母の自画像 バッド・マザーの生誕
第1回 母性の零度を求めて
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳根の母は死にたまふなり 斎藤茂吉
母を歌った短歌の中でこの作品ほど多くの人に知られた作品はないだろう。短歌をほとんど知らない人でも、この作品の情景を自らのものとして、あるいは想像され得る未来の像として、思い浮かべることができるのではないだろうか。「死にたまふ母」の一連は日本人が母なる人に抱く思いをみごとに象徴化し、理論や理屈の介入を拒否する。
はるばると薬をもちて来しわれを目守りたまへりわれは子なれば
寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ
繰り返し叫ばれる「われは子なれば」、「ははそはの母よ」と言う言葉は、茂吉のものであるばかりでなく、日本という国土に響く日本人に共通の叫びであるかのように聞こえてくる。「母」+「死」という図式の中に母と子であり続けた時間のすべてが凝縮されている。そして、「死にたまふ母」に溢れている美しい悲壮感を最も基層の部分で支えているのは、ある「母親像」なのである。
古来、文芸の中で、「母」は様々に表現されてきた。ことに、近代以降の文芸においては、「母」はいつの時代にあっても、大きなテーマの一つであり、「母」を描いた作品がそのテーマのゆえに拒否されるということは有り得なかった。典型的な例として、長谷川伸作『瞼の母』を見てみよう。江州番場生まれの忠太郎は、幼い頃生き別れた母を捜して諸国を放浪していた。やっと捜し出した生母おはまは、江戸柳橋の料亭「水熊」の女将におさまっていた。現実の生活を失うことを恐れたおはまは、訪ねてきた息子を冷たく拒絶する。それに対して、忠太郎は次のような台詞を言う。
「幼い時に別れた生みの母は、こう瞼の上下をぴったりと合わせ、思いだしゃあ絵で描いたように見えていたものをわざわざ骨を折って消してしまった。」
「これほど慕う子の心が、親の心には通じねえのだ。」
「おっかさん、そりゃあ怨みだ。あっしは怨みますよ。」
忠太郎のこの絶望に対して、長谷川伸は救済を用意してある。忠太郎が立ち去った後、おはまは思い直して忠太郎を追うのである。舞台に響くおはまの「忠太郎ヤーイ!」の声に、忠太郎も舞台を見ている観客もともに救われる。母はやはり母であり、子を絶対的に見捨てることはないという認識の線上で物語は成立している。
もう一つ、下村湖人の『次郎物語』を見てみよう。主人公の次郎は三人兄弟の二番目、みそっかすとして大きくなってゆく。祖母には疎まれ、幼い日からともに暮らすことができなかった母とも打ち解けることができずにいる。次郎の理解者は次々と亡くなってゆき、父のみが唯一の理解者となってしまったなかで、生家は没落して、次郎のみが他家へ預けられる。次郎と母が真に和解し、次郎の孤独が癒されるのは、母の死に臨んだ時であった。母お民は、見舞いに来た次郎の乳母お浜に、こう告げる。
「どうなり大きくなったからいいようなものの、あたし、これまで、ほんとにすまなかったと思うの。……この子にも、お前にも。」
「あたし、死ぬのは、もう怖くも何ともないの。だけど、この子に、いやな思いばかりさせて、それっきりになるのかと思うと……。」
「あたし、このごろ、しじゅう心の中で、この子にあやまっているのよ。」
そして、母お民は、次郎のことを夫に託して死んで行く。
「長いこと、ご心配ばかりかけました。……申し訳ありません。……あとのことは次郎が……子供たちが……幸せになりますように、……それだけをお願いします。」
こうした母の言葉に触れ、次郎もまた、変容する。
もしかれが、大きな悲しみの中で、しずかな星空をながめ、「運命」のあらしの中を「愛」のともしびにみちびかれつつ「永遠」の世界に旅する人間のすがたを、おぼろげながら心に描いたとしても、それはあながち、ふしぎなことではありますまい。
『瞼の母』も『次郎物語』もともに、「母による主人公の拒絶」→「主人公の絶望」→「母の翻意」→「母の受容」→「主人公の再生」という図式を持っている。「母」=「受容者」という前提抜きには物語は成立し得ない。この前提を覆す人物像は、物語成立以前の母にも許されていないのである。『瞼の母』は一九三〇年、『次郎物語』は一九四一年に発表されたものであるが、それから半世紀以上たった今日でも、「期待される母親像」は基本的にはあまり変化していないように思われる。
ここに、秋山正美著『昭和のお母さんを見なおす本』がある。この本の帯には、次の言葉が記されている。「この本は、平成のお母さんへの何よりの子育ての参考書です。昭和のお母さんのすてきなところを仕入れます。」と。つまり、昭和の母親像を基準として、現代の母親像を評価しようとする試みである。
まず著者は、母子関係をこう規定する。
夫婦の愛は、もともと他人の愛ですが、親子の愛は、骨肉の愛であり、水よりも濃い、血縁の愛であって、次元を異にしている愛、といってもいいでしょう。(中略)
子供は、授かるものであり、与えられるものであって、いわば神さまかコウノトリによって、押しつけられるようなものです。
また、母親の子に対する愛情についても、次のように規定する。
愛そうとする努力なしに、自然発生的に少しの無理もなくはぐくまれるのが、血を分けた親子の愛情であり、それはほとんど本能的なもの、といってもよさそうです。親子は、親子になったときから、独占し合っているので、両者の間に他人が割り込むすきはありません。
この著書を読むかぎり、秋山氏の理想とする母親は、以下のように要約できる。
*本能としての母性愛を保持し、
*子供は可能なかぎり多く産み、
*常に在宅し、
*便利とされる道具は、最低限にとどめ、
*食事はすべて手作りをし、
*精神の安定を保ち、
*老人の世話をよくし
*子供の教育も自らが行い、
*経済的な危機にも果敢に対処し、
*世間の価値基準に惑わされることなく、
*死ぬまで母であり続ける。
いまどき、こんなお母さんがいれば、国民栄誉賞ものだ。ちなみに私の母は昭和二年生れなので、まさに「昭和のお母さん」と呼ばれる世代であるのだが、上に挙げた条件のどれ一つにも、見事に当て嵌まらない。むろん私自身も同様だ。秋山氏の判断基準に照らせば、母親失格もいいところであろう。
こうして列挙すれば、母の側からの発言は全く欠落しており、ひどく理不尽に見えるが、ここに書かれた「良き母」の条件は、今もなお、すべての女性が母となった瞬間に、無言のうちに要求される、一般的な資質なのである。むしろ圧力と言ってもいいだろう。自分がそうした条件から逸脱しているのではないか、世間の目にはとんでもない母親に映っているのではないか、こうした怖れは、特別なものではない。日常のあらゆる場面で、ふいに頭をもげたる不安なのである。時としてこの不安は、病的なものに高まる場合もある。小児科医である渡辺久子氏は母子臨床の立場から、現代の母親が抱えている不安感の原因をこう分析している。
日本では家庭の電化、少子化により家事労働の負担は減ったが、地域社会の崩壊、家庭の孤立、競争の激化の中で、育児を支えてきた地域や血縁のネットワークが崩壊している。母親には育児の喜びや苦労を分かちあう仲間が得にくく、子どもには兄弟や友だちとのふれあいの機会が減っている。全体に母親であることの社会的意義や楽しさも薄らぎ、都会の多くの母親は孤独の中でわが子と向きあっている。(中略)どの母親もわが子の問題を母親のせいにしがちな社会の風潮の中で、人知れぬ不安、挫折感、罪悪感や自信喪失感を抱いている。
しかしながら、今日「母性」という呼び方で女性に要求される母親としての在り方は、決して歴史的に固定されたものではなかった。例えば、『今昔物語』巻第二十九第二十九話には、このような母が登場する。
山中で二人の乞食に装われた女が、操を守るために、排便を口実に乞食を欺き、人質として背負った愛児を渡して逃走したが、途中で騎馬武者の一群に出会って事情を説明し、ともに現場に引き返してみると、無残にも愛児は四肢を引き裂かれて死んでいた。しかし、武士たちは、この女の行動を称揚した。「子ハ悲シケレドモ、乞匈ニハ否不近付ジ」というこの母の発言は、現代ならば凄まじいまでの批判が寄せられるものであろう。しかし、当時では、母親は自分の身にかえて子どもを守らねばならぬ、という共通認識などなかったことが、「下衆ノ中ニモ此ク恥ヲ知ル者有也ケリ」という結語からうかがうことができる。
このほか、「能楽」「幸若舞」「古浄瑠璃」「近松浄瑠璃」などにも、父によって殺される子や、母によって死を容認される子の姿が多く描かれている。古典のなかに現われる母たちは、さまざまな抑圧を受けてはいるが、少なくとも、今日の母親に課せられているような過大な規範からは自由であった。
それでは、今日の「母性愛」とはどのように規定されているのだろうか。そして、いったい何時から、「母性愛」が至上の価値を帯びて女性に求められるようになったのであろうか。
広辞苑は、「母性」を「女性が母として持っている性質、また、母たるもの」、「母性愛」を「母親が持つ、子に対する先天的・本能的な愛情」と定義している。「子を産むこと」「母親になること」が、「女という牲に『自然』に備わっている普遍的・不変的な営み」としてとらえられている。「子産み」「子育て」の上に、「自然」という不変性を含意する概念を覆い被せることは、きわめて魅力的に見える。「妊娠」「出産」「哺乳」等の生殖に関わる営みを、女性の「自然的性質」として位置づけ、女性は妊娠出産期だけでなく生涯にわたって「母性」に支配されると見做しておけば、そこに労働としての価値を評価する必要もなければ、歴史的社会的営為として科学的に分析する必要もない。実に都合よく意識の暗がりに蹴り込んでおくことができる。基盤を曖昧にしておけば、いくらでも拡大解釈が可能であり、どのような条件を付加することもできる、という訳だ。
