デジタル文明の終焉(茂木健一郎・クオリアHP連載)
                                          河村隆夫   


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デジタル文明の終焉(1) 投稿者:河村隆夫  投稿日:06月29日(木)09時43分06秒  


 はじめまして、河村と申します。実は、一年ほど前に茂木さんの「脳とクオリア」を拝読して、あまりの驚きに、直接お電話を差し上げたことがございます。
 お忘れでしょうか?
 私は、30年ほど前、学生時代から、茂木さんのいわゆる、クオリアについて考えつづけている市井の一凡人です。
 20歳のころ、私は大学の理学部の学生でしたが、最初の私の疑問は「青は何処から来るのか?」でした。
 以来30年間、その問題を、多くの大学の先生や、知人、教養人に問いかけてきましたが、だれひとり納得のいく答えを与えてはくれませんでした。
 悩み果てた20代の後半に、私はある結論に達していました。


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デジタル文明の終焉(2) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月01日(土)06時15分25秒


 学生の頃、最初に私が注目したのは、物質世界の単位を関係づける原子の周期表と、日本人の精神世界の単位とも云える五十音表との類似でした。
 HーCLが塩化水素を表し、HーFが別の性質を持つフッ化水素を表すように、五十音表においては、あーさ、と、あーき、とは全く別の意味を表しています。
 要するに、物質にせよ精神にせよ、単位の組み換えによってそれらを表現したり、認識したりしているということです。
 世界認識の方法は、いわばこのデジタル的な単位の組み合わせによるものであると考えました。
 それでは、なぜそのような方法が生み出されたのでしょうか。


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デジタル文明の終焉(3) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月02日(日)07時42分46秒


 それは、我々が世界を認識するための唯一の道具である「脳」の構造が、デジタル的だからです。シナプスをビットと見れば、放電するかしないかの2進法の、あるいは、ニューロンをビットと見ればシナプスの数が2個以上あれば2進法以上の、まさにデジタル的構造をしているからです。
 物質は周期表によって、ことばは五十音表によって、それらをもとに単位を組み合わせるという膨大な現象に対応しうるような方法を、必然的に作り上げてきたのではないでしょうか。
たとえばひとつの脳内電流のループが外界のひとつの事象と対応しているというように。
 私は、数学は脳の論理構造の確認であり、物理学は脳の論理構造に合わせて数学的に世界を表現するものであると考えます。世界が数学的に構成されているのではなく、我々は数学的に表現されうるその表層をのみ数式化して認識しているにすぎないのです。
 物体の運動は、美しい運動方程式で表される。あるいは相対性理論で補正される。
 これらを美しいと感じられるのは、脳の論理構造に合致しているから、言いかえれば、脳がそれを好むからです。
 しかし本当に、我々には、このようなデジタル的な世界認識の方法しかないのでしょうか。


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デジタル文明の終焉(4) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月03日(月)00時01分26秒


 30年前、20代前後の頃、私は量子力学を学んでいました。魅力はありましたが、そのころの日記に「論理は最低の真理である。」とも記しています。ましてや哲学や論理学は、用語や記号の定義からして不明確で、読めば読むほど、同語反復のみが正しいと感じました。
 「青は何処から来るのか」を知りたかった私にとって、物理学や哲学は、のめり込むような魅力はあっても、その疑問に対する答えは得られませんでした。
 数字や文字を用いて、世界を記号化しそれらを複雑に組み合わせても、咲く花一輪の美しさにも劣ることを痛切に感じました。
 そんなとき、私は一冊の本に出会いました。


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デジタル文明の終焉(5) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月04日(火)10時58分29秒


 その本に出会う前後に、私は、対象を言語化する以前の意識状態に興味を感じていました。
あるいは、意識化する以前の、記号化する以前の、と言った方がいいのかもしれません。
 つまり、私たちがほとんどの時間そうであるように、世界がそこにあることを意識さえしていないで、その中にいる状態について知りたかったのです。しかしこれは論理矛盾であることにすぐ気付きました。記号化されていない状態を記号化することなど、不可能でしょう。それともできるのでしょうか。私には、群盲象を撫づとしか思えないのですが。
 私たちにできるのは、記号化された限られた世界を記号によって論述することだけではないのでしょうか。
 さて、私は、深山幽谷に暮らしている一凡人です。鳥のさえずりに眼を覚まし、風が新緑の葉裏をかえして上っていくのをながめながら、一日の大半を過ごしています。意識にも上らないこの感覚を、私には、明確に記述できません。


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皆様、ただいま 投稿者:くおりあ庵  投稿日:07月04日(火)11時03分43秒
(茂木健一郎)
帰ってきました。
都内某所でブランチのポークカレーを食べています。
河村さん、書き込みシリーズ、ありがとうございました。
深山幽谷ですか。うらやましいです。


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お帰りなさい 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月04日(火)11時50分25秒

 お帰りなさい。お疲れさまでした。カレーは美味しいですか?
 投稿をお読みいただき有り難うございます。
 ところで、投稿をもう少しつづけさせていただきたいのですが、ご迷惑ではありませんか?
 あまりにも素人すぎて、不適当とお考えでしたら、削除してください。


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河村さま 投稿者:くおりあ庵  投稿日:07月04日(火)18時56分07秒

迷惑なんてことは全くございません。
どうぞ、「河村連載」(笑)をお続けくださればと思います。

今はビール1本とワイン少々を飲んで、いい気持ちで早稲田の国際会議場をふらついています。
外は凄い雷雨。

ではでは。


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デジタル文明の終焉(6) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月04日(火)23時16分13秒


 許可を頂きましたので「河村連載」を続けます。
 記号の世界から「青の意味」には到れないと知って、私はついに、宗教の扉をたたきました。
 しかし、神や奇跡は、言葉の向こうにあるものだと考えたのは、あやまちでした。神は、全ての偶然性を必然へと転換するコペルニクス的転回点であるるように感じます。混沌とした宇宙も、神のピンホールを通過すると、全ては神の御心による必然であると解釈されます。キリストは、私の疑問に答えてくれませんでした。
 私は神を否定する者でも、肯定する者でもありません。私の胸の内にある愛の存在を、他者に証明することが不可能なように、神をその胸のうちに信ずる者にも、神の存在を他者に証明することは不可能であると、理解しています。
 私は、行方を見失い、途方にくれていました。すでに26歳でした。 


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デジタル文明の終焉(7) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月05日(水)09時27分32秒


 そのとき、その本に出会ったのです。何度も、何度も、繰り返して読みました。
やがて、その方の、本当の初期の語録をさがして読みました。そして、ついに理解できました。
 その方とは、釈迦のことです。
 これは後世の本になりますが、私の乏しい読書歴のなかでも、「禅語録」は最も難解な本のひとつでした。公案の答えが、指一本だったり、突然頭をたたかれたり、ほとんど意味不明な世界でした。しかしそれが私の問いに対する答えだったのです。
 嘗て雲水たちは、狂死する者が数知れず出るほどの、哲学的思索の果てに、ひとつの公案を師の前にさし出したのです。茂木先生の「クオリア」や、私の「青の意味」などは、おそらく何度も公案として問われていたでしょう。
 釈迦のおしえは、歴史上最高の知慧の所産と思います。
 釈迦は何を我々に教えたのか。


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デジタル文明の終焉(8) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月06日(木)06時05分57秒


 これから述べる仏教観は、仏教学を学んだことのない私の、独善的な解釈によるものです。
 仏陀は、前世についても死後についても述べていません。神についても、奇跡についても語ってはいません。ただ、四苦を解脱して、悟りを直観することを教えています。
 ただ生きることが、多くの苦しみをともなうことは、誰しも経験しているところです。
 ああもできたはずだ、こうもできたはずだ。ああしたい、こうしたい、と、五欲に突き動かされ、その欲望が強いほど苦しみは深くなります。ああもできたはずだができなかった、ああしたいが許されない、と、苦しみの言葉を胸のうちで反芻するするほどに、苦しみは増してゆきます。苦しみを生み、それを増幅するのは、言葉です。四苦は肉体になく、心にあります。
 つまり、四苦は心にあり、言葉によって構成され、増幅されているのです。
 仏陀は、四苦を生む無益な想いから離れよ、言葉を捨てよ、と、教えられたのだと考えます。             


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デジタル文明の終焉(9) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月06日(木)06時55分29秒


 永遠とは、脱自とは、真理とは、人は問いつづけ、苦悩します。しかしそんなものが、本当にあるのですか。
「永遠」と文字にすると凄いことのように感じますが、あなたが苦しむほどの意味があるのですか。もともと、あなた方が作った言葉にすぎないではないのですか。自分の生み出した言葉にとらわれて、自縄自縛に陥っているのではないですか。
 ただ、いちど言葉の地獄に落ちた人にしか、この意味はわからないだろうと思います。今眼前にあるものを疑い、言葉による思索の迷路に立ちつくして、天を仰いだものにしか、この言葉の意味はわからないだろうと思います。
 「永遠とは、今このときが永遠ですか。」と、師に問いかけると、一喝されて弟子は悟ります。
 永遠とは、永遠であって永遠でない、だから永遠であると、知るのです。これは論理ではありません。言葉では表せないのです。思索の極北にまで到達したものにしか、わかりません。つまり、悟りは直観するものなのです。
 しかし難しいことではありません。いまあなたは、言葉にならないいっさいのなかに、立っているではないですか。そのもののなかにいるではないですか。


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デジタル文明の終焉(10) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月07日(金)13時00分38秒


 と云うわけで、私は20代の後半に悟りをひらいてしまったので(大笑)、それ以後の思索が途絶えてしまいました。青空、よし。雨、よし。生老病死すべてよし。毎日がこれ好き日であると、深山幽谷に静居し、それから20年が過ぎました。
 ときどき、鯨が海面に顔をだすように「青は何処から来るのか?」と胸に問いかけても、たちまちその想いは心の深海へ沈んでゆきました。
 40代の後半になって、突然、茂木先生の「脳とクオリア」に出会ったのです。
 衝撃でした。と同時に、長く異境をさすらっていた己自身が還ってきたような、深い感慨にもつつまれました。
 私は悲しいかな専門分野をもちません。田夫野人の類です。
 しかし、クオリアについて知りたいという再燃した欲求は、以前にもましています。
 この衝撃を私がどのように捉えたかをつぎの投稿で述べて、最終投稿としたいと思います。
 茂木先生、もう一回わがままをお許しください。


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デジタル文明の終焉(11) 投稿者:河村隆夫  投稿日:07月08日(土)08時48分31秒


 早晩、脳のデジタル的能力は、コンピューターに代替されるでしょう。記号化された世界を、不完全な論理的思考で表現する能力は不要となり、そのとき人間に求められるのは、直観でしょう。問題はその直観を、伝達する方法です。
 人間は文字を発明することで、脳内にとじこめられていた主観を客観化し、伝達する能力を身につけたかに錯覚しました。
「真実」はひとつではなく、「事実」でさえひとつではありません。真実も事実も、脳の数だけあるのです。
 「たとえばここに一枚の割れた皿があります。割れた皿があるというのは、唯一の事実ではないですか?」
 「その皿は、誰が見て、あると認識したのですか?神ですか?それなら宗教の領域です。あなたが見たのですか?それなら、あなたの主観が、割れたと思い、皿と思っているものがあるにすぎません。しかしそんなものが本当にあるのですか?」
 科学を信奉している友達と、よくかわす会話です。このテーマについては、後日投稿させて下さい。
 いずれにしても、人間は文字によって世界を記号化したとき、多くのものを失いました。
 私は、主観を伝達する別の方法があったのではないかとおもいます。
 それを思い起こしたとき、我々を閉じこめてきた頭蓋骨の孤独から、解放されるのではないでしょうか。かといって、私はオカルト信者ではありません。ただ、全てを記号化しデジタル化する文明には限界が来ていると感じているのです。
 クオリアはその突破口になるかもしれません。主観を伝達する全く別のパラダイムを、創造することができるかもしれません。
 クオリアの旗手として、茂木先生にはその先頭を走りつづけて頂きたいと思います。
 そのとき、謎に挑戦して倒れていった多くの屍が、累々としていることも、思い起こしていただきたいと思います。
 それでは、素人の私に投稿を許可して下さった茂木先生に感謝と敬意をこめて、最終投稿と致します。
 深山幽谷から、先生のご活躍を期待しています。では。


自己紹介 投稿者:河村 隆夫  投稿日: 7月18日(火)10時 4分26秒
 はじめまして、河村隆夫と申します。
 30年前、20歳の頃、量子化学などを学ぶ傍ら、小説の創作や、茂木先生のいわゆるクオリアのようなことも考えていました。
 いまは、深山幽谷に住まう、野人です。
 掲示板に、「デジタル文明の終焉」と題して、略歴をカキコしてあります。
 根拠となる引用文献や著者名などは、書きません。書こうにも、あまりにも昔のことですっかり忘れてしまいましたので。あしからず。
 ただ、ヴィトゲンシュタインやゲーデルは、幼稚すぎて、笑えませんか?いかがでしょうか?


