突然姿を現したオスカーにリュミエールははっとすると、次いでおろおろと視線を泳がせた。
(……どうして…どうして姿を現すのですか…)
咄嗟に自分をオリヴィエと間違えたのではないか、とか、何かのはずみで飛び出してしまったのではないか、等という考えが頭をよぎる。
ジュリエットが登場していないのにロミオだけが登場してどうするというのだろう。
困惑した果てにリュミエールは室内への扉の取っ手を握り、中のオリヴィエに小さな声で呼びかけるが返事がない。
(一体、わたくしにどうしろというのですか)
そう恨めしく思いつつも月明かりの下でも映える赤い髪に思わず目が引き寄せられる。
(……どうしたらいいのでしょう…)
暗がりに身を潜め、それでも階下の人影から目を離すことが出来ない。
オスカーはまっすぐに頭上のベランダを見上げている。
そのどこまでも見通してしまいそうに鋭い青い瞳で。
オスカーは顔を上げると、そっと――そうとしか言いようのない声でベランダの人影に向かい語りかけた。

「そこにいるのは俺の愛しい人か?」
リュミエールの胸がどきんと大きく脈打つ。
何か応えた方がいいのでしょうか――今はイベントの真っ最中。オスカーが語りかけた「愛しい人」というのは、「ロミオ」にとって愛しい「ジュリエット」の筈。
(違ったら――もしもオスカーのいう愛しい人が「ジュリエット」ではなかったとしたら、わたくしは一体どんな顔をすればいいのか)
何しろ舞台となっているバルコニー周辺にはスタッフやら見物人やらがあふれている。
(こんな大勢の前で……わたくしはどうしたらいいのでしょう……)
オスカーの声に胸が熱くなる。今すぐに手を伸ばして返事をしたくなる。でも今は二人だけの時間ではない。オスカーが語りかけたのは「ジュリエット」にであって自分にではない。
リュミエールはなんとか自分を落ち着かせようと、ますますバルコニーの隅に引っ込んでしまった。
★★


下から見上げるオスカーの位置からは、実際にはリュミエールの姿は見えない。
でも微かに聞こえる衣擦れの音から、きっとリュミエールはバルコニーの狭い場所でうろうろしているんだなと推測して小さな笑いをこぼす。
オスカーはリュミエールをこれ以上慌てさせないようにと静かに言い添えた。
「答えはいい…そこに姿が見えたと思ったのは、愛しい人の面影を追う俺自身が見せた幻なのだろう。だが幻でもいい。ただそこにじっと留まり、俺の思いを聞いていて欲しい」
リュミエールはぴたりと慌てるのを止めた。オスカーが語りかけているのは、役柄にかこつけてはいるが間違いなく自分に対してなのだと判ったからだ。
頭上から聞こえていた、リュミエールが動く度にたてていた長衣の裾が擦れる音が消えた。
見物人達も息を潜めてじっとこの情景を追っている。
オスカーは頭上の人の愛おしさを込めて言葉を発する。

「ずっとずっと逢いたいと思っていた。近くで言葉を交わせたらどんなに幸せだろうと。幻を前にこんな事を言う俺を笑ってくれても構わない。俺はいつも思っている、お前に逢いたいと」
率直な飾りのない言葉に、リュミエールは思わず両手で顔を覆う。
(わたくしもです、オスカー…わたくしも貴方に会いたくて、そればかりを思っています)
「今お前の手を取ることが出来ないことを恨めしくない、等ということは正直俺は言えない。こんな事がなければ俺とお前が会うことになんの障害があるというのか。愛しい人の元へと通う恋人達の背にあるはずの翼が羽ばたくことを禁じるなどとは、なんという悲しい心ない決定なのだろう」

言外に女王とオリヴィエに対する恨み言をにおわせつつ、オスカーは撮影向けにわざとらしすぎるほど大げさな苦悩の表情をしてみせる。
モニターにへばりついていた見物の女官の団体が揃って歓声を上げた。
「いやん、オスカー様!表情がセクシーだわ〜〜〜」
「あああ、オスカー様!仰っていただけた等なら、逢い引きでも駆け落ちでも何でも協力いたしますのにぃぃぃ」
★★


