乳母リュミエールは苦悩していた。
手に持っているのは、オリヴィエジュリエットからの果たし状――ではなく、ロミオオスカーへの恋文である。
恋するジュリエットが神父ルヴァに結婚式の密約を取り付けた、という知らせの手紙である。
この初々しい二人だけの結婚式というのは、ある意味この悲劇の見せ場であろうとは思う……思うが…。
なんとなくここで素直に喜べないのは二人がどう見ても敵対関係だからなのか、それとも芝居とは言え他人からの恋人への手紙を届ける使者役だからだろうか。
とりあえず乳母リュミエールは苦悩しつつも律儀で真面目だった。
真面目だったので、どうにもこうにも悶々としつつ手にした手紙をロミオオスカーの元へと届けに向かったのである。


舞台は聖地内にあるカフェテラス。
突貫工事で外装内装を中世酒場風に改装し、ウェイトレスのお姉さんも少し胸元が露出気味の女給さん衣装にまんざらでもないようで、普段よりも腰を大きく振った歩き方で客役の男衆に色気を振りまいていた。

「う、うわ〜〜〜〜…あの人、普段はあんなに清楚な雰囲気だったのに…」
「甘いな。女性は着る物や化粧で天使にも悪魔にもなれる、その複雑さこそが愛らしい存在なのさ」
落ち着かないランディに、ふっとニヒルな笑みに女心をとろかす重低音でオスカーが言う。
「……その一言、リュミエール様に言いつけますよ」
「浮気宣言とかじゃないぞ。俺はあくまで事実を述べただけだ。リュミエールは常にどんな時でも変わることがない、俺だけの天使さ…」
「その妙な遠くを見るような顔つきは止めてください。ウェイトレスさんが誤解してるじゃないですか」
「お前な、その色気のない言い方は止めろ。女の子にもてんぞ」
「誤解されても当然の仕草で騒動のネタを振りまくよりマシです」
素っ気ないランディに、オスカーは大人の余裕を見せつける笑みを浮かべた。

「誰が誤解をしようとかまうものか…真実の愛に目覚めた者の目には、常に真実愛する人しか映ってはいない…」
「だーかーら、そう言う台詞を適当な方向に向かって言うのは止めてください。せめて女性がいない方を向いて言ってくださいって言ってるんです」
「むさい男がいる方向に向かっていったら、そっちが怖いじゃないか」
「だから〜〜〜〜」
居直ったというか、どこか切れてるオスカーにランディは疲れた顔でため息を付いた。
「……こういう人といつも一緒にいられるリュミエール様って、やっぱり偉大だ…」
「お前なあ。そういう嘆き方は止めろ」
オスカーが憮然と言った時である。
酒場の入り口付近にいた連中がざわめいた。
ドアが開き、戸惑いがちの乳母リュミエールがその場に姿を現したからだ。

 
  ★★★


本来ならよく訪れているはずの場所なのに、あまりの雰囲気の違いにリュミエールはどこに迷い込んだのかと一瞬驚いた。
窓が小さくなり、灯りは蝋燭だけ。中にいるのは中世コスプレ衣装を纏った体格のいいちょっとむさ苦しい雰囲気のエキストラ陣。
それをいえばリュミエール本人もコスプレ中なのだが、普段から着慣れた長衣に近い衣装なので自覚は乏しい。
とにかく雰囲気の違いに腰が引け気味だったので、オスカーの顔を見た途端にどこか縋るような顔つきをしてしまったのも無理はないところだし、それを見たオスカーの理性が半分吹っ飛んだのも致し方ないことだろう。
オスカーは立ち上がると、ランディが「お!」と驚くほどの素早さで入り口で立ちすくんでしまったリュミエールの元へ行き、その手を取った。
それでも一応芝居の形態を崩さなかったのは、オスカーの最後の理性とでもいうのだろうか。
オスカーはリュミエールの手を握ったまま、このまま駆け落ちしてしまおうか、という考えが頭の中を高速往復するのを感じつつも一応話の筋に添ったような言葉を探す。

