どうしよう風邪ひいたみたいだと奴が言い出したのは夕食後で、皆が談話室でダラダラと溜まっていた時の事だった。
「体調サイアク。───風邪、なのかなあ」
「はあ?」
 俺の一発目の言葉は多少冷たく聞こえたかもしれない。
 だが仕方ない。繰り返すがその時は『夕食後』で、若島津はそれらをデザート(果物。今日はブドウだった)まで綺麗に平らげた後だったのだ。おまけに味噌汁はお代わりまでしていた。それで「具合が悪い」と言われても、「お前、それ何のギャグだよ」と俺でなくたって突っ込んだだろう。
「あんだけ食っててか?」
「食っといた方がいいかなと思って食ったんだけど…。うわあ、ヤバい。マジで、──」
 続きは聞かなくても分かった。「マジで、吐く」だ。若島津は前のめりになって口許を押さえた。
 その後の俺の行動は我ながら素早かった。口を押さえたままの若島津を刺激しない限界ギリギリのスピードで立たせて、「ドア開けろっ」と叫びながらそちらへ突進した。
 結論から言うと間一髪で間に合った。便器に顔突っ込みそうになる肩を後ろから支え、ついでに汚さないように首のところで髪も持ってやり、胃液まで吐いた若島津を呆れて俺は見ていた。
 それが若島津は自分でもショックだったらしい。どうも人事不省の一歩手前にまで行きかけている奴を引きずり、とりあえず部屋に戻って着替えさせて布団の中に押し込んだ。馬鹿じゃねえのかオマエと俺が言うと、さすがにいつもの調子での反論はなかった。
「この状態で無理に食うっての、ジョーシキがどっかにふっ飛んでねえか」
「…だから、具合悪いのかなと自分で思ってさ…。じゃあ、ちゃんと食わなきゃなって思ったからだよ……」
「それを馬鹿って言ってんだろ!」
「………」
 顔が青いというより白くなっている若島津の体を起こして、俺は給湯室で汲んできたお湯を飲ませた。
 ノックの音がしてドアを開けると、反町と小池が立っていた。さっきの談話室には居なかったはずだが、誰かから話を聞いて来たらしい。二人は中には入らず、ゼリー飲料と風邪薬を俺に渡した。それから反町はなぜだか俺に謝った。
「何で俺に言うんだよ」
「や、俺ら気付いてたかもしんなくて。もしかして若島津は具合悪ィのかなーって、今日の昼飯あたりから」
「昼ぅ!?」
 思わず叫んだ俺に、二人は顔を見合わせた。
「昼飯食った時に、実は一度吐いてたっぽいんだよな…。弁当食ってる途中でいきなり便所に駆け込んでたから」
「んで、俺らにはコロッケがゲロマズだったって言い訳してさ。ホラあいつって、そーいう変にお育ちいいとこあんじゃん? 安い肉マン食えねえとか、安いマーガリンが嫌いとか、下手すりゃ我が儘スレスレのやつ。だから油かなんかが合わなかったのかなぁとか、…まあ、テキトーにこっちも流しちゃってたんだよね」
 確かに若島津の口はやけにお上品だ。本人の普段の言動とはともかく、ツラには合った上品さだ。だがそれと反町が俺に謝った関連性が分からない。俺は正直にそう言った。
「うーん。だからソレ、日向に報告しとけばよかったなーと」
「やっぱ意味分かんねえぞ」
 反町と小池と若島津は同じクラスで、俺と島野は別クラスだった。ガキじゃあるまいし、わざわざ昼休みに行き来してまでつるんだりはしていない。
「俺はあいつの保護者かっての」
 吐き捨てた俺に、反町と小池はそろって肩を竦めた。こいつらが言いたい事は今度は分かった。顔に思いきり書いてあった。
 俺は仏頂面で礼だけ言ってドアを叩き閉めた。向こうで上がった笑い声にももう無視を決めこむ。振り返ると、少し体を起こした姿勢のまま、「なに?」という顔で若島津が見ていた。
「お前が…っ、……」
「…?」
 何でもない、と俺は言い直して机の上にゼリー飲料のパックと薬瓶を置いた。顔が赤くなりそうだった。あるいはもうなっていたかもしれない。そう思うと若島津の方を見るのが嫌だった。
