男たちの風景 
    男性歌人たちは何を描いてきたか
                        

はじめに

 山崎浩一著『男女論』は、現代の男女関係を取り巻く様々な事象を取り上げ、そこから見えてくる男女の力学の変化を分析した興味深い著書である。この本は次のような書き出しで始まっている。

 1980年、ジョン・レノンが死の直前に書いた十数曲の歌のなかに『ウーマン』という歌がある。レノン節≠ニもいえる彼独特のコード進行が美しい、おそらく名曲と呼んでいい歌だ。
 この曲のイントロでギターが印象的なリズムを刻む陰で、レノンがボソボソッと呟く。注意深く聴かなければ聞き取れないほど低い声なのだけれど、自分のヒアリング能力を過信すれば、おそらくレノンは「For the other half of the sky」と囁いている。つまり「空のもう半分側に向けて」というわけだ。おそらくは毛沢東の「空の半分を支えているのは女性である」という言葉を受けたものだ。
 
 改めてこの曲が収められているCDを聴いて見ると、確かにレノンの「For the other half of the sky」という呟きが聞こえてくる。

 Woman I can hardly express
 My mixed emotion at my thoughtlessness
 After all I'm forever in your debt
 And woman I will try to express
 My inner feelings and thankfulness
 For showing me the meaning of success ooh well

 女よ、僕はどう表現すればいいのだろう
 僕の分別のない入り混じった感情を
 結局、僕は永遠にあなたに借りがあるんだ
 女よ、何とか言ってみよう
 僕の感情と感謝の思いを
 僕に成功の意味を教えてくれたあなたに

 あらためて『ウーマン』の歌詞を読み返してみると、この曲がヨーコに向けて歌われていながら、本当はすべての女性に捧げる讃歌になっていることがわかる。時代を代表するカリスマが「世界の半分をあなたに贈ろう」という意味のメッセージを何の抵抗もなく発し、それが違和感なく受け入れられた八十年代がとても懐かしく思い出される。振りかえってみれば、男たちの風景が少しずつ変化してきたのは八十年代からであった。それは古い時代に属する男性性の規範と新しく生まれ出ようとする規範とのせめぎあいの光景であり、男女の境界が曖昧になってゆく過程でもあった。男たちの風景に変化を強いたのは何だったのだろうか。その原因が何であれ、男たちがいる「空の向こう側」では何かが起り、今までとは違う風景が生れようとしている。今の私には、そのことがどうにも気になって仕方がないのである。

☆ 男らしさの条件
1. 強くなければならない
2. 競争に打ち勝たなければならない
3. 攻撃的でなければならない
4. 女を守り彼女たちをリードしなければならない
5. 責任をまっとうせねばならない
6. お喋りであってはならない
7. 感情を表に出してはならない
8. 泣いてはならない
             伊藤公雄『<男らしさ>のゆくえ』より

 かつて男性たちを外部からも内部からも規制していたこうした<男らしさ>の条件は、すべて払底されたとは言えないにしても、その実効性を失っているものが少なくない。自らの内部の声に耳を塞ぎ、歯を食いしばって優越志向・権力志向・所有志向を満たすべく刻苦勉励する男性像は過去の遺物になりつつある。男性たちの内部には今もなお激しい葛藤があるだろうが、表面的には柔らかで臨機応変な自己実現を試みる人が多くなってきている。アイデンティティーの揺らぎという新しい困難を抱えつつも、女性に対して支配力を行使しようとするのではなく、寄り添っていこうとする生き方を選ぶ場面が少なからず見られる。
 短歌もまたこうした時代のうねりと無縁ではなく、若い男性歌人たちは、近代短歌から現代短歌に至るまで男性が書く短歌を規定してきたさまざまな男性性のステレオタイプからわずかに異なった作品世界を構築しようとしている。

 吾はかつて少年にしてほの熱きアムネジア、また死ぬまで男   黒瀬珂瀾「中部短歌」
 
 常温に溶かされてゆく氷柱のようならしさはもうなくていい     おかゆたか「中部短歌」
 
 コーヒーを飲んだカップに沈んでる春の空気と夢とトラウマ    宮川ダイスケ「京大短歌 第九号」

 美女の「あっ、そ」というソの声に鳴りわたる擦弦楽器あらばくるしも   島田幸典「京大短歌 第九号」

 名をしらぬにしてはおおきな樹木あり 愛しきれないほどよく育つ   棚木恒寿「京大短歌 第九号」

 宮川ダイスケが提出した自己存在の不確定性、黒瀬珂瀾におけるホモセクシャリティへの偏愛、おかゆたかの柔らかな自己確認、こうした自己像の描き方はかつての短歌作品には見られなかった傾向である。また、島田幸典や棚木恒寿が描き出した身体感覚や自然との親和性は、これまで女性の感性に属するとされてきたものである。しかし、彼らは自らの精神世界の投影である個々の場面を、短歌という詩形の上にいたって自然なものとして展開してみせる。おそらく、彼らのこうした傾向は戦略として選ばれたものではないだろう。彼らの作品から見えてくる問題性については後に触れることになるだろうが、作品の表面から見えてくる男性像は、これまで短歌の中に見られ一般的とされてきた男性像とは大きく異なっている。私の目には、不安定で痛々しい現代の若者の姿として浮かびあがってくる。
 それにしても、かつては空の全部を占有していた者、八十年代以降はその半分を領有するとされた「男」とはいったい何なのだろうか。彼らはどのような基準で自らの男性性を規定し、どのような理由で今日見られるようなアイデンティティの揺らぎに至ったのだろうか。
E・バダンテールは『XY 男とは何か』のなかで次のように述べている。

 「義務」「証拠」「試練」という言葉は、男になるためには一つの大きな任務をなしとげなければならないということを示している。男らしさはいきなり与えられるものではなく、築き上げられるものなのだ。つまり「製造される」のである。したがって、男性は一種の「加工品」であり、そうである以上、不良品ができるおそれはいつもある。製造中に欠陥が生じたり、男性製造装置がうまく働かなかったりして、「できそこない」ができるのだ。この、男を造る
という事業はとてもむずかしいので、成功すればたいした値打ちものとされる。

 「今じゃあ、女もそうなんだけどねえ」という私の個人的なぼやきはさておき、バダンテールのこの言説には説得力がある。新人類という呼称を通り越して宇宙人という称号を贈られている新しい作家たちは別として、近代短歌から現代短歌に至るまでに男たちが描いてきた世界には、「男」であろうとすることから生じる様々な葛藤と混乱がうずたかく積み重なっている。国家対個人、女性対男性、思想対情念、
自然対人間、あるいは社会対家庭といった多くの二項対立と融合、その中から生まれてきた夥しい数の作品とその作品の数だけの情念、そうしたものの総体として現代短歌がある。男性歌人たちが描いてきたものの本当の姿は、もしかするとバタンデールの言う「できそこない」の視点から捉えなおすことによって見えてくるのかもしれない。                 
 まず最初に、男たちがどのような自己像を描いてきたかを通覧してみることから始めよう。

 韓にして、いかでか死なむ。われ死なば、をのこの歌ぞ、また廃れなむ   与謝野鉄幹『東西南北』

 草づたふ朝の螢よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ   斎藤茂吉『あらたま』

 われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ    若山牧水『海の声』

 吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の点くごとしひもじかりけり     北原白秋『桐の花』