「これはこれは…キャピュレット家の乳母殿ではありませんか。このような場所になんのご用か、とお訊ねするのも無粋な話。……この俺に…」
お預けくらいまくった若い恋人の賢明な理性が切れるのは早い。
「この俺に内密の話があるのだろう。それは好都合!この酒場は向こうにゆっくりと話せる個室がある。さあ、行こう!今すぐ行こう!二人きりでじっくりと心ゆくまで話し合おう!」
「は、はあ?」
両手をぎゅうっと握りしめて一気に言いきったオスカーロミオに、乳母リュミエールは目を白黒させた。
「あ、あ、あの、内密は内密ですが、ですが、あの」
「こんなところでは落ち着いて話が出来ないと!やはり乳母殿もそう思われたか!さあ、いざ!」

一体何がいざ、なのか。
咄嗟のことで口をぱくぱくしているリュミエールの耳元で、オスカーは低く囁いた。

『あっちの小部屋にはカメラもマイクもないんだ!二人きりになれるチャンスは今しかないんだぞ!』
『で、でも、撮影スタッフが入ってくるかも知れないのでしょう…だって今は…』
『そんな気の利かない野郎は俺がどうでも始末をつけてやる!躊躇ってる暇はないんだ、本当に』
「そ、それは判りますが…」

酒場のエキストラ連中の視線を浴び、リュミエールは羞恥で顔が真っ赤になる。
(こんな状態で小部屋で二人きりになったりしたら、中で何をしているのかいいように邪推されたり、ひょっとした邪推ではすまないようなことになる可能性もあるし、女王陛下が喜んでまた何を吹聴するか判らないし、ランディの教育上良くないし)
などとそれこそ意味不明なところまで考えが及ぶ。
考えがまとまらないリュミエールが棒立ちになると、オスカーはこれ幸いと腰に手を回して強引に小部屋の方向へと歩き出した。
だが、そのタイミングを計っていたように酒場の入り口で毅然とした声が挙がった。

「総員、突撃!目標確認!人質の安全確保最優先!」

何事かと酒場にいた全員が腰を浮かせる。
その直後にダン!と勢いをつけて蹴り開けられた扉。
間髪を入れずボウガンを構えた射手が扉の両脇に膝立ちで構え、続いてやはりボウガンを構えた数人がだっとなだれ込み、ぴたりとオスカーに狙いを付けた。
「目標確認!攻撃準備よし!」
どうやらリーダーらしき男がそうきびきびした口調で告げると、居並ぶ射手が二手に分かれ悠々と入ってきた人物に道を譲る。
「よーし、ご苦労さん!さすがに訓練が行き届いてるね、うん、いい動きだ」
「お褒めにあずかり、幸い…」
意気揚々と入ってくる男装の麗人、オリヴィエジュリエット。そしてその後ろにはマントはともかくチュニックとタイツとショートブーツの衣装が恥ずかしそうな筋骨逞しいヴィクトールの姿。
一瞬訳が分からずリュミエールを抱えたまま硬直していたオスカーは我に返ると、剣呑な声で怒鳴った。

「どういうことだ、オリヴィエ…じゃない、ジュリエット!この連中はお前の配下か!」
「もちろん!私の大事な乳母に手を出されちゃ大変だからね。急遽雇い入れた私の部隊さ。ね、傭兵隊長ヴィクトール?」
「……御意…」
大きな体を小さくして、ヴィクトールはオスカー達に顔を背けながら言う。
確かにごつい身体にタイツを着用しなくてはいけない状況は、周りは面白いが本人はきつい。
「さ、傭兵隊長ヴィクトール!乳母リュミエールをあの変態スケコマシから助け出してやって」
「…は…」
人前に出るのがよほど嫌らしくヴィクトールの声は消え入らんばかりだが、それでも前に進み出ると硬直したままのリュミエールの手を取った。
「乳母リュミエール様、お救いに上がりました。さあ、こちらへ」
「……え…?救いとは…」
未だに状況が判らないリュミエールはポカンとしている。
オスカーはむっとした顔つきでヴィクトールの手を払うと、ジュリエットに向き直った。

