すぐにマンションを出なかった理由のひとつは、手首と首筋にそれとハッキリ分かる痕跡が残っていたからだ。
 首はハイネックでごまかせても、手首の赤く擦れた傷跡はどうにも目立った。あまりに不穏過ぎて二日はマンションの部屋からも出られなかった。五日目、ようやくそれらが見咎められるほどではなくなってきた辺りで、若島津は決断をしなければならなくなった。
 いっそこれが一生残ればいいのにとも思った。思った自分の馬鹿さ加減には呆れた。ここまできて男を恨む気持ちは微塵もなかった。いや、それでも以前はそんな気持ちもあったかもしれない。殺してやりたいほどの純然たる怒りの感情が彼に対してあったかもしれない。
 だがきっと随分と昔の事だ。子供騙しみたいな抗いだけで、自分は男に殺意を向ける事も自分から逃げ出す事もしなかった。それに男が苛立っていたのは手に取るように分かっていた。分かっていたのに煽るような真似しかしなかった。何年も。何年もずっと。
 
 もういいよ、日向。
 朝になって、ベッドの上で裸の身体を起こした若島津の手や腕や胸元を、男は無表情にタオルで拭ってくれた。バスルームに自力で行く気力はさらさら無く、若島津も黙ってその手に任せた。手首を取った時にだけ男の顔が歪んだ。乱暴に扱われた跡、縛られた痕が隠しようもなく浮かび上がっていた。場所によっては血の滲んでいる擦り傷を、見ているこちらの方が痛々しくなるほど男は丁寧に濡れタオルで拭った。
 もういい、日向。
 そんなふうに傷つかなくていい。自分を責めなくていい。お前を否定してやれない、憎しみの感情すら向けられない俺が悪い。お前の根底には最初から獰猛さや暴虐性が備わっていた。それは仕方ない。肉食の獣の本能だからだ。俺は知っていてお前の傍に居た。自分の喉笛を気安くお前にさらすような真似をした。お前が俺に牙を立てたのは当然だった。俺は逃げないどころか、お前の牙が喉に食い込む感触に陶酔さえ覚えた。
 こんな関係しか築けなくなる前に、もっと別のやり方があった気がした。
 男の手は穏やかで優しく、少しだけ冷たかった。身体を拭うタオルは温かかったのに不思議な話だ。これが昨夜の、あの皮膚が灼け爛れそうに熱かった手と同じ男のものだという事が、若島津の中ではどうしてもうまく繋がらなかった。
 ごめん、と謝られた。悪かった、ごめん。
 そして歯を食いしばるようにして彼は目を逸らした。
 その声を聞いて、本当にそれが男自身にもどうしようもない事なのだと若島津にも分かった。二度としないとは男は言わなかった。たとえ言われたとしても若島津は信じなかっただろう。無理だよ、お前には。それから俺にも。
 だからもういい。
 手首の痕を見下ろしながら若島津は首をゆるく振った。その部分だけでなく身体のあちこちが軋みを上げていた。おまけに鈍い頭痛。昨晩、泣き過ぎたせいだろう。生理的な涙は嫌いではなかった。ベッドの中でだけ口にする事の可能な哀訴も。
 
 自分たちは奇形だ。世界の中で歪なピースだ。互いにしか噛み合わない不完全さ。それはあの男にとっては不幸な事だったろう、と若島津は思った。自分自身にとっては幸不幸、どちらだったのかは分からない。同じくらいかもしれない。あるいはほんの少し幸福のほうが多いか。
 男のために自分を捨てるのは構わなかった。その己の歪さについてはとうの昔に諦めていた。だが男が男自身を捨てる事だけは許せなかった。身勝手を承知で、それは何より手酷い裏切りに思えた。
 
 まとめる荷物は大してなかった。ここに来てから自分個人の持ち物は極力持たないようにしていた。それでも衣類を含めて幾つかの段ボールにはなる。宅配業者に引き取りに来てもらって実家の住所を宛名に記し、運び出して行く業者を見送った後、妙に清々しい気持ちになった自分がおかしかった。懸念の安っぽい感傷が沸かなかった事が満足だった。
 男に気付かれていない自信はあった。若島津の行動に興味が向かい過ぎる彼は、逆に若島津の衝動にあまり興味がないからだ。それを指摘してやれば男はきっと驚いたに違いない。そうしてお決まりの否定。彼はあまりに無自覚だった。無自覚にひたすら若島津に固執しているように見えた。
 
