風呂を済ませて自室に戻ってくると、なぜか若島津が正面に位置する勉強机に乗り上げていた。ドアを開けた姿勢のまま一瞬固まり、日向は「何やってんのお前」と本気で尋ねた。
「シー、ちょっと黙ってて、シー」
 振り返って若島津はしかめっツラで人差し指を口許に当てた。その向こうには窓がある。
 ───あー、なんだ。外に鳥か猫でも居んのか?
 日向は髪を拭いていたタオルを首に引っかけ、自分も机に近付いた。
「ちょ、音立てんなってばっ! もーほら、鳴きやんじゃったじゃん…!」
 ギシ、と日向が机に片膝乗り上げた音より、若島津の文句の声のほうが断然デカいのは確かだった。しかしひとまず反論は控えて、若島津の横に並んで一緒に首を突き出してみた。
「なにが鳴いたって?」
「ムシ。鈴虫」
 日向は再び沈黙した。
 鈴虫。鳴いてるよそりゃ。この季節には死ぬほどリーリーリーリー鳴いてるよ。そんなん陽が落ちてくればグラウンドの片隅でも鳴いてるし、帰り道でもよく聞くし、今だって大合唱で聞こえてくる。ただし下から。ちなみにこの部屋があるのは二階だ。
「そんなに聞きてぇなら下行けば」
 悩んだ後、日向が口にしたのはごくもっともな提案だった。はずだ。
「ばっかじゃね!?」
 なのにこの返答はヒドいと思う。
「馬鹿ってお前なあ…」
「そんなフツーのだったら驚かないっつーの! ここで聞こえたから俺もこんな真似してんだよ」
 ここで。───つまり二階で?
「下からの鳴き声じゃなく?」
「じゃなくて。かなり近距離…少なくとも1メートル範囲内で聞こえた気がする」
 窓の真ん前には三階の窓まで届きそうな楡の木がある。だから日向は「鳥か猫かな?」と最初は思ったのだが。
「登るかあ? 木に鈴虫があ?」
「いやだから、それが疑問で確認しよーとしてるわけで」
 ああ、やっと納得。なるほど、それなら階下に行っても意味はない。
 なんとなくそのまま二人で並んで待つ。はたから見たら少し間抜けな感じの構図かもしれない。肩がぶつかりそうな距離でそうしていて、日向はふと新たに気付いた。
「お前、髪まだ濡れてんじゃねーか!」
「そっちこそ」
「俺はいいんだよ、短ぇからすぐ乾くし! お前はちゃんと拭けよドライヤーで乾かせよ!!」
 そろそろ風は本格的に秋風だ。日中はともかく、こうやって夜の窓を全開でいれば肌寒ささえ感じられる。
 日向のタオルを乱暴に引っ被らされて、勢い前のめりになった若島津は「うぉ」とか叫んで窓枠にしがみついた。
「落ちる落ちる落ちる、死ぬ死ぬ死ぬっ!」
「あ、ごめ」
「ごめんで済むかっ この姿勢でマジ殺す気!?」
 窓の全体はデカくっても、片面をガラスと網戸で塞いでいるため、当たり前だが半面分しか空間は開いていない。そこに二人で無理にはまる姿勢になっていた分、互いにかなり不安定な体勢になっていた。慌てて日向が腕を掴んで引き戻すと、膝がぶつかった勢いで机に並べてあった辞書や雑誌がバラバラと床に落ちた。
「んっとに勘弁しろっ 二階ったって打ち所悪かったらマジ死ぬよ!?」
「ごめん、悪かったって」
 さすがにそこは素直に詫びる日向に、若島津は頭のタオルを叩き返した。
「だいだいこれ湿ってるし!」
 じゃーハイハイ、乾いたお前のタオル持って来いってかあ? なんで俺がそこまで面倒見てやらねばならんのだ…、とムッとしたが、見たら手の届く距離のベッドの柵に、若島津の使いさしのバスタオルが掛けてあった。仕方なく日向はそれを取って若島津の頭に被せ直した。
「や、だからさ…これもさっき使ったんだから湿ってて……」
「俺のよかマシだろ!?」
 半ギレ気味で言い返す。若島津もまた何か言い返しかけたが、小さなくしゃみが絶妙なタイミングでそれを遮ってしまい、「ほら見ろ」という日向の視線に諦めたようにタオルで首の後ろを乱暴に拭った。
「……ったく、オカンか」
「誰がオカンだ」
「さー、誰がでしょー」
 嫌味ったらしくボヤくので、日向はデコピンの要領でデコでなくこめかみ上辺りを中指で弾いてやった。
「テッ」
「今度お前が風邪ひいてもゼッテー看病しねー」
「してないだろ、んなもん」
「はあ? してるだろ! ポカリだのなんだの買ってきてやってるだろ!?」
「あの程度で看病言っちゃう!? だいたい後で金払ったじゃん!」
「金の問題じゃねえ! コンビニ行く手間ひまが入ってんだよ!」
「わあ、大した手間じゃない」
「お前、……お前なあ……!」
 そこでいきなりガラッと隣の部屋の窓が開いた。
「───うるせぇッ!!」
 思わず二人して顔を見合わせた。
「お前らなんでわざわざ窓開けて騒いでんだよ!?」
「ごめん、悪かった!」
 すぐに返事をしたのは若島津。
「わりぃ!」
 急いで続けて日向。
「……ンもー、カンベンしてちょー。ほんとにさあ……」
 隣の窓は閉まって、また沈黙が訪れた。
「………」
「………」
「角部屋でよかったわ……」
「まあ、とりあえず謝るのは一方向で済むもんな……」
 上下は考えてない言い草だが、まあとりあえずは。