「いきなりの無礼な仕草、レディのする事ではありませんな。このアバズレ極楽鳥」
「手段を選んでる暇はないと思ったんでね」
バチバチと火花が散る。オリヴィエジュリエットはまさに芝居のクライマックスさながらに両手を掲げると、天に向かって声を張った。
「これこそが神の思し召し!この女と見れば手を出す変態スケコマシの妻となり、永遠に手綱を握って見張りなさい、それこそが私に与えられた試練だと神(女王)が仰ってるのです!」
「かってに決めるなーーー!」
「かっても何も、そう言う筋書きだろうが」
「全然違うだろうが!」
「馬鹿なこと言ってるね。とりあえず、この二人きりの結婚式ってのは見せ場なんだよ」
ジュリエットは鼻でせせら笑うと、背後に並ぶ兵達に指を鳴らして合図した。
「オスカー様、…もとい、ロミオ様、ご無礼つかまつる!」
鍛えられた男達が隙のない動作でオスカーの背後に回り込み、両側から腕をがっしりと羽交い締めにする。
「ささ、乳母殿はこちらに」
どさくさ紛れにリュミエールはヴィクトールに奪い去られ、オスカーは目をつり上げた。

「オリヴィエ!じゃない、ジュリエット!これは人権侵害だ!人の恋愛の邪魔をするな!」
「悪いねぇ、ロミオ様。これは全て、女王陛下の思し召しなんだよ」
勝ち誇った笑いを浮かべながら、ジュリエットはまた指を鳴らす。
それを合図にオスカーを捉えた男達は、殆ど抱えんばかりにしてオスカーを酒場の外へと運び去ってしまった。
「リュミエール!」
「オスカー!」
オスカーの自分を呼ぶ声に思わず駆けだしたリュミエールを、ヴィクトールが押しとどめた。
「いけません、リュミエール様。ここで止めたら、話の筋が変わってしまいます」
「それは…確かに結婚式のシーンは必要でしょうけれど…」
あまりにも強引なオリヴィエに、リュミエールはもういてもたっても居られなかった。
(何故あの時、ほんの僅かな時間でもオスカーと二人きりになれるチャンスを捨ててしまったのでしょう…。なんという愚かな…なんという意気地なしのわたくし…)
リュミエールの中に後悔がわき起こる。
不意にリュミエールは顔を上げると、思い詰めた眼差しでヴィクトールの手をぎゅっと握りしめた。

ぎょっとしたついでに見つめられて何故か頬を染めるヴィクトールに構わず、リュミエールは勇気を振り絞って懇願する。
「お願いです、ヴィクトール!今のあなたがオリヴィエ…ではなくジュリエット様の手勢だということは百も承知しております!でももしもジュリエット様がロミオ様にあまりにも強引な手段を使ったときに救い出すために力を貸していただきたいのです!」
「え…いや、しかし…」
ヴィクトールは口ごもる。このシーンが終わればこの奇天烈な時代錯誤の衣装とおさらばできる事になっているのに、これ以上関わりたくはなかったのだが。
「お願いです!ヴィクトール!」
必死に縋るリュミエールの目にうっすらと涙がにじむ。
その目についにヴィクトールは抵抗する気を失い、仕方ない、と言いたげな笑みを浮かべた。

「承知いたしました。リュミエール様。このヴィクトールに出来ることがありましたなら、何なりとお申し付け下さい」
「ヴィクトール…」
ぱっとリュミエールの顔が明るくなる。愁眉を開いて急いで何かを言おうとするリュミエールに、ヴィクトールは苦笑げに言い添えた。
「ただ一つ条件があります。聞き届け頂けますか?」
「条件、…とは?」
少しだけ不安そうになったリュミエールに、ヴィクトールは軽く冗談めかして答える。
「この衣装、自前の物に着替えてもよろしいですか?」
「もちろんです!では、すぐに!」
ぱあっと花が咲いたように笑うリュミエールに、ヴィクトールは力付けるように言った。
「それでは。至急に準備を整え、教会へと向かいましょう!」
「はい!」
急ぎ足でリュミエールとヴィクトールは酒場を退場していく。
完全に取り残されたランディは、嵐のようだった一連の流れを思い出しながら、ぽつりと言った。
「すごい、リュミエール様。あっさりとヴィクトールさんを味方に付けちゃった。…ああいうのって、色仕掛けっていうのかな…」

この場合、説得、もしくは懐柔でいいのではないか、とランディの言葉を訂正する者は誰もいなかった。