マンションの一室、無遠慮なチャイムの連打。
 軽く30回は鳴らした後で、反町はポケットから自分の物でないキーホルダーを取り出した。
「日向ッ 居るんだろッ」
 ドアを開け、怒鳴り付けた勢いで靴を脱ぎ捨てズカズカと上がり込む。
「いい加減にしろ、てめぇ! 電話ぐらい出ろ!」
 思った通り、家主は一番奥の部屋に居た。カーテンも開けていない寝室、暗がりの中に片膝を抱えるようにしてベッドに腰掛けていた。反町が入って来たのに顔も上げない。
 口の中が苦い。怒りと苛立ちでアルドレナリンが出過ぎたせいだ。舌を打ち、反町は胸元にぶら下がる黒いネクタイを片手で乱暴に弛めた。
「服、どこだよ」
「……服?」
 ようやく日向が呟いた。
「喪服に決まってんだろ! 何で通夜に来なかったんだよ、今日の葬式には何がどうでも引っ張ってくからなッ!」
 日向は黙って首を微かに動かした。否定とも肯定ともつかない動きは反町をさらに苛立たせた。
「フザけんな! お前だけが悲劇の主人公じゃねえんだよ!」
「そんなん、考えてねえよ」
「じゃ、葬式出て線香上げろ。最低でもお前にはそのぐらいの義理はあんだろ」
 義理も何も、責任すらある相手だ。
 単なる友人同士ではなかったのを反町は知っていた。あからさまに告げられた事こそ無かったが、10代の頃からこの二人がただならない関係なのは気付いていた。恋人同士というのとも、ひょっとしたら違う。皮膚が癒着するような関係だったという事を。
 そしてその癒着した場所から、互いの身体に壊疽が広がっていくような関係だったとも、薄々は。他人が口を出せる領分でないだけ、歯ぎしりしたくなる気持ちで自分はそれらを見ていたけれど。
「自分のケツ拭えとまでは今は言わねぇよ。それでも結末ぐらいは見届けろ」
 止めれば良かった。何が何でも、たとえ恨まれても、どうにかして二人の間に割り込めば良かった。そのチャンスは長い時間の間に何度かあった気がした。だがそれと同時にこうも思った。自分には不可能だったに違いない、と。もしくは世界中の誰にも。
 愛情ですらない、絶対不可侵な軛のようなものが最初からこの二人にはあった。それが呼吸を奪い、いつか息の根を止めるのが分かっていたところで、誰にもその軛を外してやる事は出来なかったのかもしれない。
 哀れさは感じた。その気持ちはむしろこの男に対してのものの方が大きい。
 だが、それとこれは別だった。
「立てよ。顔洗ってヒゲ剃って服着ろ。香典袋はコンビニで買って来た。……最後なんだぞ。それぐらいしてやれよ」
 ピク、と日向の肩が動いた。どの単語に反応したのかはよく分かった。
「──…が、……から……」
「ああ?」
「あいつが、──俺、から何かを…受けとりたいとは思えない」
「知るかよ!」
 反町は思わず喚き散らして、日向の座るベッドを蹴り上げた。
「お前が何もやらなかったからだろ! お前がそういうふうにしたんだよ、何でもかんでもお前が許さなきゃダメみたいなやり方であいつ縛って、10何年もそれしか分からないみたいな生き方させて、最後の最後で手前ぇは泣き言かよ!? …フザけんな!」
「そうじゃねえ!」
 初めて日向は顔を上げて怒鳴り返した。
「……違う。俺が、」
 けれどもまた黙ってしまう。興奮で目眩さえ感じて、反町は絨毯の上に腰を落とした。無意識に呻き声が喉から漏れた。
「何なんだよ、もう……。お前ら、どうしたかったんだよ。俺にはゼンゼン分かんねえよ…」

 まだ掌の中にあったキーホルダーを握り込む。これを渡しに来た時が最後になった。その時も意味がさっぱり分からなかった。二人で会うのは久し振りだった。呼び出されて上機嫌な反町に、馬鹿だなお前、と彼は笑った。
 近年、彼が友人関係をセーブしている事に反町は気付いていた。誰かと二人きりで話す事を極力避けているふうだった。携帯電話も持っていなかった。それらを嫌がっている誰かの影が見える気がして、反町も敢えて指摘はしなかった。
 同居を解消する事にした、と言われた時は本気で驚いた。それをもう一人の男が納得しているとは思えなかった。いいのかよ、とだけ尋ねると、さあ、と曖昧な口調ではぐらかされた。
 
《で、どうすんの? 一人暮らし? それとも実家帰んの?》
《しばらくは実家かな。その後の事は……まだ決めてない》
《また思い付きで行動する奴だなあ》
《かもな》
 ファミレスの大きなテーブルに頬杖をついて、外の景色に目を移す。
《そうか、…割と思い付きばっかりで行動してんのかもな、俺》
《意外とな》
 いきなり俯き気味に、さも面白い事を聞いたように若島津は笑った。
《ん? 何だよ》
《そっか。なんか納得した。──思い付きかあ。じゃ、しょうがねえよな》
 変に明るい笑顔だった。彼のそんな顔を見るのは本当に久し振りだった。反町は少しだけホッとして、同時に少しだけ不安になった。
 だから訊きそびれた。
 
「何であいつ、この部屋出てったの」
「……分からない。気が付いたら居なくなってた。置き手紙もなんも無かった。朝起きたら居なかった」
「へえ…」
「その前に、何日か前に、モメた」
「どんな事で」
「セックスで」
 言い切られて、反町は一瞬言葉に詰まった。そして結局、「…へえ」とだけまた繰り返した。
「もう嫌だって言いやがった。俺と寝るのは嫌だって。……あいつがそういう事を言い出すのは初めてじゃなかった。今までにも何度かあった。そのたんびにモメた。あの時も俺は頭にきて、かなりムチャクチャな抱き方したと思う。泣き入ってもヤメなかった。……次の日、あいつは起きられなくて、顔も真っ白で、さすがにヤベぇと思ったから俺から謝った。それでも、俺は何度でもこいつにこういう事すんだなって自分でも思ったな……」
 多分、若島津もそう思ったんだろう。
 繋がれているのが自分だけではないのだと。
 
 突然立ち上がった反町に、不思議そうに日向が頭をもたげた。
「便所」
「ああ」
 顔を逸らし気味で、少しくぐもった声で言い捨てた反町の態度に、日向は納得したように呟いた。
「それから、ひとつ教えといてやるけど」
 寝室の暗がりの中からリビングの明るさに反町は目を眇める。
「あいつ、自殺じゃねえぞ」
「──え?」
「やっぱ聞いてなかったんだろ? ……自殺じゃない。事故だ。目撃してた人も居るって、おばさんが言ってた」

 事故だ。不幸で、ありきたりで、それこそ世間に五万と転がっているような。
 
 大股でリビングを横切る間に、ついにこらえ切れなくなった水滴が顎にまで伝った。 



















08.11.19
どこのカテゴリに入れていいのか分からない衝動書き。
30語[髪]の人たちの何年後かの不幸な結末──の、可能性を孕んでいる1本。

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