「……オスカーじゃなくて、今はロミオだろーが…」
「オスカー様、すごい迫真の演技だ…」
キャアキャア失神寸前の様子で喜ぶ女官達に呆れているゼフェルの隣では、ランディが素直に感心している。
「何か…僕たちここにいるのが申し訳ない気がする…」
赤面してぽそりと呟くマルセルに、女王が初めて気が付いたように目を丸くした。

「あれ?マルセル。さっきの舞踏会のシーンで居なかったんじゃない?」
「あ、そういえばそうだ。マルセルも俺と一緒に出るんじゃなかったか?」
これまた素直に驚きの顔をするランディに、マルセルは目を細めるといやみったらしい口調で言った。
「僕もあのシーンにいたよ。ただし、女の子のドレスを着ていたけど」
「お前女役だったのか?」
さっそく笑い出しかけたゼフェルを冷たく睨んでから、マルセルは女王にもそのままの視線を向けた。
「陛下。僕、広間に行く途中の廊下で女官達に拉致されていきなりドレスに着替えさせられたんです。どうして、僕のサイズぴったりのドレスが用意されていたのか、ご存じじゃありませんか?」
ゼフェルとランディに同時に注目されて、女王は乙女ブリッコで頬に両手を当てて目をくりくりさせた。

「あれ?なんかの手違いかな?」
「誤魔化さないでください。女王陛下が用意させていたんでしょ?ちゃんと証言はとっているんです」
「証言?」
生真面目に問い返すランディに、マルセルはふくれっ面で応える。
「大広間から退出されるときにクラヴィス様にお聞きしたんだ。クラヴィス様はロザリアから聞いたんだって。女王陛下が僕にドレスを用意してたって事」
再びランディとゼフェルに同時に注目され、女王は今度こそ観念したような誤魔化し笑いをする。
「だって、あのシーン、別にランディがいたら十分かなって思ったんだもの〜。マルセルのドレス姿が見たい、っていうのは、結構リクエストがあったのよ。私もだけど……」
「つーか、絶対、陛下『が』見たかったんだよな…」
「うん、…絶対女王陛下『が』ご覧になりたかったんだと思う…」
「ひどい、陛下!僕が女の子扱いされるの嫌いなの知ってて、いっつも女装させようとするんだから!」
「あはははは〜〜ごめんね〜〜〜、とりあえずオスカー達の芝居を見ましょ〜〜」
「誤魔化さないでください!」
調子よく笑う女王陛下の天下無敵っぷりに、マルセルは半泣きで訴えていた……。
★★


と、カメラクルーの後ろの方でささやかな茶番劇が繰り広げられている同時刻、バルコニーの前ではヒロイン不在の熱いささやきが見物人達を失神寸前に追い込んでいる。
「愛しい人よ。幻聴でもいい。ここで一言貴方の声が聞こえたなら、俺のこの乾いた胸は熱い泉で満たされ癒されるのだろう…月夜に歌う夜の恋人達よ。せめて今宵だけは静まりかの人の声だけを響かせてくれ」

「くっさーーーー!気色わりーー!」
「…なんて言うか…よく真顔で言えるなぁ…」
「……恥ずかしい…」
年少組が素直な感想をこぼす。
はは、と乾いた笑い方をする女王の背後では、なぜか心持ち頬を染めたロザリアと、可笑しげに口元を歪めているクラヴィス。
さらに隣ではなんだか感心しきりな顔つきで頷いているルヴァ。
「はあ、よくもまあ、アドリブでああいうことが言えますね。私など思いつかないというか、それ以前に照れてしまいそうですねーーー」
「オスカー…あれは職務にも忠実で頼りになる男ではあるが…いかんせん、人前での慎みがたりなすぎる」
苦々しげな説教口調のジュリアスまで登場して、女王は密かに吹きだした。
「ジュリアス、セーブ係止めたの?」
「先程のシーンを見ている限り、どうなるのか予想が付きませぬゆえ」
冗談めいた質問にも律儀な返事を返すジュリアスに笑いながら、アンジェリークは楽しげにバルコニーに目を向けた。
(リュミエールはどうするのかな?ちょっとくらい返事をして上げるのかな?)
★★


