲われ、多くの生命が奪われてしまうのです。
 
愛情とは縁が無いと思える動物以外の生物である植物も、あらゆる環境下に驚くような方法を工夫して子孫を残し続けてきたのです。
子孫の繁栄に際し、愛情が大きく影響しているとするには、これらの例をみる限りその説明が難しいのです。少なくとも植物には、子孫を残す事に関して愛情が介在しているとは考えられないのです。
私は、親鳥の行為を即ち「本能」であると見るのです。あらゆる生物が、自らの次の世代を担う子孫を残すために、生物誕生以来創り上げてきた「子孫存続のメカニズム」であると考えます。 
外敵を見分け、逃げ、或いは攻撃をする。動物も植物も、居心地の良い場所を探し、居心地の良くない場所を避ける等の、好む、好まないものを区別する。恐怖を感じ回避するなど、これらは全て子孫を残すための生物の本能であると考えるのです。
人間の場合はどうなのでしょうか。人も地球に存在する元素が寄り集まった「モノ」であることには変わり有りません、従って他の地球上の生物と基本的には大した差は無いと思われるのです。しかし人は時として本能だけでは説明の付かない行動をする事があるのです。悲しいことではあるのですが、自ら生んだ子の育成を拒否する事が出来るのです。
発達した「脳」の指令に従う人は、地球上の他の生物とは明らかに違った特性を有しているのです。
 
「脳」の働きは、推測し、予想・想像をし、これに基づいて躰に行動を促す、これらの機能を司るのが「脳」です。
動物の「脳」は、生存に適した環境を選び、適さない環境は避ける。 利害の一致する生物とは共生し、利害の反する生物は退ける。
このように、「脳」の判断指令は、初めて出会す環境での生存の適否をも選ばなくてはなりません。従って、生き残るためには、経験知識以外の判断基準も必要となった訳です。これら「脳」の発する指令は、動物が安全に生存し子孫を残す為、将来起こるであろう環境の変化を判断し、これに耐える準備をする機能だと考える事が出来ます。この動物が持つ生存本能である判断が人の「思考」につながるのものだと思うのです。
 
「人の思考は何をするのか」
 
「好」「嫌い」、これらの感情は人の行動・行為の殆どを左右させている様に思えます、そしてこれらは、人が生き延びるための本能に基づくものであると考えるのです。
地球上に生物が誕生します、その生物は自らが生息し易いように互いの連携し合える環境を求め、それらが集合体を作ります。その結果としてやがて植物・動物などの生物が誕生したのであるとすれば、細胞の寄り集まった動物の「脳」もその発生経緯からして、存続と繁栄のためのあらゆる方法を探し続けていると考えられるのです。
動物の一種である人間の脳は、人類進化のある時期を契機に著しい発達を始めました。5000万年前、地球上にその祖先の誕生した人類の頭脳は、二本足歩行により、その脳の著しい発達を招く要因となった。
といわれています。二本の足で立つ事それ自体が体を不安定にさせ、躰の安定を保持するだけでも脳に多大な仕事量を要求し、その事が脳の発達を促すのです。
この二本足歩行により、自由となった二本の手は新たな動作が可能となり、脳は更に新しい指令の仕組みを余儀なくされたのです。
発達した「人の脳」は、自らが置かれた環境に適合したり、より快適な環境を選ぶ事から、次第に自らの力でおかれる環境を快適に変える術を学習するようになるのです。食料の獲得、加工に便利な道具として石器を考え出し、自然火を見習って自ら火を熾し、操ることを覚え、寒さを避けて物陰で耐えることから寒さを防ぐ為の衣類を作る、道具を使って容易に大きな獲物を確保する方法を収得するなど、人間は環境への適応能力を飛躍的に高めてゆくのです。やがて、その脳は多量の情報を記憶保存する能力を持つようになり、その蓄えた経験の情報から、将来の環境変化を予測し、将来起こりうるであろう変化に対応する術を拾得したのではないでしょうか。
この、「将来を予測する」つまり直接目で見る、遭遇して経験する、耳で聞いて覚える等の五感による情報収得以外の状況分析が「考える」 つまり「思考」というものではないかと考えるのです。そして、この「思考」は、人の生存に必要な以上の快適環境の存在をも想像するようになり、ひいてはその環境を手中に収めようとさえするのです。
一方で、この「思考」により人間は自分自身を見失うこととなり、自らの存在がなにか特別な存在であるかの様な思いを持たせることにもなったのです。このことが人の「欲」の発生に繋がっていると考えます。
 
 
 
 
 
 
「人間の欲」
 
人の欲、これはもともと生物の持つ生存本能に導かれる思考であり、脳の思考によって生じた、過ぎた生存本能から「欲」が生まれていると私は考えています。
動物には生き続けようとする存続思考が有ると思います。古来より人は不老長寿を追い求め、やがて訪れる死期を逃れようとしてきました。 その追求心が人を代医学の発展へと導いて来たのです。やがて人間の生存に対する興味と思考の進展は生物そのものを研究し、生命誕生のメカニズムを知ることにより、生命機能の仕組みを解明しようとするのです。
これも、動物が躰に良い物を好んで食べたり、体調を悪したときは自然界生えている薬草、或いは特別の成分を含んで地表に現れた鉱物、土などを食べることにより体調を整え、自らの力でその生命存続を図ろうとしていた行動の延長線上にあると見ることが出来るのです。ただ、頭脳の発達した人は更に生命機能そのものの研究を行い、「医学」としてその科学知識を蓄えて来ます。
この知識は、機能の衰えた臓器を取り替えて人の生存維持を図るようになり、最近の発達した遺伝子工学は、生物の形成プログラムまでをも究明し、将来発生するであろう病までを前もって防ぐにまで、その知識を蓄えて来たのです。
これらは全て生き残りたいと言う生物本来携えている本能の影響によるものなのです。では、本能の求める儘、一つの生命が永遠に生き続けたとしたらどうなるのでしょう、そこには進化が存在しなくなるのではないでしようか。また、臓器移植の技術が極端に発達して、傷ついた頭脳さえも移植したとしたら、そこに生き続ける人は誰なのでしょうか。 それらは只、生き残るか、消滅するか、この何れかが有るだけです。 これは明らかに生命存続の法則に反する事ではないでしょうか。
 