MLに投稿するのは、初めてです。
 最近このMLに参加して、毎日メールを読んでいます。
 私のような50歳にもなる素人に、参加できる資格はないと知りながら、恥を忍んで投稿します。
 皆さんの文章を拝見していて、私も30歳若かったら、一生懸命勉強して、会話に参加しただろうと思いますが、いまの私には専門的な議論はとうてい
無理なので、簡単な感想を述べさせていただきます。
 
 クオリアの問題は、現在の哲学や科学では解決不可能だと思います。
 キリスト教圏で育まれた哲学や科学は、いかなるものであれ、その根底に絶対神の存在を感じさせます。天才的な哲学者や科学者が、晩年に必ずと言っていいほど、神について語ります。
 彼らの思考は、究極的には神の存在に支えられているように思えます。
 「客観」とよくいいますが、だれが観ているのですか。主観をこえたものを、だれが観ているというのですか。神ですか。
 私には、「客観的真理」などというものは、どうも胡散くさく思えます。

 大学の恩師が、私にこんなことを話してくれたことがあります。
 恩師が大学を退官するとき、後任の教授をさがしに、母校のT大に行きました。
若い教官が、恩師の手にしていたある本を見て、「先生はその著者の研究を始められるのですか?」と問いかけてきたので、「私の研究の参考にしているだけです。」と答えられたそうです。T大の先生は、誰々については大変よく勉強をしているけれど、独自の考えをもっている方は少ないと、嘆いておられました。

 皆さんは、明治時代の若者ではないのですから、海の向こうから来るものだけを崇拝することをやめて、既成概念をすべて疑うところから出発する新しい哲学や科学を、ぜひ創造していただきたい。これだけ生活を心配する
必要のない豊かな国になったのですから、そしてクオリアという格好のテーマが与えられたのですから、皆さんには、クオリアの謎を解決する独自の視点を、生涯をかけてぜひ創造していただきたいと思います。
 (言うだけなら楽だよ、といわれそうですが。)
 茂木先生の提唱されたこのクオリアの謎は、その解決に一生を捧げる価値がたしかにあるものと確信します。


はじめまして、稲葉哲也様

 初めてレスをいただきました。感激です。今後ともよろしく。

> >  キリスト教圏で育まれた哲学や科学は、いかなるものであれ、その根底に
> > 絶対神の存在を感じさせます。天才的な哲学者や科学者が、晩年に必ずと
> > 言っていいほど、神について語ります。
> 多分、世の中それほど上手いことできてる、ということを実感した上で、
> そのからくりを追求し尽くせど知り得ない、或いは果てしないからでし
> ょうね。

現在の科学は、ながい中世のキリスト教支配の果てに、その鬼子として生まれたと云う一面がありますから、母親としてのキリスト教の影響を色濃くうけていて当然と思います。
しかし、湯川は晩年に仏教哲学へ傾いたようです。
(湯川?なにそれ、といわれそう)

> >  彼らの思考は、究極的には神の存在に支えられているように思えます。
> 人間という物体がその感覚器でもって何かを知る、ということに限界が
> あるというのも、それ以上を知覚できる存在を仮想する動機の一つやも
> しれませんな。実在論者は特に。

彼らが神の視点で思考することに全く違和感を感じないのに対して、私たちは、そこで感じる違和感を出発点にして、あたらしい視座を獲得できないものかと思うのです。
と云うのは、ハイゼンベルグの不確定性原理に20歳の頃出会ったとき、それほど大騒ぎするほどのことではないように感じられたからです。あたりまえ、という感じでした。ヴィトゲンシュタインやゲーデルにいたっては、ものすごく頭の良い子供のお遊びのように感じられるのですが。
たとえば、グー、チョキ、パーを、三人が同時にだしたらどうするんだみたいなことを延々と論じているような。
アインシュタインが「神がさいころを振っているはずはない」と言ったとき、ナーンダ、ネタがわれたなと感じたときの、違和感。
この違和感が、なにを示唆しているのかは、私にもわかりません。

> >  「客観」とよくいいますが、だれが観ているのですか。主観をこえたものを、
> > だれが観ているというのですか。神ですか。
>
> 自然科学のいう客観、というのは、多分、誰が見てもそう感じるもの、
> ちゅうことでしょうねぇ。結局、人間全体の主観を指して「客観」など
> と呼んでいるのでせう。

人間全体の主観を指させるのは、誰なんでしょう?


はじめまして。ジャック天野さんがレスくださるとは、夢のようです。

30年間、田舎でこんな話をするたびに、気がつけばまわりに誰もいなくなっていたってかんじで、悲惨な日々でした。
30年間。長かったです。

> >ハイゼンベルグの不確定性原理に20歳の頃出会ったとき、
> >それほど大騒ぎするほどのことではないように感じられたからです。
> >あたりまえ、という感じでした。
> ホントウはちょっと違うでしょう。「ブラボー!」ではないですか?(笑)

ホントをいうと、「ブラボー!」でした(大笑)。
ただ、そのころ友達に、「君はどういう人なのかと問いかけられると、問いかけられる前の自分は変容してしまう。自問の言葉を自分の心に投げかけると、それ以前の自分と違うよそよそしい自分に変わるようなきがするけど、これって不確定性原理じゃない?」みたいなことを言っていた覚えがあります。(もっともプランク常数とは関係ないですけど。)

> 物理に対して反感を感じる人は、世界が物理法則によって動いている
> ことについて、「自分が蔑ろにされている」と感じるようです。

私は、物理だあーい好き人間です。
小学時代は湯川ひとすじ、中学のとき朝永がノーベル賞を受賞して、「量子力学的世界像」っていう、お子ちゃまむけの本に夢中でした。
高校でも物理と数学が大好き、大学も理学部で量子力学なんぞを勉強しました。
でも、文学に耽溺してから、頭がバカになってしまいました。
カルナップの「物理学の哲学的基礎」なんかを読んでも、ふやけた脳味噌では、なんのことやらチンプンカンプンでした。20代の前半のことです。

いうまでもなく、私は頭がわるいのです。もう50歳の、こわれかけた脳味噌です。
それでも、恥を省みず、優秀な皆さんのレスがほしくて、ちょっと過激なことをいってみたかったのです。

> なぜ、ヴィトとゲーデルが並ぶのか不思議ですが(笑)

ゲーデルはたしかノイマンやカルナップなんかといっしょに、ヴィトの研究をしたことがあったと記憶しています。影響をうけたとかいう記述を読んだように思います。
記憶ちがいならごめんなさい。
でも、二人の仕事はとてもよく似ていると思いませんか?

>東洋的な発想の根幹の一つにタオイズムがありますが、
> タオイズムなら、「自分と世界は一つ、世界の変化がタオなら、
> 自分の変化もタオ。ツッパリ通してみたところで、ムダなこと」
> と考えるでしょうな。

タオイズムについて教えてください。ぜひ。


河村です。
谷間の村にもようやく雨が降って、一息ついているところです。
ひさしぶりにパソコの前にすわって、メールをひらくと、おお! 百花繚乱。

ジャック・天野さま。
妖刀冴え渡る、って感じ。

>(この人もT大の物理の出身でしたが)

私は、T大卒ではありません。恩師がT大卒なのです。
私の受験の年だけ、T大の入試がありませんでした。
私は、名も知らぬ遠き島の、農学校卒です。
      =
ところで、A=A、この式が、どうも昔からピンとこないのですが。
というのは、私の乏しい女性経験のなかで、もっとも難解だった言葉が、「好きじゃないってわけじゃない!」
遠い昔のことですが、電話の向こうの声をききながら、複雑な心境でした。
言葉も数式も、それを話し、あるいは読み、理解するときに時間が経過しますよね。
経過する時間とともに、前の内容は変化しているんじゃないでしょうか。
      −   =         -
つまり、A→A→A=A ではなくて、A→A→A→A’、が正しいんじゃないでしょうか。
Aの否定も、Aの二重否定も、時空連続体のなかで、Aの影のなかにあるのではないでしょうか。数学の論理は、どうも t=0の静止空間内での、静止した論理のように感じられてなりません。いかがでしょうか?
(彼女の t=0 近傍でのゆれる心を知りえなかった悔しさをこめて考えました(笑)。)

羽尻公一郎さま。
好青年、将来を期待しています。「憧れを知る者のみ」です。

広田さま。
> エントロピーは、もう一度読むと、
> やっぱりおかしいような気もするし正しいようにも読める。

シャノンのエントロピーについてですが、どうも、カオスと秩序の辺縁での自己組織化が、生命の秘密に関係しているのかもしれませんヨ。

加藤さま。
> 私も、人が言おうとしたことを先に言ってしまわないよう、返事を先に言わな
> いよう、練習していた時期があります。というか、みんなそうやって我慢して
> るんだと子供の頃は思ってました。

私も同じでした。これを読んで安心しました。いまはもうただのアホですが(笑)。
ひとつ、私のエピソードをご紹介しましょう。
学生のとき、かわいいメッチェン(ふるいだろー)と、映画館へ行きました。
 おかしな映画で、私はなんども声をあげて笑いました。そのうち、なんかようすがヘンだと気づきました。私が笑って、しばらくしてからみんなが笑い出すのです。オチがさきに見えてしまって笑うのですが、彼女を見ると、
気味わるそうに私を見ていました。彼女とはそれっきり。
それ以来、先が見えても、笑ったり反応したりするのをやめました、とさ。
チャン、チャン。

ところで、私の神髄はまだまだ披露いたしませんゾ。
それにふれたとき、たちまち、すべての謎が解き明かされる、のでアル。
えっへん。
                by <アホなおやじさま>河村隆夫


河村です。

広田さんへ。

> 極端な例であるコタツなら、
> たとえば、30度以上、30度未満の二つのクオリアを持つと考えます。

検証できますか?
コタツがクオリアを感じていると、検証できますか?

ひょっとしたら、クオリアの意味がわかってないんじゃないですか?

クオリアが難解なのは、我々が刻々クオリアの中にいながら、その中にいることを検証できないからです。


ふっふっふ。広田さん、アシストありがとうございます。

河村です。

> > クオリアが難解なのは、我々が刻々クオリアの中にいながら、
> > その中にいることを検証できないからです。
> なるほど、クオリアは検証できないものなのですね。
> ならば、クオリアについて考えるのに検証する必要もありませんね。簡単だね。

よくわかりました。
広田さんのご発言は、<検証する必要のないこと>つまり、文学のジャンルだったんですね。
たとえば、朝日のぬくもりのなかにある石のクオリア、夕日をあびている石のクオリア、沼の悲しみ、虹のいだく希望のクオリア、・・・・

検証する必要のない文学の世界は、とても素敵だと思います。


ふっふっふ。河村です。

広田さまへ。

> ただし、これが世の中の人のほとんどが納得するには、実験などが必要で、
> そんな施設は所有していないのでできない、

それでは仮想実験をしましょう。

意識がある状態の被験者の脳内に電極をさし込み、特定のニューロン閉鎖系の電圧を測定できるようにしておきます。
広田さんは、そのループが<青い色>に対応していると考えているとしましょう。
そのループに電圧をかけると、ある電圧に達したとき、被験者が「<青い色>が見えました」
と答えれば、そのニューロンのループは<青い色のクオリア>に対応していることが確認されたことになる。これを他の被験者にも繰り返せば、特定のニューロンのループと<青い色のクオリア>とが対応関係にあることが検証できる。

と云うことでしょうか?

by<?のおやじさま>河村隆夫


広田さまへ。河村です。

> もし、何らかの物理的過程が、主観的感覚との対応関係が存在しないと、
> 主観的感覚について解くことは不可能ということになるので、
> とりあえず、何らかの物理過程と対応関係があると考えるのはダメでしょうか?
> これを譲ってしまうと、自動的に「主観的感覚は決して解けないもの」となり、
> 話が終わってしまうように思います。
> もちろん、いや他に何か方法があるはずだという、
> そういう立場の人がいてもいいと思いますけど...
>
> 別の事象との相関の可能性ですが、
> 私の考えでは循環する信号であるループと心の対応が最も相関が高いと感じたわけ
で、
> もっと相関の高いものがあればそれでいいと思います。
> 今のところ、そういうものは発見できませんでした。

思考実験はお嫌いですか?

物理過程としての<循環する信号であるループ>と主観的感覚としての<青い色のクオリア>とが対応関係にあることを検証するための思考実験をして見ませんか? いかがですか?

波長Tの光をN人の被験者の網膜にあてると、被験者全員が「青い色が見えました」
と答えたとしましょう。
そのときN人の脳内のほぼ同じ位置に<循環する信号であるループ>が確認されたとします。
つぎに、N人の脳内のほぼ同じ位置に確認された<循環する信号であるループ>に、確認時と等しい電圧の電流を流します。
そのとき被験者全員が、「波長Tの光を網膜にあてられたときと同じ、青い色が見えます」
と答えたとしましょう。

広田さんは、この結果をみて、波長Tの光によって発生する物理過程としての<循環する信号であるループ>と
主観的感覚としての<青い色のクオリア>とが対応関係にあることを検証できたとお考えですか?

by<お答えをおまちしているおやじさま>河村隆夫


河村です。河村さまへ。
悲しや、レスがひとつもないので、自問自答するおやじさまであった。

> 広田さまへ。河村です。
>
> > もし、何らかの物理的過程が、主観的感覚との対応関係が存在しないと、
> > 主観的感覚について解くことは不可能ということになるので、
> > とりあえず、何らかの物理過程と対応関係があると考えるのはダメでしょうか?
> > これを譲ってしまうと、自動的に「主観的感覚は決して解けないもの」となり、
> > 話が終わってしまうように思います。
> > もちろん、いや他に何か方法があるはずだという、
> > そういう立場の人がいてもいいと思いますけど...
> >
> > 別の事象との相関の可能性ですが、
> > 私の考えでは循環する信号であるループと心の対応が最も相関が高いと感じたわ

> で、
> > もっと相関の高いものがあればそれでいいと思います。
> > 今のところ、そういうものは発見できませんでした。
>
> 思考実験はお嫌いですか?
>
> 物理過程としての<循環する信号であるループ>と
> 主観的感覚としての<青い色のクオリア>とが対応関係にあることを
> 検証するための思考実験をして見ませんか? いかがですか?
>
> 波長Tの光をN人の被験者の網膜にあてると、被験者全員が
> 「青い色が見えました」
> と答えたとしましょう。
> そのときN人の脳内のほぼ同じ位置に<循環する信号であるループ>が
> 確認されたとします。
> つぎに、N人の脳内のほぼ同じ位置に確認された<循環する信号であるループ>
に、
> 確認時と等しい電圧の電流を流します。
> そのとき被験者全員が、「波長Tの光を網膜にあてられたときと同じ、青い色が見

> ます」
> と答えたとしましょう。
>
> 広田さんは、この結果をみて、
> 波長Tの光によって発生する物理過程としての<循環する信号であるループ>と
> 主観的感覚としての<青い色のクオリア>とが対応関係にあることを検証できたと
> お考えですか?
>
> by<お答えをおまちしているおやじさま>河村隆夫
>
自答。

N人の<循環する信号であるループ>に対応しているのはN人の<「青い色が見えました」という返答>であって、N人それぞれの主観が見ているであろう<青い色のクオリア>に対応しているのではない。
N人は同じ波長に対して「青い色が見えました」と答えてはいるが、彼らの主観がそれぞれ同じ色のクオリアを知覚しているとは限らない。
あるいは、見えなくても、見えた、という嘘もつける。
すなわち、この思考実験では、<何らかの物理的過程>と<主観的感覚>との対応関係が存在することは、立証できない。

ところで、たいへん僭越ではございますが、皆さまは心脳問題に関して、
つぎの、どの分類に入るとお考えですか?

@鉄腕アトム派
 コンピューターに、やがて意識が宿ると考えている。
 (アトムが、クオリアの悩みを語るとき、クオリアの謎は解明されたことになるのでしょうか?)

Aオカルト派
 肉体と関係なく、全く別に、精神世界があると考えている。
 (気功の<気>が、とても気になるのですが?)

