ミメティック・ジェネレイションの憂鬱
                   

 【mimesis】1【生物】擬態
        2【修辞・芸術】模写、ミメーシス
       言葉・動作などの模倣による人物描写法 
 【mimetic】mimesisの形容詞形 
               研究社『英和中辞典』


 近代という夕映えの最後のひとはけが現代という幽冥に溶け込んで行く。
今回私の担当である昭和三十五年以降に生れた歌人たちの歌集や作品を読みながら、私はそんなことを考えていた。考えていたというよりは、感じていたというほうが正確だろう。彼らの作品から伝わってくるのは、思考の過程や作品世界の構築といった、言わば言葉による力技によって造形される作家個人の生の形態ではなく、その時々の反応のようにして提出されるイメージの総体としての現代短歌のありようだった。
 長年の習慣として、私たちは作品の背後に作者そのものの存在を求める。作品の中で動いたり、見たり、感じたりする人物は作者そのものである、といった前提のもとに作品の読みは準備される。そして、個々の作品を通して一人の人物像を造形して納得する。発語者=作者の等式は、前衛短歌の洗礼を受けた後の今日でも、不動の読みとして定着している。また、書かれている内容は書き手にとって紛れもない真実(事実ではない)であるという素朴な信頼感で作品に向かう。しかし、ある時から、こうした従来の読みの方法では作品の内容を十分に感受できないような作品が見られるようになってきた。これは作者が実際に目にしたものであろうと思う光景と幻視の境は曖昧であり、私たちが共通認識だと信じている物の手触りは巧妙に外されてゆく。こうした作品は読む者をどうしようもなく不安にさせる。近代短歌から現代短歌へ遺産として手渡されてきた読みの方法では読みきれない何かが短歌という詩形に注ぎ込まれつつある。一つの作品に一つの読みといった明解な図式はもう当てはまらなくなっているのだ。
 現代短歌に新しい傾向をもたらした作家としてまず考えられるのは加藤治郎である。今回の年齢区分からわずかにずれるが、彼の作品を見てみることから始めよう。最新歌集『昏睡のパラダイス』に次のような一連がある。

 ウインドウズ
 死とは死にきることだろう窓にくっつくシャボン玉ひとつ
 
 死者一○五人、選ばれた映像は溶けた硝子につつまれる顔
 
 ダダダダとJは撃たれて透明のレインコートに血が拡がるさ
 
 窓ごしにわたくしを呼ぶ声がして遠い閃光に影となる人
 
 それでなくてもあついのに銃身をふくむあなたの頬はへこんで
 
 まりあまりあ明日あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ

 わずか六首で構成されただけではあるが、この一連を従来の読みの方法、個々の作品は同じ時間軸上で同じ作家によって経験されたことがある一定の発想によって作品化されている、といった意識で読んで行くことは不可能に近い。それぞれの作品に描かれている時間と空間は不定であり、わずかに保証されているのは、この一連が加藤治郎によって書かれたという事実だけである。しかし、この一連を「窓」の立場から発語されたものとして読んでみると、すきっりと納得がいく。このさまざまな死を映す「窓」が作家の意識として機能していることに気付かされる。作者である加藤治郎は「窓」という無機物に転化されている。ここでは不動のまなざしとしての「われ」は希釈され背景の奥に解け込む。
 加藤治郎は発語の主体を人間から事物へ転換して見せたが、意味の転化を図っている作家として荻原裕幸を挙げることができる。

 罌粟な作家とは言へないが死なれたら困るんだよな中上健次

 十二歳ぢやあ父が陸軍軍曹であつたと知るには無花果だつた

 樫がまたぼくを犀する午さがりお茶の時間といふ死語に棲む  『世紀末くん!』
 
 「罌粟な作家」「知るには無花果」「ぼくを犀する」といった表現は、私たちが日常的にこうだと信じている「単語」と「単語の意味」を強引に引き裂く。『世紀末くん!』
では、こうした意味の引き裂きが繰り返し試みられている。
 荻原裕幸の作品もまた従来の読みでは読みきれない内容を含んでいる。というよりは、彼の作品の場合は、読解されることを拒否しているともいえる。使用されている単語に付加されている意味の境界を敢えて無視することによって、漠然と醸し出される雰囲気のみが伝えられて来る。一つの単語対一つの意味という読者の認識は外され続け、読みの多様性が要求される。この意味の浮遊化という作業は言葉を取り扱う者にとって非常に魅惑的な作業ではあるが、一歩間違えると判じ物になってしまうというリスクを負っている。このリスクは作者と読者が共に負わなければならないリスクであろう。
加藤治郎、荻原裕幸とともに若手をリードしている作家として穂村弘がいる。