 紅燈のちまたにゆきてかへらざる人をまことのわれと思ふや   吉井勇『昨日まで』

 何ひとつ身に創などはもたなくにむかし母よりわれは生れき   前川佐美雄『白鳳』

 無尽数のなやみのなかにあがくさへけふのつたなきわれが生きざま  木俣修『冬暦』

 このわれや冷めざる血なりものにふれせせらぐべしも疾駆すべしも    坪野哲久『留花門』

 英雄で吾ら無きゆゑ暗くとも苦しとも堪へて今日に従ふ    宮柊二『小紺珠』

 かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり   高安国世『Vorfruhling』

 さらにわれ生きねばならず夜の灯照る泥濘に無数に人行きし跡   田谷鋭『水晶の座』

 ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ   浜田到『架橋』

 われに棲み激つ危うきもののためひとりの夜の鎮花祭   武川忠一『窓冷』
 
 五月祭の汗の青年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる   塚本邦雄『装飾樂句』

 かがまりて臀をふく恥ふかく魂ひくき生きものわれは   上田三四二『照徑』

 白じろと散りくる花を身に浴びて佇ちをりわれは救はるるなし  岡野弘彦『海のまほろば』

 在るもののなべてはわれとおもふ日や泪ぐましも春のやまなみ  前登志夫『樹下集』

 通用門いでて岡井隆氏がおもむろにわれにもどる身ぶるひ   岡井隆『蒼穹の蜜』

 蛍とぶかの曳光を抒情せんまこと未練の武士ぞわれ   石田比呂志『九州の傘』

 向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し   寺山修司『空には本』

 くろがねに光れる胸の厚くして鏡の中のわれを憎めり  奥村晃作『三齢幼虫』

 俺は帰るぞ俺の明日へ 黄金の疲れに眠る友よおやすみ   佐佐木幸綱『夏の鏡』

 あきかぜの中のきりんを見て立てばああ我といふ暗きかたまり   高野公彦『汽水の光』

 一国の危機に雲雀の狂い立ちああわれも血の喉笛をする   佐藤通雅『薄明の谷』

 ああされど鳥うずくまる夜の内部に入りゆきがたきわれも幽暗   伊藤一彦『月語抄』

 鴎外の口ひげにみる不機嫌な明治の家長はわれらにとおき    小高賢『家長』

 ともに陥つる睡りの中の花みずききみ問はばわれはやさしさをこそ  永田和宏『無限軌道』

 雪に傘、あはれむやみにあかるくて生きて負ふ苦をわれはうたがふ   小池光『バルサの翼』

 複製かもしれぬわが身をうべなえばテレビに偽のドンとチョーさん   藤原龍一郎『夢みる頃を過ぎても』

 美しき暴力としてわれは飼ふ冬のアメリカ〈声〉のアメリカ  坂井修一『ラビュリントスの日々』

 ぼくはただ口語のかおる部屋で待つ遅れて喩からあがってくるまで  加藤治郎『サニー・サイド・アップ』

 雪が雨にかはる夕べは傷ついた緑の犀のねむりをぼくに  大辻隆弘『水廊』

* 作品のピック・アップはすべて高野公彦編『現代の短歌』(講談社学術文庫)によった。

 明治六年生れの与謝野鉄幹から昭和三十五年生れの大辻隆弘まで三十二人の「われ」(われら、俺、ぼくを含めて)を抄出してみた。ここに描かれた「われ」がすべて作者と等身大の「われ」であるとみなすことはもちろん出来ないが、大部分は作者の自己像の投影であろう。そして、この一群の作品から最初に浮かびあがってくるのは、世界の中で「われ」の位置を特定しようと<男らしく>なく苦悩する姿である。鉄幹のように過度に肥大させる場合もあれば、木俣修や宮柊二、上田三四二のように卑小視する場合もあるが、いずれにしてもその根底にあるのは、世界と「われ」との明確な線引きであり、「われ」と世界とを同等の力で釣り合わせようとする志向である。ここが女性の描く「われ」と異なる。ところが、加藤治郎と大辻隆弘の場合には、別の風景が見えてくる。「われ」という表記と「ぼく」という口語表現との違いはあるであろうが、自己と世界の関係性の捉え方において、前の世代と比べるとその境界が曖昧になってきており、肩肘を張って世界と対峙するといったスタンスとは無縁である。
 鉄幹の「われ」と大辻隆弘の「ぼく」との間には距離と温度差、おそらく、この落差を探求して行くことによって、男たちの空模様のいくばくかが見えてくるのではないだろうか。



  男たちの風景 2
   男性歌人たちは何を描いてきたか

鉄幹というランド・マーク
 
 ここ数ヶ月、私の机の前には一枚の写真が貼ってある。輪郭のはっきりした切れ長の双眸はどちらかというと冷やかな光を湛えている。このような額を「秀でた額」というのであろうが、眉間の奥には癇癪の塊がいつでも爆発できる状態でしまわれているようにも見える。固く結ばれた薄い唇とえらの張った頬のラインが強い矜持と偏屈さの印象を与える。傍らにいる人の、そのゆるゆるとした雰囲気に比べ、何とも窮屈で重苦しい人である。男の名は与謝野寛、傍らの人の名は言うまでもない。私が見ているのは、昭和八年寛の還暦記念として発行された絵ハガキのコピーである。与謝野鉄幹(寛)という人を思うとき、何故か悲哀に似たものを覚える。

 われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子     『紫』

 あまりにも有名なこの作品と、晩年の彼の姿、下駄を片手に日がな一日蟻を潰している姿が二重映しのネガのように私の中に浮かんでは消える。与謝野晶子を見出し育て上げながら、いつの間にかその評価において圧倒的に差をつけられてしまった男の精神のありようを想像する過程で誘われる何とも言えない感覚なのである。
 その死後五十年以上がたった今でも、短歌と言えば与謝野晶子の名が挙がるというように変ることのない人気と評価を保ち続けている晶子に比して、鉄幹の存在はますます無視されることが多くなってきているように思われてならない。確かに晶子が成してきた仕事は近代短歌の金字塔であり、晶子を超える女流は今だ出現していない。「近代短歌史上においてもっとも光栄ある瞬間の一つは、二二歳のうら若い女性の手に成った歌集『みだれ髪』の出現のときである。(小田切秀雄)」晶子に与えられるこうした賛辞が鉄幹に与えられることは、これから先もあり得ないだろう。しかし、私たちが忘れてならないのは、晶子の歩むべき道を指し示したのは鉄幹であり、その活躍の場を保証したのは鉄幹の創刊になる『明星』であったことなのだ。
 瀬沼茂樹は「新詩社の近代性」(「短歌研究」昭和二三年一〇月号)という一文において鉄幹の歌業を以下のように位置付けている。

  明治の短歌は与謝野鉄幹にはじまる。もちろん鉄幹に先立って、もろもろの和歌改良運動があり、ほぼ同時代には俳句の革新から転じて、鉄幹 子規不可並称説をもって鉄幹と対峙した正岡子規がある。しかし子規の率いる根岸短歌会の新風が近代短歌に支配的な地位を占めるにいたったのは、「アララギ」の創刊から、むしろ大正期においてであった。子規の説いた近代写実主義は、あたかも二葉亭四迷の近代写実主義と同じく、 明治社会の未成熟のために、その提唱当時においてはまだ明治文学の主流を形づくることができなかった。また鉄幹に先立つ和歌改良運動は、( 中略)新体詩による短歌否定に対して、和歌そのものを、歌材、歌語、歌風、歌体において改良していくことであった。しかし後者の短歌改良は、社 会生活の変革にもとづいいて生起したものとはいえ、その根本精神は封建的な儒教精神であって、いまだ自我の自覚、すなわち近代精神の自覚の上におこなわれたものではなかった。かような近代精神の自覚にたつ短歌革新は与謝野鉄幹においてはじめて現実化していった。

 では、鉄幹が目指した短歌改革とはどのようなものであったのだろうか。彼が目指したものがもっとも鮮明に示されているのが「亡国の音」である。これは明治二十七年五月十日から十八日にかけて、鉄幹が当時記者として就職していた「二六新報」に連載したもので、「現代非丈夫的な和歌を罵る」と副題されており、その内容は御歌所風の伝統和歌を激しく攻撃するものであった。全文は長大なものであるが、彼の論調を知る上で重要と思われる部分を抄出してみよう。

* 風流は人の精神を腐食してその毒や冥々知る可からず、一は猶人身を亡ふに止まると雖も一は直ちに国家を危うす
* 大丈夫の一呼一吸は直ちに宇宙を呑吐し来る、既にこの大度量ありて宇宙を歌ふ宇宙即ち我歌也
* 歌に師授といふものあり、師授は偶ま形体を学ぶに必要なるのみ、歌の精神に至りては我直ちに宇宙の自然と合す、何ぞ師授の諄々を待たむ、一呼一吸、宇宙を呑吐する度量の如きは師と雖も譲らざる也、此の如くして大丈夫の歌は成る、この見識なきものは現代の歌人也、
* 世に風俗を壊乱するものあらば余は此『恋歌』を以って其一に加ふるを躊躇せざるべし、

 最後に挙げた項目は、後年晶子をはじめとする多くの女流の恋歌によって「明星」が若者たちの絶大な支持を得たこととの皮肉な照合のように思えるが、当時二十二歳の青年鉄幹が恋愛を文学の対象としていなかったことが見えてくる。鉄幹が目指した短歌は、「調べ」「優美」「情緒」を重んじる旧来の御歌所派を廃し、漢語調の「響き」「勇壮」「雄弁」を主調とする自己解放のための詩であった。「この大度量ありて宇宙を歌ふ宇宙即ち我歌也」という言上げを今日の私たちがしたならば、それは誇大妄想に過ぎないが、当時にあっては、こうした大言壮語が喝采をもって受け入れられる精神風土が確かに存在したのである。「亡国の音」の背後からはさまざまな思潮の音が聞こえてくる。明治維新から二十数年が経過したとは言いながら、人々の心の奥には徳川時代に培われた儒教的発想が色濃く残っていた。〈世に風俗を壊乱するものあらば余は此『恋歌』を以って其一に加ふるを躊躇せざるべし〉という恋歌排斥の言は、この時期の鉄幹がまだ封建的倫理観から抜けきっていないことを示している。また、それまでの欧化主義に逆行するかのような国家主義の色彩も濃い。また、自然と自己とを対等の立場に置こうとするロマン主義の影響も大きい。笹淵友一が「『明星』派の文学運動」の中で指摘するように、この時期の鉄幹の論旨には、当時天才と謳われた北村透谷が到達したような「自我の根源としての宗教的、形而上的世界の自覚」や「自我と社会との関係の論理的把握」といったものは見られない。しかし、「亡国の音」の背後からは、この時代を生きようとする青年の自我を感情的に膨張させてゆこうとする希求の声が聞こえてくる。大袈裟な国士風の論調の背後には、日清戦争前後の国民意識高揚期におけるブルジョワ的情熱の受容とそれに応えようとする鉄幹の意識の在り様が見えてくる。
 時代の空気に漠然と呼応したかのような鉄幹の自我意識がより明確化されて行くのは『東西南北』『天地玄黄』においてであった。

