阿弥陀さまのみ光

 3月5日、大阪で開催された「近畿地区仏教婦人会大会」に参加してきました。テーマは「とうときいのち 〜みひかりにてらされている私〜」でした。これを見たとき、まず、心に浮かんだのは、金子みすゞさんの「星とたんぽぽ」の詩でした。
「青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。」

 この昼間の星と同じように、阿弥陀さまのみ光は私達には見えません。でも、確かにあるのです。いつも私達を照らし、包み込んでくださっているのです。それを感じることが出来るのが、お念仏させていただくということなんだろうなー、などと、つらつら考えていた次第です。
 さて、大会の記念講演は、宗教家のひろさちやさんでした。その講題が、この「阿弥陀さまのみ光」です。先生のお話を聞きながら、自分でも考えさせられたことがあったので、わたしの気持ちをプラスしつつ、ひろさんのお話を紹介させていただきます。

しょうしきしょうこう おうしきおうこう しゃくしきしゃっこう びゃくしきびゃっこう
「青色青光   黄色黄光   赤色赤光   白色白光」  とは、『仏説阿弥陀経』の中の一節ですが、この言葉を元としたお話でした。

 最近、ひろさんは、「この世の中何かが狂ってる!」と思うことがよくあるそうです。ですが、これがまともなんだというものさしがないと、何がどう狂っているのかわからないですよね。そのまともさを教えてくれるのが、仏教だと言われるのです。私達の煩悩にまみれた目で見るとまともだと思えることも、阿弥陀さまの目から見ると狂っていることがあるということです。
 わたしたちは、「南無阿弥陀仏」と書いて、「なんまんだぶ」と言っています。この「なんまんだぶ」という言葉、ひろさん風に解釈すると「なん」「まん」「だぶ」の3つの意味が込められた言葉になるのです。
 「なん」は、なんだっていいんだの「なん」。「まん」は、万が一の「まん」。「だぶ」は、(これはうまい日本語がみつからなかったようで英語でしたが)、ダブルスタンダード、ようするに、直訳すると2つのものさし。

 では、まず、「なん」のお話をしましょう。ひろさんが、引用されたのは仏典にある有名なお話でした。
 
インドでのことです。ある女性が、結婚して長年子が授からず、やっと生まれた男の子が、ふとしたことで死んでしまいました。女性は、半狂乱になって、子の死体を抱きかかえながら、誰かこの子を治してください! 生き返らせてください! と叫びながら町中をさまよっていました。そこへ、お釈迦さまが、通りかかられました。女性の嘆き悲しむ姿を見て、お釈迦さまがおっしゃるには、「わたしが治る薬を作ってあげよう、芥子の実をもらってきなさい。ただし、今まで一度も死者をだしたことのない家からもらってくるんだよ」と。女性は喜んで芥子の実をもらいに走りました。