 
星の誕生に始まり、地球に誕生した生物はその子孫を残すことに終始してきました。「寄り集まる」この事を繰り返しながら代を重ね、その結果として生物が誕生する、その誕生したもののひとつの種である「人の脳」に「思考」と「本能」があるとするならば、我々動物のもつ「本能」とは、「星の誕生」を引き起こした、互いに引き寄せ合う力「引力」にその根元が在るのであり、「人の思考」の発生原も、たどってゆけば「引力」に繋がっていると考えられるのです。
水が表面張力により水玉を作るが如く、人はその意志により、同じ感性を持つ者、或いは同じ民族、同じ思想を持つ者同士が互いに寄り集まろうとします。そして寄り集まるとき、一人よりは二人、二人よりは数人と、多人数が寄り集まり群をなす事で、人は安心感を覚えることに気づきます。そしてこの群も、全てに於いて同じであるか、或いは其れに限りなく近い群で在ることを求めるのです、万一「異」を感じる場合は、即座に其れを排除しようともするのです。人の抱く、この自分自身が安心できる群(好感を感じる群)のより多数を求めようとする気持ち、ひいてはこの群の中にあって自らの立場が認められ、より優位を主張することが即ち「人の欲」であると考えるのです。
仲間、場所、食料の多くを求める、やがては自らが必要とする以上の「量」の獲得によって安心感・満足を覚えるようになるのです。やがてこの「量」の獲得は人の感性に自らの勢力を感じ、この量の獲得をもって人は子孫、或いは同族の 勢力繁栄を遂げたとするのです。
そもそも、生物は自らの優れた能力を子孫に引継ぎ、勢力の拡大を図ろうとする本能を携えています。人もその例外では有り得ません。
人はある時を契機とし、自らの不足した能力を補う物として「道具」を作り出します。そして、その「物」を多く所有することが、即ち「生存能力に優れている」と考え始めたのです。勿論、初期に人が作り出した物は、人が生物としての生存を助けるものだったと想像できるのです。
しかし、やがてそれは、人の生存を補助する物から、ただ単に「脳」に潜む感性の欲求を満足させる為の「物」へと変化して行ったのです。 そして、この満足する為の量には限りがなくなるのです。
では、果たして其れら人のつくり出した物の量を確保する事で人類の子孫は確実に生き残れるのでしょうか。
決して「量」の確保だけで、子孫の存続を確実にする事が出来ないということを疑う余地は有りません。
この、人がその量を追求する姿の中に「欲」の存在を見出すことが出来ます。
人が思考を重ねた結果、物に対する「欲」が生まれ、 この欲は新たな「思考」を引き起こし、新たな物を作り出す結果となるのです。しかし、これら「人の思考」には、ただ単に生存する為だけで無い一面を持っていることが見えてくるのです。
思考に起因する「心」、「善・悪」の意識です。
人の思考は、自らが生きる為、「快適・不快」「好む・好まない」「良い・悪い」と、その判断をしようとします。しかし、「善・悪」或いは「正しいこと・正しくないこと」の判断は必ずしも自らの生存だけを判断基準にしていないと思われるのです。
自分が生きるためには「都合の良い」場合であっても、人は「正しくない」「悪である」と判断する場合があり、また、それに従おうともするのです。其の様な判断をする理由として、「人の魂には来世があり、現世で良い行いをした者が来世で救われる」と考える故であり、人の持つ本能の「自己温存の欲求判断」が原因していると考える事はできるのです。しかし、その場合でも、「良い行い」の判断基準は何処に生じているのでしょうか。
人は、時として「脳」の指令に従い、次のような行動を取るのです。
人は社会生活に於ける諸々のとり決めとして規則を作りました。そしてこの規則に従わなければならない事を約束しています。
自動車を運転する人が法定スピードを越えて運転しているとします、警察官がその車を制止し、運転者になぜスピード違反をしたのかと尋ねます。すると運転者は、「申し訳有りません、悪とは知りつつ、急いでいたものですから。」と答えるのです。明らかに、スピード違反は良くない事と知っているにも拘わらず、行動はその判断に従っていなかったのです。こんな例もあります。若くて元気な青年が、満員の電車の席に座っていると、年取った老人が乗り込んできて目の前で蹌踉けながら立っていたとします。青年は悩みます。「自分は元気なのだから体力の無さそうな老人に席を譲るべきである、立ち上がって席を譲りたい。けれど何となく気恥ずかしい」と。結局恥ずかしいと言う気持ちが優先して、狸寝入りを決め込むのです。この事は、明らかに「脳」の指令が「善」を知りつつ、行動をそれに従わせていないのです。
これらは何れの場合も、人は自らの「脳の判断」に従っているのであり、外からの影響により行動したわけではないのです。
人の「脳」の判断指令を、生存本能だけをつかさどるものと説明しようとするには甚だ難しい事となのです。
私達は、よく「無心」と言う言葉を口にします。
「無心で遊ぶ」とか「無心の境地で」など、自らの 欲求を忘れる時などによく口にする言葉です。
この「無心」とは、辞典によると「邪念がないこと」と表されています。
この時の「心」は人の「欲」を意味し、この「心」は持たない方が良いと考えています。
また、「心を尽くす」とか「心をこめて」という言葉もあります。この場合の「心」は「思いやり」などを意味し、一般的に悪い意義での「心」と理解せず、 持っている方が良い「心」として考えます。
 
これらの「心」も、人の「脳」の働きにより生じるものではあるのですが、生物としての生存に直接必要とされる思考では有りません。生物生存の為とは別の思考なのです。そして、この「心」に善と悪との両面があるのです。
 
「我思う、故に我あり。」 これはドイツの哲学者カントの語です。
私は、「善」と「悪」を考えるとき、そこに先ほどの「我あり」の存在意識の有無が関与していると思うのです。
人が生物としての生存を維持するのは、「脳」の発する指令によるのですが、「人」が自らの脳の「生存判断」を離れ宇宙の一物質である事を認識する、このことを「善」とし、本能に従うことで自らの存続を図ろうとすることが「悪」に繋がるのではないかと考えるのです。
 