  小生の詩は、短歌にせよ、新体詩にせよ、誰を崇拝するにもあらず、誰の糟糠を嘗むるものにもあらず、言はば、小生の詩は、即ち小生の詩に御座候ふ。

 『東西南北』の自序に掲げられたこの宣言こそ、短歌が自我の文学であることを高らかに宣言した最初の声であった。鉄幹は飽くことなく「われ」を歌い続ける。

 韓にして、いかでか死なむ。われ死なば、をのこの歌ぞ、また廃れなむ。   『東西南北』
 
 我どちの、歌のこころに、かなひたる、少女もあれや、いざ恋してむ。

 水のんで、歌に枯れたる、我が骨を、拾ひて叩く、人の子もがな。     『天地玄黄』

 はらからも、たまたま我れを、うたがひぬ。世に問はれぬも、ことわりにして。

 世に遭はぬ、わが身かなしや。籠るべき、城はありながら、山はありながら。

 この無限に増殖していく「われ」の想定こそが、鉄幹における近代の受容であり、抒情の解放であった。「われ」の有限性を視野に置かぬ限り、自我は何ものにも同化し得る。「われ」という格好の器を得た鉄幹の自我が最大に膨張した様子を『鉄幹子』と『紫』に見ることができる。これらの集には「人を恋ふる歌」「血写歌」「断雁」「春のなやみ」(ここまで『鉄幹子』)「日本を去る歌」「長酔」(『紫』)といった詩をはじめ、

 わが世をば思ひ得ぬこそくるしけれ風山に満ちて松の花ちる

 わが歌を月にうたへば風出でて吼えんとすなり獅子の大巌

 からからと笑へば松の月はれて我立起つ峯に鶴の群なく

 火を踏みて入りなむ後に我歌の焚けずしあらば君こころなほせ

 荒海に千とせ沈みし鉄の矛人とあらはれて我れの歌あり

 泣いて叫ぶ黄色無能、黄色無能、アジア久しく語る児の無き  『鉄幹子』

 われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子                     

 夢は恋におもひは国に身は塵にさても二十とせさびしさを云はず

 恋といふも未だつくさず人と我とあたらしくしぬ日の本の歌

 くれなゐにそのくれなゐを問ふがごと愚かや我の恋をとがむる   『紫』

といった全能感に溢れた作品が収められている。後に鉄幹の妻となる鳳晶子や山川登美子が惹かれたのはこの時期の鉄幹の作品であった。しかし、内面的苦悩や抵抗物との葛藤を欠いた自我の膨張は、畢竟自我のインフレ傾向を呼ぶ。この時期以降、鉄幹は『東西南北』や『天地玄黄』に見えていた社会との抵抗を放棄して唯美主義、芸術至上主義へと傾いて行く。先に挙げた笹淵友一は鉄幹の自我意識を次のように裁断している。「鉄幹の自我の性格の一つは精神性に欠け、情欲・官能の臭味が強いことである。これは精神に対する背反というより、むしろ精神と肉体の未分化というべきものであろう。」これは鉄幹の幼児性という意味に通じるのであろうが、いささかにべもない言い方のように思われる。ここから先は私の想像にしか過ぎないが、鉄幹の耽美主義、過度の自己主張の背後には彼の生い立ちからくる影が射している。年譜を見る限り、鉄幹は晶子と結婚するまで定住の地を持っていない。幼少の時から貧しさゆえに養家と実家を往復し、教育は何度も中断しながら小学校を出たのみである。彼の学識のすべては私塾と自学自習によって身につけたものであった。門地門閥をもたぬ鉄幹が世の中に打って出る方法は自身の弁舌と不羈の志しかなかったのである。時代の空気を読み取ること、そしてその空気にいち早く自己を同化せしめることが、社会の中に自己の居場所を確保する唯一の方策だった。一歩間違えば周囲への迎合になってしまうこうした生き方を新しい文学運動に転化し得たのは、僧門に育った鉄幹が身につけていた倫理観と、「功成り名を遂げること」が男性の生き方のモデルとして認知され始めた明治という時代の後押しがあったからではないだろうか。八面楼主人による「鉄幹及び其『東西南北』」、「文壇照魔鏡」といった多くの批判に曝されながらも自らの文学観をよく保ち得たのも、こうした時代の空気をもっとも鋭敏に感受しているのは自分であるという自負心があったからに他ならない。

 鉄幹の悲劇は、「明星」が一つの時代を席巻してしまったために、「明星」の文学理論の次にやってくるものを読みきれなかったことにある。明治国家が近代国家としての安定期に入っていった三十年代後半においては、鉄幹が先導した浪漫主義は斬新さを失っており、自己を全面に押し出すことだけでは文学作品として成り立たなくなっていたのだった。新しく台頭してきた自然主義の文学観を受け入れるには、鉄幹の思考は旧式に過ぎたのではなかったろうか。時代は鉄幹を置き去りにしたまま変遷して行く。明治三十八年、鉄幹は長年親しんできた鉄幹の号を廃し、以後本名の与謝野寛を用いるようになる。四十一年、鉄幹が全存在を賭けて育ててきた「明星」が百号をもって廃刊となる。「明星」の廃刊は一つの時代意識の終焉であったが、鉄幹にとっても疾走の時代の終わりであった。個人的な趣味ではあるが、私は『相聞』に収められたこの時期の寛の作品にもっとも心惹かれる。

 時計屋の時計の針の指す時の皆ちがへるもうつせみの世ぞ

 しろがねの瓶よりたらら、ら、ら、ら、ら、と円く静かに流るるPIANO
 
 大空の打黙したるさびしさを時にわが持つわが妻も持つ

 与謝野鉄幹が「亡国の音」を発表してから百年以上が経過した今日まで、短歌という形式の上にさまざまな主義主張あるいは方法が積み上げられてきた。どの時代にあっても歌人たちは作品の上に「他ならぬわれ」を描き続けてきた。五句三十一音というフレームをぎっしりと埋める「われ」の存在。こうした「われ」の描写を可能にしてくれたことこそ、鉄幹が私たちに残してくれた大いなる遺産なのである。



 男たちの風景 3
  男性歌人たちは何を描いてきたか 
  
男たちはユートピアを目指す(国家と個人の間)

 一角獣しばし目をさ鎖す風なかの故郷故国の滅びしひかり

 滅びたる国の議長を裁く記事切りとりて捨てぬ四五日がのち

 山水に響く汽笛は滅びたが夏あまたたび国には来たが

 蝉しぐれ降りてくまなき八月の日本はいまだ油の焦土

 日本いまだに途上の国と切なきに臘梅咲きて宙にためらう

 大いなる素手が求めて叶わざる〈共栄圏〉のまぼろしあわれ   三枝昂之『甲州百目』

 祝日にかかげる家の稀にして疲れてさむし日本の国旗

 いつよりか動悸するわれ先頭に小柄な日本のランナー立てば   小高賢『怪鳥の尾』

 電光掲示板みぞれのビルの肩を走る見上げつつサダムに心寄りゆく

 さりげなく視線そらせてすれ違う日本人は日本人の前を

 チェチェンとう聞きしことなきその国に雪来たり男らは外に戦う   永田和宏『饗庭』

 あはれあはれその縮小図セルビアといふ「大国」のくびき軛を断つと

 単純にクロアチアをいへば貧しきものと手を携ふることを止めたり

 民族主義の高揚は見よいかなるときも貧しきものの棲む谷間より

 民族の観念にこご凝りたる出口なき感情のこゑはすさ荒むも   小池光『草の庭』

 三枝昂之、小高賢、永田和宏、小池光、この四人の作家たちは現代短歌の中枢部に位置し、彼らの仕事が短歌史の上に現代という時間帯の色彩を決定して行くことは間違いないだろう。
 四人の最新歌集から、「国家」あるいは「世界」が意識の一部として作品の表面に現れているものを選び出してみた。たったこれだけである。それぞれ四百首を超える作品が収められた四冊の歌集の中で「国家」や「世界」が描かれたものがたったこれだけであることに、多くの人が指摘していることではありながら、私は大きな驚きとある種の戸惑いを抱きながらこの稿を書き進めようとしている。
 ここに描かれている「国家」の何と清潔で冷え冷えとしていることだろう。「世界」とは、このように滅びの気配や予兆を纏ったものとして認識されるべき対象であったのだろうか。例えば三枝昂之の〈山水に響く汽笛は滅びたが夏あまたたび国には来たが〉という作品を読むとき、私の意識は記憶の中の次のような作品へ戻って行く。