B達観派
 君子は怪力乱神を語らず。語ることのできないものを、語るべきではない、
 それよりも、人として、より良く生きるべきである、と考えている。
 (日日是好日)

C新パラダイム創造派
 脳とクオリアをつなぐ、全く新しいパラダイムを創造しようと考えている。
 (我々は、日々クオリアの中で暮らしているのですから、かならずや、その方法に気付くはずです。)

by<レスなしの悲しみにくれるおやじさま>河村隆夫


谷間は日照りがつづき、わたしは疲れて酔っています。

河村です。多くのレスをありがとうございます。

誰か教えてください。

クオリアは何処から来るのか。

朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。

30年間、そう思って生きてきました。

誰も答えてくれないのですか。

青は何処から来るのか。

わたしは何処から来たのか。

誰か。


河村です。教えてください。

谷間の村にも、台風の雲があらわれて、すこし涼しくなりました。

なにぶん、30年前のうろ覚えの知識で読んでいますので、
以下のような解釈で良いのかどうか、ご指導ください。

1)<脳の挙動を、適度な抽象性をもつ「連続変数力学系」であらわすとき、時間変化する変数が現実世界の何に対応するのかをマッピングすることにこそモデルの神髄がある。>

たとえば、初期の波動方程式を解くとき、ふたつのスピン波動関数を使って解いたように記憶しています。しかしスピンは、電子が現実に回転しているのでなく電子が二つの内部自由度をもっているにすぎなかったのではないでしょうか。
(時間変化する変数)が現実世界の何に対応するかを知れば、クオリアに近づく一歩になると云うのでしょうか?その変数が対応する現実と、さらにクオリアとは対応するのでしょうか?
(幼稚な解釈や疑問でごめんなさい)

2)<前頭葉を中心とする自己を支えるニューラルネットのdynamical systemsの
 本質は、力学系で書ける可能性がある。>

これは、カオスと力学系のお話でしょうか?

3)<意識に対しては構成論的アプローチが有効であることは直感的に感じます>

これは、解釈学的方法は構成的方法を導く、というアレでしょうか。

4)<この発言の背後には、世界の因果性とか原理の暴力性とか、いかんともいわく言いがたい世界観があると思うのですが、観測者、解釈者であるselfがその因果性とか暴力性に依存していると考えるなら、解釈もまた因果性とか暴力性の影響下にあるとなり、部分が全体を覆うことになるのではないでしょうか?そしてそのとき、解釈にはどんな価値があるのか、私は知りたいです。>

これは、全体記述とか決定不能性、あるいは「外からの観測」「内からの観測」とかいうお話でしょうか?

ぜひたくさん教えてください!

by<脳の溶けだしてしまったおやじさま>河村隆夫


羽尻様、レスありがとうございます。

河村です。

> > 3)<意識に対しては構成論的アプローチが有効であることは直感的に
> > 感じます>
> >
> > これは、解釈学的方法は構成的方法を導く、というアレでしょうか。
>
> アレといわれても、前方照応できないのですが、多分私の常識不足でしょう。

うろ覚えでしたので、アレと書いてしまいました。すいません。
アレをみつけました。津田一郎の「カオスで脳を見る;1994.5」の一節でした。

「脳は内側から記述されなければならない。内側の記述を探すための、おそらく唯一の戦略は構成することだろう。構成するための媒体は計算機が望ましい。
なぜなら、計算機の中に構築される系を、私たちは外から制御できるし、また、内側からも構成できるからである。ここで外から制御できるとは、ニューラルネットワークなどの”構造物”やカオスを生み出す方程式がプログラムにより変更できることを意味し、内から構成できるとは、”人工脳”がプログラムでつくられていることを意味する。」

> ともあれ、解釈学的方法は構成的方法を導く、という側面もあるでしょうが、
> もっと素朴に、せっかく繰り返しの得意な機械(計算機とも言う)があるし、
> 還元論的に分解して調べるより、挙動を見て同じものを作ればいいじゃん、
> という態度が構成論的アプローチだと思います。そして、同じ挙動をする
> 模型が動くなら、そこには同じか、似たような動作原理があるだろうし、
> それは理解につながるか、理解の助けをするだろうな、という態度です。
> でも、この考えにはいや〜な落とし穴があるんですね・・・・・
> 語ることと指し示すことは違う。説明と動作は同時に得られない、という。
> だから、脳のモデルを作ったとき、そのモデルを再解釈することと
> 実際の脳を観測することと、どちらが労力が少ないか、疑問なのです。
> 私は。

下記のMLをごらんになりましたか?

送信者: "kabuto" <kabuto@mwc.biglobe.ne.jp>
宛先: <qualia@freeml.com>
件名 : [qualia:3164] Re: 心脳問題の見方
日時 : 2000年8月8日

この中で、わたしは、脳のモデルをつくったとき、クオリアの問題は解決されるのだろうかという疑問を、つぎのように稚拙に提起してみました。

>1)鉄腕アトム派
>コンピューターに、やがて意識が宿ると考えている。
>(アトムが、クオリアの悩みを語るとき、クオリアの謎は解明されたことに
> なるのでしょうか?)

クオリアの発生するメカニズムは解明されても、なぜクオリアがそれによって発生するのかは解らないのではないでしょうか。
これと同じことなのでしょうか?

by<身の程知らずのおやじさま>河村隆夫


河村です。

意味不明のことを書いてしまって、ごめんなさい。

訂正します。

> クオリアの発生するメカニズムは解明されても、なぜクオリアがそれによって
> 発生するのかは解らないのではないでしょうか。



>クオリアが発生したかどうかを、検証できないのではないでしょうか?

に、訂正します。

羽尻様、皆様、ごめんなさい。
自戒の意味を込めて、しばらく投稿をひかえます。

by<あわてふためくおやじさま>河村隆夫


谷間に吹く風はもう秋です。

河村です。

酔わなければ、書けませんでした。

妙齢の女性に、惑わされるのは理解できても、限度があります。

でも、ようやく帰ってきましたね。

ジャック・天野氏の妖刀も、ナマクラになり果てたのかと思ったら、戻ってきたようですね。

羽尻氏の、迷いのない言葉が救いでしたが、一時期不明瞭にふらついていたのが、ようやく戻ってきましたね。

>私は極端な人間ですが、その刹那さが天邪鬼に見えるかもしれませんね。
>でも厳密さを追求すると不条理なことになる、と私は感じています。

私は、ぜんぜんそう感じません。羽尻氏や天野氏の言葉はもっとも理解しやすいと思います。
天野氏の言葉も、羽尻氏の理論も、私にはとても理解しやすく思えます。

クオリアの謎を解明するための、(ときには脱線しても)MLであってほしいと思います。

私は、死ぬまえにクオリアの謎が解明されたことを聞いて、死にたいのです。

bY<ほっとひといきのおやじさま>河村隆夫


河村です。

谷間の村は、秋の風です。

猛暑が終わって、久々、メールをひらいてみました。

田中幹氏に、ひとことレスしたく思いました。

> #おつきあいいただいているのは管理人さんのみのここは本当にクオリアML?
>    Tanaka Miki

田中氏の質問の読後感はつぎのようです。

「『巨人』というチームは、フットボールについて語るとき、はたして必要でしょうか。
私は必要性を感じません。どなたか反論できますか?
『巨人』の運命やいかに。」

どなたにもレスのしようがないでしょう。

>「クオリアがあたかも物理法則や物質世界などとは、異質なものであるような印
>象をうける」という命題を私は理解できておらず現時点では別に肯定しません。

以上のように、田中氏は「クオリア」を理解しないまま、
>クオリアという現象をわざわざ仮定する必要もないことになるのではないかと、
>またまた考えてしまった次第です。
と、述べています。

「理解できない「クオリア」は必要ない」ということでしょうか?

<クオリアという現象をわざわざ仮定する必要>など、全くありません。
田中さん、あなたは、日々クオリアにつつまれて生きているではないですか?

by<レスをおまちしているおやじさま>河村隆夫


河村です。  
羽尻氏へ。

私の文章力不足のために、誤解されたようですね。
> kabuto wrote:
> > 「『巨人』というチームは、フットボールについて語るとき、はたして必要でしょうか。
> 必要という言葉の捉え方次第でどうにでもできます。
> > 私は必要性を感じません。どなたか反論できますか?
> 巨人の財力やなりふり構わぬ姿勢は、チームとして学ぶべきものがある。
> ほら、文脈ができた。
> > 『巨人』の運命やいかに。」
> > どなたにもレスのしようがないでしょう。
> ほら、レスした。
> 羽尻

田中氏に対して、このように書けば誤解されないのでしょうか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
田中幹氏の発言の主旨を、私(河村)は、以下のようにとらえました。

「『巨人(クオリア)』というチームは、フットボール(範疇化)について語るとき、はたして必要でしょうか。
 私は必要性を感じません。どなたか反論できますか? 『巨人(クオリア)』の運命やいかに。」

このような質問をされても、どなたにもレスのしようがないでしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このように書けば、意味が通じますか?

by<ごかいされてとまどうおやじさま>河村隆夫


河村です。

田中様へ。横レスですみません。

> ikeg> まず第一に、クオリアという問題があることは非常に
> ikeg> 個人的な体験に依拠してしまっていて、その問題意識を考えた事のない
> ikeg> 人に伝えるのは困難なんだと思いますよ。だから田中さんがクオリアは
> ikeg> いらないと思えば、それで問題はないんだとということです。
>
> その態度は賛成できません。それなら私はこのMLで心脳問題を語る意味がなく
> なります。我々はみな同じ種で同じ程度の自意識、主観的認知感覚能力をそれぞ
> れが持っており同様な主観体験を日々続けています。その機構の説明をする際に
> 考え方に差があるだけでその異なる解釈も科学的知見の蓄積により将来は絞られ
> ていきより真実に近付いていけるものと私は信じています。

田中氏のメールを拝見するほどに、つくづく、田中氏はクオリアを理解していないのだろうと感じます。クオリアは<機構の説明>とは全く別次元のテーマであって、おそらくは誰もが<科学的知見の蓄積>によっては、クオリアの<真実に近付いていけ>ないだろうと考えて、苦悩しているのです。

> でも人がいうところのクオリアにあたる事物の質感的脳内表象は前にも書いた通
> り山羊でも持っているというのが私の考えですから、その理解のために種として
> は新参者の人間世界の哲学的論考の山が必要となるというのであれば、そんなも
> のは山羊と一緒にむしゃむしゃ平らげて、そのような抽象的言辞でしか説明し得
> ないクオリアを疑い、山羊と共に他の道を探すことになるでしょう。(それはも
> しかして「ばいおろ路」?なんちゃって。)

田中氏は、<科学的知見>という言葉を使っていますから、<人がいうところのクオリアにあたる事物の質感的脳内表象は前にも書いた通り山羊でも持っている>ことを、どのようにして科学的に検証するのか、その方法を教えていただきたい。

私の、田中氏に対する印象を、比喩的に述べてみましょう。

MLは野球の話題で盛り上がっている。そこへ、フットボールの愛好者である田中氏登場。
そこで田中氏曰く、
「『巨人』というチームは、フットボール愛好者である私にとって必要性を感じない。
どなたか反論できますか?」
なんのこっちゃ。意味不明。まわりにいる誰もが、口をつぐんでしまう。レスできない。
そこで天野氏が、ガツンと曰く
「君、『巨人』は野球のチームじゃ。フットボールとは関係ない。」
そこで田中氏、即答、
「ほら、フットボールを語るとき、巨人は関係ないって言ったでしょう。」
ああ・・・。支離滅裂。

羽尻さん、私の言いたかったことは、こう云うことなんです。

by<はんげきをおまちしているおやじさま>河村隆夫


河村です。

池上高志さんから私へのレス、と考えてよろしいのでしょうか?

もしもそうであれば、たいへん光栄に思います。

私は、深山幽谷に住む凡夫で、難しい学問はとてもわかりません。
ただ、30年ほど前から、クオリアの不思議さを感じていました。
それで田中氏の、「クオリア概念を否定したとしても失われるものは世の中に何もあり得ません。」との発言に、カチンときて反論を試みたのです。

それでは、池上氏のレスに対して、お答えします。

  ikegami> 池上です。
  ikegami>
  ikegami> 私も、天野さんのいうように、クオリアを科学的知識の積み上げでは
  ikegami> 理解できないものに格上げ(?)してしまうことには反対です。

脳からクオリアが発生することは確かだろうと思います。しかし検証できません。科学は実験によって検証される普遍性に支えられているのでしょうが、検証不能に見えるクオリアについて科学的知識を積み上げることができるのでしょうか?

  ikegami> だから認知的な働きを説明するのにクオリアは必要か、を考えることで
  ikegami> 脳の内部の結線のトポロジーが予測できるかもしれないじゃないですか。

天野氏、田中幹氏に対して曰く
  amano>しかしながら、君の言う科学の真実性は何によって保証されたのかね?
  amano>まさに人の感覚、人の認知によっているのではないかね?君が否定
  amano>したがる「ウソ」で、君の肯定する「本当」は支えられているのだよ。(笑)

「クオリアは必要か」と考えるとき、必要性を問う以前に、それはクオリアによって考えられているということでしょう。
しかしひょっとしたら、「認知的な働きを説明するのにクオリア(という概念)は必要か」という問いは、別問題なのかもしれません。

そこで、クオリア問題への姿勢を、つぎの二つに分類してみました。

  (1)クオリアの必要性を問う以前に、クオリアは存在している。
    検証不能に見えるクオリアだが、必ずクオリアにいたる突破口が見つかるはずだ。
    (でも、正直なところ、私にはどうしたらよいのかわからない。)

  (2)クオリアは検証不能だ。したがってクオリアは科学的普遍性をもちえない。
    普遍性のないクオリア概念は除外して、認知科学を確立しよう。

 (1)が私で、(2)が田中氏なのでしょうか?
  それとも、まったくナンセンスなのでしょうか?

  by<むちもうまいなおやじさま>河村隆夫


河村です。

田中さんへ。

たいへん失礼なことを申し上げて、すいませんでした。
しかし懐のひろい方で、安心いたしました。

> kabuto> 田中氏のメールを拝見するほどに、つくづく、田中氏はクオリアを理解していないの
> kabuto> だろうと感じます。

私のこの印象は、田中氏のつぎの文章にみられる概念把握の不明瞭さから発生したように感じられます。

tanaka> 何故議論が噛み合わないのでしょうね。
tanaka> 大体私にはクオリアを必要と考えるこのMLの皆さんそれぞれが抱くクオリアの
tanaka> 概念が果たして同じ物なのかどうかすら判然としていません。