アフリカに生息するライオン。ライオンは生きるため他の動物を襲い餌とます、そしてその餌とする動物には好みも有ると聞いています。かといってライオンは、生きるに必要な量以上の餌には決して見向きもしないのです。しかしながら、襲われた動物はライオンにより、その生存を絶たれるのです。この場合のライオンは「善」なのでしょうか「悪」なのでしょうか。 
人の場合はどうでしょう、人は植物、動物を育てそれらを食料としています。また、将来の欠乏を予測し、余分の食料を確保しようともします。この、植物を育てたりその生存を絶つ人の行為は「善」「悪」のどちらのでしょう。
何れの場合も、「生きるためには仕方のない事である。」と思えるでしょう。確かに他の生物の生存を絶たなければ、人もライオンも生存出来なくなる、このことは自然の摂理である事には違い有りません。従って「悪」とは断定出来ないのです、かといって「善」であるとも言えません。では、本当に自然の摂理故仕方がない事なのでしょうか、それも違うと思うのです。
問題は、その時「脳」が、自らの存在を意識したか否かなのです。
万一「自己」を感じつつ、他の生物の存続を絶ったのであれば、其れは恐らく「悪」であると断言できるでしよう。
ライオンが、好きな餌が来たから食べようと考えて動物を襲ったのであれば、そのライオンの行動は「悪」なのです。また、目の前の餌である動物を可愛そうと考え、襲撃しないまま何も食べず死んでしまうライオンがいたとしたら、それを「善」と考えることは難しいのです。
では、人間だけの行動であると考えられている「自殺」。これはどうなのでしょうか。自らの意志により、他生物の生存に影響を与えないで自らの生存を絶つ行為。果たしてこれは「善」となるのでしょうか。この場合、自らの存在を意識した「脳」の指示に導かれた行為である故に、「善」であるとは言えないと考えます。
其れでは、善と悪の境はどのあたりに存在するのでしょう。
私はその境の基準を次のように定義して考えます。
この世に存在する全てのものに、存続し続ける使命が課されているとするのであるならば、其れは全ての物すべてに於いて均等であるべきです。生命の発達がそうであった様に、それぞれが意識していなくても、それぞれの存在が互いにそれぞれを存在させる要因となっているのです。 それぞれが存在している故に全てが存在するのです。
この、「それぞれの存在」を認識するか否か、そこが善悪の境ではないかと考えます。
 
発達した「脳」を持つ人間は、時としてその均等を無視し、判断基準を狂わせる可能性を持っているのです。人は直面した自らの対処にだけ心を奪われ、その均衡な判断を狂わせてしまっているのです。しかも、 そのことすら自覚していないのです。これが人の思考判断の現実です。
 
 
 
 
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
 
 
これは親鸞の語録「歎異抄」に記され多くの人が知る語録です。「往生を遂げる」とは、仏教の教えに言う、極楽浄土に生まれると言う意です。
現世(この世)で善行をなしている者でさえ、 来世には生まれ変わって導かれる極楽浄土がある、ましてや悪業を為している者は、極楽浄土に導かれるよう現世で一層努めなければならない。
この様な教えであると解釈されています。
 
TVの対談で、ある僧侶がこの語録の説明をしている時、これを聞いていた人の一人が、「善人が極楽浄土に導かれるのは納得できるが、なぜ悪人が極楽浄土に導かれなければ鳴らないのか」こう質問をしました。すると僧侶は、「貴方が、自分は善人であると思い込んでいるからその様な質問をする事が出来るのですよ。」と答えたのです。
これを聴いた時、人の「自己」に対する意識と判断基準の曖昧さ、身勝手さを強く感じたのです。「如何に人は自分自身を知らないのだろうかと」このことを思い知ったのです。人は、あまり日頃の自分自身を省みようとはしません、日々出会す現象に直面し、その場の状況判断に任せて行動をしてしまいます。そして、多くの場合この時の判断の基準を自分の内に置いているのです。
例えば、人が高山に登り、今まで見たことのない植物に出会います。 それが希少となっている高山植物で、高山の環境故に生息出来ているとしても、興味が有ると言うだけで自らの庭に持ち帰りその植物の存在を独占しようとするのです。植物がその生育の場所を変え環境に馴染むにはそれ相応の時間が必要なことを人は知っているのです。
しかし興味が優先する為、その植物の寿命を縮めてしまっているのです。
これらの行動は、人を生物として存続させようとする、それと同じ「脳」の働きから生じているものなのです。人の、人間だけ或いは自分だけでもと思考する、この「自分だけでも」と思考する脳の指示に欲が現れ、この我欲を「悪」と認識し、植物は自生している環境が一番適した生育環境である事を認め、鑑賞だけをしようとする行為、自らを含むこの世の全てのものの存在を前提とする人の判断思考を「善」としていると思うのです。
 