 既に兵士も居らざる街に照りかえす斜光あふれてわれもあふれる

 あかがねの水夫と低くうたいあう世界の外の外へむかいて

 モロッコの老夫とならびながめたる地平世界のきわをうねれる

 はやぶさも識らざる国の中空に火の髪昏れていまだ戦ぐと   『水の覇権』

 『水の覇権』が発行された一九七七年(昭和五十二年)、当時の青年たちの多くは、七十年安保闘争の後の虚脱感にいまだ覆われていたとは言いながら、「国家」や「世界」が自らの身体の延長として意識されていたことを、これらの作品は教えてくれる。眼前にある「国家」や「世界」がすでに自分たちの手を離れた存在になってしまったとしても、地続きの何処かに自らを投企する場所を想定し得る思考の回路が生きていたのである。
 歌人としての出発が遅かった小高賢においても、〈世界病む断面の濃き朝刊をかかえつとめ勤務の隊列に入る(『耳の伝説』一九八四年刊)〉という世界との紐帯を感じさせる作品を生み出していたのである。しかし、出版という文化の最前線を職業としている小高賢は、〈アンガージユ投企わが語彙を去りいくばくやいよよ尖りし月見上ぐれば〉といった作品に見られるように、今日の歌人たちに共通する「国家」を自己の彼方に放擲する傾向をいち早く見抜いていたとも言える。今日の私たちにとって「国家」とは、私たちが住むこの日本ではなく諸外国の中のみに存在するものとなってしまっている。
 いま少し作品を挙げてみる。

 国家なぞ亡ぶるがよし窕く濃く熟れたる山桃ひとりしすする

 ニッポンとオノレ分かざる憂国論ななめに聞きゐていきなり涕かる

 ベトナムにひとりよがりの闘ひをもとな拡げし国は老いたる  島田修三『東海憑曲集』

 党本部地下一階の食堂のお子様ランチ日の丸の旗

 日本「男らしくないわあなたは」という声を忘れられずに聞く春の雨

 ガンガンと国歌国旗を靡かせてウヨクが来れば ああもう昼か  大野道夫『秋階段』

 棄て去りし祖国と言ひぬその語彙で歌書きてをり異国に我は

 日本を寂しき国と思ふ夜は鋭き語彙で歌書かむとす
 
 祖国とは何のまぼろし歌書けばほろほろ蒼き語彙は零れて   渡辺幸一『霧降る国』

 この街にわれは何者幾度を問われておりぬ裡なる声に
 
 帰り来し祖国は既に水漬く国紫陽花の紺深く沈めて

 つむじ風吹きて砂塵を巻き上げる街角ゆけば我は異邦人   三井修『アステカの王』

 蘭花にぎりつぶ潰すああフェティシズムから世界はハード・コア化してゆく

 午前七時ニュース聞きつつ一杯の真水とおもふけさの日本

 窓よりの朝陽届かず地球儀にし屍のよこたはるごとき日本   江畑實『デッド・フォーカス』

 高度成長息つめのぼる日本ありきしるしのごとく屋上のこす

 ひき攣れの日本列島大波に幾重にしばる桜前線   玉井清弘『清漣』

 死と政治のみがおそろし休日の日向に小椋佳など聴けど   渡辺松男『寒気氾濫』

 私はこうした一群の作品を読み返しながらポール・ヴァレリィを思い出していた。二十代の前半ですでに詩人、文学者としての名声を確立していたにもかかわらず、彼はある日突然一切の詩作を放棄し、以後二十年近く、一般庶民の生活の中に埋没する。早朝の数時間を自分を対象とした思索に費やすことを始め、生涯にわたるその思索の跡を二百五十四冊のノートに残した。あくまで公的であることが求められる西欧の文学観と、すべてが私性の中に吸収されてゆく日本の文学観との差があるにしても、このヴァレリィの態度からは、自意識を極限まで追求しようとする者が取らざるを得ない態度がいかなるものであるかが見えてくるように思われてならない。
 揶揄と否定の彼方に曖昧な輪郭をもって立ち現れてくる「国家」、異国のなかで初めて見えてくる日本、風景としてしか見えてこない日本、こうした国家観の背後には内と外との絶望的な切断がある。すべては自意識の内に吸収され、言葉に出すことでしかその存在を表明できない思想性は感覚の中に消滅する。

 現代の男性歌人たちは、公的な世界の要請と私的な世界の要請の二つに引き裂かれ続け、その葛藤に耐えきれず、結果、私的領域を選択してしまったかに見える。自意識の塔の先端に登りつめようとする姿勢をとる限り、他者を傷つけることもなく、他者から傷つけられることもない。男性歌人たちが思想を全面的に放棄したのではないだろうが、こうした状況には、やはり一抹の寂しさを感じてしまう。我ながら青臭い言い方ではあるが、詩が思想性を放棄してしまうということは詩の自己破産宣告に他ならないのではないだろうか。しかし、この状況の責任はひとり現代歌人にあるのではなく、その萌芽は遠く明治の末期に遡る。
 
 私は、先月号「鉄幹というランド・マーク」において、鉄幹が掲げた浪漫主義が短歌の上に無限に拡大し得る自己を保証したことを述べた。鉄幹の浪漫主義とは「唯一独自性」の強調と「自我崇拝」への熱望を基調とするものであった。彼の主張が労働力たる男性の平準化と個人の分化を要請する近代社会の構造に対する反措定として生れてきたものであったとしても、すべての人間に無限の可能性を保証するということは「すべての人間が神」たることを保証することであり、「唯一独自性」と「自我崇拝」という概念は内部から崩壊せざるを得ない。また、明治国家も国家の財たる国民がいつまでも自我の世界に自己陶酔していることを許すほど脳天気ではなかった。鉄幹の掲げた浪漫主義は、西欧のそれと同様に、やがて世界を席巻するファシズムの波に飲み込まれてしまったのだった。浪漫主義の後を継いだ自然主義も同様の運命を辿る。

 歌人の中でこのファシズムの気配をいち早く察したのは石川啄木であった。明治四十三年八月に書かれた「時代閉塞の現状」からは当時の文学の状況に対する彼の苛立ちが強く伝わってくる。この「時代閉塞の現状」は、同年六月に起こった「大逆事件」を契機として書かれた。「大逆事件」は幸徳秋水をはじめとする無政府主義者、社会主義者二十四名が、明治天皇暗殺の容疑で逮捕され、杜撰な裁判の挙句、秋水を筆頭に十二名が処刑された事件だった。啄木は国家がこのような強権を持つことを許した当時の思潮について次のように述べている。

  今日我々の中誰でもまず心を鎮めて、彼の強権と我々自身との関係を考えて見るならば、必ずそこに予想外に大きい疎隔(不和ではない)の横たわっている事を発見して驚くに違いない。実に彼の日本の総ての女子が、明治新社会の形成を全く男子の手に委ねた結果として、過去四十年の 間一に男子の奴隷として規定、訓練され(法規の上にも、教育の上にも、はたまた実際の家庭の上にも)、しかもそれに満足、少なくともそれに抗弁する理由を知らずにいるごとく、我々青年もまた同じ理由によって、総て国家についての問題においては(それが今日の問題であろうと、我々自 身の時代たる明日の問題であろうと)、全く父兄の手に一任しているのである。

  「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害すべきなんらの理由も有っていない。但し我々だけはそれにお手伝いするのは御免だ!」これ実に今日比較的教養ある殆ど総ての青年が国家と他人たる境遇において有ち得る愛国心の全体ではないか。

  「国家は帝国主義でもって日に増し強大になって行く。誠に結構な事だ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの人道だのという事にはお構いなしに一生懸命儲けなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」
 
 明らかに冤罪によるこの処刑は、当時の文学界の主流であった自然主義者たちに大きな衝撃を与えた。言論が処罰の対象になるという事態に対して、彼らは「実行と観照」、傍観もまた一つの実行である(田山花袋「描写論」)という巧妙な意識のすり替えを行った。「国家」や「思想」は作家個人の精神の中にしかその存在の場を与えられない状況が生れてきたのである。「大逆事件」によって明治的精神の結実とも言うべき浪漫主義は名実ともに滅び去った。これ以後、短歌はこの変質した自然主義一色に染められて行く。「外部」を切断し、自己の内面にのみ意識の錐を打ち込んでいこうとする発想が短歌とされていったのである。

 かくして「国家」と「個人」の蜜月時代は終った。しかしながら、「国家」と「個人」が永遠に決別した訳ではない。これ以後もこの両者は短歌という詩形の上で幾度か出会う。ただし、その出会い方は決して幸福な再会ではなかった。最初の再会は社会主義というイデオロギーの中での「国家」だったが、これは自らの身体の延長としての「国家」ではなく、あくまで概念としての「国家」観だった。二度目は強制的な再会、軍国という全く別の顔をもつ「国家」との再会だった。この再会が敗戦によってより悲惨な結末を迎えたことは私たちの記憶に新しい。
そして、三度目は安保反対運動を通しての再会であるが、この再会の結果として今日の「国家」の姿がある。四度目の再会はあるのだろうか。
 啄木が死の一年八ヶ月前に残した「時代閉塞の現状」の最後の一節がより切実な響きをもって聞こえてくる。