私も同感です。
それを比喩的に、巨人とフットボールの話として表現してみたのです。(笑)
どうも、フットボールを、サッカーにしたほうがよかったみたいですね。(大笑)
ところでこの際、みなさんがそれぞれ語るクオリアの概念を披露していただいて、完全に統一するというのでなくても、おおよそみなさんの議論がかみ合う程度に調整する必要を感じますが、いかがでしょうか?
茂木先生にお願いできないでしょうか?

tanaka> 一つここは私のあの稚拙な日の丸クオリアの設問に対する、河村さんなりのお答
tanaka> え、あるいは問題自体への疑問についてでもお聞かせいただけないでしょうか。
tanaka> 何か少しでも意義のある議論のきっかけになるやも知れません。

[日の丸クオリアの設問」というのが、mlのタイトルに出ていませんでしたので、一つひとつ調べて見つけました。

tanaka> あなたの前に旗竿につけられた日章旗があります。
tanaka> あなたは手で旗の端をぴんと張り、正しく矩形になった白地とその中の真円の日
tanaka> の丸を眺めます。
tanaka> 日本人なら誰でも幼少時より慣れ親しんだ日の丸を表わすクオリアがあなたの脳
tanaka> 内にいつもの発火パターンを拡げます。
tanaka> そこであなたは手を離します。日章旗は吹く風に軽いたなびきを開始します。
tanaka> しかし視覚入力的には大変化が生じます。矩形や真円は消え去り赤い日の丸が複
tanaka> 雑な輪郭を繰り返します。しかしこれも見慣れた日の丸の姿であることに違いは
tanaka> ありません。
tanaka> その時日の丸クオリアはどうなるでしょうか。
tanaka> 1.日の丸クオリアは変化しない。
tanaka>  風に吹かれようが吹かれまいが日の丸の示す質感に違いはない。したがって日
tanaka> の丸のエッセンスを示すクオリアの発火パターンは変化しない。
tanaka> → しかし変化がないのであればこの発火パターンは、この棒と布切れがつながっ
tanaka> た物体を知覚し範疇化する過程において、静止していた場合と風に吹かれた場合
tanaka> とで共に「日の丸」という同一の判定結果が得られた際の神経出力であるとも解
tanaka> 釈可能ではないか。そうするとクオリア概念は不要になるのではないか。
tanaka> 2.日の丸クオリアは変化する。
tanaka> 視覚入力の変化に応じて日の丸の印象も変わり発火パターンも変移していく。
tanaka> →しかしこれでは我々は「風速 V m/秒の場合の日の丸クオリア」といった膨
tanaka> 大な発火パターンシリーズを脳内に抱え込まなければならなくなる。世の中の存
tanaka> 在は別に日の丸だけではないのだが、それらもすべて同様にそれぞれのクオリア
tanaka> シリーズを有するとなると…。
tanaka> 日の丸クオリアの運命やいかに…。

お答えします。
田中氏のこの設問は、クオリアの概念を誤って認識したために生じた設問です。
設問1.の答え。
「そうするとクオリア概念は不要になるのではないか。」
この部分の「そうすると」が、意味不明。
静止する日の丸と、ゆれる日の丸とが同じ発火パターンを示すと、なぜクオリア概念が不要になるのかが、私には理解できません。
これは、田中氏と私とでクオリア概念の定義が異なるために生じたものと思われます。

設問2.の答え。
この設問には、
(1)世界を知覚する際に発生する膨大な数の発火パターンを脳内に抱え込むことができるのか、
と云う問題と、
(2)膨大な数の発火パターンに対応するクオリアは存在しうるか、
と云う問題の、二つのテーマが輻輳しています。

(1)最初のテーマは私の興味の対象ではありませんが、おそらく可能であろうと思います。
連続しているように見える映画も有限数のフィルムによるものですし、脳も省略化をしているのでしょう。脳のニューロンの数を正確には知りませんが、おそらくそれらのつくり得るニューラルネットワークの膨大な数は、世界を知覚する際の人間が無限と感じる程度の数に、省略化などをもちいて対応し得るのだろうと思います。これは専門家の方にお聞きになる方がよろしいかと思います。

(2)次のテーマは、発火パターンとクオリアが1体1の対応をすると仮定したとき、(1)に見られる
ような膨大な数のクオリアが存在しうるのかという指摘であろうと思います。
「クオリアが存在しうるか」という問いは、
(ア)クオリアを物質的存在と捉えて、たとえば未発見のクオリア粒子を仮定したとき、それぞれの脳に存在するであろうクオリア粒子の総量は膨大なものになるはずで、それらがいまだ確認されていないところを見ると、クオリア物質説は根拠希薄に感じられます。しかし当然、クオリア粒子説を完全に否定することはできません。
(イ)精神、イデア、唯心論などに象徴されるように、クオリアは物質とは別のもののように、私には感じられます。ニューロンの発火パターンという物理現象によって、クオリアが発生することは確かだろうと思いますが、そこに生まれたクオリアは、いわゆる物質とは別のもののように感じられるのです。これは単に私が感覚的に捉えたことであって、証明できるものではありません。
クオリアを非物質と捉えれば、「クオリアは(物理的に)存在しうるか」という問いは意味を失います。
あるいは、クオリアは物理量をもたない非物質として無限に存在しうるともいえるでしょう。
ともあれ、クオリアについて語ることは、たいへん困難で、言葉の定義が不明確であることや、さらに(しつこく述べることですが)クオリアが検証不能に見えることが、この問題を解明不可能に感じさせているようです。
田中さんのご質問の、答えになっていますかどうか。お返事ください。

ところで、私にもひとつ、質問をさせてください。
tanaka>  でも人がいうところのクオリアにあたる事物の質感的脳内表象は前にも書いた通
tanaka>  り山羊でも持っているというのが私の考えですから、その理解のために種として
tanaka>  は新参者の人間世界の哲学的論考の山が必要となるというのであれば、そんなも
tanaka>  のは山羊と一緒にむしゃむしゃ平らげて、そのような抽象的言辞でしか説明し得
tanaka>  ないクオリアを疑い、山羊と共に他の道を探すことになるでしょう。(それはも
tanaka>  しかして「ばいおろ路」?なんちゃって。)
この池上氏宛のml中にあります
<人がいうところのクオリアにあたる事物の質感的脳内表象は前にも書いた通り山羊でも持っている>
ことを、どのようにして科学的に検証するのか、その方法を教えて下さい。

レス、楽しみにお待ちしています。

by<むがくゆえにとえるおやじさま>河村隆夫


河村です。
感激です。茂木先生から、メールをいただきました。
大げさと思われるかもしれませんが、なんの専門分野も持たない私にとっては、クオリアに関する2冊の本を世に問われた茂木先生から、お返事をいただけたことはこの上ない喜びと言っても過言ではないと思います。

> 茂木です。
> kabutoおじさんの提案に便乗します。

長い間、このテーマについて話すと周りから白い目で見られていた私にとって、この一言で、すべての苦しみが報われたように思います。

> >私も同感です。
> >それを比喩的に、巨人とフットボールの話として表現してみたのです。(笑)
> >どうも、フットボールを、サッカーにしたほうがよかったみたいですね。(大笑)
> >ところでこの際、みなさんがそれぞれ語るクオリアの概念を披露していただいて、完
> >全に
> >統一するというのでなくても、おおよそみなさんの議論がかみ合う程度に調整する必
> >要を
> >感じますが、いかがでしょうか?
> >茂木先生にお願いできないでしょうか?
> それぞれにとっての「クオリア」の定義を、400字程度で
> 茂木あての個人メイル kenmogi@csl.sony.co.jp
> にお送りください。
> まとめてmlに流すとともに、
> クオリアマニフェスト
> http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html
> のトップページに置こうと思います。
> 少なくとも私とkabutoさんは書くでしょうか?
> お待ちしています。
>
> 茂木健一郎

必ず、送らせていただきます。
ただ、素人の素朴な言葉でしか書けませんことを、お許しいただきたいと思います。
茂木先生、本当に有り難うございました。

                         河村 隆夫


河村です。
田中幹氏へ。

>日の丸クオリアが対応するニューロン発火パターンを持っていて、それが静止し
>ている場合もはためいている場合も同じであったとすると、そのパターンは両者
>の場合で共通に「日の丸」と識別範疇化した際のニューロン発火パターンと区別
>がつかない。範疇化処理の方は確実に行われたのであるから、『そうすると』、
>拠ってたつニューロン発火を範疇化に奪われた格好のクオリアはその存在基盤を
>失うのではないか。
>という論理です。

<範疇化処理の方は確実に行われたのであるから、『そうすると』、>拠ってたつニューロン発火を範疇化に奪われた格好のクオリアはその存在基盤を失うのではないか。という論理です。>
ああ・・・。3種類のニューロン発火がAとBとCのcategoryにそれぞれ属すると、なぜ、クオリアはそれぞれの存在基盤を失うのですか。何処が論理なのですか?
意味不明。まさか、分かるとは分けられることだとか、言わないでしょうね?
分けられることが、なぜ分かることになるのかが理解できないと言っているのですよ。

>河村さんが、自然界を科学なさってきて「非物質」を持ち出さざるを得なかった
>のはきっとクオリア(とおそらく意識もでしょうが)がはじめてですよね?
>ヒト以外の生物進化ではこの最終兵器の出番はなかったですよね?

田中さん、あなたは知っていますか?
粒子は、なにもない空間から生まれるのですよ。物質である陽電子を含む総ての粒子が、「無」のように見える空間から生まれるのですよ。
あなたが信ずる物質の総てが、非物質を母胎としていることを知っていますか?
田中さん、あなたは、重力場と云うときの「場」とは、物質と思いますか?
あまりにも愚かしい議論です。

>何しろ私は、ダーウイン教の信者ですから、生物の中では知覚神経系を最高度に
>発達させて来た同じ哺乳類の種である山羊とヒトとでは、その主観的印象世界に
>大きな差があろうはずがないとまず考えてしまいます。両者の差は言語による概
>念思考能力の有無が大きいだけで、同等なクオリア・ライフを生きているものと
>推測しています。したがって科学的に検証できた訳ではありません。

なぜ推測するだけで、検証できないのですか?
そこを訊いているのです?

by<すこし怒れるおやじさま>河村隆夫


私は疲れて、遠い海を見に行った

波うちぎわに立つと、波の白い手が私の足首をとらえようとする

思わず私はあとずさりした

波は私をとらえきれずに、ゆっくりと、ひいていった

そのとき、私は、波の悲しみを感じた

底知れぬ悲しみを感じた。それは、

はじけてゆく無数の泡の、ささやくような音、

何万哩を旅して、ようやくめぐりあえたのに

ふりそそぐいちめんのひかり

かすかなこえはその中にきえていった


海を背にして、アクセルをふむと、

バックミラーの遠ざかる風景のむこうに

波が、無数の白い手をふっている

by<ちょっとせんちなおやじさま>河村隆夫


日時 : 2000年10月12日 9:29

河村です。
10数年前、NHKの特別番組で、「気功」をとりあげていました。
鮮明に記憶に残っています。
最後に東北大学の教授が
「気功師から被験者へ、いまは<気>とよぶしかない何かが伝えられたことは確かです。」
と、コメントしていました。
その後、気の研究は進展しているのでしょうか?
いまでも、とても気になっています。
どなたか、教えてください。

by<復活したおやじさま>河村隆夫

河村です。

田中彰吾@東工大さま、レスありがとうございます。

おどろきました。
量子脳理論も気功も、なんと、科学技術庁で研究中とは!

論文の一部を紹介します。
「筆者らは、気功熟達者2名を通常の情報伝達を遮断した部屋に個別に隔離し、一方
(送信者)から他方(受信者)へ対人遠隔作用が及ぼされたときの受信者に生じる生
理変化を測定した。被験者には、筆者らの過去の実験で、送信者と受信者の身体動作
時刻の一致性が見いだされたペアを用いた。送信者は電磁シールド室内の受信者に向
かって、1試行80秒間に1回、無作為・二重盲検条件で送信動作(発気動作)を行
い、受信者の皮膚コンダクタンス変化を、直流0.5V定電圧通電法、サンプリングレー
ト2OOHzで測定した。計35試行の実験の結果、送信時間帯の受信者の皮膚コンダクタ
ンスの揺らぎが、送信前後に比べて小さくなることが見出された。 」

http://wwwsoc.nacsis.ac.jp/islis/sjis/journalJ/abst9J.htm

by<な、なんてことだのおやじさま>河村隆夫

河村です。

ぱ、パラダイム・シフトだ!
あまりの驚きに、もうひとつ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「潜在能力の科学」研究による21世紀へのパラダイム・シフト

(Paradigm Shift towards the 21st Century through Human Potential Science)

  21世紀をあと4か月で迎える。本学会は21世紀への科学技術のパラダイム・シフト
を目指し設立された。この重要な任務をもつ本学会が、8か国に会員を擁す順調な発
展を示し、学会誌も創刊以来完全に定期発行されており、主催する「生命情報科学シ
ンポジウム」も第10回を迎える事が出来た事は、誠に意義深い。会員とご協力・ご支
援くださった方々に深く感謝の意を表したい。
 20世紀の科学技術は、主として、意識・精神・心から独立した、客観的物質世界を
研究対象とするというパラダイム(枠組)を築き、その内部では大きな成果をあげて
きた。

 反面、意識・精神・心が関与する様々な現象の研究は、ほとんど予算が配分され
ず、その結果として積極的に研究されずに大きく取り残されており、21世紀の研究対
象分野である。

 この分野には、気功、瞑想、笑い、音楽、香り、森林浴など、人間のリラックス、
予防医療、健康の維持増進、癒しや自然治癒力など人間の「潜在能力」と深く係わっ
ているものが多い。

 さらに、この分野には20世紀の科学技術のパラダイムの成果の延長では説明がつき
そうもない人間の「潜在能力」に関する不思議な現象が存在することが論文などで報
告されている。しかし、その機構・原理は全く解明されていない。

 これらの現象、効果、機構や原理の学際的・国際的英知を集めた解明が重要であ
る。これが広く、人間の潜在的能力の開化と21世紀の科学技術と文化の新パラダイム
を生みだし、教育、健康、福祉と社会および個人の心の豊かさの増進をもたらし、生
き生きとした生活の実現と犯罪の低減、平和な世界の実現、本格的高齢化社会の医療
費の低減などに貢献することが期待される。

 NIHを始め、幾つかの国で既に本分野に予算を配分している。日本でも2000年より
科学技術庁関連の新たな予算が配分されるようになった(詳細は本号拙文参照)。本
学会が提唱している、恒常的に本分野の研究を行える「潜在能力科学研究所」の設立
が急務である。

 本分野の国際連帯の重要性も益々増してきている。本分野・本学会への益々の学際
的・国際的英知の結集を求む。

 国際生命情報科学会 会長  山本 幹男

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by<きこうにきたいをよせるおやじさま>河村隆夫

河村です。

茂木先生、SONYの「ESPER研究室」ってなんですか?