子どものためにもっともよかれと思う事のみを願い、子どもの欲求を何の苦もなく直感的に理解でき、心から子どもを素晴らしいものだと思え、子育てにうんざりすることもなく、呼吸と同じくらい自然に育児をこなし、育児を何の訓練も自己犠牲もいらない喜びの源と感じることができる母親。こうした「グッド・マザー」の概念が成立したのは、エリザベート・バダンテールによれば、十八世紀半ばのヨーロッパにおいてであるという。この時期のヨーロッパは、産業革命を経て、近代資本主義に基づく近代国家が成立して行く過程にあり、子どもが、将来の労働の担い手、未来の生産の担い手として、社会の中の必須の存在となっていった。より優秀な子どもを育てるために、優秀な母の存在が要請されたのである。
日本における母性概念の成立は明治初期とされている。政府の政策が当初の開明的政策から富国強兵策へと転換する中で、国家体制の一単位として家庭を位置づけていった。育児が家のためひいては国家のために、女性に与えられた責務とされたのである。明治国家が軍事国家に成長して行くにつれ、この概念はますます強化されて行く。そのピークは第二次世界大戦下で「愛国母性大会」が「母よ家庭に帰れ」のスローガンを掲げて開催されるなど「皇国の子女の育成」が強要された。一九四五年の敗戦を契機として、「軍国の母」のイメージは後退したが、その後、ホスピタリズム(施設病)研究が進む過程で、新たな母子関係の理論が登場してきた。ホスピタリズムとは、施設児の罹病率、死亡率の高さに注目した研究で、後には施設児の精神発達上の問題へと移り、精神医学者や心理学者の注目を集めることとなった。この結果、子どもには何よりも母親の身体接触を伴った愛情が必要であるという観念が、さらに一般的なものとなっていったのである。
「グッド・マザー」のイメージが強化されればされるほど、その反動として、「バッド・マザー」のイメージも鮮やかなものになる。子どもにすぐに嫌気がさす母親、子どもの幸福に無頓着な母親、ナルシスティック自己満足のためのみに子どもを利用する母親、こうした母親は、社会から容赦なく糾弾される。不断の献身と忍耐を強いられる子育ての日常では、極端な場合は別としても、こうした感情が兆すことは別段異常なことではない。にもかかわらず、こうした感情を口に出すことすら許されない雰囲気が、今もなおひったりと母親を取り巻いている。
私は子育ての喜びや本質的な生命礼讃を否定しているわけではない。一人の子の母として、子育ての過程で、私自身が成長してきたことは否定できない事実である。子どもと過ごしてきた歳月は、かけがえのない時間として、記憶の中で輝いている。しかし、喜ばしい感情と同時に、自らの内部の負の感情に押し流されそうになった記憶もある。そのときに抱いた罪悪感もまた、鮮やかなものとして残っている。近年、短歌作品の中にも、母であることの戸惑いを表現した作品が散見できるようになってきた。しかし、彼女たちの言葉はどこか苦しげである。苦しみつつも、彼女たちがどのような自画像を描こうとしているのか、探ってみたいと思っている。
参考資料
『斎藤茂吉歌集』岩波文庫
『瞼の母』長谷川伸全集(朝日新聞社)
『次郎物語』下村湖人(講談社青い鳥文庫)
『古今物語三」完訳日本の古典(小学館)
『ころの科学』第六六巻(日本評論社)
『日本人の親子像』(東洋館出版社)
『日本人の阿闍世コンプレックス』小此木啓吾(中公文庫)
『大航海』第五巻(新書館)
『母性』日本のフェミニズム5(岩波書店)
『母親幻想』岸田秀(新書館)
『昭和のお母さんを見なおす本』秋山正美(大修館書店)
『バッド・マザーの神話』J・スウイガート(誠信書房)
『平安朝の母と子』服藤早苗(中公新書)
母の自画像 バッド・マザーの生誕
第二回 大正デモクラシーの中で
「母性」という言葉が、一般に普及するきっかけとなったのは、一九一〇年後半、山田わか・山川菊江・平塚らいてう・与謝野晶子等の間で交わされた「母性保護論争」以後のことである。
一連の論争のきっかけとなったのは、山田わかの夫である山田嘉吉が雑誌『女王』に発表した「母性保護同盟に就いて」という文書だった。母性保護同盟とは、スウェーデンのエレン・ケイの影響をうけて、一九〇四年にドイツで結成されたもので、「妊娠・分娩・育児期にある母親の国家による保護」を提唱するものであった。この「国家による母性保護」という考え方に対して、晶子は「母性偏重を排す」と題した一文を『太陽』(一九一六年二月)に発表した。晶子は、トルストイの「女は自身の上に必然に置かれている使命即ち労働に適した子供を出来るだけ沢山生んでこれを哺育しかつ教育することの天賦の使命に自己を捧げねばならぬ」という論旨や、エレン・ケイの「女の生活の中心要素は母となることである」という論旨にたいして反対を唱えた。この一文は、生涯自由人であろうとし続けた晶子の基本的な考え方が余すところなく展開されたものであった。
人間の万事は男も女も人間として平等に履行することが出来る。それを男性女性という形式の方面から見れば、その二つの異った形式に従っていろいろの異った状態が履行の上にあるいは生じたり生じなかったりするだけである。具体的に言えばトルストイ翁は男は種族の存続を履行することに与り得ないように言われたが、それは何人にも明白な誤謬である。人間は単性生殖を為し得ない。男は常に種族の存続に女と協力している。この場合に唯男と女とは状態が異るだけである。男は産をしない、飲ますべき乳を持たないという形式の方面ばかり見て、男は種族の存続を履行し得ず、女のみがそれに特命されていると断ずるのは浅い。性情の円満な発達を遂げた父母の間に子に対する愛が差別のないのをよく考えても内面的には男女の協力が平等であることが想われる。(中略)エレン・ケイ女史などが生活の表面に起伏して中心要素となる無料の欲求が永遠に対立しているこの見やすい事実を知っていながら、そこに欲求の中の母性ばかりを特に擁立して絶対の支配権を与え、いわゆる絶対母性中心説を以て我々婦人に教えられるのは、対等であるべき無数の欲求に第一義第二義の褒貶を加える非現実的な概念から脱し切らない議論のように私には見える。(中略)旧式な良妻賢母主義に人間の活動を束縛する不自然な母性中心説を加味してこの上人口の増殖を奨励するような軽佻な流行を見ないようにしたいものである。
晶子のこの文章に対し、平塚らいてふは『文章世界』(一九一六年五月号)で「母性の主張について与謝野晶子氏に与う」と題した反論を発表した。その主張は男女の性的差異を容認する立場をとり、当時の劣悪な労働条件下における母性の保護の必要性を強調した。
その二年後、晶子が『婦人公論』誌上に書いた「女子の徹底した独立」という小文が、再びらいてうの注意をひき、「母性保護の主張は依頼主義か─与謝野晶子氏へ(『婦人公論』一九一八年五月号)と題する反論が寄せられた。「一体氏の書かれるものは種々な長所があるにかかわらず、観察があまりに狭隘であるばかりか、ややもすれば事実そのものの観察に出発せず、かつ事物の広くして深い関係を無視し、独に一つの事件なり、現象なり思想なりに対して是非の結論を下すことのみ急ぐというような傾向が見えます。」といった文を含む激しい論調のものであった。ここで展開された論旨は、らいてうの女性観および国家観を知るうえで大変興味ぶかい。
これは社会生活の安寧幸福に、国家の進歩発展に重大な関係あることでありますから、国家はこれを個人の自由に放任せず自ら進んで彼らを保護し、彼らの心身の健全な発達を計ることは国家として当然なすべき義務ではないでしょうか。そして子供の完全な保護はその母を保護することであります。すなわち母態に妊娠、分娩、育児期における生活の安定を与えるよう国庫によって補助することであります。(中略)元来母は生命の源泉であって、婦人は母たることによって個人的存在の域を脱して社会的な、国家的な存在者となるのでありますから、母を保護することは婦人一個の幸福のために必要なばかりでなく、その子供を通じて、全社会の幸福のため、全人類の将来のために必要なことなのであります。
晶子とらいてうの間のこうした応酬に、山川菊江、山田わかが合流し、婦人解放史上に有名な「母性保護論争」(一九一八年─一九年)に発展していったのだった。が、歴史は時として皮肉な結果を残す。「母性偏重」を排撃し、「国家による母性保護」に反対した与謝野晶子によって「母性」という言葉が普及されたのである。そして、このことは後に大きなツケを残すことになる。時代は晶子の主張するところや、後に伊藤野枝が主張した「自由母権」という発想を押し流し、「母性」はらいてうの意図した意味を超えて、国家という枠の中に組み込まれていった。
では、浪漫主義とデモクラシーが融合した独特の気風を作っていたこの時代、母たちはどのような自画像を描いていたのだろうか。
当時、すでに大家となっていた与謝野晶子の作品を見てみよう。「母性保護論争」に先立つ大正三年、晶子は「夏より秋へ」を刊行する。中期を代表する歌集である本集には、鉄幹・晶子夫婦の一大エポックであった外遊中の作品が多く収められている。
初子をば持ちし頃より秋の日を悲しむ癖の附きにけるかな
わが皐月今年児のため縫ひおろす白き衣のここちよきかな
子等おきてかへり見がちに君を追ひ海こゆる日もさはれ疾く来よ