  我々全青年の心が「明日」を占領した時、その時、「今日」 の一切が初めて最も適切なる批評を享くるからである。時代に没頭していては時代を批評することが出来ない。私の文学に求むるところは批評である。  
  

  男たちの風景 4
   男性歌人たちは何を描いてきたか 

ファーザーズ・リブは可能か

 この夏、娘と二人で『となりの山田くん』を見た。矢野顕子のふわふわとした音楽に乗せて、私たちのすぐ隣りにいそうな一家の日常がどたばたと、ときにほんわかと描かれた作品であった。なかでもとりわけその存在感を主張していたのは、婿養子として山田家の人となった「お父さん」で、家族のいい加減さと自己主張の間で懸命に男の沽券を守ろうとする彼の姿は、いじましく涙ぐましく、現代の典型的な父親像を代表しているかのようであった。おもろうて哀しく、それでいて人間の尊厳がしっかりと描かれたこの映画を見た後、私は何故か奥村晃作氏の世界を思い出していた。

 奥村晃作第四歌集『父さんのうた』は一九九一年に出版された。この歌集には、一九八六年から一九八九年までの作品六九三首が収められている。「あとがき」の中にある「近代のシステム即ち資本主義の解体・衰滅とそれに取って替わる新しいシステムの希求・実現・達成である」という言が示すように、家族や社会との関係の中で見えてくる男性たちの状況を探求する思考の過程が鮮明な映像となって見えてくる歌集である。

 薬局の店頭に積む百円のシャンプー一個われ用に買ふ
 
 日本の追ひ詰められし若者がけいら警邏を超えて撃つおもちや玉

 一日の陽灼けがもと因の水泡をかひな腕に持てる車中のとう父さん

 長の子が翼を収めうち臥すを「あんたの如し」と妻は見抜けり

 父さんが元気元気に率ゐるは母さんや子らの無言の励まし

 結局ハ女子供ニ責メラレテ煙草ヲ止メタ顧ミ思フニ

 キャピタルのロンリにひしがれ男らをしり目に女はホント学びす

 世のしくみ・せいどの中のヲトコらの生理であらう〈過剰のボッキ〉

 妻や子のくらし生活を負ひて働けるちん賃労働者つま夫のあはれさ

 女とは人々のいひ謂 しか然く思ふ〈女が必ず世界を救ふ〉   奥村晃作『父さんのうた』

 自らを「父さん」と呼び、極力思い入れを排した文体のせいもあって個々の作品から受ける印象は暗いものではないが、描かれた内容はいずれも重い。今日の社会では、かつての男性たちがそうであったようなあからさまな男性性の優越を主張することは受け入れられない。家庭にあっても、現代の「父さん」たちに許されているのは躊躇いがちの自己主張でしかない。そうしたことを、これらの作品は教えてくれる。男性たちの精神世界にまで浸潤してくる新しい価値観に出来るだけ誠実に自らを適応させようと苦闘する現代人の一典型として、歌人奥村晃作の姿が浮かび上がってくる。そして、この歌集以後、男性歌人たちの歌集の内容に父である自らを歌った作品が大きな比重を占めるようになっていく。
 
 ところで、本集の作品が書かれた一九八六年から一九八九年とは、どういった時代だったのだろうか。

一九八六・四  チェルノブイリ原発事故
      十一 三原山大噴火
一九八七・四  国鉄分割・民営化
          サラダ記念日ブーム
一九八八・四  瀬戸大橋開通
       九  ソウルオリンピック
一九八九・一  昭和天皇崩御、平成に改元
      十一  ベルリンの壁撤廃

 この他にも、宇野元総理の女性スキャンダルから参議院選挙における女性議員の大量当選まで、国の内外ともに、その後の政治的経済的な趨勢を方向付ける様々な事件が起こっている。国内の事件に限って言えば、一九八九年には、男性性の暴発とも見える事件があった。女子高校生監禁=コンクリート詰殺人事件の発覚、連続幼児誘拐殺人事件の容疑者逮捕である。
 伊藤公雄は、この二つの悲惨な事件の背景として、「女のモノ化=支配の対象としての女という『男の論理』が存在している」 (『〈男らしさ〉のゆくえ』)という。
 この時代、自分たちの不安感を相対化する術を獲得していない若者たちの一部を除いて、自分たちの男性性が追い詰められていると自覚し始めた男たちの不安と焦燥が、男性たちの目を家庭に向けさせたとも言えよう。しかし、家庭に戻ってきたからといって、そこが男性たちにとって居心地のいい場所であった訳ではない。父親不在の期間が長かった家庭では、母親と子の濃密な関係性が築かれており、旧来の〈男らしさ〉の要素を持ったままの男性たちの居場所は用意されていなかった。漸く戻ってきた家庭でも、男性たちは自己のなかにある古い意識と、新たに要求される新しい意識の間での葛藤を余儀なくされたのだった。九十年代に出版された男性歌人たちの歌集の大勢を占める多くの「父親歌」は、この葛藤のさまざまな局面を見せているものでもある。

 近代以前、「家庭」は生産から教育までの諸機能を自足的に担う有機的な閉鎖空間(社会)として存在していた。それを強制的に外部に向かって解放したのは産業社会の登場であった。
 落合恵美子氏の分析によれば〈「近代家族」の概念は、@家内領域と公共領域の分離、A家族成員相互の強い情緒的関係、B子供中心主義、C男は、公共領域、女は家内領域という性別分業、D家族の集団性の強化、E社交の衰退、F非親族の排除、G核家族の八点にまとめられる『近代家族とフェミニズム』〉という。

 母親の概念が国家と経済システムの要求によって巧妙に築き上げられたことと同様に、父親の概念もまた効率最優先で作り上げられた。近代国家にとって家庭とは、「労働力の生産と再生産」の役割を果たすべきものとして位置付けられたのである。家庭・家族という概念が確立される当初から、家庭における父親の役割はその意味を排除さていたのだった。
 さらに、産業社会に財の生産者として位置付けられた男性たちの精神的側面を考えてみると、国家による個人管理のミニチュア版としての家庭管理の法則が見えてくる。社会においてナンバー・ワンであるという達成感を得られなくなった男性たちは、精神的な不達成感を満たすものとして家庭内における絶対者としての自己の位置に固執した。「家父長制」とは所詮こんなものであったのだ。ただし、この家父長という意識の背後には、法律的なバックアップ体制と、あくまでこれを擁護しようとするあまたの言説があったことを忘れてはならない。

 近代短歌に登場する父たちは、個人的な程度の差はあるとしても、大筋では、家父長としての父の立場から発語している。

 ほしがりしものを買ひ来て
 妻と子のうれしがる顔を、
 宝にはする            土岐哀果『黄昏に』

 まくら辺に子を坐らせて、
 まじまじとその顔見れば、
 逃げてゆきしかな。      石川啄木『悲しき玩具』

 子は子とて生くべかるらししかすがに遊べるみればあはれなりけり   土屋文明『ふゆくさ』

 六人の子らはいづべにひそまるや母が病めればいたづらもせぬか   宇津野研『木群』

 まじまじと夜はふけむとすをさな児よお伽噺を吾が語りなむ   古泉千樫『青牛集』

 いきほへるわれにはあらず妻子らにせめてやさしき心もたむよ    吉野秀雄『苔径集』

 吾子がやがて今のわが齢に生きるべき社会をおもふ遂にあかるく   五島茂『海図』

 すこやけき妻子の動作はこや臥りゐるわが神経にひびきて痛し    鹿児島寿蔵『潮汐』

 父とは常に子の上位に存在し、子は慈愛のまなざしを父によって注がれたのである。これらの作品に見られる父のまなざしは、冒頭に挙げた奥村氏の作品に見られるような子と同じ高さで(あるときは低く)対峙するものではない。むしろ、この時代の父たちには、家庭内において父と子が同等の意識で並び立つという概念が存在しなかったと見るべきだろう。
 しかし、ある意味では自信に満ちたこうした父のまなざしは、戦中戦後の混乱期のなかで次第に変容して行く。
 小浜逸郎は『中年男性論』のなかで父親像の崩壊の過程を次の三期に分けて分析している。短歌に見られる父たちのまなざしもまた、社会の動きと連動するかのように、少しずつ変貌していった。

*第一期
 敗戦という大きな衝撃が日本の中年男性の精神にあたえた後遺症が、父親像の主要な構成要素になっていた時期。どことなく敗残と失意の影を宿した、はっきりものが言えない自信喪失の男たちというイメージが共有される。子供たちに〈不在者〉という印象を刻みつけた。