科学技術庁でやっているこの研究はなんなんですか?
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編集委員長 EDITOR-in-CHIEF

山本幹男 Mikio YAMAMOTO, Ph.D., Ph.D. profile / e-mail
科学技術庁 放射線医学総合研究所
放射線科学研究部 第3研究室 室長

編集委員 EDITORS

Kenneth M. SANCIER, Ph.D.
Senior Material Sceintist (retired),
SRI International, USA

伊藤正敏 Masatoshi ITO, M.D., Ph.D.
東北大学 サイクロトロン・RIセンター核医学研究部 教授

Robert L. MORRIS, Ph.D.
Professor, Koestler Chair of Parapsychology Unit,
Department of Psychology,
University of Edinburgh, UK

Journal of ISLIS 編集部

編集部長 EDITORIAL MANAGER
小久保秀之 Hideyuki KOKUBO, B.Sc. profile / e-mail
編集部員 EDITORIAL STAFF
福嶋由佳 Yuka FUKUSHIMA, A.A.

263-8555 千葉市稲毛区穴川4−9−1
科学技術庁 放射線医学総合研究所
 放射線科学研究部 第3研究室 内
  ISLIS編集部
電話: 043-206-3066
Fax: 043-206-3069
E-mail: islis@nirs.go.jp


多様同時計測による生体機能解析法の研究−科技庁予算による5年計画研究活動の報
告−
(Study on Analyzing Methods of Human Body Functions Using Various
Simultaneous Measurements (VSM) - The Fifth Year Report of the
5-Year-Project Supported by Science and Technology Agency (STA), Japan -)

山本幹男1、平澤雅彦1、小久保秀之1、田中昌孝1、河野貴美子2,1、デミトリ パル
ホモチュク1、張 トウ1、福田信男1、平田 剛3、村上志緒3、諸江輝義3、牧野克彦
3、土屋和彦3、古角智子1、谷口順子1、中村篤子1、蔵野美恵子1、古川 章1、古川
雅英1、松本 徹1、境田英昭4、町 好雄4,1
(Mikio YAMAMOTO1、Masahiko HIRASAWA1、Hideyuki KOKUBO1、Masataka TANAKA1、
Kimiko KAWANO2,1、Dmitri V. PARKHOMTCHOUK1、Tong ZHANG1、Nobuo FUKUDA1、
Tsuyoshi HIRATA3、Shio MURAKAMI3、Teruyoshi MOROE3、Katsuhiko MAKINO3、
Kazuhiko TSUCHIYA3、Tomoko KOKADO1、Junko TANIGUCHI1、Atsuko NAKAMURA1、
Mieko KURANO1、Akira FURUKAWA1、Masahide FURUKAWA1、Toru MATSUMOTO1、Hideaki
SAKAIDA4 and Yoshio MACHI4,1)
1放射線医学総合研究所(日本、千葉)
2日本医科大学(日本、東京)
3日本電気株式会社(日本、川崎)
4東京電機大学(日本、東京)

要旨:
著者等により、1995年9月より、科学技術庁予算による5ヶ年計画プロジェクト「多
様同時計測による生体機能解析法の研究」(研究代表者 山本幹男)が行われ、2000年
3月末で、期間満了する。本研究は主として科学技術庁 放射線医学総合研究所 放射
線科学研究部 第3研究室にて行われた。また、一部は、日本医科大学、東京電機大
学、NEC においても行われた。本プロジェクトは、様々な精神的状況下での人体につ
いて、その生理的計測に体外での物理的計測を加え、多様に同時計測し、生体機能の
総合的な計測解析方法を確立し、肉体と精神の結び付きをも含めた人体機能のシステ
ム的解明の基盤を築くことを目的としている。実験された様々な精神的状況下として
は、気功、瞑想、催眠、通常感覚外認識・情報伝達、その他の超心理、変性意識、子
供の速読、などを含んでいる。本報告では、本プロジェクトの目的、現状の計測シス
テム、5年間の研究および周辺の活動、ならびに、その成果を本誌掲載論文や研究報
告の要旨などを集めて、報告する。なお、研究内容のまとめを含む本格的な報告書を
追って発行する予定である。また、本グループの研究は引き続き発展的に形を変えて
継続する準備をしている。
Keywords:
qigong, sense shielding, extrasensory perception (ESP), concentration,
subconscious, anomalous cognition, consciousness, electroencephalogram
(EEG), auditory evoked potential, electrocardiogram(ECG),
photoplethysmogram(PPG), electrodermal acitivity(EDA), respiration, magnetic
field, infrared rays, biophoton, bio-emission, mammalian cell, Science and
Technology Agency of Japan(STA)

色の視覚外認識
(Non-visual Color Recognition)
佐古曜一郎、小野朋子
(Yoichiro SAKO, Tomoko ONO)
ソニー株式会社 ESPER研究室 (日本、東京)

(Received on October 9, 1996, Final revised and Accepted on February 3,
1997)

要旨:
著者らは皮膚光覚や透視という視覚外認識の存在を立証すべく研究を進めている。今
回、色紙や色のついたセルスポンジ、さらにLEDなどの素材を用いて、視覚を遮断
した状態での色の感知、識別実験を2名の効能者の協力で行い、有効かつ興味深い
データを得たので報告する。17色の色紙を用いた実験、5色のセルスポンジを用い
た実験、3種の単色紙の実験などからは、視覚外認識の存在可能性が強く示唆され
た。また、これは皮膚への色情報の伝達が遮断されても可能なことが観察された。一
方、LEDを用いた実験では、異なった波長でも同じ光として感じてしまうので、色
のついた素材の認識より識別が困難になるという注目に値する結果も得られた。

Keywords:
ESP, clairvoyance, dermat-sight, non-visual recognition, color recognition

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茂木先生!!SONYのことなんだから、ちゃんと教えてください。

by<ようこちゃんをしんぱいしているおやじさま>河村隆夫

茂木先生、お返事ありがとうございます。

河村です。

> 兜仏おやじ様
> >SONYの「ESPER研究室」ってなんですか?
> 昔井深さんの肝煎りであったのですが、廃止されました。
> ぶっとんで工学ではなく科学をやろうとすると、
> いろいろ問題が生じるかもしれませんね。
> 茂木健一郎

安心いたしました。
「君子は怪力乱神を語らず」が好いですね。
ところで、科学技術庁の ISLIS について、なにかご存じでしょうか?
スタッフのなかに先生のお知り合いの方はいらっしゃいませんか?
なにか新しい情報はありませんか?
ぜひお教えください。

by<ほっとひとあんしんのおやじさま>河村隆夫

河村です。ひるかわさん、レスありがとうございます。

> ひるかわです
> ええと、QUALIA3370をごらんください。

拝見しました。

ところで、私が気功に興味をもつのは、簡単な理由なんです。
現象があるのに説明不可能な気功が、クオリアへの突破口になりそうな予感がするか
らです。
立証はできませんが、<気>が<意識>や<クオリア>とかかわっているように感じ
られるからです。
また、公的な立場(たとえば東北大学の教授)の方が、気功にとりくむのは、よほど
の理由があるからだと思うからです。
私の近親にも国立大学の教授がいますが、「君子危うきに近寄らず」のタイプです。
一般的に公的な地位につくと、気功のような正体不明の領域を避けて通るようです。
自分の地位を脅かされると感じるからでしょうか。
それなのに、科学技術庁が国家予算を投じて、名だたる大学の教授たちが本気で気功
に取り組んでいるところをみると、なにか私の知らないことが起きかけているのかも
しれないと思ってしまうのです。
<気>は、物理的なエネルギー量として科学的に確認されたのでしょうか?
<気>は、再現性のある現象なのでしょうか?

蛭川さん、教えてください。

by<おへんじをおまちしているおやじさま>河村隆夫

河村です。

伊藤さん、レスありがとうございました。

> ><気>は、物理的なエネルギー量として科学的に確認されたのでしょうか?
> 確認されていません。
> ><気>は、再現性のある現象なのでしょうか?
> 再現性ありません。
> 伊藤 周

安心しました。ちょっと残念なきもするけど、本心は、安心しました。
<クオリア>に到る簡単な道はないことを、ふたたび自覚しました。
私のような田夫でも、氾濫する情報のなかで、本当に信じうる情報を求めているので
す。
ありがとうございました。

by<ほっとひとあんしんのおやじさま>河村隆夫

伊藤 周さま、教えてください。

河村です。

私は以前から、超心理学だけでなく、心理学もまた
科学(あるいは学問)たり得ないように感じてきました。

たとえば、集団無意識は、科学的に確認されたのでしょうか?

おそらく確認されているはずもないと思いますが、
それではなぜ、<気>がトンデモ科学であり
<集団無意識>は学問なのでしょうか?

それとも、心理学はそもそも学問というより、
芸術の領域なのでしょうか?

by<オカルト派でもオカルト排斥派でもないおやじさま>
                           河村隆夫

伊藤 周さま、教えてください。

質問の焦点を絞ります。

たとえば<超自我>。
ホントにそんなものあるのですか?
まあるといえばあるとつごうがよい場合もある、
といった程度ではないのですか?
ご自分でも、「これが<超自我>である」、
と感じることがありますか?
その存在は確認されたのですか?
(確認されるはずもないですが)

あるいは<集団無意識>。
へえー、あったらおもしろいな、
といった程度ではないのですか?

なぜこんなものが学問なのかが分かりません。
ひとりのたいへん優秀な学者の、
パラノイア的な発想に、その理論(妄想)の内部で
たとえ厳密な整合性があったとしても、
その発想の根拠を検証することもできないようなとき、
それを、現時点で、学問と呼ぶべきでしょうか?

ドストエフスキーの「悪霊」も(まあなんでもよいのですが)、
とてもよくできている小説ですが、「大説」ではなくて
「小説」にすぎないのでしょう。
学問とは誰も言いません。

どうして、フロイトやユングは心理学者で、
<気>の研究者は、トンデモ科学者なのでしょうか?

伊藤 周さま、教えてください。

by<なぜなぜおやじさま>河村隆夫

河村です。

谷間の村も、収穫の秋が終わって、ひさびさメールをひらきました。

ジャカマノさま。あなたは、さいこ〜っに、愉快な方です。(笑)

> kabuto氏:[Tue, 7 Nov 2000 08:34:50 +0900]
> >たとえば<超自我>。
> >ホントにそんなものあるのですか?
> >まあるといえばあるとつごうがよい場合もある、
> >といった程度ではないのですか?
> >ご自分でも、「これが<超自我>である」、
> >と感じることがありますか?
> >その存在は確認されたのですか?
> >(確認されるはずもないですが)
> >
> >あるいは<集団無意識>。
> >へえー、あったらおもしろいな、
> >といった程度ではないのですか?
> >
> >なぜこんなものが学問なのかが分かりません。
> >ひとりのたいへん優秀な学者の、
> >パラノイア的な発想に、その理論(妄想)の内部で
> >たとえ厳密な整合性があったとしても、
> >その発想の根拠を検証することもできないようなとき、
> >それを、現時点で、学問と呼ぶべきでしょうか?
> (中略)
> >どうして、フロイトやユングは心理学者で、
> ><気>の研究者は、トンデモ科学者なのでしょうか?
>
>  新たなXが見つからないのであれば,ワシが知恵を授けて
> 進ぜよう。次のように問うて見るがよい。
> 「<クオリア>は、科学的に確認されたのでしょうか?」
> ちなみに上の河村氏の投稿の中の,超自我やら集団無意識やら
> と書いてある箇所に,<クオリア>という語を当てはめてみい。
> ナカナカ味わい深い文章になるぞ(笑)

私の全文を引用してくれたではないですか!
うれし〜っです。(笑)
でも、ちょっと、解釈のところが間違ってますね。

<超自我>も<集団無意識>も<クオリア>も、検証不能。
<気>は、人によっては、検証されたと主張する人もいるが、
根拠が希薄で、これも検証不能と言えそう。

それでは、<クオリア>は、<超自我>や<集団無意識>や<気>と
同類か?

