「本当は優しいんだと思うよ」
 
 薄暗い間接照明の店内。ローズウッドの厚い一枚板のカウンターに片肘を付き、長い指先にウィスキーグラスを揺らせながら若島津は言った。
「誰が」
「だから日向が」
 この会話の流れで他にいるかよ、という顔で横目にチラリとこちらを見る。どう態度を取っていいのか日向は迷い、結局「だろう?」とうそぶいてみせる方法で誤魔化した。
 だがその逡巡すらも見抜かれたようで、
「───ふ、っ」
 若島津は俯き気味に吹き出した。
「…ん、だよ!」
「なーんだかねえ。変わんないねえ、そういうとこ」
「成長ねえって言いてぇんだろ」
「いやいやいや。日向の根底? 変わらないものがあるってのはいいんじゃない」
 安心するよ、と若島津はグラスに残ったウィスキーを飲み干した。そしてカウンターの内側のバーテンを呼び止めて追加をオーダー。
「同じものを。氷もこのままで。──日向は?」
「ああ、じゃあ俺も…同じで」
 シングルモルト。名前も知らないブランドだったが旨かった。若島津は随分とこれが気に入っているらしい。
「お前がウィスキーに一家言あるってのは知らなかったな」
「色々と知らないでしょ、日向は」
「ああ? 含みがあるな」
「じゃなくてさ。俺と二人で飲んだ事なんてなかったじゃない。その意味で言ったら俺も今の日向は知らないからね、酒の好みどころか音楽もオンナの好みも今は知らない。だから変わらない部分があるってのはほっとしたかな」
「変わらねえよ。俺は」
 何か言いかけ、けれども若島津はそれを口にはしなかった。グラスの中、綺麗に削られた球形の氷が溶けていくのを目を眇めて見つめた。
 日向はもう一度繰り返した。
「変わらない」
「……そっか」
 少し、彼は口許で笑ったようだった。
 
 
 そうだね。昔から変わらず、ずっと日向は優しかった。なのにそれを見せたら誰かが取り返しがきかないほど傷つくみたいに、ずっとそれを隠してた。それを見せるのを怖がってた。臆病だったのかな。ああ、これは別に馬鹿にして言ってるんじゃないんだ、そういうつもりで言うんじゃない。非難や責めてるのでもない。断っておくけど。
 ───臆病は俺も同じだったからさ。うん。分かってた。俺も日向と同じくらいに臆病だって事は。そういうところは似てたね、俺たち。逆に言えば、そんなところしか似てなかったのかな。
 逃がしてくれたんだろう? 俺を逃がそうとしてくれたんだろう? それは少し卑怯と紙一重の優しさだったと思うけど。俺と向き合わなかったって事がね。でも俺も何も言わなかった、だからやっぱり日向を責めたら筋違いだ、分かってた。……ああ、これ以上はここで話すのには不向きな会話だ。場所を替えよう。いいだろ? それからここはお前の奢りで。──どうしてって、嫌がらせだよもちろん。10年分のね。
 
 
 部屋に入るなり若島津はスーツの上着を脱いで、バカデカいダブルベッドの上に放り投げた。
「ここ何があるかな。あー、何かボトルで1本買ってくりゃ良かったかな」
「まだ飲むのかよ」
「飲まないの? いっそルームサービスでシャンパンでも1本頼んじまおうか」
 喋りながらも動きは止めず、若島津は備え付けのミニバーを覗き込み、小さなボトルを幾つかつまんで明かりにかざした。
「これからシャンパンだあ? おい、勘弁してくれ」
「あれ、嫌い? ひょっとしてワイン駄目とか?」
「好き嫌いの問題より今から大ビン1本空ける根性がない」
「ふうん……ここのミニボトルは全部ブランデーかウィスキーだなあ…。ん、IWハーパーあった」
 グラスを当然のように二つ出してテーブルに並べる。それから「氷がないね。ああ、製氷機がエレベーターの横んとこにあったっけ」と一人呟き、空のアイスペールを片手に部屋を出て行った。あれだけ飲んでいたくせに酔いのカケラも見せない背中だった。
 日向はため息でベッドの片隅に腰掛けた。上質なボックススプリングが音も立てずに静かに沈む。ふと思い付いて若島津の上着を取って椅子の背にかけ、自分の上着もその上に重ねた。クローゼットまでの数歩をわざわざ歩き、ハンガーにかけてやるほどの気力は湧かなかった。皺が気になるようなら彼が戻って来た時に自分でどうにかするだろう。
 やがて若島津は戻ってくる。キーを持って出なかったのでドアチャイムを鳴らせて。結局、日向はドアの前まで歩かされる。
「鍵持ってけよ」
「そこまで頭が回るか。酔ってんのに」
 どこがだよ。押し付けられたアイスペールを腕に、日向は何度目かのため息をつく。
 ベッドのはす向かいの一人がけの椅子に腰を落とし、若島津はミニボトルのIWハーパーを全部一息にグラスに注ぎ込む。それで一人分。落としこまれた氷はいかにもおざなり。足を組んでまずグラスを一嘗めする様子は、手入れのいい高価な生き物が悠々と寛いでいるようにも見える。
 そのいかにも長丁場になりそうな雰囲気に、仕方なく日向も棚に並ぶミニボトルの中から適当な1本を掴み取る。ラベルは見たがやはり見覚えのない英文字の羅列だった。元から洋酒には詳しくない。
「見られたかな?」
「何が。誰に」
「下のロビーで、ボーイに。男二人で部屋取ったのをさ」
 タクシーを停めたのも若島津なら、運転手にこのホテルの名前を勝手に告げて、宿泊の手続きをさっさと済ませたのも当然のごとく若島津だった。部屋に入ってからダブルベッドな事を知った日向は、内心ではギョッとした。
「そんな事までいちいち見てねぇだろ」
「かな? 俺、少し感動してるんだけどね」
「何に」
「自分の恥知らずさ加減に」
 ああでも、と彼はまた口許を微かに歪めて笑った。
「日向は困るね。有名人だから」
「…ってほどでもない。一般人にはまだそこまでじゃないだろ。いくら何でも」
「ふうん」
 背もたれに寄り掛かり直して、若島津は重ねてある上着を邪魔に思ったらしい。日向の分と自分の分と、ひょいと持ち上げてハンガーに掛けに行く。学生時代の寮生活、よくそうやって日向の制服の上着をハンガーに吊るしていたのは彼だった。その度に文句を言われた。頼んでねえよと日向もよくごちた。
 そんな事を思い起こしていると、
「日向ってさあ、ハンガーにすぐ服掛けないクセ、どうやっても治らないよね。ひょっとして一生ダメなんじゃない?」
「お前が先に放り出してったんだよ」
 懐かしくてつい声に出して笑ってしまう。
「そのままにするなってハナシだよ。……何、なんかおかしい?」
「お前も変わってないよ。必ず文句とセットで動くとことかな」
 若島津は不本意そうに鼻を鳴らせて近付いて来ると、日向の手にあるグラスを抜き取って一口飲んだ。
「うわ、また薄いの飲んでんなあ!」
「お前はそろそろセーブしとけ。飲み過ぎだ」
「俺、なかなか酔いが回んないんだよねえ、何でだかねえ」
 本当に酔ってないのか。だとしたら流す視線の端々に見える艶は日向の気のせいではなく彼の故意か。
 