 水銀灯ひとつひとつに一羽づつ鳥が眠っている夜明け前

 ワイパーでフロントガラスに塗りたくる水滴に映る灯のすべて

 水曜日 海へ走れば街路樹の胸の名札の輝くばかり

 聖夜 響き合うガソリンスタンドの床に飼われている虹の群

 海のひかりに船が溶けると喜んでよだれまみれのグレイハウンド 『ドライドライアイス』

 穂村作品の特徴の一つとして用語の平明さをあげることができる。使用されている個々の単語はいずれもごく一般的に流通しているものでり、古語もなければ難解な術語もない。また、描かれている内容も私たちが日常の中で出会うであろう光景の延長上にある。しかし、こちらが読みの姿勢に入るやいなや、見慣れたはずの光景は目の前を通り過ぎ、何かがここにあったはずだという物悲しい記憶だけが残る。「水銀灯に眠る鳥」「塗りたくられる水滴」「街路樹の胸の名札」「床に飼われている虹の群」「喜んでいるグレイハウンド」といったフレーズの中の事物たちは日常に存在しているものでありながら、穂村弘という作家の視点を通過し、彼ならではの意匠を施されることによって日常性の頚木を解かれ三次元に微かに揺れるホログラム映像のような儚さを纏い始める。この儚い、つかの間の真実のような感覚こそが現代の色彩であると彼は言っているように思われてならない。これまで私たちが自明のこととしてきた、書くという行為が時間の連続性の上に成立するという認識、あるいは世界に垂直に錐を打ち込むためにディスクールがあるという認識はここでも外されて行く。
 一方、この三人とは異なった方法意識で作品を書こうとしている作家もいる。大辻隆弘と吉川宏志の二人である。

 大辻隆弘『抱擁韻』より
 
 ほのしろき夜明けにとほき梨咲いてこのあかるさに世界は滅ぶ

 プラスティック・タイルの廊に引く油学校はしづかにお前を殺す

 少女らは水の深さを測りあふ未だうらわかき世界の隅で

 青ぐらく暮るるゆふべにふる雨は熟れたる麦の禾の間を降る

 吉川宏志『青蝉』より

 窓辺にはくちづけのとき外したる眼鏡がありて透ける夏空

 風を浴びきりきり舞いの曼殊沙華 抱きたさはときに逢いたさを越ゆ

 春鳥を見上げる喉の白きこと まぼろしますか まぼろすだろう

 いわし雲みな前を向きながれおり赤子を坂で抱き直すかな

 ここに挙げた作品を始めとして、この二人の作品は安心感を与えてくれる。私たちの体内に蓄積された近代という伝統がいたって健やかな形で機能していることを感じさせてくれるからだ。大地に錘鉛を下ろすかのような「われ」の偏在、こんなにも素朴であっていいのかという不安を誘うかのようなコンテクストへの信頼感、そうしたものが個人としての微妙な揺れを描きながらも、基本的には人間性の肯定へと繋がっている。彼らの作品と方法は残っていくのだろうか。残っていく。現代短歌の最先端の部分で変容を繰り返す作品群としてではなく、多様性を獲得し始めた現代短歌の基本の部分として残っていくだろう。