否。
<クオリア>は、日々感覚され、その実在が主観的に確認できる。
また、<クオリア>を主観的にではあるが感覚できると
主張する人たちが、数多くいる。

<超自我>や<集団無意識>や<気>は、主観的にも感覚できない。
感覚できると主張する人が、少なくとも私のまわりにはいない。

私は、いつも<クオリア>につつまれて生きている。
この不思議さ、このよろこび!

by<あまのさまのレスをよろこぶおやじさま>河村隆夫

河村です。

谷間をふきぬける風が、かすかに、紅葉の色にそめられて窓のそとをすぎてゆきま
す。

ところで、いまこのmlに渦巻く精神分析学論争の発端は、下記の私のメールでし
た。

件名 : [qualia:3871] Re: 早川の電卓

このメールによって、激しい論争をひきおこした張本人として、私なりの意見を述べ
たく思い、
投稿させていただきました。

私は又吉氏より4歳年下で、世に言う団塊の世代に属している者です。
激しい受験戦争や学生運動の荒波にもまれて青春をおくりましたが、又吉氏のよう
に、
医学博士や臨床心理士になることもできず、いまはただの深山幽谷に住む田夫です。
難しい学問は分かりませんが、同世代の者として、一言述べさせてください。

人間の知的所産を論理を軸としてみたとき、数学や論理学が最も論理的で、その対極

音楽や絵画といった芸術があるように思います。数学の論理の色が最も濃く、しだい

その色が薄くなって、最後に芸術にいたって論理の色がまったく消えてしまう、とい
う感じで
しょうか。そのグラデーションの真ん中あたりに、精神分析学が位置しているよ
うに
思えます。それでは数学だけに意味があって、芸術は無意味かというと誰しもそうは
思わないでしょう。論理では説明できないこころの情感を、芸術は表現しているから
です。

精神分析学はどうでしょうか。
又吉氏の言うようにすべての学問は、約束事である公理を基礎にしてその上に立って
います。
キリスト教の神学が、「キリストは神の子」であり、「処女マリアが懐胎した」こと
を公理として
緻密に構築されているように、その学問の信奉者には、公理の真偽を問うことは許さ
れない
ように感じます。

私は中学3年のときポアンカレの「科学と仮説」を読んで、「直線がその直線と垂直
である
という幾何学をつくることもできる」(うろ覚えですが)と知って、驚いた記憶があ
ります。
直観と矛盾する公理であっても、その上に、完全に整合性のある論理体系を打ち立て

ことができると云うのです。数学においてさえも、「A=BかつB=CならばA=Cである」
ことが
なぜなのかを説明することはできません。
又吉氏は、ml4008で<集合無意識は証明されたかどうか?くだらん!1+1=2が
証明されたかどうかとたいした違いが無い。学問の根底は「約束事」で成り立ってい

のだよ。>と述べています。
つまり「集合無意識」は、公理のように証明される必要はないということでしょう
か。
それでは、物理数学系のこのMLのメンバーと、精神分析学系の方々との違いは
何処にあるのでしょうか。

「f=ma」この公式を初めてみたときの感動は、いまも忘れません。すべての物体の運
動を
たったこれだけの数式で表現できることの驚きは、後年「E=mc^2」や「H?=E?」に
出会ったときのように、総身鳥肌がたつほどでした。
物理的実在を信じるのならば、その物理的実在をこれほどまでに美しく数式化するこ
とが
できるとは、神秘的な感じさえしたのです。数学によってこの世界が論理的に表現さ
れ、
それが物理的な再現性のある実験によって検証されることに感服したのです。

「世界は数学的に記述され、さらにそれは科学的実験によって検証される。」
この信念に支えられた科学者たちは、つぎつぎに現実世界の謎を解明し、自信を
深めて、常勝の一世紀をいま終わろうとしています。物理数学系のMLメンバーも、
この信念にささえられているものと思います。
そしてついに、心脳問題の最終ゴールであると思われる「クオリア」への挑戦をはじ
めた
のです。

翻って、精神分析学は、緻密な論理と再現性のある実験によって検証されてきた
のでしょうか。この一世紀の科学の業績のように、華々しい成果を残したのでしょう
か。
物理学にも不確定性原理のようなブラックボックスがありますが(少し意味が違うけ
れど)、
精神分析学における精神は、あまりにも大きなブラックボックスのように思われてな

ません。inputとoutputの距離があまりにも遠いように感じます。
論理のグラデーションの中程に位置すると前述したのはこの意味においてです。

「精神」や「心」はほとんど「クオリア」と同義語で、そのすべてが、いまだ誰にも
解明
されていません。その全く解明されていない精神の一部に、さらに「超自我」や「集

無意識」のような証明され得ない仮説構成概念をおいて、理論を構築しようとするの

すこし無理があるように感じますが、いかがでしょうか。

私は、精神分析学が学問ではないと云っているのではありません。
精神分析学も尊い学問であろうと思います。ただ、栄華を誇る物理数学者のみなさん
からみれば、その公理体系の脆弱さを指摘したくなるのもやむを得ないことと思いま
す。

精神分析学はその治療行為にこそ意味があって、それは理論を構築することより
高度なことなのかもしれません。冒頭で述べたように、人の情感を揺さぶる芸術にも
似て、理論だけでなく全人的な能力を総動員して患者を治癒してゆくことは、尊い志

思います。

> 実験不能なものを含む思考体系の検証は、その思考体系がある現象を理解したり、
> 医学・心理学であれば、治療したりという行かで持って確認するしかない場合もあ

> ます。

私もそう思います。
このクオリアmlのテーマは、物理的実在としての脳を物理数学的に解明し、クオリ

あるいは心にいたる道を模索することのように思います。
治療によって確認する精神分析学と、このmlのテーマとは、すこしベクトルが違う
ように
感じます。
団塊の同世代の者として、又吉氏の学者・治療者としてのご活躍を祈ります。

by<たたかいのおわりをいのるおやじさま>河村隆夫

河村です。
 
 まさかこのMLで、三島由紀夫に出会うとは
 驚きでした。
 
 MASUDA Osamuさん。
> > 三島由紀夫がどこかで
> >「自分自身について過剰に関心を持ったり、
> > 語ったりすることほど下劣で下等な行為はない」
> > といった趣旨のことを書いていました。
 
 三島のことを、知っていらっしゃるのかどうか。
 
 太宰の全盛期に、三島が太宰の部屋をたずねて
 「私は、あなたが嫌いなんです。」と云い放つと、
 「好きだからこうやって来ているんだよな。」と
 太宰が取りまきに同意をもとめた話は、
 ふたりの関係を象徴する伝説として有名です。
 
 太宰は、ご承知のように、私小説の天才です。
 しかし三島も、「煙草」「岬にての物語」
 また、デビュー作と云ってもいい「仮面の告白」も
 すべて、私小説風の作品です。「仮面の告白」は、
 フィクションであるとはいえ、自伝的色合いの濃い
 作品とされています。
 
 つまり、三島が逆説的に
 「自分自身について過剰に関心を持ったり、
  語ったりすることほど下劣で下等な行為はない」
 と述べるのはあたりまえなことです。
 
三島の言葉をストレートにとるのはめずらしいことで
 パラドキシカルな、あるいはアイロニカルな言葉として
理解するのが 一般的な解釈です。
 つまり、上記の言葉は、自己愛の強かった三島の
 逆説的な自己確認としてとらえるべきでしょう。
 
> > このことを敷衍すると、
> >「自分自身のことなどを研究対象とすることほど
> > 女々しい(セクハラ用語!)ことはない。」
> > ということになります。
> (名古屋大学・環境医学研究所、古賀一男助教授)
> 増田 <omasuda@mil.allnet.ne.jp>

 この結論は、とてもさみしく、悲しい。
 
 by<みしまをなつかしむおやじさま>河村隆夫

河村です。

又吉さん、
私もたいへん不快感を感じました。

又吉さんは、4263で
> このコンプレックスに触れれば良いのです。そこで、精神分析が出て、私が、
> 「子供」そして「人嫌い」という形で触れました
と自らお書きになっています。

ところが、4289では
> 精神分析うんぬんする
> のは、止めたほうがイイのでは」ということを言いたいのです。ここで私が述べた

> とは、分析といえるほどのものではないこと、誰もが直感として分かること(分か

> ない人もいるかも)だけですので、それほど「精神分析」にこだわらないで欲しい

> 思います。
とお書きになりました。

<そこで、精神分析が出て、私が、「子供」そして「人嫌い」という形で触れまし
た>

<「精神分析」にこだわらないで欲しい>
とは、
矛盾していませんか?

だれも精神分析にこだわっていません。
あなたのこだわりだけが強烈に感じられますが、いかがでしょうか?

by<???のおやじさま>河村隆夫

> こんにちは、hiroki-kur(niedrig)です。

はじめまして、河村です。

> 私個人としては、時間や心象や速度の問題については、それが、神経
> 科学的な意味で、色や音に比べて解明されていないことから、クオリ
> アという言葉を当てはめられるか、厳密にはまだ検証しきれないのも
> のだと思ってます。

ずっとむかし、私が20代だった頃、
おだやかな谷間の道を走っている一台の車をながめながら、
こんなことを考えました。

右手の橋をこえて姿をあらわした車が、
夏の白い砂埃をあげながら
左手の木立ちのなかへきえてゆく。

このとき、ふいに思いました。
車は、橋から木立ちへ移動しただけなんだ。
時間なんか流れていない。
物体が移動している。
それだけなんだ。

s=vt の t と、時間の感覚とは別なんだ、と
直観しました。

それから、私はつとめて時間を感覚しないように、
自分自身を訓練してみました。
その後、ほんの一瞬ですが
時間がきえたような感覚、
宇宙の天体はただその位置をかえているだけで
時間が消えて、静謐の空間だけが存在している。
表現は難しいのですが
座標軸がひとつ減って、空間が平面に
平面が直線に、次元が変化したような感覚。

あなたがお考えの「時間のクオリア」に
なにかお役にたてましたか?

by<むかしをしのぶおやじさま>河村隆夫

河村です。niedrigさんへ。

> ”時間を評価する(感じる)”という現象を考えるとき、主に2つの視
> 点が考えられる。一つは’時間の流れの評価’、もう一つは’時間の長
> さの評価’である。
> しかし、この二つは、全く別れて存在するわけではなく、むしろ不可分
> に協同することで、有効に働くものなのだろう。

以下に述べることは、まったくの仮定にすぎません。

谷間の道を、一台の車が走っている。
車には、”位置のクオリア”と”変化のクオリア”とが
不可分に協同して働き、あらたに”時間のクオリア”が生まれる。
つまり、クオリアには階層構造があり、
クオリアの相互作用によって生まれるあらたなクオリアが
階層的に存在する。
”クオリアのクオリア”も”クオリアとクオリアのクオリア”も
さらに”クオリアのクオリアのクオリア”も重層的に存在する。
”心”や”意識”の複雑さは、この錯綜するクオリアの
相互作用システムによって、一見解明不可能にみえるのである。

以上は、一種の冗談です。
しかし、ほんとかもしれない。

>この部分は、本来存在しない青という色の質感
>(本来はある波長の光が存在しているだけ)を、
>クオリアとして勝手に感じているという話
>に似ていると思う。

私が3524で「青は何処から来るのか」と問うたのは、
クオリアのような不分明な領域では、
問題を簡素化し、たとえば”クオリアの周期表”のような
根源的なところからはじめるべきだろうと考えたからです。

まず”音のクオリア”を解明し、つぎに
音が時間軸にそってならべられたときに感じる”音楽のクオリア”を
解明すると考えるのは、いかがなものでしょうか?

by<くおりあしゅうきひょうをつくろうとするおやじさま>河村隆夫

河村です。

竹坂さんへ。

> > そういえば、さっき「日経サイエンス」96年2月号にあった
> > チャルマースの論文ってのを読みました。チャルマースのいう
> > ハードプロブレムは、前に河村さんがいった「青の話」と同じ
> > でした。私が思うに、そういう意味のハードプロブレムは、
> > ホントウに取っ掛かりがないから、難しいでしょうねえ。でも
> > チャルマースも、青を見るということが、脳のどのような現象
> > に対応するかを物理学が解明する可能性は否定していませんけど
> > それは彼がいうハードプロブレムの「なぜ?」の答えではない
> > でしょうね。
> >
>  青を見るということが、脳のどのような現象に対応するかを
> 解明できるように、
> ハードプロブレムの解答があると仮定して、
> (1と2に対応するニューロンのconfigurarionを参考にして、)
> 解答に納得する思考‐心理状態が、脳のどのような現象に対応するかを、
> 明示的形式的な解答よりも先に、
> ネットの構造として考えてしまおうというのが
> 僕が言うネットワークアプローチです。

<qualia 3154>前後の、広田・河村論争を参照してください。
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広田さまへ。河村です。

> もし、何らかの物理的過程が、主観的感覚との対応関係が存在しないと、
> 主観的感覚について解くことは不可能ということになるので、
> とりあえず、何らかの物理過程と対応関係があると考えるのはダメでしょうか?
> これを譲ってしまうと、自動的に「主観的感覚は決して解けないもの」となり、
> 話が終わってしまうように思います。
> もちろん、いや他に何か方法があるはずだという、
> そういう立場の人がいてもいいと思いますけど...
>
> 別の事象との相関の可能性ですが、
> 私の考えでは循環する信号であるループと心の対応が最も相関が高いと感じたわけ
で、
> もっと相関の高いものがあればそれでいいと思います。
> 今のところ、そういうものは発見できませんでした。

思考実験はお嫌いですか?

物理過程としての<循環する信号であるループ>と
主観的感覚としての<青い色のクオリア>とが対応関係にあることを
検証するための思考実験をして見ませんか? いかがですか?

波長Tの光をN人の被験者の網膜にあてると、被験者全員が
「青い色が見えました」
と答えたとしましょう。
そのときN人の脳内のほぼ同じ位置に<循環する信号であるループ>が
確認されたとします。
つぎに、N人の脳内のほぼ同じ位置に確認された<循環する信号であるループ>に、
確認時と等しい電圧の電流を流します。
そのとき被験者全員が、「波長Tの光を網膜にあてられたときと同じ、青い色が見え
ます」
と答えたとしましょう。

広田さんは、この結果をみて、
波長Tの光によって発生する物理過程としての<循環する信号であるループ>と
主観的感覚としての<青い色のクオリア>とが対応関係にあることを検証できたと
お考えですか?

by<お答えをおまちしているおやじさま>河村隆夫


竹内さんのお答えをお待ちしています。

>  大変お待たせいたしました。すっかり春たけなわのころとなってしまいました
が、
> 河村さんの御質問にお答えして、「青はどこから」の問いへの私の、私なりの応え

> お届けいたします。

實川さん、お返事ありがとうございます。
河村です。

> 意識の中に、「純粋な」青が現われるという事態を、もちろん想定はできます。
> つまり、高度で複雑な作用を前提としない「青そのもの」です。
> それは可能だと思います。いや、おそらくあるでしょう。

題名は忘れてしまいましたが、八木重吉の詩にこんな一節がありました。

  赤ん坊が そらを見る
  ああ そらをみる

その空は何処にあるのか?

「青はどこから」シリーズをたのしみにしています。

河村です。JAさんへ。

> ただ、それで認識の物理理論が検証できれば
> 「なぜの謎」も解けるかな?
> 私がいいたいのはそこなんでございますよ。

ずっと昔、羽尻さんと私とのあいだで、似たような問答をした記憶があります。
脳を計算機によって内側から構成すると云うような話でした。
[3167] [3190] [3197]

> この中で、わたしは、脳のモデルをつくったとき、クオリアの問題は
> 解決されるのだろうかという疑問を、つぎのように稚拙に提起してみました。
>
>1)鉄腕アトム派
>コンピューターに、やがて意識が宿ると考えている。
>(アトムが、クオリアの悩みを語るとき、クオリアの謎は解明されたことに
> なるのでしょうか?)

クオリアは、現在の科学では解明不可能であろうと思われます。
しかし、クオリアに接近する唯一の手だてがあるとすれば、
それは、このような方法でしょう。

意識を失い脳死と認定された患者の脳の損壊箇所を修復してゆく過程で、
意識を発生させるニューラルネットを確認することができるかもしれない。

クオリアそのものがどこから来るのかは分からないにせよ、
意識発生のメカニズムに、一歩近づけるかもしれない。
現在の我々にできるのは、そこまでではありませんか?

どなたか、脳死患者の脳を修復して、意識を回復させる研究をしている
方々を知りませんか?