 買ひてやる何もなければあきつ蜻蛉飛ぶすすきの原に子を連れてきぬ   大田青丘『国歩のなかに』

 子らが手をたづさへ歩む夕ちまた逃避に似たる心を持ちて   窪田章一郎『ちまたの響』

 たんぽぽの茎立ち青きみちの辺にまだつちふまぬ土不踏子を抱き降す   小名木綱夫『太鼓』

 子を抱いて小路をゆくと子守歌身に添ふほどの父となりしか   大野誠夫『薔薇祭』

 やさしさの萌すわが娘よ汝が知らぬ我もあるもの我を愛すな  高安国世『街上』

 草も木も枯れつくしたる冬野来て背に負へる子の重みのみあり  島田修二『花火の星』

 カナリアも深くねむれる子らの部屋夜番のごとく霜夜見まはる   木俣修『呼べば谺』   

 草の上に子は清くして遊ぶゆゑ地蔵和讃をわれは思へり   岡野弘彦『冬の家族』

 われと妻さう壮の二人が働きて老二人憩ひせう少みたり三人学ぶ   宮柊二『獨石馬』

 子をもちて二十三年わが得たる慰藉限りなし与ふるは無く   田谷鋭『母恋』

*第二期
 日本経済の復興期から高度経済成長期にかけての父親のイメージ。社会的な活躍者としての男の自信回復期ではあったが、家庭のなかによい意味での父親像を植えつけることには結びつかなかった。父親たちの意識と家族の意識の間にズレが生じていた時期でもある。

 妻が望みわがあくがれしをみな子はかくうつくしきほとを持ちたり  小野興二郎『紺の歳月』

 乳母車押しつつ時にぼうぜんと奈落へ押すに子はかえりみず   玉井清弘『風箏』
 
 ゆうかげ夕光の中歩み来し幼子が真顔にわれを見つめて立ちき    佐藤通雅『水の涯』

 青梅を籠さげて待つおさなごよわが亡きのちになれ汝は死すべき    伊藤一彦『月語抄』

 絹ごしの豆腐にふるるごとく娘をことばにつつむ父なればわれ   小高賢『化鳥の尾』

*第三期
 ニューファミリー出現以降の時期。団塊の世代といわれた男たちが家庭を持ち、先駆的に夫婦中心主義、対等性、協業性、生活享楽性などを体現した。こうした精神のありようが、後に続く世代に夫婦が依るべき価値観として継承されて行く。

 われは峠 夏雲が肩をかすめ過ぐいつの日越えんわが少年は    永田和宏『華氏』

 鉢あれば飼はねばばらぬ金魚ゐてかかる構造に家、こども持つ   小池光『日々の思い出』

 秋の夜に子とわかちいる哀しみやかたみに肘に滴し桃食む   三井修『洪水伝説』

 遊戯会あなどるなかれ子が父を斬り伏せてすこやかに笑へり    塘健『出藍』

 野遊びのわが小家族それぞれの髪うち乱る春のあらしに  久葉堯『海上銀河』

 家父長として家族に庇護を与えようとする立場から、家族の一構成員として共生していこうとする立場へと父たちの自己認識のまなざしは変化してきた。家族の上に君臨したかつての父たちに比べ、今日の「父さん」たちは一見すると悩み深い存在であるようにも見える。その姿はけっして〈男らしい〉ものではない。しかし、その傍らには無防備になって寄り添って行ける家族の場所が用意されている。

 子よきみはほのぼのとまたきりきりと夕焼空にかへる風の尾   坂井修一『ジャックの種子』



 男たちの風景 5
  男性歌人たちは何を描いてきたか
 
女性崇拝と女性嫌悪のディスタンス

 古代から近代に至るまで、男たちが女性について論じ、描いてきた。女性たちは男性たちのまなざしの彼方に絶対的な他者として立ちすくみ、言葉によって、あるいは絵筆によって、男性たちの価値観に見合った輪郭を与え続けられてきた。自然科学の分野においても同様で、医学や生理学、生物学といった眼で女性の身体を分析したのは男性たちであった。十九世紀後半になってやっと女性たちが自らについて語り始めるが、それは日記や手紙といったプライベートな言説が主であり、それですら、社会的、倫理的な規制の影響のもとに書かれたものであった。女性が自らの身体や心理、あるいは立場を堂々と、また相対化して描き始めたのはごく最近のことなのである。

 産むならば世界を産めよものの芽の湧き立つ森のさみどりのなか    阿木津英『紫木蓮まで・風舌』

 このように歌われる身体性の謳歌の背後には、もはや過去の遺物である自己規制もまなざしの受容者としての躊躇いもない。ただ、作者の世界認識のありようが映像として提出されているだけである。関係性の網目模様の中でしか自己を描けなかった女性たちにとって、この作品が象徴する自らの女性性の肯定は、世界再構築の方法としてもっとも有効な戦略でもあったのだ。ことに女性の身体は、男性にとって他者であるのと同様に、女性にとっても他者であった。「探求」、そう、あれは確かに探求であった。七十年代から八十年代にかけて、溢れ出るように発表された女性たちの手による女性の身体性を歌った作品の多くは、自らの身体の他者性を排除するための探求の過程そのものに他ならない。

 身を刺すは若葉のしづく木兎のこゑいま抱かれなばにほひたつべし     藤井常世『草のたてがみ』

 たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり     河野裕子『桜森』

 人知りてなお深まりし寂しさにわが鋭角の乳房抱きぬ   道浦母都子『無援の抒情』

 今日の表面的には活況を呈しているかに見える歌壇の中で、自在に歌われている様々な女性性のおおもとには、こうした作品を書くために営まれた女性たちの自己探求の旅があったことを、いま敢えて記しておきたい。
今日、女性が「見られる女」という擬態を戦略として選択する場合(例えば、林あまり氏の諸作品など)を除いて、とりあえず、女性たちの意識は男性のまなざしから解放されたと言える。では、これまで注ぐ側にいた男性たちのまなざしにはどのような変化があったのだろうか。最近出版された歌集の中から女性が描かれている作品のいくつかを挙げてみる。

 森深くあゆみ来たれば恋人のうしろにサンゴハリタケがいる

 妣はいまいずくのくにを旅ゆくや大欅揺れ水ふりこぼす

 ワームホール妣へつながる花吹雪うつくしければ吾は行かぬなり

 ほの光る空気中浮遊細菌は母かもよああ数かぎりなし

 われを産む一瞬の母の叫び声楢若葉揺れ円墳霞む

 髪の毛座南中に浮き若かりし母ありてわれに乳の香ありき

 ああ母のなきこと噛みしむるごとくおうごんを見き枯野おうごん     渡辺松男『泡宇宙の蛙』

 とことはに父にはなれず猫を抱きへうきんダンス妻にみせをり

 天球儀欲ります母の夕窓へ三輪山上の銀河贈らむ

 母は胃を妻は子の宮とむらひてわれをこよなく愛しはじめる    佐古良男『亡星史』

 都合のいい女というは時として晴雨兼用傘のことかも

 落暉受くるてのひらとしてのユーラシア母なる凪の彼方に浮かぶ

 あくがるる魚のうつしみわれにして致命傷とはならざる女

 表札にふりかかる雪はらうときフェミニストより熱きてのひら   日下淳『佐曽羅』

 何かから逃るるやうに少女らは電車の中も喋りつづくる

 信号に来たりて停まるミニバイクすらり伸びたる脚のまばゆき

 女はねコークぢやないわ彼女はいふ渇きを癒してあげられないの

 「雪みたい」アカシア散れる泥濘(ぬかるみ)のそのあどけなさをひそかに憎む

 堕ちし星の森に抱かれ抱き合ふ汝(なれ)の重みを我が重みとし    沢田英史『異客』

 春の部屋 ああさつきから倶利伽羅の女がわれをむさぼり食らふ

 憂ひもてばことばはやがて濁りなむ朝の少女が藍を売る声

 をなもみを背(せな)につけたる少女あり冬の片恋なさむは誰ぞ

 しろたへのあばるる菊は焚くべしと女(ひと)を憎めり西風の窓

 をとめらの四柱推命あしたよりくるほし怖(こは)しひた推す命

 女人(にょにん)おそふは女人抱くよりたはやすくスメルジャコフはかなしきわが子    坂井修一『ジャックの種子』

 〈少女〉とは何? たぐり出す比喩なべて陳腐! 闇夜に春過ぎむとす

 いなむしろ獅子のごとくに少女らが踏み往く首都に地震(なゐ)、地震を待て

 少女期の母と出逢はば… 空を焼く戦火たちまち夢を流るる

 左右(さう)の掌(て)にべつべつの愛結ぎ往く少女たまゆら〈対〉(つい)を超えたり

 母上は萎(ちぢ)みたまひぬ厨着(くりやぎ)の白おほらかに遠き日はあり

 氷像の少女抱かばいかならむ器官を閉じて夜夜を睡(ねぶ)らな

 少女らは黒き銃身背に負ひて次の街区へ散開しゆき
 
 双子の少女左右(さう)に抱ける夢果てて青き雷雨の夜を覚め居り

 ゑまひゐる少女(をとめ)に向きて物言へば白光に遭ふごときよろこび

 まなかひに少女(をとめ)はゑまふなだらかな着地へ向かふ約束のなか

 酸の霧吹き閉ざしゐしゆふまぐれ雌(め)の腐爛屍を姦(おか)してをりぬ   高島裕『旧制度』

 昨日の暑今日の暑凌ぎゐる母に天寵のごと寒き井戸あり

  如月の光となりし今朝の車内少女ひとり坐すその一皮目(ひとかはめ)