「善」の意識を持つ一方で「悪」を行う人間は何を行おうとしているのでしょうか。ただ、地球環境を破壊し続けるだけの生物なのでしょうか。
 
アフリカでは、食欲旺盛な象が木の葉を食べ、葉が無くなってくると樹皮そのものをも食べ始める。次第に背の高い樹木は枯れて消滅し、今では地表が剥き出しとなる迄に樹木が減り、アフリカの自然環境が象により破壊されている。そして象の餌は殆ど無くなり、象の生存そのものが危うくなっていると言う声が高まっています。 
その一方で、背の高い樹木が無くなることにより、地表低く育つ草木が繁殖出来る環境が出来上がり、草食動物の餌が増えて来るという意見も有ります。
昨今、人間も「地球環境を破壊する」、「地球の生態系を狂わす」等の原因となっているのです。
確かに一昔前と比較すれば、地球全体には二酸化炭酸が増え、気温が上昇している。放射能物質はごく身近で恐怖となり、動物・植物の「類」は目出って減少している。
しかし、地球誕生の当時を想像した場合、地表はガスが噴出する活発な火山活動のため高温で、地球を取り巻く大気は炭酸ガスが充満し酸素はほとんど存在し得なかったと考えられます。勿論その当時は現在地球上に存在するあらゆる生物が存在できる環境では到底あり得ません。
やがて地表が冷え、水が地表に充満して海の誕生となった。この海の発生が地球に生命の起源を引き起こし、歴史を経て、やがて陸上に植物が生えるのです。しかしこの時点では、この植物の誕生した地球上に酸素は存在せず、動物が生存できる環境が出来るには、植物が繁殖し炭酸ガスを消費し、酸素の排出を繰り返し地上に酸素が充満する事が必要だったのです。
その地球に誕生した微細な存在である人間の影響によって、宇宙の摂理が乱されるとは考えられませんは、私たち人間のもっている頭脳が、我々の想像する程単純な法則に導かれ、働いているとも思えないのです。
勿論、人間が自らの欲を満足させるため、人間の都合の為に地球環境の変化を引き起こし、他の生物の生存環境を変える事の肯定は出来ません、しかし自然界の摂理は人の想像を遙かに凌ぐものだと思うのです。現実にはハッキリとした存在の意義の解明できない儘「人」は生存しています。其れならば、「人」はせめて今の地球社会にとって有益な存在である事を考え続けることが必要なのではないでしょうか。
 
 
そこで先ず、人は自らが作り出した人間社会に対し如何様な関わりを持ちながら生存しているのかを考えてみることとします。
 
人は、生物の持つ寄り集まりの特性に影響され、考え方、思想毎に或いは親族、民族、人種毎に群をなし社会をつくりました。そして、作った社会に於いて、人はそれぞれの役割を分担する事で社会構成の一端をなしているのです。この人の役割とは何なのか。その役割が社会において如何様な影響を与える事となってきたのか。このことが人の社会での存在意義をなすものと考えます。
 
人間は、その進化した頭脳をもった故に社会の規模を巨大化させ、その役割も複雑化させているのです。元来、生物の作る社会が、存続と子孫を残すことを目的とした形態であったのに対し、人の作った社会には、子孫の存続以外に、自らの便利さと居心地の良さを追求しようとする「欲」の一面が存在していると考えられます。
 
原始の人間社会は、生きるための食料の確保を目的とし、狩猟・農耕を効率的に行う事を目的に形成されていった筈です。寄り集まった人の集団はこの食べ物の確保に於いて、より多くの食料確保を望むようになり、その方法思考の発達した人が集団の中に現れてくるのです。
人々はその効率の良い方法に従うことに満足し、その発達した方法の提案者はやがて社会の統率者として存在することとなります。やがてこの指導者は社会を構成している人々の中に、自らの考える目的を達成するに適った能力を持ち、且つその役割を満足に果たせる人を選び出そうとしたのです。この時の目標達成願望そのものが、その指導者の思惑に影響を与えることとなり、人は本来の目的である生存以外の新たな目標、「指導者との共存を如何に上手くするか」が新たな存続課題として発生することとなるのです。そして、社会での存在を顕著にする事も大切な事とされることとなるのです。このことは、現在の人間社会に於いては大きな存続意義となっていると考えられるのです。
人は自分の存在を或いは考えを認められることに安心を感じ、他人から存在を認められないとき、とても不安を感じるのです。これは他の地球上の生物と大きく異なっている点と思えます。ひとりぼっちでいる手法より、如何にして集団としていようかを考えるのが人間なのです。そして、指導者となる人も、生物のもつ本能によるもの故なのか、自ら率いる社会集団の規模の拡大を図ろうとします。このことは、集団間の摩擦が発生する要因ともなり、それはやがて幾多の民族紛争から戦争へと、その原因を作ったと考えられるのです。
又、集団を構成する一人一人は、その生存基盤を社会に大きく依存する様になり、多くの場合、自らの本来の存在意義を見出すことなく、社会での存続即ち自らの生存と理解するようになってくるのです。そして人は社会での存続に安心を求めるようになり、自ら安心出来る立場を確保するため周囲に存在をアピールする必要が生じるのです。
このアピールにはいろいろあるのですが、その一つには、集団の統率者となることを望みます。其れとは別に、多大な財を蓄える事で自らの立場をアピールしようとする人も現れます。この場合、蓄える財は自らの消費の量をいくら越えていても尚かつ蓄え続けようとするのです。
そしてこの時の財は必ず、周囲の人も同じように欲している「物」なのです。誰もが興味を示さない物を蓄えても社会では財を蓄えたと認めないのです。では、何故他人の欲する物を自らの必要量を超えても集める必要が有るのかを考えるとき、このことが社会での自らの立場の確保であるとすれば、必要量を超えた過大な蓄財を望む人の行動そのものの、或程度の説明はつくのです。
明らかにこの蓄財は「自らを意識する」の我欲であり、世間に対する自己アピールなのです。このことは自らの立場の確保を目的としたものであり、社会を構成する全ての人を考えたものではないのです。
しかし同じような蓄財が為される場合でも別のケースも存在します。
社会に対し自らの特性を持って貢献為した結果として財が集まって来る場合です。この場合、自らは社会での立場のアピールを望んでいませんが、結果として蓄財と立場の確保が為されてしまうのです。
此処で忘れてはならないのが、人の「善」「悪」です。生物の存続に関わる善悪の堺を考えるとき、これらの蓄財に対しては慎重な判断が必要となるのです。
人はその社会で営む経済活動により、財の観念が必然として発生してきました。この財に人は寄り集まり、そのことにより知識と技術も集まったのです。この集まった知識と技術により人の社会は変貌を続け、文化・技術の発達をもたらし、今日の「豊さ」の言葉で称される人間社会が形成され、そして「物」「便利さ」が社会の必需品となるのです。
しかし、この人が求め続けて来た「物」と「便利さ」には多くの犠牲を強いる結果でもあったのです。そして人間を含む地球上の全ての生物の存続をも危ういものにする結果にもなっているのです。
最近になってやっと、人は地球環境の保全・生態系の破壊防止に目を向け始めるようになりました。地球の環境が変わってくると我々人間を含む生物の生存そのものが困難となり、やがては存続できなるかも知れないという危惧を感じる様になってきたのです。
我々個人は、もっと身近に自分自身の存在に目を向け、見つめ直すことを始めなければならない事に気づかなければならない筈です。宇宙のなかに「人」が存在していることの意義を見つめる事が大切なのです。あらゆる因果関係の末に現在我々が居るということなのです。
 
