山の花は赤5
 
 
…あれはいつの事だったろうか…。
まだ若い、自分が見習い神官の頃だ…。
町の警備兵達とともに内偵を進めていた、人身売買組織の一斉手入れの日…。
彼の担当は合法的な娼館の地下で行なわれていた、非合法な売春宿。
さらってきた幼い子供たちを集めての、おぞましい背徳の館。
薄暗い地下の部屋でまるで客を楽しませるだけの人形のように扱われ、
老人のように生気を無くした少年、少女たち。
助けにきたといわれても、何の感動もなく、ただぼんやりと座っているだけ。
 
そのさらに奥の一室で、オスカーは一人の少女を見付けた。
身体の大きさは、たぶん10才になるかならないかの幼い子供。
それなのにその顔はまるで老婆のように痩せこけ、艶の失せた髪をして。
おそらく病気になり、そのまま放置されていたのだろう。
僅かにつまれた藁のうえに横たわり、転がっている椀には干涸びた粥がそこにこびりついていた。
 
オスカーはそっと自らのマントで少女の身体を包み、静かに抱き上げた。
黙って目を瞑ったままの少女に、「もう大丈夫だ、すぐに医者に見てもらうから、すぐに元気になるから」
怯えさせないように、そう語りかけた。
反応のなさに不安を感じながら、地下の階段を上りかけたときだ。
少女が痩せこけた手をのばし、オスカーの腕を掴んだ。
意識が戻ったのかとオスカーは息を飲んで少女を見つめた。
少女は濁った目を向け、小さくつぶやいた。
 
「…父ちゃん、…お腹すいた…」―そう一言。
 
意識が混濁し、自分を抱いたオスカーを父親と間違えたのだろう。
答えられずに立ち止まった彼に少女はもう一度「お腹が空いた」と呟いた。
それきりだった。
少女は死んだ。薄暗い地下室の階段で、もう一度陽の光を見る事無く。
軽すぎる身体を抱えたまま、オスカーは大きすぎる衝撃に必死で堪えていた。
 
何でも在りの世界、だがこれは違う!
こんな少女が大人の都合で玩ばれ、使い捨てにされる。
こんな事はあってはいけない。
絶対にいけないんだ!
なぜもう一日、せめて半日、たとえ一時間でも、もっと早く助けられたなら、
この少女は死ななかったかもしれない。
もう一度健康を取り戻し、父や母の元に戻り、陽の光を浴びて笑えたかもしれない。
どうして助けられなかった。
どうして救えなかった。
どうして―――
すでに何年も前に終わった事件。
乗り越えたはずの衝撃だった。
だが今、オスカーはその記憶に打ちのめされ、自らを消してしまいたいほどの無力感に蝕まれ、
己れの拳を地面に何度も打ち付ける事しか出来なかった。
 
 
戦があったのだと湖畔に住む村人たちが、中の島に呼びにきた。
薬や包帯や布を抱え、リュミエールも年配の神官達とともに、村へと急いだ。
必死で戦場から逃れて来た兵達は、どれもこれも血に塗れ、ぱっくりと骨まで見える傷を押さえ、
すでに死者のような顔つきでうめいていた。
 
その血の匂いにまずリュミエールは怯えた。
ついで、恐ろしいうめき声に。
はじけた傷口の酷さに。
堪え切れずに救いを求めて服の裾を掴む、その力の強さに。
 
立ちすくんだまま思わず口を押さえてしゃくり上げたリュミエールに、
いつも穏やかで優しい神官が厳しく叱り上げた。
「吐くのは後でしなさい!今はこの方々の治療が先です!」
 
恐々と近付くリュミエールに、神官は傷口を清めるようにと命じた。
水で洗うだけで怪我人は獣のような声を上げた。
矢尻をむりやり抜いた痕は、目を背けたくなるほど無残だった。
目を閉じたリュミエールを、さらに神官は叱り付けた。
「目を開けなさい!目を背けてはなりません!治療は傷口を見つめることから始まるのです!
目を閉じていては、何も出来ません!」
 
嗚咽を堪え、リュミエールは必死で傷を洗い、消毒をし、傷口を包帯で締め上げた。
血塗れの手に怯えながら、それでも必死に働いた。
「癒しは、痛みを知らなければ行なえません。患部に目を背けていては、傷の具合は判りません。目を開けなさい。そして、行動しなさい。すべき時にすべき事をするのです。あなたは癒し手なのです。苦しみから目を背けることは許されないのです」
 
