その光景を見た瞬間、オスカーは息を飲んだ。
 ふもとで雇った案内人が、指差す先。オスカーの目指す目的地。
 高地に広がる広大な湖は、晴れた空の色を映し、見事なまでの碧に輝いている。
 空と湖の境界にまたがるような雲は質感をともない、そこにあるいくつもの葦の浮き島をまるで空に浮かぶように見せていた。
 その中心にある神殿こそが、オスカーの目的地、水の本神殿だった。
 
 
 神殿のある場所はちゃんとした台地のうえだった。
 浮島の住人の操る葦の小舟に乗ってこの島に立ったとき、オスカーはまるで自分も雲の上に来たかのような錯覚を受けた。
 澄み切った湖の水は、それほどまでに見事に空を映し切っている。
 案内に出た門番は、まるで付近の漁師がそのまま立っているように見えた。
 オスカーがいた炎の本神殿とは、
(まるで違いすぎる
そう思うと、本山で言い渡されたお役目の相棒たる水の神官もどんな泥臭い人間かと想像し、これから始まる長旅を前にげっそりとした気分にさせた。
 
 
 広大な大陸の中央に伝わる創世神話。
 宇宙の意識を代行する一人の大いなる女神と、それをささえる9つの柱。
 大陸ではその神話にそった、調和をつかさどるすべての神殿の要たる聖殿と、9つの属性の神殿がおもな信仰の対象になっていた。
 もっともその信仰のされかたは、属性によりかなり違う。
 
 光の神殿は、裁判所などの法をつかさどり、闇の神殿は主に葬礼をつかさどる。
 地の神殿は大学や学校をかね、水の神殿は病院をかねる。
 また形式張った建物は持たないが、多岐に渡って信仰されるものもある。
 技術をつかさどる鋼は職人たちのギルドで、風の属性は旅人たちや開拓者達がいつも祈りを捧げる。
 農民たちは春と秋の収穫祭に、緑の力に捧げ物をする。
 炎の力は軍事をつかさどるため、兵達の間で絶大な人気を誇る。
 もっとも多様な信者を持つのが、夢の力である。夢は存在する人間の数だけあるといっても過言ではない。
 おそらくすべての人間が、夢の祭典に多くの楽しみを見いだしているはずだ。
 そのすべての力は共にあることを前提とし、最上級として女神の力がある。
 自由で大らかな多信教の世界。
 
 その世界に最近になって、まったく違う「神」の存在が語られだした。
 何者も並び立つことを許さない完全なる「神」。
 地方に存在する各神殿の出先機関からの報告が入り、それは中央の聖殿の知ることになり、光の本神殿の大神官ジュリアスの名のもとに、調査の命令がくだされた。
 いわく「その神の教えの意図するものを正確に調査し、場合によっては人々の心の平安のために排除することもありえる」ということだ。
 
 この場合先鋒に立つのは、軍事をつかさどる炎の神殿の者になる。
 炎の神殿に仕える神官は、みな一流の戦士であることを要求される。
 大神官より命令を受けたオスカーは勇み立った。
 最重要の調査事項を任された彼は、戦士中の戦士であると証明されたようなものだからだ。
 外界で力試しをできる機会を得て、オスカーは非常な満足感と誇りに浸ってた。
 おかげで出発に水を差すような不愉快なコメントも適当に聞き流すことができた。
 光と並ぶ闇の大神官クラヴィスの、
すべてが共にあることを望む世界だ。世界にただ一人を望む神がいても、かまわないのではないか
という無責任極まりない発言。
 その発言に影響されたわけではないのだろうが、聖殿の祭司たる巫女はオスカーに同行者の事を告げた。
「全ての事を二面より見て、考えなさい。それから結論を出しなさい。共に生きる世界、
それが創世の女神の望みです」
 そして彼は水の本神殿を訪れることになったのである。
 
 
 浅黒い顔の漁師のような門番の案内をうけ、オスカーは神殿の中を歩いていった。
 この辺りの療養所を兼ねてもいるのか、神殿の中には老人がやたら多い。
 炎の神殿では、日中はそこかしこで訓練をする男や少年の声や剣の音が聞こえていた。
 