 以前、若島津が真夏に熱中症でぶっ倒れた時、俺は傍にいた反町たちを怒鳴りつけてしまった事があった。練習中だったらそんな事態はあり得ない。水分補給も体力配分もそれなりに自己管理は皆が気を付けている。ただ、練習完オフの日に反町たちと自転車で一日中走り回っていたとかいう馬鹿な理由で、飲み物も特に飲んでいなかったらしいというので、つい勢いで同行者にも「そんなん気付けよ!」と怒鳴り散らしてしまったのだ。
 もちろん若島津本人にだって怒鳴った。おまけに中学の時の話で、昨日今日の事じゃない。それでもひょっとしてあれに関しては一生からかわれ続けるのかと思うと、本当に顔から火が出そうだった。
 
「それナニ? 反町が?」
「と、小池な。───お前、昼飯も吐いてたって?」
「……チクりに来たのかよ、あいつら」
 チクりに。そうか、チクりにか。そう変換すると俺の気分も少し治まった。
「薬かあ…。飲んだ方がいいかなぁ?」
「あー、どうだろ。吐いたばっかだし、今すぐはやめた方がいいんじゃねえか。こっち先に飲んどけよ」
 ゼリーパックを放ると、若島津は手を出さず布団に落ちてからそれを拾った。ん?、とこの時も思わないではなかったが、パックを両手にしばらくいじくった後の若島津の台詞に、俺は真剣に脱力した。
「日向ァ。どうしよ、フタが開けらんないー…」
「何でだよ!」
「何で? …あれえ。なんか力が入らないっつーか、滑って回せねー」
 引ったくるようにパックを取り上げる。冷蔵庫から出したばかりらしい銀色のパックは汗をかいて少し濡れていた。白いプラスチック部分のフタは大して力を入れなくても簡単に開いた。
 ふと思って、パックを渡す前に若島津の掌を確認する。それから顔と首筋も触ってみる。思った通り、熱のせいか汗でうっすらと濡れていた。それで手が滑って小さなフタが回せなかったのかもしれない。
「お前、もしかしてずっと熱あったろ」
「どうだろ……」
「それで風呂入ったのかよ!」
「怒鳴るなよ!」
 自分も怒鳴って、若島津は咳き込んで布団に突っ伏した。
「喉…、イテェ…」
「もういい。喋るな」
 俺はため息で若島津の体を支え直すと、口許に飲み口を当ててやった。何か言いたそうな顔を若島津はしたが、結局は自分から大人しくパックに手を添えた。
「熱計るか?」
「いいよ。今から計って、あるのが分かった方がショックだ……」
 その理屈は分からないでもない。それでも明日の朝には一度ちゃんと計って、まだ熱があったら何が何でも練習は休ませようと俺は密かに思った。
 さっきより若島津はぼうっとした顔付きになっていた。布団に入って安心したせいもあるんだろう。顔色は白いのに、瞼を落とすと目尻のところだけうっすら赤い。横向きに寝転がった若島津を、何となくそのままベッドに腰掛けて眺めていたら、ふっとまた若島津が両目を開けた。
「…何してんの」
「……いや、何となく」
 俺の返し方も変だったが、若島津のリアクションも変だった。じっと俺の顔を見上げた後、若島津はいきなり小声で笑い出した。
「何だよ!」
「日向、お兄ちゃんだよなあ、やっぱ」
 違う、と言おうかどうしようか俺は迷った。もちろん実家では弟や妹が熱を出したら面倒を見るのはいつも俺だったが、今抱いていた感想はそれとは違う。汗で首や頬に張り付いた髪を整えてやりたいだとか、眼を閉じたこいつの顔をしみじみと眺めた事は実はあんまりないなだとか、目尻と一緒で唇が普段より赤いのは熱のせいなのかなとか、それから、──…
「……それとも、エロいこと考えてた?」
「バッ、」
 俺は立ち上がりかけて、ベッドの上段底板に頭をぶつけた。「ッてえ!」と叫んで頭を抱えた俺に、若島津は枕に突っ伏するように笑った。
「図星だ……っ」
「お前なあ!」
 可愛くない。病人のくせして、まったくもってこいつは可愛くない。
 俺は腹立ちまぎれのヤケクソになって、薄手の布団の上から体重をかけてのしかかった。
「しまいにゃ本気で犯すぞ!」
