「浄土への道は 浄土から開かれたものである」
                        
(『聞思室日記続』金子大栄著)



 この言葉を聞くとき、なんとなくわかるような、それでいて何か引っ掛かりを感じるようなそんな感じがします。普通に考えれば浄土に往生して往く主体、つまり、私たちの側から道を開いていくのではないでしょうか。往生しようと修行すというのは私から起こされた行為です。私から道が開かれると考えるのが当然です。しかし、本当はそうではない、と親鸞聖人は受けとめられました。どのような仏道修行や往生行も、真実の信心がその根本となります。つまり、真実信心がすべての基本となるわけです。真の心を持って行を行ずるのでなければ何の意味もありません。
 親鸞はこの真実信心について『教行信証』「信巻」至心釈において「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。」といっておられます。それは、われわれにはまったく真実なるものがない、ということをあらわしています。つまりわれわれが行う往生行はどれも真実の心によって行われたものではなく、どこまでも虚仮不実なるものでしかありません。そのような行を行じても往生することは出来ません。

 では、どのようにすれば私達は往生することができるのでしょうか。先の文章の少し後に、「如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したへまり。」と記されています。私たちは真実なる信心を如来からいただくということなのです。その真実信心はすべての徳をおさめた名号をその体としています。つまり、その信心をいただくことによって私たちは往生することができるのです。
 如来より私達に信心が与えられ、それによって往生するのですから浄土より道が開かれているといわれているのです。
 そこで私は「連続の非連続」という言葉を思い出しました。私達のこの世界は相対の世界です。しかし、浄土は絶対の世界なのです。相対から絶対へは道が断絶されています。絶対から相対へは道があるのです。
 私達の世界からお浄土へは非連続であり、お浄土からこの世界へは連続しているのです。つまり、私たちがいくら行を行じても、それを浄土へいくための手立てとすることは出来ないのです。私達は阿弥陀さまによって回向された信心によってのみお浄土へ往生させていただくのだと味あわさせていただくしだいです。そこで私たちが出来ることは何でしょうか。阿弥陀様に救われていくのだからなんでもいいというのではなく、毎日感謝のお念仏を伝えさせていただくことが私たちに出来る唯一道なのではないかと思います。
(2003.11.1)