 以下、これからの活躍が期待される男性歌人たちの作品の幾つかを挙げてみる。

 セメントで固まる軍手火に投ずわれを呼ぶその手型のままに
 
 速達のため放たれて美しき獣のごとく来る郵便夫  八木博信『フラミンゴ』

 引火しにくき体質となりゐるを知り三十一度目の冬は来にけり

 かくとだに見えぬ己れを欲ることの儚さよもう世紀も沈む  小田原漂情『奇魂・碧魂』

 黒雲の思ひを持ちて汝を訪へばチワワをり皮膚うすきチワワ

 千の象数へねむらむその象のひしめくはだへ膚思ひねむらむ  林和清『木に縁りて魚を求めよ』

 ルサンチマンのかわりに夜空へ放ちやるぼくらのように美しい蛾を

 トラックを転がり落ちたキャベツ達ぼくが時代に甘えてる間に  森本平『モラル』

 泣くひとよ僕らは一本の綱を奪い合っているのだと信じたいのだよ

 どうだ森よ我が足音は入植の匂いがするか犯されるようか  時彦『冒険者』

 吸いがらが踏まれ散らばる軒の下僕のくわえる青インクペン

 日に透けるほっぺの君が出ていって誰も食べずに林檎が残る  杉田糾「中部短歌」平成八年十一月号

 うち笑ふブレザーの少年の群すれちがふときおそろしきかも

 ひわ鶸のごと青年がくは銜へし茱萸を舌にて奪ふ さらに奪は  黒瀬珂瀾「中部短歌」平成十一年1月号

 〈サテライト人工衛星大破〉みたいな何となく清潔で静かな壊れ方
 
 衝撃波残してばん!と鳴りやんだピアノにつんのめる地球ごと  原浩輝「かばん」平成十一年五月号

 レイアップもできない僕を見てリョウは虹の所有者みたいに笑う

 くやしいけどリョウのシュートはいい 空に光を送り返す約束  千葉聡「かばん」平成十一年五月号

 くじらより大きなビルの眼を洗う文明の飼育係となって

 月だって疲れてるのさ 昨日より少し欠けてて出るのも遅いし  植松大雄「かばん」平成十一年五月号

 私の手元にある歌誌、歌集の中から目に付いた十人の作家を挙げてみた。年齢的には、八木博信の三十八歳から黒瀬珂瀾の二十二歳までである。もちろん、ここに挙げた十人以外にも多くの書き手がいるであろうし、もっと若い世代の書き手たちが登場の機会を待っているだろう。自らの触角の鈍感さを恥じつつ、この世代の抱えている問題と可能性について考えてみたい。
 文体から見てゆくと、八木博信、小田原漂情、林和清、黒瀬珂瀾の四人が文語脈、あとの六人は見事に口語脈となっている。口語脈とは言いながら、彼らの文体は会話体に近いものであり、いわゆる現代国語の文体とは異なる。作品から受ける饒舌な印象は多くこの会話体によるものであろう。五句三十一音の音数律は軽々と踏み越えられ、従来の短歌が持っている調べとは異質の響き方をする。句跨りや字足らず字余りなどによって作り出される緊張感とも明らかに異なる。敢えて名づけるならば、日本語のラップとでも言うしかないようなリズム感なのである。文語脈の四人は別として、彼らの作品を短歌として保証しているのは、「僕たちが書いているのは短歌である」という彼らの宣言だけであるように思える。このことについて、「かばん十五周年記念号」のなかで島田修三が次のように書いている。

  現代短歌は古典和歌から近代短歌を経て戦後短歌、前衛短歌に至る、気の遠くなるように膨大な水脈の現在としてあるはずなのだ。これが断ち切られたのは何故か、あるいはこの水脈に繋がろうとすることにいかなる意味があるのか、という問いかけを意識的に深めて行かなければ、どんなに短歌らしい短歌を作ったところで、それはおそらくついに短歌ではないのである。

 文体による圧倒感を失ったとき、短歌という短い詩形は、はっきり言って滅びる。この詩形の命脈を保つためには、今一度の大転換点が必要なのではないだろうか。ハイリスク・ハイリターンを狙うとき余剰資産の多い方にアドヴァンテイジがある。短歌における余剰資産とは言葉に他ならない。彼らに望むことがあるとすれば、より広範な言葉を身体の言葉として使いこなして欲しいことである。
 最後に、彼らが描こうとしている内容について見てみると、個々の作品を細かく読んでみればそれぞれに差異は認められはするものの、総体としては似たような印象を受ける。彼らに共通し、かつもっとも大きな特徴をなしていることは、作品の上に生身の自分をそのまま描こうとしないことである。動物は時に応じて、自らを守るために無生物を模倣(隠蔽的擬態)したり、目立たせるために他種を模倣(標識的擬態)したりする。それと同様に彼らの本質も今はまだ饒舌な文体の奥に隠れて、私には見えてこない。
彼らが新しく獲得した文体で、素裸で、世界を歌おうとし始めた時、新しい歌が生れてくるような気がする。

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