 
 マンションのドアに鍵をかけた時、初めてそのキーの処置に困った。それまでまるで考えが及んでいなかった。ポストに突っ込みかけたが、考えなおしてコートのポケットに滑り込ませた。それから駅前にまで出て公衆電話から長年の友人に電話をかけた。携帯は一度も所持した事がなかった。それを不便と感じた事も。
 いきなり呼びつけたのに喜々として現れた反町がおかしくて、馬鹿だなお前、と思わず口からこぼれた。その言い方が自分で懐かしくて、友人の憎まれ口も懐かしくて、ここにあいつが居ればいいのにと若島津は心から思った。そうしたら戻れるかもしれないと、馬鹿げた妄想が本気でよぎった。
 実家に帰るのかと訊かれて、しばらくはそうだと答えた。その先の事はまだ決めていなかったので正直にそれも付け加えた。実家に長く居るわけにはいかない、それだけは決めていた。あの男から連絡のつく場所に居続けるわけにはいかない。
《また思い付きで行動する奴だなあ》
 呆れたように笑われた。そう言われてみればそうだった。そして改めて考えてみると、常に自分は分岐点とでも言うべき状況で、その場凌ぎ、思い付きで行動を取ってきたような気がした。
 最後のセックスがあれか、というのもこうなると何だか笑えた。あの男との最初と最後がああいうセックスか。どちらも場当たり的で衝動的で刹那的な事が共通している。だが納得は出来る。そんなふうにしかきっと出来なかった。
 
 鍵を反町に預けたのには深い意味はなかった。半ば押し付けるような気持ちだったかもしれない。何の一言もなく男に突き返すのは酷な気がしたし、反町にだったら安心して渡せると思った。様子を少し見ていてやってくれと頼む気持ちもおそらくはあった。
 問い質した事は一度もなかったが、多分、こいつは自分たちの関係を知っていた。絡み合い神経の一部まで共有するような仲だとまでは気付いていないかもしれないが、少なくとも普通の友人同士でいない事は察しているはずだった。
 深くは追求して来ないのを承知で、無理に荷を負わせる真似をしている自覚は若島津にもあった。甘えている事に対してだけ、悪いないつも、と謝罪の言葉を口にした。何がだよと反町はうそぶいてみせた。
 他愛無い会話の最後に、年末の集まりには顔を出す約束もさせられた。どの面子なら若島津が出席を渋らないで済むか、彼は全てを分かっている顔付きだった。ああ必ず、と若島津は穏やかに頷いた。
 店を出て、じゃあまたな、と気軽な昔通りの挨拶で別れた。
 彼の背中が地下鉄入り口の階段を下りて行くのを見送り、そのままぼんやりと近くの公園まで歩く。長い遊歩道と、森と言ってもいいような樹木が生い茂る空間と、それなりの広さの池まで備えた都立公園。
 茶色の遊歩道をことさらゆっくりと歩いた。落ち葉が足音が立つほど降り積もっていた。
 途中の自動販売機で買った缶コーヒーを片手に、ベンチのひとつに腰を下ろす。この寒さの中、池には貸しボートが幾つか繰り出していた。乗っているのはカップルと、あともうひとつは親子連れだ。時々子供が立ち上がるのを母親らしき人物が必死で叱り付けていた。
 笑い声が水面を伝ってこちらまで聞こえてくる。かわいらしいな、と若島津は素直に思った。そんなごくありきたりの感情が沸いたのも久し振りだった。
 なあ、日向。
 俺たち、どうしたかったのかな。
 どんな道筋を辿ったら、今こんなふうに世界のどこにも身の置き場所がないような気持ちで佇まないで済んだんだろう。お前がとても哀れに思える。惨めで哀れな小さな子供に思える。
 お前の愛情を信じてやれればよかった。同じものを同じだけ俺も返せたらよかった。
 でも無理だ。お前のは愛じゃない。何かにずっと怯え続けているお前に、俺が渡せるものはもう何もないんだ。お前の生まれ持っての才能や、その才能に対する傲慢さを、俺はきっと長い間愛してきた。でもそれだけじゃなかった。お前の弱さも俺は愛おしく思っていた。
 なのに、───なあ、どうしてなのかな。それを俺が口にしても、お前には信じられなかっただろう? お前が飢餓で死にかけている時も、俺はきっとお前を抱いていてやりたかったなんて、言っても嘘だと決めつけてしまうだろう?
 だから何もないんだ。渡してやれない。俺がお前から受け取るものが何ひとつないように。
 膝元に投げ出していた指先がかじかんできた。一口二口しか口を付けていない缶コーヒーはとっくに冷えきっている。無意識に若島津は口許に指をやって息を吹きかけた。空気は僅かに白く曇るのに、かけらほどもぬくもりは感じられなかった。そうだ、もう自分には誰一人も暖める事は出来ない。自分自身さえも。
 
 
 悲鳴が聞こえた。
 池の方角から。女の金切り声の悲鳴。咄嗟にさっき見たボートを探す。子供の影がない。母親の姿しかそこには見えない。
 邪魔になる厚手のロングコートを脱ぎ捨てながら、若島津は無我夢中でそちらへ走った。



















08.11.21
どんだけグダグダの人間関係なんだよっていう突っ込みは、むしろ自分でしたい。
───こんな話にお付き合いありがとうございました。

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