子をすてて君に来りしその日より物狂ほしくなりにけるかな
子を思ひ一人かへるとほめられぬ苦しきことを賞め給ふかな
今さらに我れくやしくも七人の子の母として品のさだまる
心より外にさ云へど已みがたき親のおもひをわれもしにけり
一人の女の生活には「母性中心、友性中心、妻性中心、労働性中心、芸術性中心、国民性中心、世界性中心……」と、様々な要素が含まれていると言った晶子らしく、一方向に固定された視線を通して自らの母子関係を歌ってはいない。マタニティー・ブルーと言うべき感情や、子と夫の間で揺れ動く感情、あるいは子育てに追われ続ける閉塞感などが正直に吐露されている。晶子にあっては、不意に兆す子供に対する負の感情もまた自然な心の風景であったのだろう。そして、そうした感情と子に寄せる無条件の愛情が響きあって、豊饒としか言い様のない作品世界を造り出しているのである。
経済的な事情はあるにせよ、鉄幹という最大の理解者と十一人の子供たちに囲まれ、その才能を余すところなく発揮できた与謝野晶子に比して、原阿佐緒の場合はいささか様相を異にする。
もろともに死なむと思ふかなしかる運命のもとに生れたる吾子
死のやすきことを思へど吾子のためつらき運命を生きて泣く吾
狂ひはて子をさへ刺さむ日のさまのあまりさやかに見えてかなしき
吾に似ぬ子が手の形よ寒げやと息を吹きつゝ思ひ出し人
気まぐれに別れし親に似しやなど児をし叱れば涙ながるゝ
子を思ふことより涙ながす日の身をあはれみてまもる雪かな
この母が泣き流す血の涙もて汝が幸ひをかへし得ばかへし得ば
『涙痕』大正二年より
夫との不和、スキャンダル、創作の行き詰まりなど、極限状態とも言うべき中で生み出された作品群は、悲しさと痛ましさをもって読者に訴えかけてくる。自死を思う母、恋愛に殉じることを願う母、子殺しを思う母、こうした母は児童の健全育成という観点から見ればとんでもない母であろう。しかし、私には、子葉て子殺しという極限を暗示する作品を堂々と発表し得たことの背後に、時代のある思潮があるように思えてならない。
原阿佐緒よりももっと激しく母であることの葛藤を歌ったのは山田邦子であった。『片々』に登場する母の姿は、「利己主義」「無関心」「無理解」といったバット・マザーの特徴をことごとく示している。
血の音を聞けば淋しや夫よ子よ吾等に何のかゝはりあらむや
とざさゝれて滅びゆく日を待つ如き淋しき家となしはてにけり
児が泣けば母もなきたる此家の淋しき軒をめぐれる蚊柱
きりぎりす恋さへ身さへ投げ出して何とて母となりはてし身ぞ
じりじりと生命燃ゆればわがほとり吾子も吾夫もはにわの如し
人形もラッパもをどれよ鳴れよおもちや箱笑ひ出せよ母となりし気まぐれ
夜もすがら児は叫び泣くさんざんに母が生命を喰ふと泣き泣く
小さきえぷろん乳くさきえぷろん呪はれて子を生みし吾母となりし吾
あはれ児よ淋しき母に媚びわたるなが姿はも涙の如し
泣くまねをすれば悲しげに来て児はすがる児にさへ甘え泣きまねをする
作品に描かれたことがすべて事実とは限らないが、ここに歌われた心情の多くは、作者の偽らざる心であろう。「いとしいとし吾が持つものゝ何一つほろぶるなかれけがさるるなかれ」と詠んだ自己愛の延長に一連の作品を置いてみれば、作者の精神状態のただならぬことは想像に難くない。私は、『片々』が今から八十年前の歌集であることに驚きを感じる。この歌集に描かれた母と子の世界は、今日の母と子の世界にそのまま重なる。精神の安定を欠いた母親とその子が密室状態に置かれた時に母と子の双方に起こり得るさまざまな精神の様相をこの歌集は教えてくれる。臨床心理の専門家であれば、心理学の観点からの分析も可能であろうが、母たちの発言の歴史の中にこの歌集を置いてみるとき、この歌集の持つ意義は大きい。『片々』は、母であることが女性の至上価値とされる以前の、女性が発言することがようやく当り前と見做されるようになった時代の、母の側からの偽らざる発言として記憶されるべきであろう。
大正デモクラシー、大正ロマンと呼ばれる文化が花開いたこの時代、日本という国は不思議な自由さに包まれていた。日本は軍事国家に向かって歩み出してはいたが、その足音はいまだ微かで、国民の多くは日清・日露の戦勝気分の延長の中にいた。大正期を覆っていた自由さが、労働争議、シベリア出兵、米騒動などの社会不安のうえに成り立っていたとしても、女性たちの発言を封じ込めようとする動きはなかった。明治のロマンティシズムがデモクラシーの風潮と結合、融合して、平塚らいてうや与謝野晶子らの女性が大衆哲学者ともいうべき存在になり得た時代でもあったのだ。ただし、大杉栄の与謝野晶子に対する「聡明なる半可通」という評価の言葉に象徴されるように、女性たちの発言が当時の思想界にすんなりと受け入れられたわけではなかった。
短歌史におけるこの時代の評価はけっして高いものではない。木俣修は『昭和短歌史』において、大正期の歌壇について次のように述べている。
大正期の文壇が、白樺派、新現実派などの新しい文学流派の中から多くの作家と作品を生み、また明治の自然主義文学に胚子を持った私小説というものが成立して、多くの私小説作家と作品を生んで、明治の文学を更新し、新しくそしてにぎやかな展開を示していることなどに比べて、その文壇から孤立した大正期の歌壇というものはまことに不振そのものであり、ひどく寂しいものであったということが、結論されるのではないかと思うのである。
短歌史の大きな流れの中にこの時代を置いてみれば、大正期の歌壇の収穫は木俣修の指摘のとおりであろう。しかし、木俣修が歌壇には根付かなかったとする私小説は、女流歌人のなかに根を下ろそうとしていた。現実から逃避することを選ばなかった披女たちは、生活に根ざした感情を歌い始めていた。社会のさまざまな状況に対して発言し、考えて行こうとする女性たちは、男性に先んじて明治の浪漫主義から抜け出そうとしていたのかもしれない。
しかしながら、「愛と性の自由」を求める女性たちの声に応援されるかのように生まれてきた、『涙痕』や『片々』の世界は後継者を持つことができなかった。性差の問題が引き続き論議されてゆくのに比して、母の肉声はいち早く良妻賢母という家制度の規範の枠の中に閉じ込められてゆくのである。これ以降、母の描く自画像は次第に硬化したものとなっていった。
このもの憂さの一しづくとて生れたる吾子なればなほいとしとぞ思ふ 若山喜志子『無花果』大正四年
たゆたはずのぞみ抱きて若き日をのびよと恩ふわが幼児よ 片山広子『装翠』大正五年
夏の夜の脹はふ町を別るべき子の手を引てゆきもどりけり 三ケ島葭子『吾木香』大正十年
いつしかに我が子の上にかけてゐつあはれなる世の親のねがひを 四賀光子『藤の実』大正十三年
歴史の中で、女性が女性であることや母であることについて考えたり発言したりすることができる時代はさほど多くはない。大正デモクラシーの時代に花開こうとした女性たちの自己表現力は、軍国主義の流れに逆らう力をまだ持っていなかった。ことに、観音信仰などの庶民信仰と結び付いた「母性」という語が要求する自己犠牲と無限抱擁の前に、母の表現は生れようとする声を塞がれてしまったのだった。
参考資料
『与謝野晶子評論集』(岩波書店)
『平塚らいてう評論集』(岩波書店)
『群像日本の作家 与謝野晶子』(小学館)
『日本のフェミニズム5』(岩波書店)
『日本女性の歴史』(角川書店)
『昭和短歌史』木俣修(講談社学術文庫)
『女のイメージ」(勁草書房)
『現代短歌全集一〜五巻』(筑摩書房)
母の自画像 バッド・マザーの生誕
第三回 国家的母性の下で
川村邦光氏は『セクシュアリティの近代』の中で、大正年間に流布した性に関する奇妙な医学的学説を紹介している。今日の生物学的知識から見れば驚くべき内容なので、そのいくつかを抄出してみる。
* 性交によって女子の血液中に、男子の精子に対する反応酵素が生ずることが発見され、これによって「処女」と「非処女」の区別、既婚女性の「密通」の鑑別ができるようになった。
* 仮に夫を有する婦人が、他の男性と密契したる場合に、妊娠はせずとしても、その精子は女子の体内に入りて、その清き血液を汚す
* 多くの男性と交わった女性は、血液中に多くの異精子を混ずる結果、その性質は荒みて、多情多淫となる
* 一度姦通したる妻の子は、不良になる 沢田順次郎『性欲に関して青年男女に答ふる書』
* 女子が始めて異性に接触した後、少しく時を経て、その身体及精神に著しい変化を来す
* その変化は、心理的・精神的な変化であるばかりでなく、女性の血液中に進入した男性的成分の作用に負う化学的な変化でもある。 羽太鋭治『性欲及生植器の研究と疾病療法』
こうした言説の背後には、一夫一婦制を支える基盤として、処女の純潔と妻の貞操を強く求める社会的な要請があったのである。科学的・医学的な脅しとも言えるこれらの言説が、当時の女性たちに強いた精神的な負担は、決して軽いものではない。一見華やかに見える大正デモクラシーではあったが、その底では、女性をセクシュアリティから切り離し、母性という枠の中に閉じ込めておこうとする国家的な動きが始まっていたと言わざるを得ない。その一方で、女性に対するセクシュアリティの要求(と言うよりは性欲)は健全さを失い、社会の必要悪として、新たな抑圧を生みだしもした。女給・売春婦と呼ばれる女性たちが急増したのもこの時代のことであった。
昭和六年の満州事変に始まる十五年戦争の間に、近代国家の形成と発展の過程で形づくられてきた良妻賢母主義の女性観は、母性重視の方向に傾き「国家的母性」とも言うべき母親像が形成されてゆく。その経過を中嶌邦氏は三つの時期に分けて分析している。満州事変から日中戦争前までの第一期、日中戦争勃発から太平洋戦争勃発前までの第二期、太平洋戦争期の第三期である。
