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「とにかく。俺は乗れねぇから、その話題。……引っ込めろ」
「わ、──かった」
 生つばを飲み込んでどうにか頷く。冗談と言うより、若島津は多分半ば以上本気で盛り上がりかけていた。だもんで、日向のここまでの拒絶反応は予想外だった。素直に「ごめん」とも言い足した。
 そのままぎこちなくこっちも教科書に向かい直して、日向も無言で宿題を片付け続けて、「おい漢和」「ん」なんて辞書の貸し借りをいつものように顔も見ないでやり取りして、
「───あのな」
 重く気まずい空気を破ったのは日向からだった。
「ンー…。なに?」
「さっきの。葵ちゃんが特別ダメとか、そーいう意味じゃねえから。お前のねーちゃんコケにしてるつもりはねえからな」
「それは、…うん。分かってる」
 相変わらず視線は互いのシャーペンの先に落とされたまま会話は続く。
「なあ。そんなに俺、無自覚に日向を逆撫でしてる?」
「……。たまにな」
「たまにって、どのくらい」
「だからたまにだよ」
「じゃ、そん時に言えよ。言われないと直せねえよ」
「大抵は……俺が悪いっつか…勝手に思ってるだけだし。さっきはキツい言い方しぎた、ゴメン」
「そこで謝っちゃう日向も俺にはよく分かんねーし。相互理解もクソもねえ感じで」
 ふと日向の気配が横で動きを止めた。と思ったら次に日向はシャーペンをプリントに投げ出し、グシャグシャグシャ、と自分の頭をひっかき回した。
「……多分、俺が理解を求めてねーからだと思う」
「え、どゆこと?」
 思わず若島津も顔を上げて横を見る。
「俺に理解されたくねえって意味に取れるんだけど」
「じゃなくて、あー…。あんまり、自分の気持ちの矢印とか…どんなふうに何を好きとか…知られたくねぇ時あるじゃねえか」
「弱味みたいなもんだから?」
「かな。お前にだからってんじゃなくてさ、全般的にバレたくない、みたいな気持ちかな。あと、お前にはバレたくないってのもあるよ、たまに」
「ダチでも?」
「うん。ダチ、だから……だよな」
 ふぅー、と日向は長い息を吐いて突っ伏した。何だか妙に疲弊しきっていた。
 男同士の鍔迫り合いの一環として、『ダチには』逆に言いたくない事があるのは理解出来る。若島津にだってきっと『日向には』言いたくない事のひとつやふたつは確かにある。(そのほとんどがコンプレックス関連なのがちょっと泣けるが)
 なるほど、もしそこをいちいち突つく真似をしているのなら、かなり自分は無神経だ。分かったつもりで分かってない、付き合い長いだけに逆に難しい部分もあるのかな、とか。
 そしたら今度は口の端だけで笑ってしまった。そのほんのちょっとの気配に目敏く気付いて、日向が「何だよ」と不思議そうに尋ねてくる。
「いや、なんつーか……。俺らこんなにずっと引っ付いてんのにさ、俺にも意外と日向の事分かってない部分もまだあるんだなーって」
「それ笑えるとこかよ?」
「またこの先もあるのかなぁって考えたら、少し面白い気がするじゃん。予想つかない日向がまだ居たりして、俺が何年後かにそれ知ったりして、分かんねぇけど日向の知らない俺も居たりしてさ。そんでも10年後に一緒だったりしたら、俺ら面白ぇなあって思えたんだよ。んで、そんな事思った自分もおかしかった」
「予想つかねぇ俺、ね……」
 ほら、お前のそういう顔もさ。
 と言うのはヤめた。日向が本気で指摘されたくなさそうで、「ああ、つまりこんな時の軽口が嫌だって事かな?」と考えるぐらいの冷静さはあったからだ。
 日向は参考書とノートに顎を乗せる形で、しばらく正面のブックスタンドを睨んでいた。眉が寄ってるせいで顔付きには厳しさが増して、下級生なんかだったらビビって近付きたくない雰囲気とも言えた。
 でもまあ、若島津にはそれほど警戒レベルの雰囲気ではない。互いに突っかかったり突っかかられたり、口喧嘩はよく繰り広げるほうだが、本気の仲違いに発展するとは二人ともが思ってない。歯に衣着せないきわどい言い争いも、胸ぐら掴み合いになりかねない暴言も、最後には水に流しちゃう結果になるのは百万回ほど経験済みだ。
 ──…幾つになっても俺らはこんな感じで、なのにその時に知る日向がまた新鮮だと思えたりして、──そう考えるとやっぱり俺は面白いと思うけどなあ。
 若島津は視線を机に戻して、ちょうどそこに位置していたスタンド式カレンダーを眺めながら、「で、結局日向っていつ帰省するんだ。決めてねーのかな?」と考えた。しかし重ねて問うほどの気持ちにはならなかった。分かる時には分かるだろうし、今わざわざ蒸し返すほどの緊急さも重要さも感じなかった。
 おまけで、カレンダーの向日葵の絵柄を見た瞬間に『何かもっと別な事』も浮かんだ気がしたが、それも大して長くは意識に残らなかった。
 