 いつよりかふるさとに母はひとりなり朝羽振波夕羽振波

 膝のうへに猫抱きて母はゐたりけり霧深くして海をとざす日

 手話交し少女二人の乗るバスが朝のひかりの踏切わたる

 人のゐぬ小岩井牧場に妻と来て羊のゐない雪原を見る    柏崎驍二『四月の鷲』

 時計草切つたる真昼 汗かかぬ少女弓なりにバルテュスめく

 少女羊歯のごとくに笑(ゑ)まふ少年の頭上のオーラまんまと盗み

 早死にの母か階段下(くだ)りつつ地に入(い)るときの眉うつくしき

 妹と林檎頒けあふ密猟区四つのしろき耳朶染めて

 樹の上に少女の屍(かばね)置くかくもかろきものの下で脚折る

 Holly,Dolly,Candy,Sallyみな眠りをれば少女不在のブランコ揺るる   森島章人『月光の揚力』

 それぞれの歌集のなかから、女性を描いた作品のごくごく一部を抄出してみた。恋愛の対象である「きみ」という呼称で描かれた女性が登場する作品は、対象の客観的な女性性が排除されている場合が多いので、あえて挙げなかった。意識のフィルターを透過した女性としては、「恋人」「妣」「母」「女」「少女」「女人」「雌」などが登場している。一読してわかるように「母」と「少女」の比重が重い。「母」「妻」以外の成人女性が対象として登場するのは「恋人」「女」「女人」「雌」などであるが、こうした匿名性を背負った呼称で登場する女性たちには、〈サンゴハリタケ〉〈晴雨兼用傘〉〈熱きてのひら〉〈倶利伽羅(不動明王)〉〈あばるる菊〉〈腐乱屍〉といった語句が象徴するようにマイナスのイメージが付加されている場合が多い。それに比して、同じく匿名性を担わされていながらも、「母」「少女」には渇望にも似たまなざしが注がれ、さまざまな表現で自己との同一性が強調されている。

 「母」について見てみると、〈ワームホール〉〈空気中浮遊細菌〉〈乳の香〉〈天球儀欲ります〉〈ユーラシア母なる凪〉〈少女期の母〉〈厨着の白〉〈天寵のごと寒き井戸〉〈朝羽振波夕羽振波〉〈霧深くして海をとざす〉〈眉うつくしき〉といった表現から見えてくるように、深層心理学でいうところの元型(アーキタイプ)として分類された「母」のイメージや日本の伝統的な母親観が再現されている。「母」とは、自らの来歴の起源であり、包み込み、育み、かつ時として自己の存在を飲み込むものとして立ち顕れてくる。「母」を描く作者の筆致は柔らかく、対象を相対化する必要のなさに安堵しているかのように見える。

 「少女」の場合は、〈逃るるやうに〉〈藍〉〈ひた推す命〉〈獅子のごとく〉〈べつべつの愛〉〈氷像〉〈黒き銃身〉〈青き雷雨の夜〉〈白光〉〈なだらかな着地〉〈如月の光〉〈朝のひかり〉〈弓なり〉〈羊歯のごとく〉〈かくもかろきもの〉〈不在のブランコ〉といった比喩に見られるように、清浄、自由、可能性、女性性の欠如、無力などが象徴的に描き出されている。「母」の場合と同様に、ここでも作者の想像力は現実の頚木を軽々と外し、より自在な表現となっている。

 この二つに比べて、普通の「女」は匿名性の彼方に放逐され、生身の肉体を持つ存在として立ち顕れてくるのはわずかに「妻」のみである。短歌に登場する「妻」も不思議な存在で、その肉体性は剥ぎ取られ、作者のもつ日常感覚の延長線上にその存在感が固定されている。その意味では「妻」もまた身体性を剥奪された存在と言えよう。

 ここに挙げた作品を通して、女性崇拝の側に「母」と「少女」を置き、女性嫌悪の側に「女」と「雌」を置くという図式が見えてこないだろうか。この図式は近代短歌から現代短歌に至るまで、男性歌人たちの作品の上に繰り返し現れる図式なのである。

 鉦(かね)鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか    窪田空穂『まひる野』

 平安のをとこをんなの詠める歌をんなはやさしきものにあらず       同『老槻の下』

 死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天(てん)に聞(きこ)ゆる    

 このやうに何(なに)に顴骨(ほほぼね)たかきかや触(さや)りて見ればをんななれども  斎藤茂吉『赤光』

 をみな子の身体髪膚(ハップ) ちぢらかす髪の末まで 親を蔑(ナミ)する    釈迢空『倭をぐな』

 此の宿を小さき日本と帰るなり少女等のひびく日本語の中    土屋文明『韮菁集』

 生みし母もはぐくみし伯母も賢からず我が一生(ひとよ)恋ふる愚かな二人    同『青南集』

 なよなよとせる女性語を聞かずして大寒の日々家ごもりけり    佐藤佐太郎『地表』

 身辺のわづらはしきを思へれど妻を経て波のなごりのごとし      同『冬木』

 声あげて名物お紺きちがいが唄えば新宿に又夜が来る    山崎方代『方代』

 羽しろき烏がさわぐ空の下女(おんな)風太郎はみごもりにけり    同『左右口』

 近代短歌の名手たちの作品と、先に挙げた若手作家の作品を同列に論じることの残酷を知りつつも、私が危惧を抱くのは、先人たちが倫理観の自己規制(たとえそれが古い時代に属するものであるとしても)によって自己の認識の在り様を検証しているのに比して、現代の若い作家たちの女性に対するまなざしが、ジェンダーの上に固定されているように見えることである。女性崇拝と女性嫌悪との間に横たわる遥かな距離の中に生身の女性は存在し、喜び悲しみ、若さから老いに向かってその身体は機能している。そのことを知って欲しい。私は、一人の女として、生身の女を相対化する男性のまなざしを切望する。そして、その時、男性たちの心の中に、次のような十五世紀の亡霊が現れないことを願ってやまない。

  女はその迷信・情欲・欺瞞・軽佻において男を凌駕し、肉体の力の弱さを悪魔との結託でおぎなって復讐をとげる。そして妖術にすがって、執念  深い淫奔な欲情を満足させる。サバトを埋めつくしているのは女たちだ。…一人の男の魔術師にたいし、何百という魔女がいるのだから、魔女が存 在しないなどと、よもやいわないでくれ。
                                            ドミニコ会士『魔女の槌』



 男たちの風景 6
  男性歌人たちは何を描いてきたか

身体と出会う場所

 男性の身体に対する意識を考えようとする時、決まって思い出す一人の人物がいる。それはロバート・B・パーカーによって創造されたスペンサーと呼ばれる中年男性である。職業は私立探偵。彼にくる依頼は、いつも決まって女性が絡み、彼に自分の体力の限界を試させるような運動量と大脳の酷使を強いる。もちろん、このスペンサーという人物は、パーカーの創造物ではあるのだけれど、多くのアメリカ人が理想とする男性像であろう。特に、彼が自らの身体に課する過酷な訓練と自律の在り様は、身体と精神は不断の訓練によって最良のコンディションに保たれるという欧米型の身体観を教えてくれる。ちなみにスペンサーが自らに課すトレーニングは次のようなものである。

  次の装置に移って、百五十ポンドでプル・ダウンを十五分、九十ポンドで上腕三頭筋プレスを十五回、続いてカール・バアに移り、またベンチに戻った。ふだんは、ベンチではそんな重量は揚げないのだが、今は内臓が破裂するほど力をふりしぼる必要があり、それには三百ポンドがちょうど 手頃な重量であった。全部を四回やると、シャツがびっしょりになり、腕の内側を汗が流れ始めたので、バアを握るのに滑らないよう、絶えず手を拭 わなければならなかった。平行棒で屈伸を二十五回やってその場を離れた頃には両腕が震え、息切れで喘いでいた。  『約束の地』

 塩の錠剤を舐めながら一連のメニューをこなした後、彼は自分の身体を「疲れた清潔な体」と判断するのである。精神と身体の関係についても、身体は精神に優先して存在している。両親の無関心とエゴイズムの結果、何にも興味を示すことができなくなってしまった少年ポールに対して、パーカーは以下の科白を語らせる。

  得意なものがなんであるか、ということより、なにか得意なものがあることの方が重要なんだ。おまえにはなにもない。
 なににも関心がない。だからおれは、おまえの体を鍛える、丈夫な体にする、十マイル走れるようにするし、自分の体重以上の重量が挙げられるようにする、ボクシングを教え込む。小屋を造ること、 料理を作ること、力いっぱい働くこと、苦しみに耐えて力をふりしぼる意思と自分の感情をコントロールすることを教える。そのうちに、できれば、読書、美術鑑賞や、ホーム・コメディの科白以外のものを聞くことも教えられるかもしれない。しかし、今は体を鍛える、いちばん始めやすいことだから。   『初秋』