第一期においては、「非常時」体制や排外主義的風潮の中で、思想統制や国体明徴運動が展開され、日本精神の高揚・国民精神の強化が叫ばれた。天皇を頂点とする忠君愛国の家族国家観の徹底を企図するさまざまな国家主導の講座が持たれた。昭和十二年に成立した「母子保護法案」は、母による「第二の国民の育成」が全面に打ち出されたものであった。
日中戦争に入った第二期では、全面的な戦争状態に対応して国家総動員体制がしかれ、女性の生産能力への期待が大きくなってゆく。女子の勤労動員が始まり、軍需産業への就労が強く求められた。その一方で、露骨な「産む性」の讃美が進み、十六年には『人口政策確立要綱』が閣議決定された。「東亜における指導力を確保」するため、一九六〇年に内地人口一億人達成を目標として、次のような方策が掲げられた。出産増加策として、初婚年齢の早期化、一組の夫婦の出生児数を五人とすること、「家」制度の維持強化、結婚の紹介・斡旋、母性の国家的使命についての教育、結婚を阻害する就業の抑制、家族手当制度の導入、多子家庭・妊産婦の優遇、産児制限の禁止、花柳病の絶滅などがうたわれた。
第三期になると、完全な総力戦体制になる。軍需物資を生産する労働力としての要求と、次代の国民(兵士)=人的資源の生産という二つの相入れない要求が女性の上にかけられてゆく。このジレンマを解消する手段として、「家」と「母」の強調はその度合いを強めていったのだった。この時期に見られる過度の母性讃美は、犠牲・忍耐への讃美であり、国家目的への奉仕であった。私的な感情は後退させられ、「軍国の母」「靖国の母」であり続けることが強制されたのだった。中嶌氏は国家的母性観を次のようにまとめている。
一つはすべての面で、国家が優先し、国家存命の危機に対応しながら、近代未来の女性の役割観を固定し、女性を劣視し、その抑圧のための様々な状況を変えようとはしない。(中略)一方的に国家の目的に添い、奉仕することが要求された。この無償性(当時は滅私奉公といった)をいかに女に気付かせないか、あるいは論理的感性的に整合性をもたしめるかに、国家的母性論の苦吟があった。
二つには、国家体系の中の女の位置を動かさず、女に国家的活動を要請するために「母性」が必要であった。劣位の女性のままでは力不足である。そこで子の母たることが拡大され、女は「私」であっても母は「公」として尊重される。男性にとって、女や妻は日常性と結びついても、戦争に組みこまれた非日常においては、とりすがる母(自らの母と自らの子の母)は日常性を超えた高貴な存在でなければならなかった。
先に挙げた川村邦光氏の言を借りるならば、「夫婦による性欲=資本の健全な投資と回収を通じて、『性家族』を舞台にした再生産体制が維持」されることの心理的なバック・アップ体制が国家的母性観であったと言えよう。
この国家的母性観の称揚に短歌がすくなからぬ役割を演じたことは厳然たる事実である。その典型的な例として、昭和十五年に刊行された花岡大學著『聖戦の歌を語る』がある。
大君のみいくさ人とえらばるるますら男の子ぞ吾が生みし子ぞ (心の花 萩倉ちさゑ)
泰らけく子の召されしが何よりの悦びなれと笑ます母びと (歌と観照 河内野弘基)
などにあらはれた、母の姿の毅然たるきびしさには、日本の女性の代表的特質が表示されてゐて、おのづから頭の下がるものがあるが、それが真実であると同じ程度に、これと対蹠的ですらあるうろたへる母の姿にも「人間的さびしさ」があり、その真実の姿がそくそくと私たちの胸をたたくことである。
蝋燭のはだか火さむく土蔵より持ち征かしむる刀を選みつ (明日香 生田たつゑ)
ここにある母の姿は、むしろ冷やかでありすぎる程に静かである。しかし私たちは、その静けさの底に、のどもとにまでせまった急迫した呼吸をひしひしと感ぜしめられるのである。夜更けでもあるにちがひない。
ねむられぬ母は、ねむられぬ一切の私情に男々しくも一つのくぎりをつける。深きひそけさの心情は、軍国の光でなくてなにであるか。砲煙弾雨の間では、これが、とりもなほさず義列の魂魄となり、銃後にありては、不退転の生活精進となつて光をはなつのである。
論理の整合性もなければ、他者の痛みに対する親和力もないこうした言述が量産され、とぎれることなく叫ばれ続け、女性の真情は無限の自己抑制と隠蔽を余儀なくされた。かくして、日本人の精神風土にグッド・マザーは充満した。斎藤史著『朱天』にも、時代に要請された母の姿が見られる。
「母をたたふ」
すめらぎの遠の御盾と子を征かす母の身の栄に泣きたまふかも
いとし子のかげみに添ひて老母が魂もかけりぬ御いくさのには
一人子を神となしたる母にして口かず少なはげみたまへり
朝に夜に母が祈れることあつくおのれが上は云ひたまはぬよ
日の本の母のふむべき道ひとつ黙黙としてゆきたまふなり
おそらく、これが国家が理想とする母の肖像であったのであろう。では、母たちの実際の声はどのようなものであったのだろうか。昭和の短歌を網羅した『昭和万葉集』から、この時期に上げられた母たちの声を拾ってみよう。
またも会はむ今日の別れと思はねど泣かしめぬもののありて泣かざりき 斎明寺ふみ子
凍る野に戦ひをらむ子を思へば暖かき飯に涙おつるも 久保田不二子
戦死者の名を知らせゐるラヂオニュースききつつ我は息つまり来る 樋口志保子
明日になればわかるる汝か背に伏してわが血にかよふこの温もりを 水上すず子
苺たべて子のいき殊に甘くにほふ夕明り時を母に寄り添ひ 五島美代子
をさな子のうまいは深し柔き爪を剪ると持ちたる鋏の光 長沢美津
わが病めばひとり着物を吾子は着ぬ帯びもむすべりその幼な手に 国富幸子
人の子の母がその子と国遠くわかるる嘆きなににたとへん 岡本かの子
のこされしはひとりにあらずと吾子抱きて戻り来し家の冷たき暗さ 山根俊子
配給のともしき石油も吾子の征く祝の夜はあかあかともす 葉川登美子
挙手の礼せる兵らの中に子の顔見定めがたく汽車はいでゆく 相沢俊子
既にして吾が子の出征を送ることも三度となりて心たかぶらず 伊東かう
母と云ふ名もなげうちて或時はただの女人と泣かましものを 藤丘みづえ
戦地より鉛筆がきの吾子がふみ読みにくきを又もくり返しよむ 富岡きつ子
外出の手さげに今日も入れ持てり戦馬とうつる我子の写真を 古屋千代子
我が家の誉れと書きてあふれくる涙すべなし慰問文書く 税所文子
世を疎く住みつる吾等子の親となりてきびしくさらに生きむか 落合実子
みごもりて静脈すけるわが乳房湯にひたりゐて思ひぞ深し 竹下光子
ここに挙げた作品は母たちの声のほんの一部にしか過ぎない。『昭和万葉集』の第一巻から第五巻にわたっては、こうした母たちの嘆きの声が数多く収められている。戦時下の窮乏生活と我が子を死地に赴かせねばらならない精神的葛藤のなかで、女の部分の声は母という大命題に駆遂され微かな声でしかない。わずかに、<母と云ふ名もなげうちて或時はただの女人と泣かましものを><みごもりて静脈すけるわが乳房湯にひたりゐて思ひぞ深し>といった作品にその片鱗が見られるだけである。極論すれば、母という立場でしか自らがおかれた状況を嘆くことは許されていなかったと言うべきであろう。かつて<力など望まで弱く美しく生れしままの男にてあれ>と詠んだ岡本かの子ですら、この時期には母としての自らを全面に出す必要に迫られていたのである。
この時代に刊行された歌集のなかで、栗原潔子『寂蓼の眼』には、母性讃美の斉唱が響くなかにあって、わずかながらも負の感情を歌った作品が収められている。
気味わろき子供が吾にくひつきて逃げたつて駄目といへる夢みつ
狂気せずをみなの道もすてはてず涙にぬれて生きぬかむとす
母われのした怯えつつ何気なくゑみ装へば明るき子らの眼
底冷ゆる真夜中の灯にいわけなく泣く子を抱きわれは歌ふも
をみな子の吾に些か残りゐる若き日さへに惜しみなくわが児が奪ふ
われを母とたのめてものも思はざらむ幼なよ吾は心堪へぬなり
こうした母の姿は、この時期においてはむしろ異質のものであり、かすかな呟きとして記録されたに止まる。
日本全体が「国家愛の共同体」のシンボルとして母性を讃美し続けた戦争の時代に、今日私たちが思い描く「グッド・マザー」の肖像が作られていった。作用には必ず反作用が伴う。「グッド・マザー」の肖像が作られたということは、同時に「バッド・マザー」の肖像が作られたということでもある。「バッド・マザー」とは「グッド・マザー」の双子の姉妹に他ならない。
戦後の五十年を経た今日、私たちは、この不幸な時代に作られた母親像から自由になったと言えるだろうか。「国家的母性」の亡霊は、今もなお、女性の性の周辺に出没する。「教育ママ」「母子密着」「過干渉」といった現代の母親を責める言説の背後には、蒼ざめた顔の「日本の母」が立っている。
【参考図書】
女性研究会編『女のイメージ』勁草書房
川村邦光『セクシュアリティの近代』講談社選書メチエ
総合女性史研究会編『日本女性の歴史』
花岡大學『戦後の歌を語る』興教書院
『昭和万葉集』第一巻〜第五巻 講談社
『現代短歌全集』第六巻〜第九巻
『日本の母 崩壊と再生』新曜社
岸田秀『母親幻想』新書館
母の自画像 バッド・マザーの生誕
第四回 母とエロスの間で
川村邦光氏は『セクシエアリティの近代』を次のような文で締めくくっている。
