山の花は赤
 
 
そこに捉われていたもののうちで、一番最初に気が付いたのはオスカーだった。
身を切り刻むような罪悪感が薄れ、微かな痕跡だけが意識の中に残っている。
オスカーは記憶の中に埋もれていたはずの、自分の衝撃の深さに改めて気付かされ、
頭を振って小さく舌打ちをしたが、それで終わりだった。
いつまでも過去に捉われ、足踏みしているわけにはいかない。
 
立ち上がったところで、剣を支えに下を向いて座り込んでいるリュミエールに気が付いた。
その全身が真っ赤に染まっている。
オスカーはいそいで駆け寄ると、その両肩に手を掛けて揺さ振った。
「おい、リュミエール!しっかりしろ!」
動かないリュミエールに、自分が惚けていた間、最悪の事態になってしまったのではと
オスカーの全身が冷える。
 
その時、その赤い物が人の血ではないことに気がついた。
植物の腐った独特の匂い。
巨大な花は茶色になって、樹液に塗れて潰れている。
「…リュミエール、お前が?…」
呟く声に、リュミエールが顔を上げた。
「オスカー、気が付いた…」
抑揚のない声にオスカーが思わずその顔を覗き込む。
次の瞬間、緊張の糸が切れたのか、リュミエールはオスカーの首にしがみ付くと、いきなり声を上げて泣きだしてしまった。
 
 
数日後、報せを受けた女たちがガレの町に戻ってきた。
花が潰れたところで呪縛が切れたのか、男たちはつぎつぎと意識を取り戻していた。
神官達は、無事に森から帰ってきた者達の世話に加え、絶食の後の重湯づくりにてんてこまいをしている。
女たちが手伝いで神殿に入るのと入れ替わるように、ルヴァは麓の町に戻っていった。
植物の根や葉などのサンプルを携えて。
 
「文献によればですね、あれはかなり古い時代からこの山中にある、一種の寄生動物だったようです」
前夜、リュミエールとオスカーはルヴァの説明を受けていた。
「動物?でもあれは…」
「分類の仕方はこれからですが、食虫植物とミミズみたいな単殖生物の混合みたいな生きものですね。
何百年かに一度、繁殖のための栄養として、生きものの生気を集める。
ひょっとして何かの魔法実験で作られたものの、野性化したものかも知れませんねー」
魔法実験と聞いて、一瞬オスカーとリュミエールは奇異な感じを受けたが、
かつては錬金術などの実験が今よりも盛んに行われていたそうなのだ。
実際、その当時に作られたと思われるキメラ動物も、数は少ないが存在している。
 
「あの花の花粉は、脳神経にはたらきかけ、その人のもっとも強い記憶を呼び覚まし、
それに罪悪感などの負の感情を増大して付け加えます。
そうすることにより、精神を侵蝕しやすくし抵抗を無くし、生気を吸い取るわけですねー。
いや、こうなると動物の言葉が判らないのが悔しいですね。彼らはどんな精神状態にあったわけでしょうー」
 
疑問も残る。
一番最初に行方不明になった者は、とらわれたまま数ヶ月が経過していた。
本来であれば、当の昔に衰弱し、餓死していたはずだ。
しかし、弱っていたものの無くなった者は一人も居ない。これは身体が頑丈、というだけでは
説明が出来ない。
 
「そうですね、これは推測ですが。とらわれていた間、身体の代謝機能が極端なほど
落ちていた、という事じゃないでしょうかね。花にしてみれば、とらえた獲物は
備蓄食糧の意味合いもあったんじゃないですかね。ほら、秋になると、リスとかが
木の実をたくさん集めるでしょう」
そんな物なのだろうか?納得できない気もするが、全てはこれから調べるのだから、
今のところはそんな物なのだろうか。
学者先生は、新たな研究材料を得て、妙に嬉々としている。
(たくましい…)
気せずして、オスカーとリュミエールの内心の声が重なった。
 
 
ルヴァを見送った後、オスカーは自分がきちんとリュミエールに礼を言っていなかったことを思い出した。
あの時、血に塗れているのかと思った。
色素の薄い肌や髪が赤く染まっているのは、血に慣れていたつもりのオスカーにも、かなり衝撃的に見えた。
しがみ付いて泣きだしたのを、困惑気味に抱き締めた。
不思議な感覚だった。
 
これまでもこうやって事件の後、しがみついて泣きだした身体を宥めてやったことは何度もあったが、
その相手は常に「助けられた方」だったのに。
今泣いているのは「助けた方」で、自分は「助けられた方」だ。
 
そう、助けられたのだ……。
 
この自分の半分の幅しかない、骨細の華奢な青年に。
オスカーは彼を世間知らずと子供扱いしてきたが、何のことはない。
自分もまだまだ半人前だ。
この事件は、リュミエールがいなければ解決しなかった。
「麓に残れ」といった、自分の見通しの甘さが、いまさらながら悔しい。
謝罪をしようと、隣で前を見ているリュミエールに声をかけようとしたところ、
先に振り向いた彼の方が話し掛けてきた。
「…包帯かえましょう。傷も消毒しなくては…」
 