リュミエールは当然の事ながらひたすら困っていた。
オスカーの声に応じたい。逢いたかったとそう言いたい。でも今はイベント中。二人きりではない。
しかもオスカーと違って自分がここにいるのは完全な場違い。真っ当に返事をしようと思ったら、つれない言葉しか言えない。
(どうしたらいいのでしょう――オスカー…)
困り果てたリュミエールが憂いげに眉を潜めた顔を闇夜に向ける。空中からのカメラが僅かに顰められた青銀の細い眉や潤んだ瞳、艶めかしく震える唇を間違いなく捉え、モニターのこっち側では黄色い歓声とは逆の野太いため息が一斉に起きる。
それに気が付かずになおいっそう憂いげに俯くリュミエール。
どうするのかと一同が固唾を飲んで見守る中――唐突に内側からバルコニーに続くガラス戸が開いた。
そして張りつめる緊張感を叩き破って響き渡る艶やかな声。

「さあ、乳母リュミエール!ついに完成したよ!これこそ浮気な男の言質を掴み、間違いのない誓いを立てさせるその名も『決心君』!移ろいやすい月に誓うよりか、よほど信用できるってものさ!」
タイミングを計っていたとしか思えないジュリエットの登場に、思いっきり真剣に集中していたオスカーは惚けたような棒立ちになった。
驚くリュミエールの肩を抱き寄せ、オリヴィエはオスカーを見下ろすと意気揚々としか言えない口調で堂々と宣言する。
「ロミオ様!あなたの風評はお聞きしております。その通りですね、昨日はロザリンデ。今日はこのわたくしジュリエット。そして今宵は乳母までもお口説きになるとは!ですがこのジュリエット、コケにされて黙っていられる程可憐で世間知らずな深窓の姫君ではございませんの」
そう言って口元を抑えて高笑いをする設定だけは可憐な10代少女のジュリエット。
「この決心くんは先程のロミオ様の言葉をすべて記憶しておりますの。これで言い逃れは出来ません事よ!」

ジュリエットが持っているのは先程のレプリカわら人形。それに改造を施したのか内部の記憶装置から鮮明な声が再生される。
『愛しい人よ……ずっとずっとあいたかった…』
それは紛れもない先程のオスカーの言葉。バルコニーにいるリュミエールに当てての恋心の告白の台詞である。
さすがにリュミエールは柳眉をつり上げ、声を険しくした。
「オリヴィエ!ではなくてジュリエット様!これはあまりにも悪趣味すぎます!人の思いをこのようなだまし討ちの形で取り込もうなどと!」
リュミエールの剣幕にオリヴィエは一瞬おや、という顔をしたものの、すぐににんまりと笑った。
「知らないからこそ、人は本音を語るもの。知っているときの言葉なんていくらでも嘘がつける――恋というのは純粋であればあるほど危険で、そして不安なものだからね」
そうはっきりと言いきってから、オリヴィエはリュミエールにだけ聞こえるように声を潜めた。
「安心おし、イベントが終わったらこのテープはあんたにあげる。これは、あんたのためだけの台詞だからね」
虚をつかれたようにはっとするリュミエールに優しく微笑みかけ、オリヴィエは空に浮かぶ月に向かって堂々と最後の台詞を口にする。
「日ごとに姿を変える不実な月よ。せめて今宵のことだけは変わらずに覚えておいて。闇の端に顔を隠しているときだけ言葉を紡げる恋人達が居るということを。常に照らすことが出来ぬ道ならば、せめて顔を隠す影だけでも与えておくれ」
そしてリュミエールの肩を抱いたまま、さっさと室内へと戻っていく。階下のオスカーは置いてけぼりである。
ここへ来てオスカーは気が付いた。
つまりは全部オリヴィエの手の中、さっきの舞踏会のシーンの意趣返しだったのだ。

「オリヴィエ…よくもよくもリュミエールまで利用して…」
オスカーは拳を振るわせると、人気の消えたバルコニーに向かい、まるで宣戦布告のように吠えた。

「うぉのれ、オリヴィエ!」
★★


なんとなく先日鑑賞したばかりの娯楽映画、某「○陽師」のワンシーンを思い起こさせるシーンに、アンジェリークは可憐な苦笑をこぼした。
「陛下…笑い事ですませてよろしいのですの?」
その笑い声を見とがめたロザリアが、オスカーと女王を交互に見ながら聞く。いい加減呆れるのにも疲れたらしい。
「わたくし、今回のイベントのテーマが判らなくなって参りましたわ…」
「うーん…私もちょっと怪しいかな〜〜…なんて思ったりして…テーマ…」
「少なくとも、『愛』じゃ、ねーよな…」
ぽつりと言ったゼフェルの言葉に、その場の全員が同時に頷いていた。