現実には、人は自らが生きるために食料の確保が必要です、そして現代社会に置いては便利さも不可欠な事と思っています。これらを得るために人は労働をし、貨幣経済の成り立つ現代社会に於いて、その労働対価としての貨幣を手にするのです。貨幣を支払うことで、必要なときに食料或いは便利さを得ることが出来るからなのです。
但し、この貨幣は人間社会の創りだした経済のルールであり、貨幣が多いこと自体は自らの存続を確実にする物ではないのです。現に、周囲の人々からその貨幣の価値を認めて貰えなければ、その貨幣では生きる為に必要な量の食料すら確保できないのです。それでも人は、永年この貨幣の多少をもって人間社会に於ける「人」の諸々の判断根拠としてきました。そこで、人はこの貨幣を集める事に終始ようになり、その結果として人は地球社会に対し、また人間社会への弊害をもたらす要因の一つとなってきたのです。
人の労働を貨幣で評価する、或いは人の素質までをも貨幣の量で評価しようとしているのです。ここにも自己(人)の存在と社会との関係バランスを取り違えているように思えるのです。
熱心に仕事をし財を蓄える事を、人間の社会では大切な行いであると考え、そのことを大切にし、大事なこととしてきました。
しかし「仕事」とは、人間の欲求を満足させる為の財を獲得する手段ではなく、自らが携えている特性を、社会に対し役立てる為の行いであり、財はその結果として残る「物」と考えるべきなのです。
周囲に目を向けると、財を得るために周りの迷惑を顧みず行動する人がいます。環境の汚染、破壊或いは周囲の人々の困惑などの影響を与えながら個人の蓄財のみに目を向ける人たちです。この様に言うと、多くの人は、「他人に犠牲を強いて利を得ることは良くないことであり、自分自身はその様な利益の追求を行っていない。」こう考える筈です。
人の望むことを見つけだし、提供することを業とし、その事を自らの生計の足しにしているのであり、決して他人に犠牲を強いていない。
この場合、一見道理に適っている様に思えるのですが、はたして本当にそうなのでしょうか。確かに人は望んでいるのです、しかし其れは人の持つ我欲なのです。人の欲を見つけ、其れを自分の利益獲得に利用しているだけなのです。しかし、人のなかには本当に個人の蓄財を重視しないで或いは無視し、減らしてまでも周囲に好ましい影響をもたらす方法の行動を望む人も存在しているのです。
例えば、農業において、野菜の生育が早くて収穫量の多い方法である化学肥料・化学薬品などを利用しないで、恰も不効率なように思える有機肥料を活用する野菜作りです。この有機肥料を利用する野菜作りは、肥料を作るに先ず大変な労力と時間とが必要とされます。そして野菜の育成においても、農薬を使用しないで野菜を作ろうとすれば、人間の言う害虫にその野菜は食べられ、或いは病原菌に侵されたりするので、その分収穫の量は少なくなってしまいます。しかし、その不効率と思える方法で作られる野菜には、地球の持つ多くの養分が充分に吸収されているので其れを食べることで人は生存する為の地球の養分を充分摂取することができ、健康な自らの生存を得る事が出来るのです。
但し、人間の持つ食欲を満足させるためには野菜の量が欠かせません。そこで量の確保を優先して考えられた方法として、野菜の促成栽培が有ります。植物の病気・害虫に対処しやすい農薬を使用し、野菜の形の成形に必要な養分の吸収速度の速い化学肥料を利用する野菜作りです。 この促成栽培された野菜には、生物の存続に必要な地球の養分を充分蓄えられていないということです。従ってこれら両者の野菜を食べ比べるとき、有機肥料野菜の場合は人の食欲を満たすに充分な量を収穫出来ないとしても、人間の生存に必要な栄養が確保出来るのです。一方、促成栽培により生育した野菜では、人の食欲こそ満たせるのですが、本来人の生存に必要な栄養獲得には不十分な野菜となるのです。
これらの野菜を作り、消費者に提供するとき、収穫量の多い促成栽培により提供する方法は人の欲を満たす分、量の消費が多い為、生産者にもたらされる財も多くなります。有機栽培で育成した野菜を供給する場合は、供給出来る量が少ない分、供給者の得る財の量も少なくなるのです。しかし供給者には自らの行為により、消費者である「人」が本来必要としているものを供給できたと言う満足感を得るのです。
勿論、現在の人間社会に於いては後者の方が前者に比べ、その生存は優位なものとなるのです。従って人間社会に限って考えると、存続の確実な前者が生物の本来の姿の様にも思えてくるのです。
如かしながら、地球社会・自然摂理の観点に立つとき、そこにはやはり物事の考え方に焦点のズレを見出すのです。
「人 としての仕事」
 
