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 怒濤の勢いで『最後の』少年サッカー全国大会が終わって、長い夏休みも早や半分近くを消化した頃。溜まった宿題の片付け順に、そろそろ本格的に頭を働かせなければならなくなってきた頃。
 珍しく若島津少年が日向宅を訪ねて来た。ドアのピンポン押さないどころか、公団住宅の階段さえ上って来ないで、下の駐輪場辺りでウロウロしていたのには思わず笑った。
 後ろから声をかけた日向に飛び上がりそうに若島津は驚いた。「え、なんでっ?」と第一声で叫ばれ、なんでもクソもここオレんちじゃねーかよと日向はまた笑った。種を明かすと、弟たちが慌てて兄貴に報告を持って来たのだ。なぁにいちゃん、下んとこに同じチームのヒト立ってるよ、と。
 一見して手ぶらの若島津少年は、どうやったってプールのお誘いに来たようには見えなかった。第一、彼と日向はあくまで「同じチームに所属するキャプテンとサブキャプテン」以上の関係ではなく、ことサッカーにおいての信頼感は互いにあっても、個人的なやり取りがさほど多い間柄でもなかった。
 なのでチームの伝達か何かかと思って日向が待っていると、意外や、彼が告げた内容は突拍子もないものだった。
 
「あのさ、日向。───来週、いくんちかヒマになんない?」
 
 
 その晩、若島津の母親から電話が来た。日向の母親は最初は緊張の面持ちで喋っていた。だがやがて安心したように口許が弛み、電話なのに幾度も頭を下げながら感謝を口にし、最後は笑顔で受話器を置いた。それで全部が決定だった。
 一応は日向も遠慮の姿勢を表明してみた。それから弟や妹たちの事を心配もした。俺が居なくなったらあいつら昼飯どうすんの。お袋だって毎んちは用意してくの大変だろ。
 まあ三日ぐらいどうにかなるわよ、と母親は鷹揚に言った。お隣のおばちゃんにも頼んでおくから。勝だってもう二年生になったんだから。
 それでも日向が不安をデカデカと顔に描いていると、母親は人さし指で長男のオデコを、ピン!、と弾いた。
 お兄ちゃん、そんなに心配しなくっても大丈夫。お母さんも一日か二日ぐらいだったら夏休みもらっちゃう。お兄ちゃんは臨海学校も行けなかったんだもの、少しは夏休みらしい事してらっしゃい。
 夏休みらしい事。
 俺にはサッカー大会があったよ、と日向は言おうかどうしようか少し迷った。母親が言いたい事がそれではないのが分かったし、やっぱりこの突然の事態にトキメかないはずはなかった。弟や妹たちの手前、自分一人ってのに後ろめたさを感じてしまっただけで。
 確かにサッカー大会の予選がぶつかっていて、臨海学校も行けなかった。それを悔しいとは思わず「振込み金って戻ってくんのかな」というのが先に気になった日向にとっては、『夏休みの旅行』なんてのは雲より高い位置にあるゼータクだった。
 トキメかないはずはなかった。
 やっぱりドキドキして嬉しかった。
 それにね、と母親は日向に言い聞かせるように穏やかに続けた。ちい兄ちゃんやお姉ちゃんにはいい練習よ。でないと来年からが心配でしょ。
 来年。それはまだ凄く遠くて、なのにあっという間にやって来そうで、考えただけで脳味噌がムズムズするような不思議な響きを持った言葉だ。来年。今までとは違った真新しい響き。特別な、何よりも特別な『来年』。
 
 話はトントン拍子で進み、翌週には着替えを詰め込んだリュックをしょって、日向は田舎へ向かう電車の中に居た。出がけの段、予想通りに弟たちは少しグズった。意外だったのは最後の最後までまでゴネたのが末っ子の勝ではなく、普段は聞き分けのいい二つ下の妹だったという事だろうか。
 大声で泣き喚く形ではなく、地味に涙目で長男のリュックの端っこを掴み、ズルい、兄ちゃんズルいよアタシも行きたい、といつまでもスンスン鼻を啜っていた。
 正直、そっちの方が日向にはこたえた。本気で中止にしようかと一瞬悩んだ。だけど最後にはミニーマウスの腕時計を「兄ちゃん、代わりにコレ連れてって」と押し付けられて、「ごめんな」とだけ言って頭を撫ぜた。
 赤いベルトの、どう見ても女の子仕様の、ミニーマウスが両腕を針代わりにチクタク動かしている腕時計。妹の大事な大事な宝物だった。日向は丁寧にそれを手首に巻いた。
 