 

「うん、……うん。そういうのじゃないけどさ。…えー? 俺と一緒のほうが姉貴にもいいんじゃないのって。……ああ。そりゃそうなんだけど、───うん」
 階段の途中に腰掛けてケータイに向けて喋っていると、背後から下りてきた誰かに軽く腰を蹴っ飛ばされる。振り向くと同じサッカー部の奴だった。「コレ?」と小指を立てられ、「違う違う」と若島津はジェスチャーのみで否定した。だが奴はまったく信じてない顔でニヤニヤすると、若島津が言い返すより先に階段を下りきって行ってしまった。
 残されたこっちは思わず舌打ち。その音が聞こえたらしく、電話回線の向こうからは疑問符を投げかけられ、慌てて会話のほうに頭を戻す。
「ごめん何でもない。寮の奴がちょっと。…え? うんそう。寮だよ、この時間だし。……いやだからさ、一度ぐらいは見に行くって。───それは違うよ、そーじゃないよ。別に親父やお袋にチクるとかそういうんじゃ──…あー、うん。普通に買い物。それならいい?」
 ヤベ、筆記用具を持って来てない。喋りながら立ち上がって、受け付けのある玄関先へ足を向ける。緑の公衆電話もある窓口には──あったあった、銀行の名前入りメモとボールペンが。
「駅から…、西口? デパートで左…え、手前? 手前で左に曲がんの? 横断歩道……は、前? 前って横断歩道の前って事!? ねえ、ちゃんと順番に言いなよ!」
 ねーちゃん、道の説明が壊滅的にヘタクソだ。最悪、名前だけ分かればそのへんで訊けばいいやと、若島津のメモも自然と大雑把なものになる。
「えー!? 居ない居ない! 居ないよ、そんなん…。なに、そこって男同士で行ったら浮くの? 男が使えるようなモノって全然ない? ってほどでもないだろ、──…あー、日向。日向誘って行こうかなって」
 ちょっとだけ弾んだ声で「こー君?」と姉貴が訊き返す。ホントに仲良いよねえ、あなたたち。と感心したような呆れたような、のんびりした声も付け足される。
 余談ながらこの二人に面識はもちろんある。日向が名前を「ちゃん」付けで呼ぶ数少ない女子が若島津の姉貴であり、姉貴が必要以上に構えないで喋れる身内以外の数少ない男が日向でもある。いつからかはハッキリとは覚えていないが、「小次郎君」が詰まって「こー君」になったのは確か小学校の頃からだと記憶している。
《そう言えばこー君、誕生日って今月だったよねぇ? 何かよさそうなもの選んどこうかなあ》
「そんな今月ったって、日向の誕生日なんてとっくに終わっ、……ぅおあーッ!!」
 いきなり叫んだ若島津に姉貴は電話の向こうで小さく悲鳴を上げた。そこに関して謝るのは後回しで、若島津は窓口のガラスに音を立てて頭突きをかました。
「やっべ、忘れてた! 忘れてたの言うのも忘れてた! こないだからなーんか忘れてる気がしてたんだよね、それだった!!」
 ひどーい、とまたどこか呑気に聞こえる声で姉貴が言う。
 いや女の子同士じゃないんで。カノジョでもないんで。誕生日なんてのはそこまで重要イベントではないし、毎年いちいちプレゼントを贈り合ったりもしていない。「ひどい」ってほどの事もないだろう。
 ───だけどそう、「せめて」覚えてる事を表明ぐらいはしても良かったかなと…。(実際は忘れてたわけだが)
「これからぁ? 今から言うの? …うーん、言ったほうがいいのか、このままバックレたほうがいいのかビミョー…」
 去年…去年の俺の誕生日にはどうしてたっけ。ああそうだ、大会直前の合宿中、日向はコンビニのアイス(冬なのに若島津が食べたがってた)をくれたんだよな。あれってもしかしてわざわざ買いに行ってくれたのかもしんない。ついでだとは本人は言ってたけど。
 そんで大袈裟に喜んでかぶりついておいて、相手の誕生日はケロッと忘れてスルーっつうのは…もしかして俺はかなり「ひどい」内に入るかも?
 ううううむ。と、若島津は今度は額を掌で押さえて低く呻いた。
 ウチのお店で買えばいいよ、と、そこでごくごく当たり前のように姉貴からはアドバイス。あるんですか?、なんかフェミニンっぽい雑貨屋で日向にハマる小物なんてのが。
《うーんと…。男の人向けのシルバーとか…》
「アクセサリーはしないよ、あいつ」
《あ、だよねえ。じゃあ携帯に付けるちょっと変わったのとか》
「携帯持ってないし」
 電話のあっちとこっちで「うーんうーんうーん」と二人で頭を痛めて、
《お財布、とか》
「アイスのお返しで財布って、それ俺の出費が派手過ぎない?」
《健ちゃん忘れてたんでしょー! それぐらいしてもいいと思うなあ。あたしも半分は手伝ってあげるから》
 おお、半額出して頂けるですか。それならまあ、頑張ってもいい──ような気持ちになってきた。日向も若島津1人で渡すよりねーちゃんコミのほうが嬉しいだろう。
 そこで若島津は自分の願望を思い出し、「姉貴、日向の事どう思う?」と訊くかどうかを少し迷った。日向にはああ切り捨てられてしまったが、実のところ、若島津はその願望を捨て切れてはいなかった。
 日向ならオッケー、もう全然オッケー!
 自分が女だったら日向には惚れるなというのは、勢いで口にしただけではなく案外本気だ。なのに本人、そのテの事にはのんびりしてるように見えるもんだから──この際、己は棚上げる──若島津がしつこく食い下がれば実現不可能ではない気がする。それこそヘタな女に日向がひっかかる前に決着ついてくれれば、二兎追いながら熊まで捕れるようなメデタさだ。
《選んでおこうか、いくつか。それであとは自分で選んでもらうの。そういう、持ち歩いて使うもの?って、こー君こだわりありそうだから》
「ああ、うん」
《ね? 触って確かめてもらったほうがいいかなって思うよね》
「そだねー…」
 生返事で相槌を打ちながら、もいっぺん日向を軽く突ついてみようかな、などと懲りずに若島津は考える。バイト終わる時間までどっかで時間潰して…さり気なく一緒に茶ァでもしばいて…日向がわざとらしく感じない程度に周囲の店のリサーチをしておくべきか。久し振りに会うのにマックってのはないもんな。
《───もーう、健ちゃん聞いてるー?》
 姉貴が叫んで我に返った。どうやら時間の事を訊かれてたらしい。急いで午後のテキトーな時間を告げて、念のため雑貨屋の名前を再度確認もして、そこで今日の電話はお開きに。
 またね姉貴。うん、来週ね。そんな挨拶を交わし終わり、若島津は耳元から下ろしたケータイの回線をピッと切った。
 切ったはいいものの、何となくその場から動かず緑電話にもたれかかる。うーん、複雑だ。何がとは明確に出来ないものの複雑だ。
 