人間社会はあくまでも人がいるから存在するのです。従って、人が存在できている事自体を置き去りにして、個人の都合を考えること自体が間違った事なことなのです。
では、個人の都合だけでなく、大衆の希望をも取り入れたとした場合はどうなのでしょうか。
民主主義の世の中に於いて、大勢より選ばれた人が民意の同意を得ながらその大衆を導く事を大方の場合正しいことと考え、其れを専らの仕事とする人を私達は政治家と称しています。政治家は民意を反映しようとし、大勢の欲する利益を優先させ、そして大衆の支持を得ようとするのです、それが国で有れば国民の利益を図ろうとします。
問題はその時の大勢の捉え方です。国の代表で有れば国民の民意を持って大勢とするのですが、地球上には幾つもの国が存在している為色々な民意が存在しているのです、その民意の違いにより人間は戦を繰り返してきました。又、この大方の場合、大勢の「欲」を含んだものを民意と捉えているのです。政治家は統治している範囲大勢の人の「欲」をも含む民意を自らの行為に反映させることで支持を得ようとし、支持を得たことは民意を反映させた正しいことと判断してしまうのです。
この民意は諍いを生む原因でもあるのです。大勢の意志に「欲」が存在しているからです。前に述べた、繁栄のし過ぎが互いの生存を危うくするのと同じように、この「欲」は互いにぶつかり合うのです。    これも次第に国の枠を越えた地球規模の大勢の民意を反映しようとすることで諍いも少なくはなっているのですが、現在の世界中で、諍いが全くなくなったわけではないのです。人間個人間での欲、利害などの思惑の行き違いは今でも尽きないのです。
とかく人は、自分の都合を、身近の状況を見て、或いは自らの知識の範囲内でもって世の中全体の考え方であるかのように判断を下し、或いは思い込む場合が有るのです。自分の都合を先行させるため、自分の行動を正当化し、思いと違う考え方、判断は間違っているかのように考えやすいのですす。
その例えとして、私達は「官僚的な・・・。」という表現を用いる事があります。世の人々に対する公正さより、「慣例」とか「業務遂行の都合上」の考えを優先させたものの考え方、身勝手さです、しかも其れらは間違った考え方である筈がないと思ってしまうのです。
そこには、「人」とか「人の思い」は存在せず、自らが行わんとしている仕事(目的の達成)のみが存在し、なお且つ、その事は多くの人々の為であり、人々の望む正当なものであるかの様な思いこみなのです。 日常の生活においても、我々凡人は兎角、都合の良い身近な人々の考え方をもって世間一般の考え方と思い込みやすいのです。
「人の振りみて我が振り直せ。」と言う古い諺が物語っているように、
人は、つい視野が狭まり物事の判断に際し、取り分け自分自身への判断を誤ってしまったり、或いは誤り易いのです。
 
以前テレビを見ていると、番組に次のようなものがありました。
其れは、人の持つ潜在意識を探る方法の一つだったのです。
 
「街を歩いているときぶらりと或る店に立ち寄りました、その店で嫌な思いをしましたが其れはどの様な事だったのでしょうか。?」
こんな質問だったように記憶しています。
 
    
 
 
この質問に対し、「思い浮んだ答えは、貴方が周囲の人より感じ取られている貴方自身の姿そのものです。」これが答えでした。
 
これを聞いたとき、私の思い浮かんだ答えは、「店員の態度が不愉快だった。」なのです。私は、携わっていた仕事が営業職と言うこともあり、常日頃より相手の人に不愉快な印象を与えないようにと心掛けていたつもりだったのです。従って、そのテストの答えを聞いたとき、ギョッとする一方で、素直に納得出来るところもあったのです。
自分自身の本当の姿を知ることの難しさの代表的なもの、そのものだったのです。人は、自らの行いを他の人から喜ばれ、感謝されるとつい、自分は世間にとって良い人間と思いがちです。場合によっては自分自身を善人であるとも思うでしょう。では、自分自身が切羽詰まった状態のときでも余裕のある時と同じように、他人から感謝される行動をとり続ける事が出来るのでしょうか。多くの場合は自分の都合を優先させてしてしまう事が多いのではないでしょうか。もしそうであれば、その人が「善人」なのではなく、その人の行った行為が、たまたまその場の他の人達にとって良い行為であったに過ぎないと思えるのです。
 
この様に、時として自分の姿さえも見失ってしまう人が、社会に如何様な態度で接してゆけば良いのでしょうか。
 
人類が生存し続ける為、人は可能な限りの思考を繰り返し、最善の方法を模索しながらいろいろな行動をとります、そして殆どの場合は正しい行動であると納得できる事なのです。しかし、そこで考え見つめ直してみることが必要です。人は自然界の他の生物たちの一種なのですから当然の事ながらその行動判断の基準は、自然界の生物存続の法則に導かれるものなのだと考えるのが順当なのです。従ってこの法則に導かれ従う行動(行い)は、人が人間という生物としての存在しようとする以外の何ものでもありません。「人が人として生きる」と言うことは、人が生存することでつくりだされた「人間社会」の役割の一端を果たそうとするときだと考えるのです。この役割を担おうとする為の思考をし、行動することが「人が人として生きる」と言うこととではないと考えます。
「無我夢中」という言葉が有ります。《我を忘れるほどあることに熱中すること》広辞苑を引くとこう書いてあります。
人は自分自身に対して、人間社会に対して、この無我夢中の姿勢で臨むことこそが大切と考えるのです。世間では、資財を擲ったり自らの生きる糧である自らの仕事の予定を変更して他人の為になろうとする人がいると、多くの場合、「自らを犠牲にして人の世話の出来る善人である」と評価するのが一般的な評価の仕方です。私は、この「犠牲」の意識の存在そのものが自我意識に繋がるものだと思えるのです。如何様な行いであっても、「犠牲」の意識を持った或いは存在している人の行う行為は、行為そのものが良いのであって、その人全てが即ち善である事にはならないのです。そこには、名誉とか財の獲得、或いは周囲の評価を交換条件とする行為があってはならない筈です。
自らが持つ能力・力量を最大限に引き出す事に集中し、その事で周囲からその行為を受け入れて貰おうとすることが、人として行うべき仕事なのです。この仕事をしようとする時、新しい発見があり、発明も生まれてきたものと考えることが出来るのです。
では、人は皆この無我夢中の姿勢で生存出来ている生物なのでしょうか。少なくとも私の見てきた人々の内には、滅多とその様な人と出会うことは無かったように思えます。大方の場合は、怠惰・横着・面倒くさいなどの感情に流され、「せめて自分にだけが都合良く、楽に、出来るだけ長く生存しよう。」このように考える人がいて、その一方で少しの人が、「自分以外の人と、目前の満足を共にしよう。」と考えているように思えるのです。そして、この後者の多くは、自分は善人であると思い、世間一般でもそのように評価しているのが現実ではないでしょうか。
しかし、このときの「善人」は、全ての人々にとっての善人であるとは限らないのです、「狭い範囲の人々にとって都合の良い人」である場合が大半なのです。目の前の満足を求める人には必ず対立する利害をもつものが存在していると言うことです。そして、そのような評価・判断をもとに人間は人の生存する方向を定め、その結果として現在の人間社会が出来上がり、人間中心の地球社会が存在していると考えられるのです。
人は目標を定め、その目標に向かって進もうとするとき驚くほどの集中力を発揮します、しかし、問題はその目標基準を何処に定めているのかが問題となってくるのです。人が人間に或いは自らの知識にその基準を設けたとき、人は、社会の、地球上の最も厄介な生物となってしまう事に間違いはないでしょう。
人間は発達した頭脳を持ち、優れた集中力、結束力を持って地球上の食物連鎖の頂点に立っていると言われています。確かに我々人間を食料として子孫存続を図ろうとする生物は現在の地球上には存在していないように思えます。その為か、人間はその行為により犠牲となっている生物の存在に対して、さほどの配慮もしないままで生存してきたのです。
その行動を妨げられ、忠告を受ける事もなかったのです。たまに到来する天災に、自然の脅威を感じる程度なのです。そして、人間が周囲の環境に目を向けようとする大方の場合、人間の都合で行う行為により、周囲の環境に変化をきたし、人間自身の身の上に不都合が降りかかってきた時だけなのです。
ではこれから先も、人間はこのまま食物連鎖の頂点にいると言うような態度で地球上に生存し続けて行くのでしょうか。
 