近代の″性家族″は夫不在の母子を中心とする″母性愛の共同体”へと変質し、侵略戦争をになう夫・男の″国家愛の共同体”を支えていったのである。女たちの″女らしさ″は母性愛へと結晶され、母子の密着した濃やかな母子相愛の関係を築きあげていった。その一方で、男たちはなんの憂いもなく″男らしさ”の装いのもとで、戦地で野放図に性欲を発揮することになった。女たちの母性愛の裏返しが、女を子どもを″産む器″か、″快楽の器”としかみなしえない男たちの男根主義であったのである。戦後五十年を経てもなお、男たちの″国家愛の共同体″が″会社愛の共同体″へと変わったていどで、近代の″性家族″はさほどかわり映えのしていないことに少なからず驚かされよう。
一九四五年八月十五日、日本は無条件降伏と軍隊の解散、また軍国主義を一掃し、民主主義の政府を樹立することを求めたポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は終結した。戦死者三一〇万人、日本が侵略したアジア地域の人々五〇〇〇万人、消失した国家資産数兆円という悲惨な戦争は日本の敗戦によって幕が下りた。そして、あらゆる国家と人々の平等な関係を実現することを理想として掲げた戦後体制が始まった。国民主権・基本的人権の尊重・戦争放棄を基本とする「日本国憲法」の下、「家」制度や妻の無能力規定が廃止され、恋愛や結婚の自由を定めた新しい民法が制定され、婦人参政権が実現した。こうした一連の動きは、女性に解放と自由の息吹を与え、主体的に生きる人間としての生活を保証するかにみえた。しかし、制度という外殻と人間の内面の概念との間には大きなずれが存在する。敗戦によって消滅するはずであった「男根主義」は、形を変えてしぶとく生き続けることになる。
例えば、このような例がある。戦争終結の三日後の八月十八日、内務省から全国の府県警察長官あてに「外国軍駐屯地における慰安施設に関する内務通達」が電送された。占領軍の「性的慰安施設」を開設せよという内容である。このために政府は当時の金額で一億円という巨額の融資をはかった。八月二六日には業者たちによる特殊慰安施設協会(RAA)が設立され、二八日には早くも東京・大森で営業が開始されている。国家が率先して売春施設をつくり、女性を人柱とする近代国家にあるまじき施策が行われたのである。
新しい民法もまた、いくつかの問題をはらんでいた。親子関係ではなく法的平等にもとづいて夫と妻が協力して築くとされた家庭は「夫は仕事、妻は家庭」という役割分業を前提としており、こうした社会構造は、女性や女性の労働を低く評価することになり、新たな性差別を生み出すもととなった。
では、激変する社会環境のなかで、その基底にある「母親観」はどのような影響を受けたのであろうか。天野正子氏は、マスコミの「語り口」に見られる母親に対する一般的な観念の具体的な反映を、年代別に取り出して分析している。敗戦から一九五〇年代までを「耐える母」の時代とし、「岸壁の母」と「母もの映画」を挙げている。
「岸壁の母」は、一九五四年菊地章子によって歌われた流行歌で、多くの日本人の涙をさそった。中国大陸の戦地で消息を断った一人息子の帰国を、戦死の公報が入るまでの六年間、舞鶴港に通いながら待ち続けた母の姿が歌われている。氏は、「敗戦直後の日本人の多くが、この歌の背後に『母の母らしさ、母でなくてはやれないすごさ』を見て、深く心をゆり動かされた」としている。「岸壁の母」と同じ時期に隆盛期をむかえた「母もの映画」は、三益愛子の主演作品がよく知られており、一連の作品に描かれた母は「恋愛せず、再婚せず、女であることを捨てて子のために生きそして死んで行く」母であった。戦後の改革の嵐のなかで、「国民大衆が母イメージに求めたのは、男性なみに社会に進出するたくましい母や、新しい時代の新しい自我の確立をめざす力強い母ではなく、何よりも『子どものために耐え忍ぶ』母親の原像だった」とする天野氏の分析は強い説得力をもつ。
「軍国の母」が「岸壁の母」になり、「国家的母性」が「個人的母性」になっても、母なるものに要求される「母のコンセプション」にあまり変化は見られない。包み込み、育み、子のために自己犠牲を厭わない「グッド・マザー」であることが求められているのだ。そして、このことは社会の表層に表れる「母の肖像」ばかりではなく、母親自身の内面を度し、現実の母親自身の行動を規制し、「母の自画像」を規定する。現代短歌における母自身の表現も例外ではなく、外側と内側から母を規定する柔らかな檻にあらがいながら、母たちは自らの像を描き続けているのだ。しかしながら、そのことが意識的に行われるのはもう少し後のことである。
戦後、現代短歌は敗戦による精神的基盤の喪失と第二芸術論の洗礼の衛撃から回復するのに苦しい思索を強いられた。その過程から前衛短歌という輝かしい一時期が生まれてくるのだが、後知恵になることを恐れずに言えば、現代短歌の戦後は「思想に酔いしれた」時代であったと言えよう。戦前戦中の思想統制という囲いが、敗戦による占領下において、外圧としての民主化によって急に取り払われた結果、歌人たちはこぞって思想的なものを短歌表現のなかに取り込もうとした。母に関する言説にもまた、思想としての母の姿を描こうとするものが現われてきた。その代表として山田あき歌集『紺』を挙げることができる。
殺戮へかり立てんとする乱れごゑしづかに高く母ら走らず
戦に子を死なしめてめざめたる母の命を否定してもみよ
つつましく母性史読めりまよひなし強権は常に人を死なしむ
ゆたかなるララの給食煮たてつつ日本の母の思ひはなぎず
給食の大釜も母らも黄昏のさむき餘光につつまれありぬ
国をひらく歴史必然のとどろきのきびしさに起ち子をひきつれむ
をんなわれの這ひまはされしことごとよ新しき世に生きてとどろけ
こうした作品の背景となるものを、山田氏はあとがきのなかでこう書いている。
日本の女性のすべてがさうであるやうに、長い間、私の内部に鬱積してゐたもろもろの感動が、終戦といふ激変を契機としてやむにやまれず噴きあがり、これらの歌どもとなつたのであります。(中略)一個の人間女性としての立場から新しい歴史の流れを展望しつつ、前向きの姿勢をもつて歩みつづけることは、全く矛盾にみちみちた社会と人間に対する妥協なきたたかひを意味するものでした。
長い弾圧のなかを生き抜いてきた氏の自負と矜恃が溢れるように伝わってくる文章ではあるが、作品として描かれた母からはむしろ痛々しいものが伝わってくる。敗戦によっても、新憲法によっても容易に変化することのない「母のコンセプション」を内部に抱えたまま、新しい行動する女性であろうとしたところに、この痛々しさの源があるのではないだろうか。こうした意気軒昂とした作品よりも、
内部に棲む悪女聖女のあひせめぐ炎立ちのみだれ見据ゑむとする
天たかく鳥にまじりて翔びわたれ人間万歳は男のみのもの
あるときはがんじがらみの母なるも父とその子を追ひつめむとす
といった作品のほうに、より鮮明に氏の思索のありようが見えるように思えるのだが、どうだろうか。
戦後の混乱がようやく落ち着きを見せ始めた昭和二十八年、現代短歌は二つの新しい母親像を獲得した。五島美代子『母の歌集』と森岡貞香『白蛾』である。
<おごそかにわれによりくる一歩み われはもつひに母ならましか>に始まる『母の歌集』は、母たる自らの姿をひたすら歌い尽くした作品集である。
うつそみのいのち一途になりにけり生れまく近き吾子をおもへば
自分と顔を見あはせてゐるやうな不思議な気もち 子とゑみかはす
とどろきの前のしづけさ今の間に大きくなれと子にもの食ます
わが内に消えぬ火ありてかすかなる熱たもつ間をわれと生きよ子よ
ほとほとにほとびあはむと血に温む身を秋風に佇てり子とわれ
『母の歌』の描く世界は、表面的には緊密な母子関孫であり、立ち現われてくる母親像は「グッド・マザー」の典型のように見える。胎内に育つ生命に対する厳粛な思いや、微笑みを交わす母と子の姿、戦火のなかで子を育ててゆくひたすらな思い、また母と子の間の一体感などは日本人が理想とする母の姿そのものであろう。しかしながら、『母の歌集』が異彩を放っているのは、そうした表面に表れた母の理想像ではなく、描かれた母子関係の背後に見え隠れする母のエゴイズムをも描き出したことである。
影ずれて離れて見れば子と吾はつひに消耗のきづな引きあふ
学問をあさらめし日のわが若き胎内にありて息づきし吾子
子よ母も育たねばならずある時のわが空白に耐へて遊べよ
思ひがけぬ背後に若き敵ありてひと突き刺せばあへなく殪れぬ
うらぎりのきつ尖常に感じつつ水気ふくむ春の空気あぎとふ
このような母と子の間に醸し出される緊張した関係を意識的に歌った作品は五島美代子氏以前にはなかったと言ってもいいだろう。母であることは、時として、「自己拡大」を目指す生き方ではなく、自分の欲求や願望を押し殺す「自己縮小」の生き方を選ぶことを余儀なくされる。さらには、自己の領域に子を止めておこうとする負の要素としても働く。子の側から見れば、自己実現の不能感に悩む母や子を管理しようとする母は、戦うべき対象に他ならない。『母の歌集』は、それまで父と子の問題として描かれることの多かった世代間の葛藤が母子の間にも存在することを鮮明に描いており、一九八〇年代になって現われてくるさまざまな母子間の問題に先行している。五島家の母子葛藤は長女の自死という悲しい結末を呼び寄せてしまうのだが、母の愛情の対象は次女へと移り、<われに肖るこの子の顔は亡き子よりも間のびしてあればすこしやすらふ><わかりすぎていささか酷くあつかへば娘は辛うじておのれ保てり>という作品を生み出していることを、蛇足ながら記しておく。
森岡貞香『白蛾』は、『母の歌集』とは違った意味で新しい「母親像」を作り出すものであった。
うしろより母を緊めつつあまゆる汝は執拗にしてわが髪乱るる