 
「あと三駅で着きま…、着くよ」
 向かい合った座席、プラットホームの駅名表示に首を伸ばしながら若島津は言った。「おう」と日向は自分も外を見ながらぶっきらぼうに答えた。
 バスを入れて乗り換え四回、時間にして三時間あまり。
 ここに来るまで深く会話はしていなかった。いつもの調子、いつもチームで指示出し程度に喋るのと変わらない調子で、最低限にしか会話を交わしてはいなかった。なのに、隣の座席では見知らぬおばちゃんたちが、子ども同士二人連れの乗客を微笑ましく伺っている。そのいかにも「いいわねえ、仲良し二人で夏休みの冒険なのねえ!」な視線は、ちょっとばかり居心地が悪い。
 ちなみに若島津少年は近頃、日向に対して敬語を抜くための多大な努力を強いられている。言葉数がいつにも増して少ないのはそのせいもあると思われた。
 サッカーしてる時は仕方がなくても、何で同い歳のお前らはいつまでも俺を持ち上げて喋ってんだ。そう日向がある日にぶっちゃけてみたところ、「だって、」と若島津たちは困りきった様子で言い淀んだ。
 ンだよ続けろよと凄む日向に、沢木あたりが「…だって、そーやって日向さんがいつもこえぇから……」なんてボソボソ呟いたので、ムッときて日向は思わず彼らをけっ飛ばしてしまった。これについては反省している。
 とにかく日向が「普段からお前らヘンに俺を上に置きやがって」と思っていた事は伝わったので、若島津はその後、率先して日向にタメ口をきくように心掛けている、らしい。なかなかスムーズにはいっていないが。
「駅に着いたら誰かに電話すんのか」
「ううん。改札にばぁちゃんがもう居てくれるはずだから」
「時間、知ってんのか?」
「そ。この電車、本数がそんなに無いし」
 三両編成のローカル線、一駅一駅の間隔がえらく長い。窓の外は既にのどかな山並みばかりになりつつあった。時折、チラッと山の切れ目から民家や田んぼが覗き見える。隣のおばさんたちが下車して行くと、若島津は立ち上がって上下スライド式の窓に手をかけた。
 しかし留め具を外しても窓枠は固い。若島津が渾身の力を込めているのは見ていて分かるが、窓は最初から開いていた数センチの幅からビクともしない。ついに日向も立ち上がって手を出し、「せーの!」と二人一緒に力を入れる。
 跳ね上がるように窓は開いた。一気に風が流れ込んでくる。
 顔にぶつかってきたその勢いに、横の若島津はテンション高く笑い声を上げた。
「やったー! やっぱ一人じゃムリかあ!」
 夏の匂いがした。夏休みの匂いが。
 日向はミニーマウスの腕の角度を確認して、座席下に押し込んでいたリュックを引きずり出した。
「おい、そろそろ準備しとけよ」
「そんな慌てなくても大丈夫で…、だよ。停まってる時間、すげぇ長いから。上のも車掌さんが手伝ってくれたりするし」
 それを聞いてホッとした。乗った時、周囲の親切な大人が網棚に上げてくれた若島津の荷物を、どう下ろそうかさっきから日向は密かに悩んでいた。 
「お前、一人で来んの慣れてんのか?」
「毎年来てるし。あ、一人じゃないけど。いつもは兄貴たちと一緒だけど」
 ふうん。じゃあ友達誘うのは初めてなんかな。思った後でまた日向は不思議に思った。自分とこいつは『友達』なのかと。わざわざ若島津が一人だけ選んだ同行者が、なぜに自分一人なのかと。
「お前さあ…」
「ん」
 俺の事、どんなふうに思ってんの。何で他の奴じゃなく俺にだけ声をかけたんだよ。俺と二人でお前の田舎って、なんかそれスゲー俺らが仲いいみたいじゃねえかよ。
 何となくずっと訊きそびれていた事だった。イチャモン付けてるみたいに思われるのもイヤだった。
 なので、口にしかけた言葉は今度も形にならずに萎んでしまう。
 若島津はそれをどう思ったのか、膝に置いていたポケット時刻表を俯いていじくった。
「日向さん、……日向って」
「───もういいよ、“さん”で」
「日向…さん、東邦行くんだよな?」
「何言ってんだよ今さら」
 今さらかあ、そうだよなあ、となぜか若島津は勝手に納得して笑い出したりなんかする。さっぱり意味が分からず、日向はイラッときて若島津の剥き出しの膝小僧を軽く蹴っ飛ばした。
「もー、どーしてすぐ蹴るかなあ!」
「うるせ」
「日向さん、あんたね、すぐにそうやって人に手ぇ出すクセ直せよ」
「手じゃねえ。足だバカ」
「それへ理屈だよッ」
 目的地のひとつ前の駅で電車が停まる。降車する人は居ない。乗り込んで来たのは子連れの母親のひと組。
 日向は半ズボンのポケットの中にある切符を触って、そこにあるのを無意識に確かめた。
「なあ。あのまんまだとさ。俺と中学も違う学区だって知ってた?」
「あ?」
 日向と若島津は学校が違う。互いに学区のギリギリ端らしくて、若島津と他の何人かは隣の学区の小学校だった。
「日向さんと俺、どっちにしたって同じチームで中学もやれなかったと思う。気が付いてた?」
「………」
 それはちょっと、…考えた事があった。特にこの『最後の』大会前。沢木とタケシは同じ学区だから中学もあのまま上がれば同じだったろうが、こいつとはひょっとして最後の全国大会公式戦になるのかと。この先、俺はこんなキーパーと同じチームでやれるんだろうかと。
「でもお前、……空手あんだろ」
 そう、おまけにこいつの場合は中学でサッカーそのものが続けられるとは限らない。若島津の家の事情は朧げに日向も知っていた。次男坊が家業以外のスポーツに熱中する事に対して、親父が猛反対しているらしいという話を。
「あー、…それはねー、うん、まだちゃんと全部は片付いてないんだけどさー…」
 やるのか。中学行っても高校行っても、お前、サッカーを続けんのか。
 だったら俺らいつか全国大会で会えるかもなと、勢いづいて口にしかけ、でも日向はまたためらった。このためらう感情はとっさの割に複雑だった。座席から前のめりの姿勢のまま固まってしまう。
 誰かの後ろで。
 俺にしてたみたいに、俺の知らないチームで、俺の知らない誰かのゴールを守っている若島津。想像が出来なかった。いや違う、想像する事自体に凄まじい拒否感、みたいなものが一瞬の間に駆け抜けて行った。
 そんなこいつを見たくなかった。想像の中でだって嫌だった。
 日向は舌打ちしたい気持ちで、バスン!、と音を立てて背凭れに身体を戻した。
「日向さん。オレ、──…」
「ナンだよ」
 それまで意味もなく眺めていた時刻表から顔を上げて、若島津は真正面から日向を見た。
「オレね、───決めたんだ。勝手に、これだけは決めたんだ。誰がなんつったって、父さんにぶん殴られたって、オレはゼッタイ、」
 アナウンスが流れる。緑の景色に囲まれた小さな電車が目指している、目的の駅はもう、すぐ。
 若島津が何か重大な事を言おうとしている。何かとてもとても重大な事を。もしかしたらこの先の全部が、世界が、二人の間で決定的に変わるような事を。
 日向は息を詰めてその目を見返した。
 足許のリュックの中には宿題帳と絵日記が無造作に突っ込まれている。大半のページは白紙のまま書き込みすらされていない。そう、だからきっと『夏休み』はまだ終わらない、まだこの先は沢山ある。
 まだまだ沢山。数えきれないくらいに、もっと沢山。
 