 
 壊れたのかな。なあ、もし口に出したら本当に壊れてたのかな。俺たち、こんなふうに10年後に会話してなかったのかな。それとも壊したかった? 日向は全部壊れればいいと思ってた?
 俺は──どうだっただろう。よく覚えてない。……違う、嘘だよ。覚えてないんじゃなくて、そう多分、考えないようにしてた。日向が決めればいいと思ってた。俺の決める事じゃないって、その部分に関しては放り出してた。それが俺の──卑怯なとこかな。あとひとつ、日向が辛いのは当然だと思ってた。…うん、ハハッ、そりゃそうだよ。だって日向のせいじゃないか、何もかも。何もかも全部、俺が決められる事なんかなかった。少なくともあの頃、俺は本気でそんなふうに思ってた。
 子供の時からそうだろ? お前が何か欲しいって言う、お前が何かを取りに行くって言う、そうすると一も二もなく俺は付き合わされるんだ。止められないよ、止めようとしたって日向は他人の反論なんか右から左に聞き流してたじゃないか。──…嫌じゃ、なかった。嫌だと一度も思った事がないっていうのが、そもそも俺の間違いだった。間違い、…そうだね。間違ってたのかな……。
 理不尽に聞こえるね。うん。日向にしたら理不尽な話かもしれない。でも俺には他にどうしようも出来なかった。言っただろ、だから俺も卑怯だって。俺の意志を日向に丸ごと全部投げ付けて、それを日向のせいにしてたんだろうね。
 
 
 
「知り合って、もう二十年近く経つのに」
「……ん?」
「日向の、キスの仕方は知らなかったな……」
 ベッドに散らばった長い髪を、指に絡めながら少し乱暴に梳く。唇の角度を斜めに合わせてキス。そうするのはあまりに自然で、逆に自然すぎる事が奇妙なくらいだった。
「なあ、俺のネクタイ」
「ああ」
「ジャマ。先に取ってくれよ」
「お前は黙ってろよ少し」
 くぐもった声で若島津が笑う。だらしなく弛めたネクタイがその首にはまだ絡み付いている。それを日向が引き抜いてやると、仰のくようにして大きく息を接いだ。思い付きで顎を舐める。また若島津が笑う。今度は唇で頬をなぞる。
 
 互いの温度や身体が混ざりあうようなセックスを繰り返す。汗と唾液と精液でシーツが湿り気を帯びても、獣じみた行為で延々と互いを求め続ける。それは情動でもあったし、積み重なった渇望のなせるものでもあったし、同時に贖罪でもある気がした。
 喘ぐ息と熱と湿度。それらでしか埋められない隙間がある事を、どうしても認められなかった長い年月。
 溶ければいい、と日向は思った。溶けて混ざって、骨の一本、髪の一筋まで互いの区別が付かなくなればいい。そうしてやっと自分たちは安らかで怠惰な眠りに落ちる事が出来るのだ。










09.03 改稿09.10
2009日向誕の元ネタ的なもの。(なのでシチュが丸被り)

臆病さと卑怯さと縺れた関係、ってのがどーも最近の個人的テーマらしいです。
「日向が理性でもって若島津を開放してやろうとするとどうなるか」を真面目に追求しようとしても、結局ウチの若島津は自分で戻って来ちゃう気がするのでした。←それは私がコジケンだから!

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