迷い
 
かなしきかなや道俗の 良時・吉日えらばしめ
 天神・地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす


先日、あるところでお話を聞く機会がありました。ご講師の方は、迷いということについてお話をされていました。迷いとは、聖徳太子が言われたように虚仮なる世間です。その虚仮なる世間に住み、この世に執着している私達は、まさしく迷っているといえるでしょう。しかし迷っている人は、道をたずねることはありません。迷っていると気づいた(気づかされた)人が道をたずねるのです。私は、知らず知らずのうちに日の吉凶を選んだり、占いを気にしてしまったりしています。世間には、さまざまな迷信があります。
 そのひとつに「お墓を立てると死人が出る」というのがあります。どういう理由でそうなるのかはわかりませんが、お墓というものが忌み嫌われる不吉なものと思われているのでしょう。

 讃岐の庄松が、臨終の床についていたとき、同行がお墓をたててあげることにしました。しかし同行が「同行が死んだら墓をたててつかわしましょうと相談がまとまったで、あとのことは心配するなよ」というと、庄松は「おらぁ、石の下にはおらぬぞ」といったそうです。この煩悩具足の私が、この世でいのち終われば、お浄土へ生まれさせていただき、阿弥陀如来と同じ働きをさせていただけるようになるのです。ですからそんな石の下にいるのではない、そんなことにこだわらなくてもいいと庄松はいいたかったのではないでしょうか。
 しかし皮肉なことに、庄松がなくなると、十三回忌にお墓がたてられることとなりました。
 よくよく考えてみれば、本願寺ももともとは親鸞聖人の廟所です。別に故人が、石の下にいるというわけではありません。しかし有縁人々が集まり、故人を偲びつつ折に触れ如来のみ教えを聞かせていただくということからいえば、お墓にお参りするということもご法縁であると思います。

 私達は、さまざまな迷信に惑わされながら、迷っているということに気づくこともなく日々を送っているのです。しかし如来さまのみ教えを聞かせていただくことによって、その迷いから脱することができるのだと思います。私は、そのみ教えを聞かせていただくたびに「恥づべし傷むべし」と慚愧せずにはおれなくなります。自らの行動を省みつつ、如来のみ光に照らされ、おさめとられている今を精一杯生きていきたいですね。
(2001.6.1)