 きっと全部が始まったばかりだ。

【END】







初出 2009.08 通販おまけペーパー 改稿 2010.08.18

※以下、当時のペーパーのトーク部分より。

一応はサイト掲載拍手用SSシリーズと同じ人たちのつもりです。彼らがまだ個人的にはさほど付き合いが深くなかった頃(でもチームメイト)、小学校6年生の時の「あの」激闘の直後、みたいな。サイトの方の話と少しリンクする部分が今後にあるかもしれません。あ、長屋でなく公団なのは、そこだけ平成アニメ版の設定に因ってみました!←えー。
同じ中学行って、でもまだサッカー関連では若島津は敬語が抜けなくて、しかしそれもやがてなし崩しに消えて行く事になるでしょう、というようなマイ設定で捏造炸裂。

さらに蛇足追記。
読み返してみて、センチメンタル爆発の一年前の自分にちょっと笑えました。
でもやっぱり思う、子供時代の夏休みって、なんであんなに短くて長くて一瞬で永遠のような気がしてたのかな。そんな一日が凄くトクベツだったんだって、知るのはずっと後になってからの事なんでしょう。この彼らも。
ちなみに日向小次郎少年が『明確に』若島津少年にヒトメボレ?した瞬間が、この夏休みだったのかもしれません(笑)

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