「わ、ムリ、それは本気の本気で今は無理…っ」
 笑いながら、俺は若島津を布団ごと抱え込んだ。若島津も息を切らせて、苦しいだの離せだのと言っていたが、その内に諦めて大人しくなった。やがて、
「───ウソ。ごめん」
「え?」
 静かに言われて俺は思わず訊き返した。
「うん、ウソ。…俺がさ、ちょっとエロい気分だったんだ。ざーんねーん…」
 俺は頭を起こして、横にある若島津の顔をまともに見つめてしまった。若島津は眼を閉じていた。ふざけてだったが多分暴れたせいで、白っぽかった顔全体に少し色味が増していた。
「マジで?」
「…訊き返しますかあ、そこで」
 眉をしかめて、若島津は、コホ、と小さく咳き込んだ。
「お前、やっぱ相当に弱ってんじゃねえの?」
「かなあ……」
 でも、いいや。若島津は呟いて、もぞもぞと片手を布団から引っぱり出した。
「弱ってんなら、しょーがないよな。うん…俺のせいじゃないし」
「その理屈もおかしいけどよ」
 俺は腕の力を弛めて、若島津がこちらを向くのを手助けした。少しの間だけ眼を合わせて、それから犬みたいに鼻をくっつけあって、また二人で声には出さず笑った。
 若島津の唇は熱かったし、舌もいつもより熱かった。俺が首の後ろに手を回すと、「冷たい」と言って若島津は首を竦めた。
「…このまんま寝たらマズいかな……」
「俺が風邪ひくだろ」
「布団の中、入ればいいじゃん…」
「狭ぇよ」
「…そんなん、気にしない時は…しないクセにさー…」
 状況が違う。どんなに口が達者な相手だろうと、病人にこれ以上の真似は俺だってしたくない。が、密着してくるいつもより高い体温に、ちょっと動悸がおかしくなりかける。
 いかんいかんいかん!、と俺は強く己を戒め、若島津の頭を乱暴に抱え込んだ。
「もう寝ろ。お前」
「ひゅーがは…?」
「お前が寝るまでこうしてる」
「なんか、もったいないカンジすんな……」
 もったいない?、と俺が呟くと、「寝るのが」と結構マジな声で言い返された。
「俺、兄貴とは歳離れてるだろー…、姉貴とは部屋違ったしー…。誰かとくっついて寝るって、あんましないんだよなあ…」
「泣くほど羨ましい環境だな」
「そっかな?」
「だよ。ウチなんか布団三つで四人だぜ。団子だよ団子。尊なんかあいつ寝相わっりいからさ、定位置ってのがねえんだよ。腹に乗るわ顔の横に足が来るわ、ひどい時なんか顎に蹴りが入ってこっちの目が覚めたもんなあ。しかも本人覚えてねえから怒るに怒れねえし」
「怒んないんだ…? へーぇ」
「直子とは喧嘩になってたけどなー…。ウチの家族、あいつの隣はみんな嫌がんぞ」
「んー…。一度ぐらいなら試したいかも」
「いや、マジで無茶。やめとけ」
「……と、お兄ちゃんは本気で言う」
「絶対、お前の考え甘いって。あれはシャレになんねえから」
 おにいちゃーん、とふざけて若島津が俺の顎の下に頭をこすりつけた。柔らかな髪が当たってくすぐったかった。
 お兄ちゃん、か。
 まあしょうがない。今日だけは。
 寝ぼけた奴と病人の行動に文句をつけてもしょうがない。今のこいつに至ってはそのコンボなわけだし。うん…今日だけは。
 
 よしよし、と俺は若島津の頭を撫でてやった。子犬か何かをあやしているような気分にもなった。自分からこれだけくっついてきておいて、「アチぃー…」とかなんとか若島津は小さくボヤいていたが、やがて寝息が静かに漏れ聞こえてきた。それを聞きながら俺もすうっと意識が薄くなるのを感じていた。



















08.04
拍手用に書き始めておきながら、結局はオフ用ペーパーに載せてしまってました。同シリーズ中の人達なので一緒に再録。
ここら辺りで日向が「お兄ちゃん(長男)気質」という設定の方向性が生まれた模様。あまあま!
 

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