祈  り

いのるによりて病もやみ、いのちも延ぶることあれば、
たれかは一人として病み死ぬるひとあらん

(法然聖人『浄土宗略抄』)

 私は昔、小学校か中学校の頃、柔道の試合の日の朝、必ずお仏壇の前で「今日の試合勝てますように」と祈っていました。そうすると、父親が寄ってきて、「そんなことしたってあかんで、仏さんが叶えてくれるわけやない。それよりも、帰ってきてから今日はこんなんでしたって感謝しなさい」といわれました。はっきりいって、全く意味がわかりませんでした。実際、ほか(他宗派)のお寺では、そういう祈りを捧げたりしています。「なぜ、祈っても意味がないのか。また、祈っても意味がないなんて、なんと頼りにならない仏だろう・・・」と思ったものです。

 昨年の暮れに、われわれ浄土真宗本願寺派の教団内で、この祈りということが大きく取り上げられました。祈るという行為は、どの宗教・宗派でもなされるものですが、浄土真宗では祈りません。しかし、世界的な宗教間の対話において、どうしても祈りということを真宗においてどのように捉えていけばいいのかが問題になってきました。今までに、そのようなことが問題にならなかったわけではありませんが、教団として、また教学的にもしっかりとした答えが求められています。

 さて、『大乗』という雑誌の今月号の巻頭で、梯実圓先生は、上の法然聖人の文を引かれ、「人間であれば、だれもが病や死という苦から逃れたいと思うが、決して逃れられない。その現実をしっかりと見すえ、超えてゆく智慧と力を与えて救おうと願われているのが阿弥陀仏の本願なのです。祈り求めなければ護らないような如来ではありません。祈らずとも護り導いてくださるから、私は生死も老病も総てを如来のおはからいにまかせて、大悲の護念を感謝しつつ生きているのです」といわれています。

 この梯先生のお言葉の後に、何を書いてもあまり意味がないようにも感じられますが、私は、この梯先生の言葉によって、はじめて父親がいおうとしていたことがなんとなく理解できたような気がしました。いのることによって自分の欲望が満たされ、病もなく、延命することができたとしたら、だれが死ぬのでしょうか。そんなことはないのです。いのったからといっても、病や死を遠ざけることはできないのです。人間は、だれもが必ず死にゆくのです。それでもいのらずにはおれないのが、私達なのかもしれません。いのってもどうにもならないことを、いのって満足している私たち。阿弥陀さまは、そのような愚かな私をも、すくいとってくださるのです。このように尊い阿弥陀さまに、毎日、今日一日生きることができたことを感謝し、お仏壇の前に座りたいと思います。
(2003.2.1)