「あ、鳴いてる…! これこれこれ…!」
 若島津が日向の肩を掴んで、精一杯声を潜めて器用に叫ぶ。
 確かに、1メートル近く離れた楡の木のどこかから、小さく涼やかな虫の音が聞こえてきていた。
「……ホントだ」
「な?」
 リーリー。リーリーリー。
 一匹だけそこに居るのかもしれない。よく耳を澄まさなければ聞こえない。でも確かに、すぐそこで、地面からとは違う虫が鳴いていた。
 見上げてみると綺麗な半月が夜空に大きく浮かんでいる。日向は若島津を突ついて上を示してみせた。おぉー、とか呟いて若島津も一緒に見上げる。
「あ、日向」
「なんだ」
「……アイスはさぁ、あれ日向の奢りだったよね」
 アイス? って、ああ、前に若島津が風邪ひいた時の差し入れの……。
「サンキュ」
「今か!」
「あの時も言ったけど。……言ったよな?」
「……。たぶん」
 多分ね。よく覚えてないけど。
 じゃ、ついでに態度で表すお礼も請求。日向が顔を近付けると、若島津はチラッと地面のほうに視線をやった。
 見てねぇ、見てねぇ、誰もこんなとこ見てないって。道路のほうにも人なんか居ねえって。
「や、でも……部屋の電気が付いてるから遠くからでも目立つ気が!?」
「また往生際悪いな手前ぇはよー!」
 ガバッと身体を起こして日向はドア横に行き、速攻で電気を叩き消した。
「ほら!」
「こういうの強制すんのはどうかと思う!」
「強制しなかったらいつやんだよ、このやろう!」
 そりゃまあ、だの、だけどさ、だのと若島津はまだぶつぶつ言っていたが、もう問答無用に日向は横から身体ごと抱き込んでやる。そのぐらいしないと、再び若島津が窓から落ちかねないと思ったので。
「ちょ、…あーもう、あーもう!」
「やっぱ髪濡れてんじゃねーか…」
「あー…もう。…ほんっと、日向ってかってだー…」
 ついでに鼻先にもキス。文句だらけのくせ、小声で若島津が笑う。日向もちょっと笑う。お月様は綺麗。













いつもの人たち。秋の夜。相変わらず日向は無自覚に世話焼きさん。
日向も若島津も勘違いしているようですが、木の上に居るのは鈴虫ではなく松虫です。アオマツムシ、という外来種らしいです。(在来種の松虫は木の上までは登らないそうです)
当たり前ですが本当は鈴虫とは鳴き声も違います。近年、やたらと鈴虫が大合唱大音声だな!、と思っていたら、それは鈴虫ではなく松虫で、しかも外来種の勢力が拡大したせいだったらしい…。とは、私もこれ書きながら調べて知りました。でも作中で若島津が勘違いしている部分は流れ的にそのままで。
……甘めにしようと頑張ってみたけどこれがげんかい…!

拍手用にいつ書いたのか自分でも分かんないんですが(またか)、多分'15〜16ぐらい。秋。(そらそーだ)

 

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