河村です。JAさんへ。

> ただ、それで認識の物理理論が検証できれば
> 「なぜの謎」も解けるかな?
> 私がいいたいのはそこなんでございますよ。

ずっと昔、羽尻さんと私とのあいだで、似たような問答をした記憶があります。
脳を計算機によって内側から構成すると云うような話でした。
[3167] [3190] [3197]

> この中で、わたしは、脳のモデルをつくったとき、クオリアの問題は
> 解決されるのだろうかという疑問を、つぎのように稚拙に提起してみました。
>
>1)鉄腕アトム派
>コンピューターに、やがて意識が宿ると考えている。
>(アトムが、クオリアの悩みを語るとき、クオリアの謎は解明されたことに
> なるのでしょうか?)

クオリアは、現在の科学では解明不可能であろうと思われます。
しかし、クオリアに接近する唯一の手だてがあるとすれば、
それは、このような方法でしょう。

意識を失い脳死と認定された患者の脳の損壊箇所を修復してゆく過程で、
意識を発生させるニューラルネットを確認することができるかもしれない。

クオリアそのものがどこから来るのかは分からないにせよ、
意識発生のメカニズムに、一歩近づけるかもしれない。
現在の我々にできるのは、そこまでではありませんか?

どなたか、脳死患者の脳を修復して、意識を回復させる研究をしている
方々を知りませんか?

河村です。
實川さん、「青」のシリーズはこれで終わりでしょうか?
もしも終わりだとしたら、たいへん有り難うございました。
感謝の気持ちを込めて、拙いコメントをさせていただきます。

> 仮に、新・精神物理学の方程式が完成した暁には、
> 「青はどこから」の問いが答えられたと言えるのでしょうか。
> 夢のような話だけれど、私はそれでも答えられたとは
> 思わないのです。

私もそう思います。

> 現代物理学は物質とエネルギーだけの世界を描き出し、
> そこに心は、いや、いまの場合には意識に限定したほうが
> よいでしょうが、いずれにしても一切含まれない体系となって
> いるからです。

「物質」「エネルギー」と「心」意識」とは、別のものとお考えのようですね。
同じであると考えれば、「心」「意識」は現代物理学の体系に含まれる
と云うことでしょうか?

> ここから、hard problemの解決は、少なくとも今の物理学を
> 前提にした物理主義のスタイルでのhard problemの解決では、
> 「青はどこから」の答えにはならないことが分かります。

實川さんは、何を前提にした何主義のスタイルなら、「青はどこから」の
答えになるとお考えですか?
それをお聞きしたかったのですが。

> 今の物理学の枠組みでは、脳を含む物質と「青」を含む意識が
> 分離していますが、これは人間の側から、何らかの歴史的、
> 心理的な要因によって仕掛けられた分離だからです。
> その人為的な溝に橋をかけても、「青」をはじめとする意識を
> 説明したことにはなりません。

再三お聞きしますが、どのような学問の枠組みなら、
「青は何処から来るのか」を説明したことになるのですか?

> あるいはここで一転して、物理学の神への信仰告白に移るかです。
> デカルトはここで、神様に登場を願いました。彼の場合には、
> まじめに神を信じており、誤魔化しではなかったと思います。
> しかし、いまそう言える人がどれほどいるでしょうか?

と云うことは、(「青はどこから」シリーズの結論がこれだとすれば)
實川さんは、まじめに「神」さまを信じているといえる方なのでしょうか?
つまり、「心」「意識」「青」は、神の世界から来るということでしょうか?

河村です。
月のあかるい夜、満開の桜の樹の下で、着想しました。
名付けて、「Frankenstein project」

1.個々の細胞レベルまで確認できるPETを開発する。
  (もうあるのかもしれない)
2.正常な被験者の脳を、上記の3次元PETでスキャンする。

3.脳死が認定された被験者の脳をもう1台の3次元PETで
  確認し、1.の映像を確認しながら損壊個所を修復する。

4.神経回路を修復するとき、どの過程で意識を取り戻し、また
  どの神経回路を遮断すると意識を失うかを確認する。

5.以上の方法で、脳死患者を生き返らせる。

さらにこれを自動化すると、

  3’. 脳死が認定された被験者の脳を「神経回路自動修復装置」
     と繋ぎ、2.でスキャンしたデータを送って自動的に修復する。

  4’. このようにして、脳死患者をよみがえらせることもできるし、
     「脳コピィー機」として使うこともできる。

この「Frankenstein project」の研究過程で、
意識の謎に近づけるかもしれない。

半分本気(笑)

JAさま。レス有り難うございます。
河村です。

> > > ここから、hard problemの解決は、少なくとも今の物理学を
> > > 前提にした物理主義のスタイルでのhard problemの解決では、
> > > 「青はどこから」の答えにはならないことが分かります。
> >
> > 實川さんは、何を前提にした何主義のスタイルなら、
> >「青はどこから」の答えになるとお考えですか?
> > それをお聞きしたかったのですが。
>
> その前に、河村さんは答えがあるとお考えですか?

實川さんにお聞きしたところ、お答えくださると云うことでしたので、
繰り返しお訊ねしているのです。
今の私には、答えが見つかりません。
根拠はありませんが、原理的に解明不可能といった感じがします。
唯一の答えがあるとするならば、「色即是空 空即是色」であろうと
思います。

> > > 今の物理学の枠組みでは、脳を含む物質と「青」を含む意識が
> > > 分離していますが、これは人間の側から、何らかの歴史的、
> > > 心理的な要因によって仕掛けられた分離だからです。
> > > その人為的な溝に橋をかけても、「青」をはじめとする意識を
> > > 説明したことにはなりません。
> >
> > 再三お聞きしますが、どのような学問の枠組みなら、
> > 「青は何処から来るのか」を説明したことになるのですか?
>
> その前に、「青は何処から来るのか」は説明可能だと思われますか?

前述の通りです。

> 何かこの種の問いは、「私のいない世界は?」と同種のパラドキシカルな匂いがす
る。
> もちろん、こういう問いを禁じる何らの理由もない。ただ、考えれば考えるほど、
> どのような答えも、この問いを満足しないように思われるのである。

私もそれを考えましたが、仮にこの問いが誤っているとしたら、
どこがどのように誤っているのかを教えていただきたかったのです。

實川さん、ありがとうございました。
河村です。
 
> さてさて、このようにしてhard problem説は消滅しました。

私は、二元論に与しないので、hard problem説は消滅していません。
科学を学んだ者は「再現性のある実験による検証」を重視しますから、
検証できない「心」や「意識」について、語ることはできません。
私は、「心」や「意識」は無い、と言っているのではありません。
「心」や「意識」は、確かに私の中に感じられますが、
その存在を、他人に科学的に証明することができません。
「心」や「意識」を語りたいときは、文学や詩のような芸術によって、
表現するしかありません。
したがって、科学的な検証を経ないで使われている言葉は、
私にとって芸術表現、あるいは、よもやまばなしでしかないのです。
私の問いを正確に表現すれば、
「再現性のある実験」によって「青は何処から来るのか」を説明できるか?
と言うことです。
それは、現在の物理学とまったく異なったパラダイムでしか
説明できないのかもしれませんが、例えそうであるにせよ、
やはり、新しいパラダイムのもとでの、
「再現性のある実験による検証」を必要とすると考えます。
したがって、大変に失礼な表現かもしれませんが、
實川さんが縷々述べられたことは、「遍計所執の迷妄」としか思えないのです。

> では、hard problemではない形で、青はどこから来ると言えるのでしょうか? 
> 「ここから」と指し示すような形で明らかに言えないであろうことは、
> 河村さん御自身も悟っていられることでしょう。
> 私としても、もちろんそれができるとは思っておりませんが、
> とにかくかりそめにでも、近づく努力をしてみたいと思います。

私の質問に、實川さんがこころよくお答え下さるとのお返事でしたので、
期待していましたが、残念でした。

> ただし、青がこの種の意識に現われるに当たっては、物とは違う事情が在ります。
> 物は否応なく迫ってきます。しかし、「青さそのもの」は普段は私たちには意識さ

> ていません。意識されているのは、物やその性質です。つまり、青いものやその青

> です。けれども、それを言わば乗り越えて、あるいは一ひねりして、物を意識して

> る意識を意識し、その後者の意識の性格を考えてみたいという問題意識が生まれた

> き、「青さそのもの」は現われてきます。すなわち、この問題意識がこの「青さそ

> もの」という意識を作り出すのです。ここでひとまず、河村さんの問いへの私なり

> 答えを出すことが、出来たことにいたしましょう。

これが、私の問いに対する答えにはなっていないことを、苦しまれた實川さんが
一番よくご承知でしょう。
しかし、深山幽谷の田夫の問いに、真剣にお答え下さいましたことを、
心から感謝申し上げます。

中田さん

> 河村さん
> といってそこでいきなり芸術に飛躍するのではなく、間主観的な理性的
> 合意形成が可能ではないか、との道が、つまり科学と芸術の中間に哲学の
> 道というものもあるのではないでしょうか(哲学が芸術に勝る、と価値判断を
> 下しているわけでは勿論なく、単純に違う領域だ、といっているだけです。
> 念のため)。
> 中田

私は、哲学に余り期待していないのです。
(哲学の定義にもよりますが。そう、まさに、哲学は言葉の定義が
 永遠に要求されるように感じます。)
右手で右手をつかめないように、言葉では言葉をつかめないと感じるのです。
哲学の冗長で迂遠な方法は、私の好むところではありません。
これは好みの問題で、私は、直截な詩を好みます。

しかしこれは、クオリアの問題とはまったく関係ありません。
詩も哲学も、恐らくクオリア問題の解決には役立たないでしょう。
現時点では、数学を用いた科学にしか、その解決策は見いだせないように
思います。
さらに言うと、その数学を用いた科学によっても、解決されないようにも
思います。

天野さま。
河村です。

> なぜ、数学なり科学なりが「解決策」を持ち得るかもしれないと
> 河村さんに期待を抱かせるのでしょうか?

去年の今頃、仕事が一段落して、初めてこのML出会った頃、
「デジタル文明の終焉」と題して、拙文を掲示板にカキコしました。
以下再掲します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
デジタル文明の終焉(3) 
投稿者:河村隆夫 投稿日:07月02日(日)07時42分46秒

それは、我々が世界を認識するための唯一の道具である「脳」の構造が、
デジタル的だからです。シナプスをビットと見れば、放電するかしないかの
2進法の、あるいは、ニューロンをビットと見ればシナプスの数が2個以上
あれば2進法以上の、まさにデジタル的構造をしているからです。
物質は周期表によって、ことばは五十音表によって、それらをもとに
単位を組み合わせるという膨大な現象に対応しうるような方法を、必然的に
作り上げてきたのではないでしょうか。
私は、数学は脳の論理構造の確認であり、物理学は脳の論理構造に
合わせて数学的に世界を認識するものであると考えます。
世界が数学的に構成されているのではなく、我々は数学的に表現されうる
その表層をのみ数式化して認識しているにすぎないのです。
物体の運動は、美しい運動方程式で表される。あるいは相対性理論で
補正される。
これらを美しいと感じられるのは、脳の論理構造に合致しているから、
言いかえれば、脳がそれを好むからです。
しかし本当に、我々には、このようなデジタル的な世界認識の方法しか
ないのでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今でも、基本的には考えが変わっていません。
つまり、脳が外部信号を数学的に処理する装置だから、
我々は世界を数学的に理解するしかないのだろう、と言うことです。
(誤っているかもしれません。誤りであれば指摘して下さい。)

あるいは、[qualia:4216]では、このようにカキコしました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
それでは、物理数学系のこのMLのメンバーと、精神分析学系の方々と
の違いは何処にあるのでしょうか。
「f=ma」この公式を初めてみたときの感動は、いまも忘れません。
すべての物体の運動をたったこれだけの数式で表現できることの驚きは、
後年「E=mc^2」や「H?=E?」に出会ったときのように、総身鳥肌がたつ
ほどでした。
物理的実在を信じるのならば、その物理的実在をこれほどまでに美しく
数式化することができるとは、神秘的な感じさえしたのです。
数学によってこの世界が論理的に表現され、それが物理的な再現性の
ある実験によって検証されることに感服したのです。

「世界は数学的に記述され、さらにそれは科学的実験によって検証される。」
この信念に支えられた科学者たちは、つぎつぎに現実世界の謎を解明し、
自信を深めて、常勝の一世紀をいま終わろうとしています。
物理数学系のMLメンバーも、この信念にささえられているものと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さらに次のように考えました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
デジタル文明の終焉(9) 
投稿者:河村隆夫 投稿日:07月06日(木)06時55分29秒

永遠とは、脱自とは、真理とは、人は問いつづけ、苦悩します。
しかしそんなものが、本当にあるのですか。
「永遠」と文字にすると凄いことのように感じますが、あなたが苦しむほどの
意味があるのですか。
もともと、あなた方が作った言葉(数式)にすぎないではないのですか。
自分の生み出した言葉(数式)にとらわれて、自縄自縛に陥っている
のではないですか。
ただ、いちど言葉(数式)の地獄に落ちた人にしか、この意味はわからない
だろうと思います。今眼前にあるものを疑い、言葉(数式)による思索の
迷路に立ちつくして、天を仰いだものにしか、この言葉の意味はわからない
だろうと思います。
「永遠とは、今このときが永遠ですか。」と、師に問いかけると、一喝されて
弟子は悟ります。
永遠とは、永遠であって永遠でない、だから永遠であると、知るのです。
これは論理ではありません。言葉では表せないのです。
思索の極北にまで到達したものにしか、わかりません。
つまり、悟りは直観するものなのです。
しかし難しいことではありません。
いまあなたは、言葉にならないいっさいのなかに、立っているではないですか。
そのもののなかにいるではないですか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

天野さんのご質問のお答えになっていますかどうか。

天野さま。
河村です。

このMLのなかで、私の考えに最も近いのが、天野氏のように感じます。
(そういえば恐らく猛反発されるでしょうけれど)

kabuto wrote
> > もともと、あなた方が作った言葉(数式)にすぎないではないのですか。
> > 自分の生み出した言葉(数式)にとらわれて、自縄自縛に陥っている
> > のではないですか。
> > ただ、いちど言葉(数式)の地獄に落ちた人にしか、この意味はわからない
> > だろうと思います。今眼前にあるものを疑い、言葉(数式)による思索の
> > 迷路に立ちつくして、天を仰いだものにしか、この言葉の意味はわからない
> > だろうと思います。

amano wrote
> 全てが数学として書けたところで、何も分かりはしない。
> それは音楽や映画が、CDやDVDの中でビット列として
> 書き表されたところで、そのビット列を見ただけでは
> 何も分からないし、さらにそのビット列を処理する
> プログラムと、その処理プロセスを観察したところで
> 何も分からない。さらにいえば、そこから発生される
> 音声や映像の物理的情報が、脳の中でいかにデジタル
> 処理され、いかなるデジタル情報として記憶されるか
> 見たところで、何も分かりはしないということです。
> すなわち0と1の中には赤も緑も青も見ることが
> できなければ、ドもミもソも聞こえてこないと
> いうことです。