 ひっそりとした神殿の雰囲気は、妙にオスカーの居心地を悪くした。
 飾り気の無い、しかし掃除の行き届いた小部屋に案内され、そこで一人で待つように言われる。
 実用一点張りの椅子に座り、一人になってオスカーはつまらなそうに辺りを見回した。
(不便な場所だ。これでは町に出るのも一苦労だ
 炎の神殿は、比較的街の近くにつくられる。
 大勢の人間が剣の鍛練に訪れるせいもあり、比較的便利な場所が選ばれるのだ。
 それに健康な男たちが集まるのである。
 この世界において、神官であっても禁欲を強要されることはない。
 その分自制は求められる。規律が弱いからこそ、自分自身を厳しく戒める強い精神が求められるのだ。
 オスカーは夜遊びはするが、決してはめを外したことが無いのも自慢だった。
 しかしここでは、その自制も必要なさそうだ。
(枯れきった爺さんしかいないんじゃないのか?)
 ひっそりとした部屋でそんな無礼なことを考えだしたとき、ようやく水の大神官の時間が空いたと、先程の門番が喚びにくる。
 質素な水の神殿の大広間に、大神官は今回の役目を受けた若い神官と共にオスカーを迎えてくれた。
 穏やかな目と白い髭を持つ大神官は、ひっそりと自分の背後にとけこむように佇む人を
招き、孫に話し掛けるような声で彼に告げた。
「これが同行させていただきます神官のリュミエールです。彼はこの神殿で生まれ育ち、
外の世界に出るのはこれが初めての機会となります。どうぞくれぐれもよろしくお願いします」
 紹介を受けた神官がひっそりとオスカーに頭を下げる。
「初めまして、オスカー殿。どうぞよしなにお願いいたします」
 時代錯誤な挨拶をうけ、ほんの一瞬だけ呆気にとられたオスカーは、慌てて挨拶を返す。
 そこに立っているのは、この枯れた神殿には誠に似付かわしくない、それでいてある意味もっとも似付かわしい、ひっそりと穏やかな雰囲気の、輝く宝石のような光沢の長い髪をもつ、つくりものめいた美貌の持ち主だった。
 
 
「オスカー殿」
 少し後から、危なっかしい手つきで手綱を操るリュミエールが、声をかけてきた。
「呼び捨てでいい。どうした、疲れたのか?」
 そっけなく答え、此方は見事な手綱さばきでオスカーがリュミエールの傍に馬を寄せる。
「いえ、クラヴィス様から闇の神殿によるようにとの連絡を受けております。先にそちらに参りたいのですが」
 麓におりるまでにも、相当な時間をかけている。それもこれもリュミエールが乗馬を殆ど経験が無かったせいなので、寄り道を言いだすのが気まずそうだ。
 
「クラヴィス様に面識があるのか?」
 外に出たことが無いという話だったので、オスカーは不思議そうに聞いた。
 クラヴィス自身、ジュリアスと違い自分から動くタイプではないからだ。
「年に一度の返戻の日に、クラヴィス様ご自身がこの水の神殿を訪れ、祈りを捧げられます」
 これまた意外な言葉だ。返戻の日とは、年に一度なくなった人の魂が家族のもとを訪れるといわれる日のことだ。闇の神殿は葬礼をつかさどる。
 自分たちが礼拝を行なうことがあっても、何でわざわざ水の神殿に?という疑問が顔に出たのか、リュミエールは小首を傾げるようにして言葉を足した。
「クラヴィス様のお母さまが、あの神殿で亡くなられています。長の病の果てだったそうです」
 そう言う訳で幼い頃より懇意にさせていただいていますと、リュミエールは他意もなく
嬉しそうに話してくれた。
 外界に出たことのないリュミエールは、九つの神殿の筆頭たる光と闇の大神官の持つ影響力とか、権力とかにはまったくの無知だった。
 オスカーは何とも妙な気持ちになった。
 
 彼自身はクラヴィス本人にはまったく興味が無かった。はっきり言って腰は重いし、何を考えているか判らないし、自分の立場をちゃんと弁えているかどうかも怪しい人物だ。
 彼個人と知り合いになって何か得をするとも思えないのだが、リュミエールはクラヴィスと話をするのが好きらしく、親を慕うような口調で彼の事を話してくる。
(常に二面から物を見なさい)
 なるほど、自分とまったく違うものの見方をする人物。
 たしかに旅の目的には叶っているのだろうが、個人的には面倒臭い旅になりそうだと、
オスカーは胸の中でため息を吐いた。
 
                 ☆
 
 クラヴィスの私室に通されたリュミエールと共に、オスカーもなぜかクラヴィスの前に立っていた。
 遠慮したのだが、その遠慮の意味をリュミエールは誤解したらしく、(オスカーは個人的にクラヴィスとあまり顔を合わせたくなかったのだが、リュミエールはそれを気遣いと受け取ったらしい)ひっぱりこまれてしまったのだ。
 重い帳を巡らした暗い部屋。
 脚の長い燭台が部屋の四方におかれ、それぞれに立てられたたった四本の蝋燭のみが、
この部屋の灯りの全てだ。
 あまりの重苦しい雰囲気に、できうる事ならこのまま回れ右をして、明るい日差しに彩られた庭でおもいきり深呼吸をしたい気分なのだが、さすがにクラヴィス本人を目の前にしてそれは出来ない。
 居心地悪く立ち尽くしているオスカーを尻目に、リュミエールはまるで頓着せず嬉しそうに挨拶をしている。
よく来たな」
 何で口を開いてから声が出るまで間が空くんだー!というオスカーの内心のつっこみも知らず、リュミエールはにこやかに返事をする。
「はい、オスカーがここまで私を導いてくれました。感謝しております」
 クラヴィスが面倒臭げにオスカーに目を向ける。彼ははっとして慌てて頭を下げた。
聖殿で一度顔を合わせたな
 それきり興味をなくしたように、クラヴィスは傍らのリュミエールに何か小声でぼそぼそと話している。
 