 これは「健全な精神は健全な肉体に宿る」という箴言の具体的な展開に他ならない。ここまで徹底した人間の身体に対する信頼感には、この世界に身を委ねてしまうことへの誘惑を感じはするが、拭い去れない違和感が残る。日本人の持つ身体感覚とは異質の概念によって統合された身体像であると言えよう。私たち日本人にとって、身体と精神はそれぞれ別個に存在するものではなく、同調するものでなければならない。むしろ、身体は精神の下位に位置し、精神が身体に先だって重要視される場面の方が多いのではないだろうか。日本の文学に登場する異能者たちに天狗や鬼といった怪異な容貌が賦与されることが多いことからも、精神の身体に対する優位を知ることができる。西欧の身体観に慣れ親しんだ今日の私たちにとっても、身体と精神の関係における感覚はさほど変わっていないように思える。

 三浦雅士の次のような文は、日本人の今日における身体観がいかなるものであるかを教えてくれる。

  自分自身とはもちろん身体のことだ。だが、同時に、身体のことではない。むしろ、自分は自分の身体を引き受けているのである。それそのもので あると同時に、それへの関係であるというこの奇妙な事態が、人間に身体加工を強いたのだといっていい。人間は自分の身体に自分の名前を書き入れなければならなかったのである。       『身体の零度』

 ところで、短歌における身体観は、西欧型の「鍛錬されるべき身体」とも三浦雅士のいう「加工される身体」とも異なった現れ方をする。身体を題材とした作品を残した作家としてまず上げられるのは斎藤茂吉であろう。

 【A群】自己愛の延長としての身体

 この身はも何か知らねどいとほしく夜おそくゐて爪きりにけり   『赤光』

 うつせみの生のまにまにおとろへし歯を抜きしかば吾はさびしゑ    『ともしび』

 こよひあやしくも自らの掌を見るみまかりゆきし父に似たりや     『寒雲』

 おのづから六十三になりたるは蕨うらがれむとするさまに似む   『寒雲』

 午前より既に疲るるこの身をもいたはらむとして独りし居たり    『霜』

【B群】異物としての自己の身体

 おのづから顱頂禿げくる寂しさも君に告げなく明けくれにけり   『あらたま』

 うつしみの吾がなかにあるくるしみは白ひげとなりてあらはるるなり   『ともしび』

 Munchenにわが居りしとき夜ふけて陰の白毛を切りて棄てにき   『ともしび』

 あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くに生きのこりけり   『小園』
 
 この体古くなりしばかりに靴穿きゆけばつまづくものを    『つきかげ』

【C群】対象化された他者の身体

 このやうに何に顴骨たかきかや触りて見ればをみななれども    『赤光』

 入日ぞら頭がちなる侏儒ひとりいま大河の鉄橋わたる   『あらたま』

 街をゆくわかき女等すでにしてウイン系統におもほゆるかな    『遠遊』

 赤き旗もてる労働者と警官と先列に追付かんとして大股に駆歩す    『たかはら』

 口食の官能をもて朝さむる民のつどひもおろそかならず    『連山』

 身体を題材とする茂吉の作品の中ではA群に属するものがもっとも多く、食欲や性欲、あるいは体調不良による痛みや不快感と直接結びついているケースが多い。これは自己の身体の確認というスタイルをとりながらも、自らの存在そのものへの愛惜に他ならない。B群の作品において特徴的なのは身体の部位に焦点が絞られていることである。しかも、各部位は衰えを呈したものとして顕ち現れてくる。茂吉の医学者としてのまなざしが投影されたものであるといえよう。A群の自己愛的な傾向と微妙に重なりはするが、自らの身体を客観視しようとする意識が強い。ひたすら自己をいとおしむA群の作品と客観と主観の入り混じったB群の作品を通して見えてくるのは、身体の諸機能と反応は精神活動の照射に他ならないとする茂吉の身体観である。これに対して、C群の作品にはAB群に見られるような精神の身体に対する優位は認められない。対象の精神性は剥ぎ取られ、その特徴をひたすら客観的に描写しているのみである。むしろ、そのまなざしは酷薄な印象すら与える。精神と肉体とのシンクロが認められない限り、茂吉にとっての他者の身体は風景の一部でしかない。

 茂吉におけるこの三つの身体観の差異は私たちに何を語ってくれるのだろうか。ひとつだけ確実に言えるのは、茂吉の作品に登場する身体は、茂吉が「われ」を意識した時にのみ現れてくることである。
 短歌における身体は精神の内部にある。このことをさらに突き進めてゆくと前川佐美雄の世界に行き着く。

 かなしみを締めあげることに人間のちからを尽して夜もねむれず   『植物祭』

 覗いてゐると掌はだんだんに大きくなり魔もののやうに顔襲ひくる

 はらわたをゑぐりとられて死んでをるわが体臭は知るものよ知れ

 そろばんの弾きやうもなき肉体が春のけものの乳飲みてをり    『大和』

 肉体は首からしたか胴だけと信じてゐしがはや梅にほふ

 雪の上にわれの背骨か燃やしゐしほのほのひとつ立たずかなしも

 みづからの意思にあらぬを爪のびて汚しと歎き憤りゐる    『捜神』

 わが内にやはらかき物の芽生えくる植物のごと黄色の世界

 いくつものなめくぢ梅の幹這へり梅の身にならば堪らざらむ

 前川佐美雄が描き出す身体はどこかバランスを欠き、現実の身体を想像しようとする読者の意識を滑り落ちてゆく。むしろ、身体に対する忌避の感覚の方が先行する。佐美雄における身体は、その形状や機能は二次的なものであり、精神作用の象徴でしかない。具体的な描写に見える部分であっても、その提示のされ方は現実の身体感覚とは大きくかけ離れている。精神と身体は切断され、身体は心の動きを投影するスクリーンとして、比喩の役割を担っているばかりである。

 最近の作家の中で、身体を歌った作品が多いのは島田修三である。最新歌集『東海憑曲集』の中から幾つかを挙げてみる。

 大須なる演芸館のくらがりに神経そよぐ草むらわれは

 身に深く潮の引きたる干潟あり酔ひ果てたれば其処より風立つ

 啖ふこと忘れ励みて夕暮れのこのひもじさは絶望のごとし

 憑きものの落ちゆくごとし日に日にも脂そげゆき身は寥かなる

 うちつけにつめたき涙ほほを伝ひゆゑよし有れば伝ふにまかす

 身体を扱った作品の多くが食欲に連動していることは別として、島田修三の作品は、男性歌人における身体感覚の歌の可能性を示唆してくれる。島田修三の描く身体は、茂吉の自己愛と裁断に満ちた身体でもなく、佐美雄の過剰な意味を付加された身体でもない。大事件を望むべくもない今日の日常生活の中で、折に触れ作家の意識を通過する様々な感情を不特定多数の読者に向かって伝えようとする時、身体感覚は有効なプロトコルと成り得る。そして、彼の作品のもつ説得力は、これまで女性のものとされてきた身体感覚が男性歌人の作品の中に浸透してきたことを教えてくれる。

 こと身体感覚に関する限り、ジェンダーの壁は崩れつつある。表現内容に性別からくる差異は残るであろうが、身体=女性、精神=男性という区分けは消滅していくだろう。男性歌人による男性の身体感覚は、これまでに多く歌われてきたように見えて、その内実はまだ手付かずの部分が多い。見る主体、検証する主体だけでなく、見られ検証される受容者としての身体感覚が歌われ始めた時、男性の短歌の上に新しい身体像が生まれてくるだろう。そこがどのような色彩に満ちたものであるのか、女性の側からの興味は尽きない。

まとめに代えて
 これまで、第一回・第二回で「われ」の形成とその変遷、第三回で男性の「国家観」の変化を、第四回で家庭における男性の場所、第五回で女性観の変化を探ってきた。近代から現代の短歌史を通覧するという一連の作業を通じて見えてきたことは、短歌史とは男性短歌史であり、男性たちの意識が短歌の方向を決定してきたという現実であった。文学史に残っている作家の男女別の数が正統と異端を分ける基準になるのであれば、女性歌人たちは間違いなく異端の側に入る。しかし、社会と個人との関係を見るとき、女性歌人たちの方が遥かに自由であるように見えるのは何故だろうか。時代の変化とともに、その時代の人間を規制する社会規範の有り様も変化する。いつの時代にあっても男性歌人たちは、自らの意識を時代が要求するものへ合わせようとしてきた。時代の要求を汲み取り、時代の中の自己を描くこと、さらに願わくは時代を包含する「われ」を短歌の上に確定すること、そうした営々たる努力が短歌史を造ってきたといえる。「われ」という柔らかな檻の中で時代と対峙し続けるその姿勢は痛ましくさえあった。第一回で述べた「男らしさ」の規範が崩れ去った今日でも、「われ」を世界の上位に置こうとする意識は、男性の心理の中に拭い難くその痕跡を止めている。もはや「われ」という柔らかな檻に鍵はかかっていない。そう望みさえすれば檻の扉は開く。扉の外には、世界と対峙する「われ」ではなく、世界と関係を結んでゆく「われ」の可能性が広がっている。     


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