拒みがたきわが少年の愛のしぐさ頤に手触り来その父のごと
力づよく肉しまり来し少年のあまゆる重みに息づくわれは
馳せ帰り走りいでけり汝の置きし熟梅はにほひあかねさす昼
よく知られた「少年」の一連からはじまる『白蛾』の世界は、寡婦となった若い母親と子である少年との間に匂うある種あやうい雰囲気を基調として創出されている。『母の歌集』が徹頭徹尾母であることからくる精神的な葛藤が主題であるならば、『白蛾』は、一人の女性の中に同時に二つの要素、母であることと女であることが含まれていることからくる精神の不安定が主題となっていると見てもいいだろう。母性とエロスという二つの相反する概念が、森岡氏の手によって初めて短歌の上で出会ったと言える。
飛ばぬ重き蛾はふるひつつ女身われとあはさりてしまふ薄暮のうつつに
夏の夜の夢ともつかずわが影のをんなねむりつついつか青き蛾
月光にうづくまりをるわがなかのけものよ風に髪毛そよめかす
帰りくればぬれえんにさす月光に未だ干されあり足袋とくつした
ブラジャーは汗あえ夫の墓を洗ふすべて画然と秋の陽の中
くらげのお化けのやうな絵がをんなだといふ浴槽いづるとき羞恥と怒りあり
近よりざま足からませて来し吾子に胸とどろかせわれはつかまる
『白蛾』の世界は濃密なエロスの気配を漂わせながらも、決して不健康な世界ではない。むしろ、女性の目から見れば、一個の人間の中に並立する母としての部分と女としての部分がみごとな均衡を保ち、その象徴的な技法とあいまって、独自の詩的世界を創りあげている。森岡貞香のこの世界は、やがて中城ふみ子に受け継がれ、葛原妙子という異質の土壌の上に、より象徴化された母性として花開いてゆくことになる。
顧みれば、昭和二十年の敗戦は近代国家日本の終焉であると同時に、近代家族の終焉でもあった。しかし、冒頭でも述べたが、制度の崩壊と意識の変化との間には大きなタイム・ラグがある。女の上に冠せられた「産む性」「育てる性」「包み込む性」という概念は、簡単なことではその強固さを失うことはない。さらに戦後社会は女性に新しい役割を担うことを要求した。母であると同時にエロスの具現者であること、また財の生産者であることが求められるようになった。意識の底まで深く浸透した既製の概念を打ち壊して新しい母親像を作り出すためには、山田あきにおける「マルキシズム」、五島美代子における「子の自死という現実」、森岡貞香における「エロス」といったように、強力な触媒が必要とされたのである。
【参考文献】
*「現代短歌全集」十一巻・十二巻(筑摩書房)
*『女のイメージ』(勁草書房)
*『日本女性の歴史』(角川選書)
*『セクシュアリティの近代』川村邦光(講談社選書メチエ)
*『現代短歌史』T・U篠弘(短歌研究社)
*『女あそび』上野千鶴子(学陽書房)
母の自画像 バッド・マザーの生誕
第五回 母という名の孤独
近代短歌から現代短歌までおびただしい数の母の歌が歌われてきた。描かれた母たちの姿、母たちが自らの内面を覗きこむようにして描いてきた自画像、そうしたおびただしい母の歌のなかにあって、葛原妙子が描き出した母の像は異彩を放っている。山田あき、五島美代子、森岡貞香らが描き出した母親像が自身の生活の実感から生み出された母親像であったのに対して、葛原妙子が選び採った方法は、作者自身の現実生活を積み重ねるようにして描くことから生まれてくる肉体をもった母弟像を描くのではなく、読者の心理の奥底に長い年月をかけて降り積もった文化としての母親像、いわゆる象徴としての母の像に直接語りかけようとするものであった。しかし、葛原妙子の象徴的母性はその初期から形成されていたものではない。『橙黄』から『薔薇窓』の時代にみられる作品では、ごく一般的な母親像をでないものが多い。
ゆふひとときわれに凭りつつをとめ三人青き目をもち猫もまじりて
未明のをとめ足伸べてねむる清浄を息の苦しくみまもる吾は 『橙黄』
卵のひみつ、といへる書抱きねむりたる十二の少女にふるるなかれよ
ひよわなる子らをしたがへわがめぐり薄らにひかりゐたるゆふつかた
頬にふるる小さき唇の夜の少女われの匂ひを盗み去らむか
眼鏡の澄みしづかに深くなるときの男の子よ潔し母にちかづくな 『飛行』
種の保全ねがひしことなかりしがめぐりぬくとしをみなご姉妹
人の手にかち合ふ祝杯を受くるもの愕然とわが生みの子なりし 『薔薇窓』
語の選択に彼女独特の志向がみられるものの、描かれた情景は現実の影を色濃くひいている。子育ての過程における母としての自信にあふれ、包み込み育む典型的なグッド・マザーとして、作者像は立ち上がって来る。この間の作品に、後にみられるような優れた象徴性を感じさせてくれるものは少ない。
マリアの胸にくれなゐの乳首を点じたるかなしみふかき繪を去りかねつ
夏のくぢらぬくしとさやりゐたるときわが乳の痛めるふかしぎありぬ
雌蕋のやうにくるまれた赤ん坊も揺れてゆく灰暗きかな軋みゆく汽車 『飛行』
わがまなうらしづかに緋を生むめつむりし褐色の少年悉達の胸布 『薔せ微窓』
わずかに、こうした作品に、象徴的母性の萌芽がみられるばかりである。葛原妙子が他に顆を見ない母親像を提出するのは、昭和三十四年に刊行された『原牛』以降のことである。
悲傷のはじまりとせむ若き母みどりごに乳をふふますること
風媒のたまものとしてマリアは蝿のごとき嬰児を抱きぬ
母子を繋ぎしテープひらひらと船腹にかの臍帯に似ておもへども
テームズを霧のとざさむことあらば汝のしらざる母をたしかめよ
わがなかにたのもしきものあるごとし女王蜂のごと括れてあれば
女蜂としてそこにゐるわれをりをりに線ゆらぎつつふとうたがはし 『原牛』
冬の裏あらはなる日よ胎児は灰暗き汝が羊水に揺れゐき
怖しき母子相姦のまぼろしはきりすとをだく悲傷の手より
胎児はかつきりと球の中に入り産月の雲とほく輝く
みどりふかし母體ねむれるそのひまに胎児はひとりめさめをらむか
ふとおもへば性なき胎児胎内にすずしきまなこみひらきにけり
懐胎女葡萄を洗ふ半身の重きかも水中の如く暗きかも
絹よりうすくみどりごねむりみどりごのかたへに暗き窓あきてをり
みどりごを指ししはその母 みどりごは真白き蛹のごとく捲かれいき 『葡萄木立』
なにぞそも長のむすめは母なるわがまへにきはめてしづかにわらふ
上膊より欠けたる聖母みどりごを抱かず星の夜をいただかず
かくおもたき母の睡りをいづかたに運ばむとわが子の姉妹ささやく
薄毛の赤ん坊はわが子ならざるを薄日の庭に抱きてさまよふ
ゆふひかり差したる部屋にあらはれて立つひとりをとめ子ひとり 『朱霊』
ここに見られるような高度に抽象化された母の像が、一応の子育てを終えた後に作り出されたものであることは興味ぶかいが、それについては別稿でふれたい。彼女が描いた母の像は「前テクスト」として、ギリシア神話<怖しき母子相姦のまぼろし・懐胎女葡萄を洗ふ>、中世絵画<蛸のごとき嬰児・胎児はかつきりと球の中に入り>や、キリスト教の聖母像<きりすとをだく悲傷の手・上膊より欠けたる聖母みどりごを抱かず>などを内包しており、従来の日本的な母親像からは隔たっている。ここには通念として成立したグッド・マザー像もなければバッド・マザー像もなく、描かれた風景は、日常にはりめぐらされた母の概念を透過して、読者の心理の深層にある母の原像にまで到着する。元型としての母を呼び起こすのである。(拙稿『葛原妙子の女性性』をお読みください)従来短歌に移植することは不向きとされていた象徴詩の打法を用いることによって、葛原妙子が創出した母の歌の領域は、深層心理にまで及ぶ独特のひかりを放っている。彼女が地をかきむしるようにして確立した歌の世界は、後に続く女流たちにとっての大きな遺産であり、彼女の方法を踏襲しながら、より広範な世界へと拡大して行く。
葛原妙子が「現実の透視者」(篠弘)たらんとして「呪いに満ちた魂」の表現を探っていた時代、日本は世界に類を見ない高度経済成長時代を迎えていた。「経済のことは、池田にお任せください」という掛声で登場した池田内閣は「所得倍増政策」を打ち出し、国民の心を取り込んでいった。池田内閣の下、日本経済は本格的な経済成長を開始し、一九六八年にはGNPがアメリカについで世界第二位となった。この高度経済成長は日本の産業構造を一変させ、国民生活に大さな影響を与えた。企業優先の政策は、物価の上昇、大気汚染などの公害、交通事故の激増、受験競争の激化などを引き起こした。こうした社会構造の激変は家庭環境にも及び、都市と地方にかかわらず、老人世帯、核家族、少子化などの家族構成の変化をもたらした。母をめぐる状況も例外ではなく、新たな「期待される母親像」が作り出されていった。その一つとして「三歳児神話」を挙げることができる。この神話が形成されるきっかけとなったのは、一九六一年から実施された三歳児検診であった。これは池田内閣の人づくり政策の一環として立案されたもので、「幼少人口の資質あるいは能力の開発」を意図した。「今後の人口構造の推移からみて、子どもの人口は非常に大事である。これを健全に生み、育て、よき生産人として国際競争力に耐え、日本民族として世界に伍して行くためには、児童はより良く守られなければならない(人口問題審議会答申)」「現下の憂慮すべき青少年の事態と人口構造の推移から見て、幼少人口の資質の向上、能力の開発のために積極的な対策を講ずる必要がある(中央児童福祉審議会答申)」といった各種審議会の答申を受けて制度化された。この三歳児検診の普及には、当時ようやく力を持ち始めたマスコミがすくなからぬ役割を果たし、乳幼児と母性への管理政策の土台づくり、および「三歳」と「母の手」のムード作りの一翼を担った。母乳重視のキャンペーンはその典型的な例である。「三つ子の魂百まで」「三歳までは母の手で」「母性愛こそ崇高」「乳幼児期の母子関係が人格の基礎」などといった言説の背後には、子どもを将来の人的資源とする見方、母親を優良労働力の生産・管理者としてとらえようとする政治的意図がちらつく。「天皇の赤子」を産むがゆえに母体は尊いとされた時代と何ら変わらない言説が繰り返されたのであった。その一方で、高度経済成長時代の母たちは、不足する労働力を補充するために社会にでることを要請されてもいた。「母よ、家庭へ」という掛け声と「女性の社会進出」という全く相反する要請の問で、特に職業をもつ母親たちは「うしろめたさ」を深めていった。口にすることのためらわれるこうした母親の心理的な葛藤を救済しようとする言説が公にされることは少なく、罪悪感を助長するかのような著書が量産されていた。七〇年代末にベスト・セラーになった久徳重盛の『母原病』などはその一例である。(久徳重盛は、一九九七年十月、今度は『父原病』を著している)