多分、ここまで書けば、このお話を知らない人でもことの顛末が想像出来るでしょう。そうです、芥子の実は、インドのことですからいくらでもあるでしょうが、死者をだしたことのない家などないのです。人間は、誰でも死ぬものですからね。女性も、家々をたずね歩くうちにそのことに気付きます。そして、「あぁ、私だけが辛い悲しい思いをしているのではなかった」とさとります。
 ここで、言われているのは、人間誰でも苦しい悲しい思いをしながら、それに耐えて生きていっているんだ、ということを教えているのだと私は思っていたのですが、ひろさんに言わせれば、これは「生きている人はすばらしい。でも、死んだ人もすばらしい」ということを教えているのだそうです。なるほど、確かに、生きているのがいい、死んでしまってはダメだと思うから、生き返らせようとするんですよね。生きているのも、死んでいるのも、同じ我が子。死んでしまって、残されたものは悲しいですが、だからといって生き返らせようとするのは間違っているということです。生きるも死ぬもそれは、その人の人生であって、私がどうこうするべきことではないのです。
 最初の話にもどりますが、今の日本の社会は、子が死んだときのこの女性のような人間の集まりになっているので、狂っているということになるのです。ひろさんは、教育=狂育とおっしゃいました。わたしたち親は、勉強の出来ない子を勉強が出来る子にさせようと思って「勉強しろー! 勉強しろー!」と言います。なるほど、努力は大切ですが、出来ない子を出来る子にするのは、間違っている。出来ない子は、出来ない子なりにいいんです。いや、勉強できたほうがいいし・・・と思いますが、じゃあ、なぜ出来た方がいいのでしょう? 出来た方が、いろんな可能性が広がって、その子のためになる。幸せになれる。果たして、そうでしょうか? 勉強が出来ない子が、出来ない子なりに幸せになれることが必要なんじゃないでしょうか。努力したら幸せになれる、成功できる、といいますが、幸せだから、成功したから、自分で自発的にもっともっとと努力することができるんです。勉強頑張って、1番になれということは、誰かが2番だということです。ビリだったから、ビリを脱出しろということは、違う誰かがビリになるということです。AをBに、BをCにするんじゃなく、AはAのまま、BはBのまま、CはCのままでいい。それぞれが、それぞれに輝いていることが、大切であり、それがご縁の世界というものなのだということを改めて教えられました。
 また、ここで言う幸せとは、決して物質的な意味でもないと思うのです。確かに金持ちだと、色々得することもありますし、なんでもお金で買えるものは手に入ります。でも、それこそが、シャバの考えというもので、私達が本質的に幸せというのは、そんなことではないはずです。こんなこと書くと、「それは本当の貧乏を経験したことがないから、そんな勝手なことを言うのだ」と言われるかもしれませんが・・・。まあ、簡単に言えば、つつましやかでも、家族で一緒に楽しく食卓を囲むことができれば、それだけで幸せというようなことでしょうかね。私としては、なんというか、そんな風な心が満ち足りているような状態を幸せと言うのではないか、と思います。
 ところで、ひろさんが、「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」の解釈でおもしろいことをおしゃっておられました。「青は、青春だから若者を指す。すると黄色は老人だ。若者は若者ですばらしい、でも、老人も老人ですばらしい。黄色は黄金で金持ち、赤色は赤貧で貧乏を指す。お金持ちはお金持ちで、貧乏は貧乏もまま幸せなんだ。赤色は強いので健康な人、白色は病人を指す。健康な人は、それで楽しいが、病人もそのままで楽しいんだ」。あー、な〜るほど! ですよね。
 ここで、思ったのが、この人生も、財産も、健康も、なにもかもすべて阿弥陀さまからのお預かりものなんだということです。ともすれば、わたしたちはそれを忘れて、自分で生きている、自分で稼いだお金は自分のものだ、自分の子どもは自分の子どもだ、と考えてしまいます。もぐらどんのいうように、勘違いしてしまうのです。わたしは、生かさせていただいているのであり、財産は自分だけじゃなくみんなのために使ってくれよと預けられたものであり、生まれた子どもは仏の子だ、しっかり育ててやってくれよという阿弥陀さまのお心であるのです。そして、その勘違いから、ああしよう、こうしようと思って、そしてその通りにならないので、苦しみ悲しみが起こるのですよね。
 ここで、でてくるのが「まん」の万が一です。万が一のことが起こったら、どうしたらいいのか? それは泣けばいいんだそうです。例えば、子どものこと。自分も親に心配させたことを忘れて、子どもに心配させられると怒るのが人間です。でも、子どもは自分ではありませんし、ましてやお預かりの仏の子です。親が子どもにしてあげるべきことは、安全に生きよ、と意見したり忠告したりすることではなく、子どもの人生をその子なりに精一杯生きさせてあげること、そして、万が一のことがあったら、一緒に悲しみを分かち合い泣いてあげることです。そうですよね、これこそが、仏教の慈悲の心だろう、と思いました。
 最後の「だぶ」、2つのものさしですが、一つは、シャバで生きるためのものさし、もう一つは、阿弥陀さまのものさしだとおっしゃいました。一つ目のほうは、先ほどの話の中の、頭がいいほうがよい、健康なほうがよいというものです。二つ目のほうは、阿弥陀さまの光に照らして見つめるということでしょう。頭が悪くても、病気でも、なんでもいいということです。
 そこで、脳裏にぱっと浮かんできたのが、今、世間を騒がせている某議員の顔。彼の発言にあった「俺が、税金を集めてやってんだから・・・」なーんていう馬鹿げた言葉もシャバのものさししかもたないが故の結果でしょう。とはいいうものの、どうしても私が私がになってしまうのが、人間です。みんな、そのままで素晴らしい。世界中の人口の数だけある、何億という光が、その光のままで輝くことが出来れば、さながらこの世がお浄土のようになるのでしょうに! などと、思っていたら、次のアトラクションで、まだまだ甘いなと感じさせられました。