 
 
ここで人間社会に将来起こりうる可能性を持った仮想をしてみます。
現在、人間は人工の知能(コンピューター)を発明し、便利さ故に更に其れを進化発展させ続けています。
現在でも既に或程度の学習能力を携えたコンピューターが開発されているのですが、将来更に開発・発展が続けられコンピューター自らが思考を始め判断を行う社会が誕生したとします。
このとき人間にとって必ずしも好ましい社会環境であるとは限らないのです。その様な環境下で、人間はどんな感じを覚えながら生存しようとするのでしょう。恐らく、現在の地球上に生存しいてる人以外の生物が感じているのと同じことを感じることとなるのではないでしょうか。
その様な時代の到来はまだまだ先のことであり、ましてや人間が人間のために作る機械なのだから、人間にとって都合の悪い事をもたらすコンピューターを、わざわざ造るはずはない。こう考える人がいるかも知れません。でも、現実に目を向けてみれば、地球上に誕生し環境を共有しお互い影響しながらその子孫を存続させている生物の一種人間は、自らが生存する地球の環境を大切に維持しなければならない筈なのに、人間自らの手で寧ろ反対方向の環境に変化させてしまっているのです。  そして地球環境維持の役割を果たしていた幾多の生物の生存を断ち切り、現在でも相変わらず、他の生物の生息にとっては甚だ迷惑な行動を繰り返しとり続けている状態なのです。
最近では、人間が便利さを追求し過ぎたが故に、地球を取り巻くオゾン層を破壊し太陽からの有害な放射線が地上に降り注ぐ結果をつくり、快適さを追求した結果の炭酸ガスを充満させたことにより地球の気温の上昇を招き、気候環境までを破壊しようとしているのです。このことは、地上の全ての生物にとっては生存環境の急激な変化であり、生物が環境に順応できるスピードを大きく越えたものなのです。そして、これら人間の行動は、生物全体に好ましくない事であることを知りながらも人間は、自らの便利さに対する欲求を満たす為に地球環境を変え続けているのです。
一方では、人類にとって厄介な微生物が次々と誕生しています。
現在の医学知識では対処困難な病原菌により、多くの人が犠牲となっているのも現実です。そこでも人はそれらのウイルスを駆除し、自らだけが生存するためのあらゆる手段を講じようともしているのです。ウイルスも生存し続けるためには人間に挑み続けそれに対応する事が必要となる訳です。
この次から次へと発見されている人間の病の原因である病原菌も、私はつぎの様に考えるのです。人間が病原菌に冒されて病にかかったとき、病の原因となる菌を駆除しようとして、薬とかワクチンを体に投与し続けるのと同じように、地球上に誕生した有害な「人」を駆除し消滅させるため、何らかの必要性の作用により投与されているものではないかと考えることがあるのです。
医学界では、これらの未知のウイルスによって人類は破滅する可能性を唱えている様ですが、案外そのまえに、人類の滅亡は人間自らが造った機械達によって、早期に引き起こされるのかも知れないと私は考えます。
私達人間の知能が、自分達の都合にあわせた現在の地球環境を作り、幾多の生物の生存を絶ちきってきたのです。
その人の知能により作り出されたコンピューターは、自分の都合に適う環境変化を作り出すかも知れないのです。そしてそのコンピューターに判断能力が備わったとき、人は、コンピューターにとって、存在している事自体が邪魔となり得る事は充分に考えられるのです。
コンピューターが好ましいと判断を下す地球の環境が、必ずしも人間の生存に適した環境である保証は無いのです。
 
 
 
 
 
《後書き》
 
自然界の不思議を感じる例として、次の様なことがあります。
 
人間は言葉を使ってお互いの考えを理解し合う事が可能であり、互いに理解し、意志の疎通が出来ると考えています。
では、この「意志の疎通」とは何なのでしょうか。
おそらく、全ての物質が寄り集まり、今日、地球上に生物が発生していると同じ摂理に導かれたものであり、人が寄り集まり、群をなして生きて行くための、同類であるという「安心」を感じるものでははないかと考えるのです。
例えば、味覚です。一人の人がバナナを食べ、「美味しく、香りも良かったと。」そう感じたとします。その味と香りの感覚をバナナを知らない別の人に伝える事が出来るのでしょうか。勿論言葉でそれを伝えることは出来ません。でもきっとバナナを食べて貰いさえすれば、自分が感じたのと同じ感覚を伝えることが出来ると考える筈です。例えば、視覚です。美しい草原を見て、緑の美しさを人に伝えようとする場合、その美しい場所に連れて行き、草原を見せて、その色の美しさを伝えようとする筈です。
いずれの場合も、互いが同じ経験をすることで、自らの感覚を相手に理解してもらったと思う筈です。しかし、決して他の人が、自らが感じたのと同じ感覚を感じ取ることはあり得ない事なのです。
ここに50sの重さの石が有るとします、或る人がその石を持ち上げ、50sの重さを感じます。次に別の人が同じ石を持ち上げたとします、果たして最初に持ち上げた人と同じ重さを感じるのでしようか。体力、或いは持ち上げる条件が少し違うだけでも、その感じ取る重さは違っていると思うのです。でも、「我々は同じである」と思い、お互いが自分と同じ重さを体感できていると確信しているのです。でも決して相手の感覚を確認する事は出来ていないのです。
確かに、各々が別々に感じている筈の、50sの重さは50sであり、バナナの味はバナナの味であり、緑色は緑色なのです。違うことはあり得ず全て必ず同じものなのです。
考えてみると非常に不思議な事なのです。
 