 本ッ気で自分棚上げで考えると、日向に今の時点で特定の女の影がないのは不思議なくらいだ。あんだけの数のファンレターが来てて、追っかけの女も周囲に鈴鳴ってるクセしやがって、全部にどこ吹く風といった様子なのは不自然だった。(※しつこいようだが、自分の事はダンクシュートの勢いで棚に上げる)
 まさか居るんですかね。意中のお相手が。
 今現在にカノジョが居ないのは確定。隠しようがないほど共同生活である以上、確定。しかしさて、そこで日向が「惚れるほどに相手の個性を認識してる女」がどの程度いるかと言うと──思い当たんねえんだな、これが。
 日向自身が一目惚れをするタイプだとは思えなかった。相手のささいな言動とかちょっとした仕種にってのはあり得るけれど、日向はあれでなかなかヒトの好みがうるさい男だ。相手のいつもの行動を見知ってないと「惚れる」までは行かない気がする。クラスメイトには日向を惚れさせるほどの力量(!)のある女子は居ないよなあ?
 ───サッカー部のマネージャー? ……まさかね。現キャプテンの今カノだしな。
 折り畳み携帯をパカパカと無意味に弄びながらそこまで考え、「なんで俺、こんな事に真剣に悩んでるんだ」と若島津は少し馬鹿ばかしくなった。誰だっていいよ、誰だって。日向が選んだコだったら文句なんか付けねえよ。
 と、言い切れないとこがこれまた。
 うわー、付ける。付ける自分に余計なまでの自信がある。納得出来ねぇ女だったら俺は絶対に文句を付ける!
 シスコン、と姉貴の事で日向に言われた言葉が頭をよぎった。気付いてなかったが、意外と自分は独占欲みたいなのが旺盛なのか。それともこれは独占欲とは全然別か? 「ランク上の女とくっつかなきゃ許さねえ!」ってのと、「納得出来ねぇ女とくっつきやがったら物申す!」ってのは、同じ部類の思考と種分けしてもいいものですか?
 ───もし、末っ子的ワガママでゴネてるだけだったら凄ぇヤだな。
 携帯電話とメモをジーンズのポケットに突っ込み、若島津はため息で玄関口を後にした。

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……まだ続くッ 

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