 ひろさんのお話の後、アトラクションとしてチベット人舞踊家のペマヤンジェンさんのお話と歌がありました。彼女の名前はチベット語で「蓮に乗った音楽の神様」の意味だそうです。日本人と結婚されて、日本でただ一人のチベット人歌手として活躍されているのですが、日本人や日本の家庭を見ていると、とても変だと感じることが多いそうです。数年前に公開された「セブンイヤーズ・イン・チベット」という映画の中で、映画館を建てるために地面を掘るとたくさんのミミズが出てきたので、作業中のチベット人男性が指揮しているオーストリア人に「どうか、ミミズを殺さないで! このミミズは前世ではわたしのお母さんだったかもしれません」と懇願しますが、オーストリア人にはわかりません。同様に、この映画を一緒に見に行った友人に、「ミミズがおかあさんなわけないのに、チベット人っておかしいね」と言われたらしいです。ペマヤンジェンさんは「チベット人は、仏教を信じています。人間だけでなく、いのちあるものは皆生まれ変わるんですよ。だから、前世はお母さんでも今はミミズかもしれないでしょ」と説明したらしいのですが、その友人は信じられないと相手にしてくれなかったそうです。
 その友人にとってというか、多くの日本人にとって、人間はエライもの、ミミズなんて下等な生き物、という認識があるのではないでしょうか。かく言うわたしも、そこまで考えが至りませんでした。先の、ひろさんのお話を聞いて、すべての人間が光輝ければ・・・とは考えましたが、ミミズも光り輝ければ・・・なーんて、微塵も思いませんでした。人間だけでなく、生きとし生けるものすべてのいのちが、そのままで輝かないといけないんですよね。
 「チベット人は、厳しい自然と闘いながら生活しており、人間同士はもちろんのこと、すべてのいのちある生き物ともお互い助け合って共に生きているのです」という彼女の言葉は、「御同朋、御同行」の浄土真宗の教えそのものではないでしょうか。別に、特に阿弥陀さまの教えがどうこうと取り立てていうことではなく、生活の中に息づいているんですよね。そう考えるとき、厳しい自然の中で必死で生きているチベット人と、物質的に豊かな、でも心の貧しい日本人と、どちらが幸せだろうかと思いました。わたしのような甘ちゃんは、とても日本以外で暮らせそうにありませんが、現在の恵まれた環境と引き換えに、日本人はなにか大切なことを忘れてしまっているのではないか・・・と、薄ら寒い気がしました。
 まあ、会場にいるときは、そんなことを真面目に考えていた私ですが、家に帰って泣いている我が子を見ると、「もぉー、なに泣いてんのよー! 育ててやってるのに、なにが不足なのさー!!」と、プッツンしてしまうのでした。現世=お浄土の日は、とてもとても遠いですね。・・・というか、そんな日くるのか?!

 なんだか、わたしの意見が多すぎて、どこまでがひろさんやペマヤンジェンさんのお話だったのか、わからなくなっちゃいましたね。はっはっは〜
(2002.3.6. もぐら♀)