つまり、同じことを言っています。
さらに三十年来の私の問いかけは、天野氏の疑問でもありませんか?
私の問いを、再掲します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
Definition of Qualia 2 <河村隆夫の定義>

「青は何処から来るのか?」この疑問が、私のクオリア問題の、
始まりであり終わりでもあった。私はそれ以上を求めない。なぜなら、
「私は何処からきたのか?」「私は何処にいるのか?」という根元的な
問いのすべては、この最初の疑問に包括されているように思われる
からである。
さて、青は何処から来るのか? 
ある波長の光、電磁波そのものに青い色があるわけではない。
(「電磁波そのもの」とは何かと問われても、専門外の私にはファインマン
物理学以上の返答はできない。)
電磁波が私の網膜の視神経を刺激して発生したニューロン内イオン電流は、
シナプスでの発火を繰りかえしながら、後頭葉視覚野、前頭葉連合野、
頭頂葉運動野などを経てニューラルネットワークを形成し、その結果私は
「青い色が見えます。」と、言う。ここで、私の脳内を流れているのは
イオン電流にすぎないのに、青い色が感覚されるのはなぜなのか。
私が感覚している青い色は、電磁波の中にも、イオン電流の中にもないように
思われる。たとえ青を知覚するニューロンがあったとしても、そのニューロンの
中でおこなわれているのは化学反応にすぎない。青い色は、その化学反応の
中にはない。
しかしまた、電磁波や、脳内のイオン電流、化学反応などがなければ、
青い色が感覚されないこともまた確かである。
すなわち、脳という物理的存在と、青い色の表象とは、表裏一体に見えながら、
別の次元に属しているように感じられる。
この、物理過程からは説明不可能な青い色の質感が、クオリアである。

冒頭で述べたように、「青は何処から来るのか?」という問いは、
青を感覚する主体である「私」の問題もまた、その問いの内に含んでいる。
「青い色」も「私」も、ともにクオリアの領域に含まれるように思われるが、
種々のクオリアの関係やその階層構造(階層がもしもあるのならば)に
ついては、将来の研究を待たねばならない。
しかし、このテーマは今回求められているものではないから、別稿に
記したいと思う。
クオリアをこのように難解な問題にしている理由は、その検証不能性にある。
筆者自身ともう一人の、二人の被験者に、同じ波長の光を見せたとき
二人の脳内にほぼ同じニューラルネットワークが確認され、二人は
「青い色が見えます。」と答えたとする。
私自身は確かに自分が青とよぶ色を見ているとしても、隣の被験者が、
私と同じ質感の青い色を見ているかどうかは、検証できない。
あるいは、まったく違う次元のものを感覚しているのかもしれないし、
実験者に迎合して、見てもいないのに見えますと答えたのかもしれない。
まったく検証できないように思われる。
すなわち、クオリアは、主観によって感覚されるもので、その主体に
とっては明らかな感覚的事実であっても、その事実を証明することができない。
このように、科学的実験などの検証を積み重ねることによって得られる
普遍性(客観性)を、クオリアは持ち得ないように思われる。
それ故私は、長い間、私の能力的限界もあるが、それ以上に、
クオリア問題は原理的に解決不可能であるという想いが深かった。
茂木先生が提唱された「ニューロンの発火のパターンと、それに対応する
クオリアは、1対1に対応する」ことが、唯一クオリアに関して確かな事実
であると思われる。
クオリアに関するそれ以上の知見を、私は寡聞にして知らない。        
                              2000.9.9
================================

おそらく、天野氏も同じ考えではないでしょうか?
いかがですか?

天野さま。
河村です。

> ところで、GW中にデネットの「解明された意識」を読んで
> クオリアに拘泥することの無意味性を感じつつある。

私も読みました。が、
「クオリアに拘泥することの無意味性」は、まったく感じませんでした。
デネットが言っていることは、とても確からしくみえる。
しかしどうも核心を突いていないように感じます。
それは、デネットが、「クオリアに拘泥することの無意味性」を、
繰り返し繰り返し様々な手法で証明しようとするところに、
何か胡散臭さを感じてしまうのです(笑)。
「きみ、一言で言えないのか!」と言いたくなってしまう。
デネットは、核心を突くことができないと云う不安に駆られて、
あがいているようにみえますが、いかが?
 
天野さま。
河村です。

> もっと書いてあったでしょう。
> 実はあなたの言う核心は幻想だ、と。
> 忘れましたか?

「クオリアが何で<ある>かと言えば、オットーよ、様々な性向の
そうした複合体のことでしかないのです。」
「あなた自身の脳の中の<現実>の世界に立ち返って眺めれば
様々な性向のただの複合体にすぎないからです。」
「クオリアというのは反応性向の総計のことでしかない」
                                  (「解明される意識」Daniel C. Dnnett)

反論は、ゆっくり考えてからにします。
しばらく時間を下さい。
考えてもわからないと思いますが(笑)。

デネットさんへ。
河村です。

> デネットは、入力である感覚と出力である運動から、
> 徐々に辿っていけば、しまいには「クオリア」に
> 到達するという発想こそが胡散臭いと述べています。

私も同じことを言っています(笑)。
脳の神経回路の何処にも「青」を見いだせないと
「私のクオリア」に書きました。
あたりまえのことですね。

> もちろん、読みましたよね。反論できますか?

訳本を読みましたが、私のわるい頭では理解できていない
のかもしれません。
しかし、無謀にも反論してみましょうか。
デネットは、
「クオリアなどというものが存在しないからに、ほかならない。」
といいながら、
「クオリアが何で<ある>かと言えば、オットーよ、様々な性向の
そうした複合体のことでしかないのです。」
といっている。
なんのこっちゃ。
「クオリアは存在しない。」「クオリアは様々な性向の複合体として
存在している。」

どっちですか。矛盾してませんか、と言いたい(笑)。

しかし、おそらく彼はこんなことを言いたいのだろう。
「クオリアはあるのではないが、ないわけでもない。」
あるいは、
「クオリアはあるのでもなく、ないのでもない。」
つまり、デネット君、正直に言いたまえ。
「よくわからないんです。」と。

禅僧のほうがもっと気の利いたことを言うぞ。
「色はあるのでもなく、ないのでもない。だからあるのだ。」

現在の我々の言葉や数学では、クオリアはどうにも捉えようが
ないことは、おそらく誰もが気づいている。

だから、まったく新しいパラダイムを待ち望んでいるのではないですか。
ひとりの天才が現れるのを、待ち望んでいるのではないですか。

永沢さま。
河村です。

> > 「クオリアはあるのでもなく、ないのでもない。」
> > つまり、デネット君、正直に言いたまえ。
> > 「よくわからないんです。」と。
> いえ、デネットは「よくわからない」という意味で
> そういっているのではありません。
> ライルの有名なたとえ話でこういうのがあります:
> 海外からのお客さんがあなたに「あなたの国には『大学』と呼ば
> れるものがあると聞きました。ぜひ見せてください」といいます。
> そこで、あなたはさっそく近所の大学のキャンパスに彼女を連れて
> 行きます。彼女には図書館だとか研究棟だとか大学寮だとかを案内
> します。しかし、帰り際になって彼女はいいます。「図書館や研究棟
> や大学寮の案内をしてくれてありがとうございました。でも、
> 『大学』というものはいったいどこにあるのですか?」

そ、そんな難しい話をなさらなくとも(笑)、
「犬はいない」
みたいな話でしょ。
コロはいるし、ポチはいるけど、犬はいないみたいな。
そ、そんなあほなこといわないでくださいよー。
それを、ライルの喩えとかなんかいっちゃってー。
ああー、あほくさ。
「√2が有理数になる」なんて、だれも思うはずがないでしょ。
√も2も有理数も、ぜーんぶわれわれがつくった言葉なんだから。
その言葉のなかで、論理的整合性があるようにつくったんだから。

言葉をこえよう、記号をこえよう、って言ってるんですっ。
ちょっと酔っちゃたかな。

永沢さま。こんばんは。
河村です。
ちょっと酔ってるから、(相当酔ってるけど)
ごめんなさいね。

> > そ、そんな難しい話をなさらなくとも(笑)、
> > 「犬はいない」
> > みたいな話でしょ。
> 違います。
> > コロはいるし、ポチはいるけど、犬はいないみたいな。
> > そ、そんなあほなこといわないでくださいよー。
> コロやポチは犬ですが、図書館や研究棟は大学では
> ないです。

ひょっとして、superordinate concept のこととか、いってるのかなー。
概念は言葉の問題で、物理的現象とはちょっと違う。
あんまり重要でないように思う。
でも、私が言いたいのは、
ないと言いあると言う、「青」は何処から来るのか、説明できていないよ、
と言いたい。

本当は、説明できないだろうと思っているんです。

どう思われますか?
永沢さま。

永沢さま。
河村です。
私ごとき田夫のたわごとに、おつきあい下さいましたのに、
昨夜は失礼いたしました。
たいへん深酒をしてしまいまして。

> つまり、いずれ大脳生理学が
> 発展すれば、クオリアという概念そのものが間違った
> ものだということが分かるであろうというのです。

私は、大脳生理学が発展することと、
クオリアが何であるかということとは別問題であると感じます。
(この「感じます」というところがミソで、
「考えます」と本当は言いたいけれど、考える力がないのです(笑)。)

> これは一見当り前のような考えですが、チャルマーズや
> チョムスキーなどとは真っ向から対立しています。

MLを拝見していると、このお二人のお名前はよくでてきますが
まだその著書を読んでいないので、私には評価できません。
(チャルマーズの訳本があればぜひ教えてください。)

> ですので、知識論法の天才科学者メリーの例でも、
> デネットは当然のことながら、「メリーは白黒の部屋の
> 中にいても、完全な物理科学の知識があるのだから
> 『赤を見るとはどのようなことか』、を部屋を出る
> 前に知るであろう」といっています。

デネットが語るメリーのお話は、
私には同語反復にすぎないように思われてなりません。
つまり、
「メリーは『赤を見るとはどのようなことか』に関する
完全な物理科学の知識があるのだから、部屋を出た後に、
その「完全な物理科学の知識」につけくわえるべき情報はない。」
と、言っているにすぎないように、感じます(笑)がいかが?
このお話は、クオリアが物理科学によって突きとめられるはずだ、
と考える人たちにとっては当然のことのように感じます。

つまりこのお話は、ゾンビのお話と同じようにも感じます。
メリーが部屋を出た後も、何等つけ加えられる情報がないとしたら、
メリーは、ゾンビではありませんか?
(じつは、メリーがゾンビであるかないかは、現在では検証不能ですが)

わたしは、ここで、茂木先生が引用された警句を思い出しました。
「感じるものにとっては世界は悲劇であるが、知るものにとっては喜劇である。」

「完全な物理科学の知識」を信奉する「知」の人たちにとって、
世界はそれ以上原理的に知りえようはずがないと、
諦念のあとの明るさを知るのでしょうが、
「完全な物理科学の知識」を越えたところにクオリアがあると
「感」じる私にとっては、世界はいまだ到達しえない悲しみにみちた、謎です。

池上さま。
河村です。
昨夜、私の四天王のひとりから、こんなメールが届きましたので、
その一部分をお送りします。

Ikegami wrote
> そのとおりですが、特殊な揺らぎということを認知するためには
> ほとんど再帰的な操作を背景にもっていないといけない、ということで
> す。今は理研の谷さんは、こうした操作性のゆらぎと意識を結びつけて
> います。壊れ方そのものが安定に記述できるということから派生する
> メタな再帰性については、それを認知するところでホモンクルスっぽく
> なってあまり扱っていませんが、それが意味をつくり出すと思います。
> 問題は、「ランダム」というものをどう主観的に構成できるか、という
> ことなのだろうと、思ってますが。

*******************************
先日の分生物学会で、阪大医学部第一生化学の柳田敏雄先生のお話を
聞く機会がありました。
ご存知かもしれませんが、彼は生物物理出身で、分子ナノバイオサイエンス
から見た生物学の世界を切り開こうとする第一人者です。
私にはとても面白く、何かを期待させるお話であったためご紹介させて
いただきます。
以下は、抄録の抜粋です。何かのお役に立てば言いのですが、、

「生物分子は、大きさが数十ナノメーターで、入力される化学エネルギーは
熱ノイズと大差が無く、それゆえ、生体分子は熱ノイズの影響を強く受け、
その動きは不正確でゆっくりとしている。
それに対して、例えば、トランジスターの場合は、熱ノイズの何百何千倍の
莫大なエネルギーをつぎ込んで、高速に正確に働かせる。
しかし、それらが集合すると、脳野筋肉のような人工機械ではとても真似の
出来ないようなすばらしい機械が出来る。
どうしてだろう。生体分子は人工機械とは基本的に異なる仕組みで動いて
いるに違いない。
人工機械にとってはノイズや曖昧さは負の意味しか持たない。しかし生物は
逆にそれを上手く利用しているのかもしれない。 ・・・・・・・」

細胞一つ一つが持つ情報のあいまいさ、柔軟性は少しづつ解決されつつ
あるのかもしれませんが、
その細胞が作り出すネットワークによる意識の発生のメカニズムの解析には
まだずいぶんと時間が必要そうですが、2進法としてのon offだけではない
生体の柔らかさと、人工機械との相違を探る事が、
直接的な意識の解明や感情を持つ人工知能の開発に向かうよりも、
意識解明のbreak throughとなるのかもしれないと感じております。

quaria MLで登場する塩谷、池上氏は、
ネットワークの揺らぎを指摘されているようですが、
現在、判明している科学的事実によれば細胞の内蔵している一つ一つの
情報が揺らいでいるのであって、ネットワーク自体が揺らいでいることは
正しい事なのかどうかは判っておりません。
彼らの話の原点が、事実から飛躍している様に感じますが如何でしょう。
現在の科学が本当に正しいのか、もしくは、
飛躍する事こそ創造で重要なのだと反論されるとこの話はendとなって
しまいますが。
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