無意識に打ち付けたオスカーの拳は、皮が破れて血が流れていた。
大した事はないと言ったのだが、リュミエールは承知しなかった。
頑固に言い返すことも出来ず、オスカーは言われるままにリュミエールのしたいようにさせている。
向かい合って座り、リュミエールは黙って両手の包帯を解き、傷を消毒し、塗り薬を塗っている。
癒し手の力は単純な傷には意識しなくとも効くのか、ぴりっと引きつるような痛みも、
触れられるだけでスウっと遠退く。
リュミエールのしたいようにというより、オスカーはこの感覚が好きで言われるとおりにしているといってもいい。
 
しばらく黙って清潔な包帯を巻いていたリュミエールの手がとまった。
どうしたのかと覗き込むと、リュミエールは俯いたままじっと唇を噛み締めている。
伏せられた瞳が潤んでいる。大泣きした余韻が残っているのか、この数日、やけにリュミエールの涙腺が弱い。
(この顔に涙っていうのは、反則だな…)
 
多少焦りながら言葉を探していると、不意にリュミエールが謝った。
「すみません!」
意外な展開に、オスカーは固まってしまった。
「…すみません、…私…」
うるりと両眼から涙が盛り上がる。
焦って口をパクパクさせるオスカーに気付かず、リュミエールはさらに言葉を継いだ。
「私は…選ばれたのだから、自分だってそれなりに経験を積んでいる。一人前だと、自惚れていました」
リュミエールが語る言葉は、そのままオスカーが自分に当てはめて考えていた言葉だ。
「ですが…苦悩するあなたがたを見て、自分が今までどれだけ守られ、甘やかされていたのか思い知りました。皆さん、あれほどの傷を背負って必死に生きているというのに、…私は…」
そのままリュミエールは言葉に詰まったのか、黙って涙をこぼすだけである。
 
オスカーは彼がどんな記憶を呼び起こされたのか、どうしてそこから逃れることが出来たのか、
それは何も聞いていない。
だからといって、それがリュミエールの言うとおり、辛い経験がないからだとは思わない。
あの花の魔力は絶大だった。
たとえばそれが、朝起きるのが普段より10分遅れたという程度の罪悪感であっても、
とんでもない自分が怠惰な人間であるかのように思いこませられるだろう。
 
甘やかされているどころか…。
(甘え方を知らないんじゃないのか?)
そうオスカーは思った。
自分を甘やかすことを知らないから、無理をする。
人の出来ることは、自分もやらなくてはと思う。
だから大勢の人の命を救ったっていうのに、それを誇る前に、皆より甘えて生きてきたと、自分を恥じる。
なんとまあ面倒臭くて――。
(可愛らしい、考え方をするんだか)      
 
初めてオスカーはリュミエールが微笑ましく感じられた。
同時に、出来るだけその悩みを解消してやらなくては、とも感じた。
そして出来れば…、自分にくらいは甘えさせてもいいんじゃないかと思う。
正反対の二方向から、物を見て、考えよと言われ、そうして選ばれた二人だ。
よく話をし、互いを理解しあい、そして足りない部分を補いあえるようになれば、おそらくかなり正解に近い答えが導きだせるようになるのではないか?
そう思う。
 
 
オスカーはとまってしまったリュミエールの手を、自分の手で包み込んだ。
おずおずと顔を上げるリュミエールに、慎重に言葉を選びながら話し出す。
「俺だって、同じだ。動くべき時に動けないような訓練はうけていない、なんて大口を叩いておいて、
結局何も出来なかった」
何かを言い掛けたリュミエールを、オスカーは制した。
「半人前は俺だって同様だ。だからこそ、この旅は一人前に成長するいいチャンスだと思う。
お前はそうは思わないか?」
いきなり問われ、リュミエールはきょとんとしたまま、とっさにうなずいた。
オスカーはにっこりとする。
 
「俺達はたしかに性質も考え方も違う。普通だったら反発して終わりだと思う。だが今はお互い協力を求められる身だ。いいチャンスじゃないか。お互いの欠けている部分を探り、
補いあえるよう努力する。それこそが聖殿の、女神の御意志ではないかと思う」
リュミエールは今度は真剣な顔つきで何度もうなずいた。
そして不意に泣きだしそうな顔で微笑む。
「…私でも、あなたのお役に立つことが出来るんですね…」
 
お役も何も、命の恩人じゃないか…。
そんな事を考えても見ない彼の謙虚さに、オスカーは感心するとともに、苦笑気味にうなずいた。
「一緒にがんばろう、旅に必要な事は俺がこれから少しづつ教えてやる。大丈夫、すぐに覚えるさ」
「はい」
初めて見る晴れやかな笑顔で、リュミエールがまた頷く。
不覚にも、オスカーは生まれて初めて、男の顔が可愛いと思ってしまった。
光の大神官ジュリアスの美貌にすら、特別の感想は持った事が無かったというのに。
無意識にリュミエールの手を包んだ手に、力が入る。
骨の細い、肉のうすい、柔らかい手。
この手に自分の剣はさぞや重かったろうに…と、妙ないじらしささえ感じてしまう。
(…何か、やばくないか?俺…)
心のどこかでそう感じはしたものの、結局オスカーは(相手の良いところを認めるのは、良いことだ)と、勝手に解釈を決め込み、内心の警告を無視することに決めた。
 
せっかく選ばれた2人なのだ。どうせ旅をするなら、啀み合うより協力しあえる方がいい。
俺達はそれぞれ補い合える物を持っているのだから。
それに――無理して今の自分の感情を否定する必要もない。
 
何しろこの世界にあっては、神官であっても禁欲は求められないのだから。