八〇年代になると、母子相互作用の研究が多く紹介され、「母と子の絆」という概念が強調されるようになった。これは「乳児は母から働きかけられるだけの受身な存在ではなく、乳児の側からも環境に働きかけている。したがって母親は、その働きかけに適切に応えていく感受性や応答の力を備える必要がある」というものである。本来は臨床心理学の研究成果であったものが、マスコミレベルで喧伝されたことにより、母親たちに、何がなんでも良い子に育てなければならないという強迫観念をいだかせる方向に働いてしまったことは残念なことである。巷に溢れる育児情報誌の数字と良い子の強迫観念で身動きのとれなくなった母と子が密室状態に置かれた時、母子それぞれに問題が生じてくるのは当然のことであろう。幼児虐待、子殺し、母親蒸発、育児ノイローゼによる母子心中など、さまざまな母子間の悲劇が社会の表面に現れてきたのもこの時期のことである。一連の事件が「母親責任論」に転化されていったのは言うまでもない。
時代の要請に従った「母性神話」がさまざまな方法で強化されていった六〇年代から八〇年代は、一方ではフェミニズムの時代でもあった。一九七五年から始まった「国際婦人の十年」や、一九八二年の「優性性保護法改悪阻止運動」などを契機に、性役割や性差別の実態を女性の側から検証して行こうとする動きが生まれてきた。こうした動きは、「産む産まないは、女が決める」「女のからだはわたしのもの」といったスローガンに見られるように、それまで日の当たる場所で語られることの少なかった性と性にまつわる意識の問題を堂々と語り合うきっかけともなった。
短歌の世界においても、こうしたフェミニズムの動きに呼応して、第二次女歌の時代とも言うべき活発な議論が展開され、多くの優れた母の歌が発表されていった。その先騒けとなったのは河野裕子の作品だった。
吾子の肩いまだ柔きにあご埋めはろばろとうみの血の音を聴く
胎児つつむ嚢となりきり眠るとき雨夜のめぐり海のごとしも 一九七六年刊『ひるがほ』
逆光に立てるわが子よわれの血を継ぎたる肉のかくも暗くて
われはわれを産みしならずやかの太初吾を生せし海身裡に揺らぐ 一九八〇年刊『桜森』
みづうみはみづのぬくもり抱きてゐむゆふべ泣く子は腕にあふれぬ
真剣に子を憎むこと多くなり打つこと少なくなりて今年のやんま 一九八四年刊『はやりを』
母であることを太初から現代へ続く時間軸のなかでとらえようとする河野の作品は、女性であることを思想的、美学的にとらえようとする当時の流れの中にあって、議論の方向を一変させる力を持っていた。フェミニズムの論調に対するアンチ・テーゼとも見える彼女の主張ではあったが、彼女もまたフェミニズムの恩恵を受けた者の一人にほかならなかった。母であることの素晴らしさも苦しみもすべてひっくるめて一人の女性であると言い切り得る強さは、彼女以前の女性が持ち得なかった強さでもあったのだ。河野裕子は紛れもなく、新しい母の肖像を描き出した一人なのである。
河野裕子とは逆の方向で新しい母の肖像を描いて見せたのは松実啓子であった。『わがオブローモフ』(一九八三年刊)の帯に馬場あき子が書いた「母の歌の中に童謡のような不思議な甦りを見せ、現代の悲情を発止と受け止めた復讐の罠の華やぎをみせる」という言葉は、この歌集の意味を端的に表わしたものであるといえる。
産みてはならぬ産みてはならぬと声がするあれは太古の母の声かも
あっつけらかんと妊りにけり愚かしきこの肉叢は陽にさらしおく
柘梱ひしと赤かりければ産み終えしわれの肉ほどふるえていたる
この児何処より来しかは知らぬなにゆえにわが子と呼びて腕のなかにいる
また、松平盟子、栗木京子の二氏が描いた母の姿も、フェミ二ズムの時代が生み出した母の肖像であった。
そらのはて濁りゐて朱き肉片のごとき陽が潤むわが受胎の日
しきうにて進化の過程へし胎児かとなでつつ遠きかなしみに似る
みどりごとよばるる前の水の胎児は聴くらむ母のこゑの陰陽
火のめぐりへ空気しづかに引かれゆき燃ゆるとき孕む芯くらきかな
つきかげに月球儀の塵ほのしろし寝息ふかき子も死ぬ運命ある
巣ごもりの日々は強ふるか大部分母としてのみあるを ぼたんゆきふる 松平盟子『青夜』(一九八三年刊)
新たなる風鳴りはじむ産み了へて樹のごとくまた繁りゆく身に
風邪の子に添ひてこもれりラップにて密封されし冬の幾日
妻となり母となりしも霜月尽 透明にして水の三体
日溜りに子としやがみつつやはらかく鬆の入りてゆく我が鋭き部分
闇を梳くさざ波汀にしきり寄せ娶られし性に帰る辺はなし
吾子の欲る弟なども売られゐむ吹雪に灯るコンビニエンス・ストア 栗木京子『水惑星』(一九八四年刊)
母であることはある部分で喪失の痛みを伴う。母とは無限に与え続ける存在であるという社会通念に潜む抑圧の構造に気づさ始めた彼女たちは、情念という柔らかなフォルムを装いながらも、喪失を強いる社会の在り方に抗議の声をあげたのではなかったろうか。彼女たちが描いた母の姿が私たちに問い掛けてくるのは、母の内部にある闇の重たさである。
母の自画像 バッド・マザーの生誕
最終回 新しき自画像のために
戦後の復興から高度経済成長へと拡大を続けてきた日本経済も八〇年代半ばから失速の様相を見せ始め、九〇年代になってバブルの崩壊とともに構造不況の時代をむかえる。出生率の低下による人口の危機が叫ばれるようになったのもこの時期のことである。しかし、不思議なことに、八〇年代半ばから見られた出生率の低下に反比例するように、育児関係の出版物は好調な伸びを見せているのである。七〇年代の終りにはわずか一〇万程度しかなかった育児関係の書簿の刊行点数は、九三年には六五万部を超えるまでに増加している。出生率一・四六という表面的な数字とはうらはらに、妊娠・出産・育児に関する人々の関心は、以前にも増して高まっていると言えよう。相次いで創刊された育児雑誌に共通するコンセプトは「体験・実感・本音の子育て」といったものであり、単なる情報ではなく、女性自身の経験と実感に基づく生きた情報が重視されている。これは、七〇年代の育児雑誌に見られた「最新の医学、教育学の言説による母親の啓蒙」や、八〇年代の「妊婦のヒロイン化・出産のイベント化」といった傾向からは大きく隔たっているものである。こうした育児情報誌によってどのょうな視点が形成されていったのであろうか。これには肯定的な面と否定的な面とがある。肯定的な面に関しては、妊娠・出産・育児の過程における意思決定の自主性の獲得、育児のプロセスに存在するさまざまな神話を神話としてとらえなおす脱神話化のまなざしの形成などが挙げられる。一方、否定的な側面としては、量産される体験物がステレオタイプ化され、「本音の子育て」として語られる現実が新たな神話となって母親たちを規制する恐れがあるということである。無力で庇護の対象でしかない子供が、一面では、笑わせてくれたり驚かせてくれたりする「興味深い生き物」として発見されたことは、その小さな「生き物」を前にして、怒りや喜びや心地好さを感じる「生き物」としての私自身の発見をもたらすと同時に、子供のペット化、私物化をもたらす要素をも含んでいる。子育て=立派なペットを育てることになりはしないだろうか。
「いろいろあるけどとりあえず世は事もなし」といった育児雑誌の言説とは別に、親子関係に関する新たな言説が登場してきた。それは、「アダルト・チルドレン」という概念である。アダルト・チルドレンはACと表され、その概念の原点はアダルト・チルドレン・オブ・アルコホリック(アルコール依存症の親のもとで育ち、大人になった人という意味)であり、アルコール依存症の心理療法の現場から生まれてきた。その後この概念は拡大され、仕事依存で家族のことが念頭にない父親や、病気で入退院を繰り返す母親、冷たい人間関係しか結べない家族など、機能不全家族で育った人々のことをも差すようになってきている。ACの特徴として、自己評価の低さ、物事を最後までやり遂げられない、よく嘘をつく、親密な人間関係を結べない、衝動的な行動が多い、常に他者の承認を求めるなどが挙げられている。また、親機能に失調をきたした親に育てられた子供は、成人後、親とよく似た配偶者を選び、自分の子供に対して自分が受けたと同様のトラウマを与えてしまう傾向が強いことも取り上げられている。ACとは、AC自らが自己の内面と向き合い、自己治癒の象徴として自らを呼ぶ呼称なのである。しかし、専門的な著書とは別に、一般に流布している書物においては、ACを「親のせいで子供のまま大人になりきれなかった大人」ととらえる見方が散見できる。実に日本的な拡大解釈と言うべき兆候だろう。このACの概念が母親を断罪する新しい言説にならないことを切に望むばかりである。委譲される責任の所在を過去に向かって追い求めて行くことは限りなく不毛に近い。母たちにとって(マスコミ的な意味の)ACの概念が何らかの救いになるとすれば、この概念がこれまで見られた母に関する言説と異なり、父の存在が家族に及ぼす影響の大きさにまで視野を広げている点である。これまで時代ごとに、時代が母たちに要求してきたグッド・マザー像(そしてバッド・マザー像)があったように、父たちにもグッド・ファーザー像(そしてバッド・ファーザー像)が要求されてゆくだろう。男たちが、男らしさやあるべき父親像といった既成のコンセプションから抜けだし、零度の父性を想定することができるようになって、初めて新しい家族の像が出来上がってくるのではないだろうか。グッド・マザー像を作ってきたのは、多くの男たちなのだから。