 そしてリュミエールはいちいち素直にうなずき、何か書状を渡されたようである。
 同じ室内なのだから、注意をしていればオスカーにも話の内容は聞き取れたはずなのだが、いい加減にうんざりしていた彼はそこまでして聞きたいとは思わなかった。
 最後にクラヴィスはそっと手を延ばして、祝福するようにリュミエールの額に手を当てた。目を閉じてそれを受けたリュミエールが、クラヴィスの手の甲にそっと口付ける。
 それから紫の小袋を渡され、リュミエールはそっと礼をしてクラヴィスの部屋を退去した。オスカーも会釈をしてそそくさとそれに従う。
 一瞬クラヴィスは胡乱な目をオスカーに向けたが、口に出すことはなかった。
 
 
 部屋の外は昼すぎの時間にふさわしく、見事に明るい。
 ほっとしておもいきり伸びをした。
 してからあまりにも明白だったかと、とりあえずリュミエールの方を見ると、彼はオスカーの様子にはまるで気を払わずに、渡されたものをじっと見ている。
「なんだ?それは」
 興味がわいて覗き込むと、リュミエールは隠しもせずに答えた。
「ガレの闇の神殿にいる方に、手紙を託されたのです。、ガレは判りますか?」
 土地勘のまるでないリュミエールには、ガレの町といっても場所が判らない。
それは判る、王都に行く手前だが。よらなきゃならないのか?」
 オスカーは少し嫌そうに答えた。よるも何も、闇の大神官の言い付けだ。よらなければならない。それにしても
「ガレといえば、ミスラ山脈の中にある田舎町だ。そんな所になぜ?」
「以前、本神殿にいらした方が、そちらにいらっしゃるのだそうです」
 妙なところで面倒見の良い方だ
 額を押さえてがっくりと肩を落とすオスカーに、リュミエールは不思議そうに顔を覗き込んだ。
そんなに辺鄙な所なのですか?」
「辺鄙も辺鄙、冬になれば孤立するし、住んでいるのは、きこりに猟師に、皿を作る奴とか、穴を掘る奴とか
 延々と並べるオスカーに、リュミエールはいやな顔をした。
「皆様、きちんとした職業をお持ちの方ばかりではありませんか。お仕事に都合のいい場所に住んでいらっしゃるだけなのに、なぜそんなとんでもない方達のような言い方をなさるのです。便のよく無い場所に住んでいるという事を、罪悪のように仰らないでください」
 リュミエール自身、高地のそれも湖の中島という、かなり不便な所に住んでいる。
 だがそれを引け目に感じた事はないし、むしろ寄り添うように生きる人々の仲間にはいれたようで、誇らしささえ感じる。
 無論、大きな町に近い場所に多く神殿を設ける炎の神官ならば、山奥というだけでとんでもない感じがするのだろうが。
 非難を受けて、オスカーも嫌な顔になる。
 彼は単純に、わざわざ行っても見る場所も遊ぶ場所もない、つまらない町だといいたかっただけで、住人を軽蔑したつもりはなかったのだ。
 とはいえ、そういう誤解を招く言い方をしたのなら、それは自分の責任だろうとも思う
確かに観光じゃないんだから、つまるもつまらないも無い。
 旅の最初から喧嘩をする気もないので、オスカーは素直に謝った。
「そんなつもりじゃなかったのだがな。気に障ったのなら、謝る」
「そんなつもりじゃなかった、という言い方は嫌いです。無責任な放言の言い訳にしても、
無責任すぎます」
 おっとりとおとなしげに話すリュミエールにしては、きつめのそっけない言い方だった。
 思わずオスカーもむっとしてしまう。
「謝っているのに、そんな言い方はないだろう」
「謝罪と、言い訳は違います」
 間髪いれずの返事に、またもやオスカーはむっとする。
・・・・・なんだ、こいつは。おとなしそうなのは、顔だけじゃないか。
 最初に感じた面倒臭い旅の予感は大当たりだ。
 しかもこの世間知らずだ、これを俺が一から面倒見なくてはいけないんだぞ!
 思わずぼやきたくなるオスカーだが、いまさらどうにもならない。
 眉を顰めて、今や不審を顕に見返してくるリュミエールの綺麗な顔を眺め、オスカーはげんなりした思いに内心でため息を吐いた。