この宇宙には、まだまだ解明されていないことが数多くあると言われています。ありとあらゆる物全てを飲み込んでしまうブラックホール、 宇宙空間の端などと、まだまだ多くのことが謎に包まれたままです。
宇宙望遠鏡による観測では、超新星爆発による星の消滅。とか、幾つもの新しい星の誕生。など最近よく耳にするニュースです。
地球上の生物がそうであるように、宇宙の星も誕生と消滅を繰り返しています。やがて太陽の発するエネルギーが次第に衰え、地球上に新しい環境がつくり出される事となるでしょう。或いは天の川星雲そのものが消滅してしまう時代が到来するのかも知れません。
何れの場合であっても「人」は既にそこには存在していません。これら、膨大な時間を費やす地球上の出来事、宇宙のあらゆる現象も、宇宙規模の視点に立てばほんの僅かな一瞬の事であり、また僅かな一点での出来事なのです。
私達は、鉄が赤く錆びボロボロの酸化鉄となるには、鉄の元素と酸素元素が化学反応することであり、この酸化反応そのものは徐々に進行することを知っています。一方で、一瞬の内に燃え上がる炎も、これと同じ酸化反応により起こっている事を知っています。
鉄が徐々に酸化して赤く錆びるのと同じ無数の酸化反応が、人の目には一瞬の間に同時に進行するのが燃焼であり、爆発なのです。従って、燃えにくい金属といえども、瞬時に急速な酸化反応が引き起こされた時、人の目には炎を上げて燃え上がって見えるのです。
 
人を形作っている一つの細胞はその大きさ故に、例えば足先の細胞は頭の細胞に出会うことは無いでしょう。では、人が生きている宇宙の太陽系は人の躰の細胞に例えたとした場合、いったい何処に位置しているのでしょうか。
皮膚、やがて垢となる皮膚の一番外側に位置しているのかも知れません。
この様に考えてゆけば考える程程に、そこに「瞬間」「微細」を感じないでは居れないのです。我々が、今実感している現実の風景そのものが、計り知れない雄大な流れの、ほんの僅かな一瞬を体験しているに他ならないように思えてくるのです。
 
                          寺田憲昭
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
      
 
 
      
 
 
      
 
 
 
 
 
 
 
「人」とは何なのか、私の考える「宇宙観」「自然観」に対比させながらこの想いを整理してみます。
                 (平成10年7月30日より)
 
《前書き》
 
慌ただしかった一日の仕事が終わり、家に帰りくつろいでソファーに腰を下ろす。世間では今日どんなことがあったのかと思い、ニュースでも見ようと部屋のテレビにスイッチを入れる。処が、テレビからはアナウンサーの声が聞こえているのに画面が乱れ映像を見ることが出来ない。こんなとき人はどうするのでしょう。
多くの人はTVのスイッチを入れ直したり、或いは手で軽くたたいてみたり、チャンネルをくるくる回すなどし、何とか画像が見れる状態にしようとするでしょう。しかしそれでも映像が映らなければ、初めて人はTVが故障したと判断し修理する事を考え始めるのです。
昨日まではスイッチを入れればTVにニュースとかドラマの画面が普通に映っており、其れが当たり前と思っていた。しかし今日は其れが映らない。そして故障したと知ったとき人はTVの修理を考え始める、どんな仕組みでTVには映像が映るのだろうか。多少でもTVの構造に興味を持つ人であれば、TVに映像が映し出される仕組みを理解し故障個所を見つけて、出来れば自分で映像の映る状態にしたいと思うでしょう。そして、何とか映像が映し出される様になったとき初めてTVは丁寧に扱わなければ故障するものだと知るのです。
このことは、人間と其の社会生活に於いても同じ事が言えるのではないでしょうか。
ただし、出来るものならば人は故障する前に自らを見直すことが出来た方が望ましい、また、そうでなければならない様に思うのです。
 
この地球上に誕生し、その寿命の訪れる迄に、「人」は何をするのであろうか。しなければならない何があるのであろうか。
地球上の生物の生物全ては生態系維持の為、その役割の一端を担って生存していると言われています、「人」はその役割をどの様に担っているのでしようか・・・。
 
最近、「人」の行いに、より顕著に現れるようになってきている様に見えるのですが、「人」は、発達した頭脳を持っている故に、過ぎた自己生存本能を発揮し自らの生活基盤でもある地球環境を破壊し、ひいては他地球上生物の生存をも危うくしている。
これが「人」であるように思えるのです。
しかし、本当に人が「人の考え」で地球環境を破壊できるだけの能力を有しているのでしょうか。 確かに「人」はいろいろと思考する能力を授かっています、故にすばらしい動物であるという考え方もあります。
しかし「人の思考」そのものが、人間を地球上での迷惑な存在にしてしまったという見方も出来るのです。
私は最近、次の様に考えることがあるのです。
「人」を含む生物は勿論のこと、宇宙に存在している全てのものが、自らの意志で存在し或いは誕生している訳ではない。この宇宙に存在し、誕生する以上は「自らでは知り得ない何らかの役割を担っているのだろう」という理屈です。
この理屈を前提として、いろいろな事を考えて見たいと思ういます。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
    目 次
 
 
    「宇宙」とは「人」とはなにか     一 頁
 
    「病と治癒」           一九 頁
 
    「生存と滅亡のプログラム     二五 頁
 
    「脳」の役割           三四 頁
 
    「本能と思考」          三八 頁
 
    「人の思考」とは何か       四五 頁
 
    「人の欲」            四七 頁
 
    「人としての仕事」        六六 頁