いつからか、街を歩く若い女性たちがとても軽やかに見えるようになった。彼女たちにとっては、女であることも母であることも人生のひとつのステップにしか過ぎず、それぞれの場面をスキップして通過していくかのようだ。かつて先輩の女性たちが呷吟して獲得してきたさまざまなものを彼女たちは当然のものとして享受している。少なくとも表面的にはそのように見える。過去の女性たちの戦いが形を変えた階級闘争であったことなど、今日の彼女たちにとっては無縁のものであるだろう。自由で軽やかな世界に闘争や憎悪といった言葉は似合わない。短歌作品においても同様のことが言える。性や出産にまつわる現実や感情を白日のもとに引き出し、女性の総体を描こうとした「第二次女歌の時代」はライト・ヴァースの登場とともに終了した。
親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト 俵万智『サラダ記念日』
わたくしの何をゆるして過ぎてゆくアルゴ船座の痛き竜骨 井辻朱美『吟遊詩人』
生理中のFUCKは熟し血の海をふたりつくづく眺めてしまう 林あまり『MARS☆ANGEL』
宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら 水原紫苑『びあんか』
ぼくたちは勝手に育ったさ 制服にセメントの粉すりつけながら 加藤治郎『サニー・サイド・アップ』
女には何をしたっていいんだと気づくコルクのブイ抱きながら 穂村弘『シンジケート』
棄てがたいものが誰にもあるでせうブリキの器そんな母です 荻原裕幸『あるまじろん』
その場限りの真実が硝子細工のように光るこうした作品を前にして、濃密な時間の経過と人間関係を基盤とする母たちの歌は後退せざるをえなかった。その背景には、母たちを取り囲む世間知という規制の枠の力が弱まってきたことがある。それは母たちの窒息感を弱める方向に働くと同時に、価値基準の不安定化をもたらし、短歌作品の上に新しい母親像を結ばせにくい状況をもたらしたのだった。ライト・ヴァースと呼ばれた作品が私たちに語りかけてくるのは、声高に叫ぶものを持たない世代が、アイロニカルな姿勢を装いながら呟く人間関係への希求ではなかったろうか。
そして、ライト・ヴァースの時代も過ぎ去った今、母たちはどのよぅな自画像を短歌の上に描いているのであろうか。最近注目を集めた作品をいくつか挙げてみる。
まつぴるまわが産みし子が歩みをり眩暈のごとくふいに疑ふ
赤子抱く母を見つむるをさなごを庇ある桃のやうにかなしむ
聖母像よごれて佇てり少しづつわが子をわれに似しむる怖れ
あしたより雨降りをれば母子とふ熱帯湿潤地帯にしづむ
いつまでも子でないことといつまでも子であることのはざま 花嬰粟 小島ゆかり『月光公園』
背に重きなにか負ひたき薄暮にてひとこぶ駱駝のわれ子を乗せぬ
あと少しもうすこし先へ子はいつか真つ白き道となりて誘ふ
焼き上げし麺麭いつくしみ運ぶ子よ力尽くしてやはらかくあらむ
少し背が伸びたね雨が匂ひはじめたねぶつきらぼうな息子と歩む
帰りきて玉ねぎのやうにまじめなる子はほのかなる秘めごと包む 川野里子『青鯨の日』
迷ひをるわれをしづかに消すやうに身籠りしものを誰も祝福す
産むことをさびしと思ひゐるわれを肉帯びながら忘れてゆかむ
子のうへに移らむひかりに幌を張りわがうちの<母>異体なること隠す
四季あれば四季のさびしさ吸ひつくし母たちが押してゆく乳母車
水無月のひかりのしろさ母たちをくまなく洗ひ母たち匂ふ 米川千嘉子『一夏』
夢で子に乞われるままに与えたる乳房ひやりと皿に盛られて
今朝の授業で窓から逃がした百足より小さな命を孕むと告げず
おどろおどろしきものらをしばし船倉にとじこめて十月あまりの航海
つわるとは芽吹くの謂いぞ下生えの緑今年は殊にまぶしく
星雲に抱かれて宇宙を飛んで来いエコー写真にとられたおまえ 大田美和『水の乳房』
羊水搾り血を搾り肉しぼりさいごに涙しぼれるわれか
夕焼けを車窓に見せてやればわれを抱きゐし母となりゆく気配
なつぼうしまぶかく吾子にかぶらしむこの世見せたくなきものばかり
ひねもすを笑ひ袋のやうな子よひと生の笑みを使ひ果たすなよ
どう夕焼けていいかわからない空のやう子を抱きどこまでも一人の私 辰己泰子『アトム・ハート・マザー』
風を押し歩いて行くよ腹の子が柔く動きし二人きり 午後
子は我の子となることから逃げられぬ くらき腹の中泳ぎ回れど
怖がらぬのに「大丈夫」と抱きしめて母らしくある野分の夜は
子の一生に関わりあるや秋の陽がそうっと細く差し込んできて
垂乳根の母なり我は身のうちのカルシウム減りきさらぎは過ぐ 前田康子『ねむそうな木』
小島ゆかりは昭和三十一年、川野里子、米川千嘉子はともに昭和三十四年、大田美和は昭和三十八年、辰己泰子、前田康子は昭和四十一年生れである。彼女たちはいずれもライト・ヴァースの時代に習作の時期を過ごし、女歌の時代の成果とライト・ヴァースの影響をともに受けつつ、新しい抒情の可能性を担う作家として注目を集めている。彼女たちの作品に共通する雰囲気は存在感の稀薄さである。緊密な母子関係が描かれることの多かったそれまでの短歌作品に比べて、子との関係性の稀薄さは言うまでもなく、母としての自己像までがどこか淡々とした印象をたたえている。母としての自己像とそれ以外の場面での自己像との境界は滲み、子から喚起される精神の動きと外界の現象から喚起されるそれとは見分け難いほどに溶け合っている。もっとも強く母であることを前面に打ち出した辰己泰子の『アトム・ハート・マザー』にしても、歌集全体から伝わってくるのは母としての辰己泰子像ではなく、ある季節を通過してゆく一人の女性の姿である。彼女たちはいまだ若く、子育てに関わってきた時間も短い。いまはまだ体温の低さとして伝わってくる作品世界が、今後どのような展開を見せ、母の短歌史に何を付け加えるのかを判断することはできない。しかしながら、一つだけ言えることは、彼女たちが、「グッド・マザー」「バッド・マザー」といった母を寸断する言説から半ば自由になっていることである。
そして、母である自らを一つの風景として捉らえる彼女たちの視線は、母であることに思想性を求めてしまいがちな少し上の世代にも影響を与えている。
乳母車押して坂をのぼりゆく母親といふ労働をせむ
押さへつけ薬飲まするとき拷問のたやすからむを小さく思へり
われは子を子は人形をひきずりて目抜通りを帰り来たりぬ
あと半分はウルトラの母として生きむタロウは初夏に傷つきやすく 斎藤典子『真弓』
母であることを知的に処理して行こうとするこうした視点も新しい傾向であると言えよう。
ここまで、急造国家であった明治国家によって作られた良妻賢母に始まり、軍国主義の時代の国家的母性を経て、今日の風景としての母親像にいたる過程が短歌作品の上にどのような影を落としてきたかをたどってきた。いつの時代にも時代が要請するグッド・マザー像があり、その鏡像としてバッド・マザー像が生み出されてきた。母たちの意識を外側からびっしりと取り囲む規制の枠は、今ようやく緩もうとしている。いまだ日の浅いこうした状況は女性たちに様々な混乱をもたらすだろう。わたしたちは、価値観の喪失や関係性の稀薄化といった混乱を新しい母親像を創出するための産みの苦しみとして受け入れなければならない。過去の亡霊たちに惑わされることなく、外側からの要請に足をすくわれることなく。
最後に、この文章を書いていく過程で、ともすれば崩れそうになる書くという意思を支え続けてくれたエレーヌ・シクスーの次のような文を記しておきたい。
了解済という口実の下に、さまざまの禁止事項の追加が、女性にのしかかることがありませんように。あなたが子供を欲しかろうと、欲しくなかろうと、それはあなたの問題なのです。誰もあなたを脅迫することがありませんように。[子供を産むという]あなたの欲望を満足させることによって、社会生活に順応して社会の共犯者になるという恐怖が、昔の時代[の家族の枠組み]に《とらわれる》という恐怖に追い打ちをかけることになりませんように。そして、男性よ、あなたもまた、皆が盲目で受動的であることを当て込みつつも、「子供をつくることで父親となるのでは」と恐れるのですか? つまり、「女が子供を作ってしまい、子供・母親・父親・家族という悪い結果を生み出してしまう」と恐れるのですか? いいえ。古い回路を断ち切るのはあなたなのです。『メデューサの笑い』より
【参考文献】
現代のエスプリ358号(至文堂)
斉藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)
大航海第5号(新書館)
エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』(紀伊国屋書店)