目を開けなさい、リュミエール。
目を開けて、
目を開けて―――。
 
 
叱咤する声を聞いた気がした。
はっとして目を開けたリュミエールの視界に、蹲ったまま動きを止めてしまったオスカーと、その傍に転がっている大剣が目に入った。
瞬時にリュミエールは悟った。
急がなくて…。オスカーも危ない…ここにいる人も、生きものたちみな…。
今動けるのは自分だけなのだから、すべき事をしなくては。
 
禍々しい赤い花は、さらに大きく花弁をふるわせ、その中心に何かを吸い上げ続けている。
この花が元凶なのは間違いない。
潰さなくては、いけない。
リュミエールは唇を噛み締めるようにして、剣を持ち上げた。
 
想像以上の重量に、ふらふらとよろけながら、リュミエールは剣を両手に構えて毒々しい赤い花に近付いた。
花が戦慄いたようだった。
するすると騒めく蔓がリュミエールに向かって伸びてくるのを、必死で切り落とした。
切った場所から血にそっくりの赤い生臭い樹液が降り注ぐ。
おぞましさに吐き気を堪えながら、リュミエールは必死で蔓を切り払い、巨大な花に向かって剣を振り下ろした。
蔓は執拗に、まとわり付き、リュミエールの身体を打ち付けてくる。
花も必死なのだ。
 
意識の中にまた何か幻覚が浮かんでくる。
赤い血。恐ろしい、忘れたい。
恐怖に支配されそうになる。
『何故あらがうの?生きるのは痛いでしょう、辛いでしょう?
苦しいのに何故生きるの?私に痛みを委ねればいいの。全て吸い取ってあげる。
もう痛くなくなる。私と同じ夢を見れば』
 
リュミエールの目の前に、幼い自分の姿が浮かび上がる。
水の神殿の裏にある狭い空き地に並ぶ、小さな墓。
1つは顔も覚えていない母親の。
もう一つは、本当の祖父のように慕った老人の。
自分を守ってくれる人はもういない。
決断をしなくてはいけない。
 
1つは、自分を哀れみ、人の情けにすがって生きるか。
もう一つは。
 
ぴしりと剣を持つ手に蔓が絡まり、リュミエールの動きが止まる。
『そこで泣けばいいのよ。助けてって縋ればいいの。
だってあなたはまだ幼い子供だから。人に頼ったって誰も笑わない』
花は誘惑する。自分の言葉に従えと。
 
剣は花の中心の直前で、動きを止められている。
リュミエールはきつく唇を噛みしめながら、渾身の力で剣を花に突き立てようとする。
 
『その手を放して楽になりなさい。この世は痛みで一杯。
そんな世界で生きる価値がどこにあるの?』
 
「いいえ、それでも私は生きる!自分の生を自分の意志で!」
リュミエールは叫ぶと同時に、全身の体重をかけて剣を花に突き立てた。
ずぶずぶと肉を貫く嫌な手応えがする。
うねる蔓が悲鳴のような風切り音をたてる。
剣に貫かれた花の中心が、内側から盛り上がったと見えた瞬間、
全体がはじけ、辺り一面に生臭い樹液が飛び散った。
リュミエールの身体が、頭から赤に染まる。
 
『痛い、いたい、イタイ、私は消える、ワタシガキエテシマウ…』
貫くような思考が一瞬あたりに流れ、そして蔓は動かなくなった。
 
 
疲れきって剣の重みを支え切れずに、リュミエールはふらふらと後退り尻餅を付いた。
剣にすがるようにぺたんと座りこみ、目の前で見る見るうちに枯れて縮まっていく花を見つめる。
終わったのだろうか。本当に?
油断したら、またあの恐ろしい幻覚におそわれるのではないだろうか?
リュミエールの身体が小刻みにふるえ始める。
花の残骸を前に、リュミエールはしばらくの間、激しい動悸を感じながらじっとそれを見つめていた。
やがて完全に花が動かなくなった事が分かると、全身の力が抜けた。
あえぐような呼吸を繰り返しながら、リュミエールはようやく終わったのだと知った。。