霧の向こう 2
 
 
石膏を塗りたくったような、真っ白な世界。
目の前には、橋のような断崖が延々と霧の向こうまで続いている。
 
「ここを渡れと言うのか?ふん、こざかしい」
オスカーは崖下に目をやった。当然のようにその下は霧にまぎれて確認できない。
まるで雲の上の橋のようだ。
高所恐怖症の者なら眼も眩むかもしれないが、あいにくオスカーはそんな事に恐れは感じない。
堂々と足を踏み入れる。
 
崖は緩い下り坂になっているらしい。
先の見えない道を歩くオスカーの前で、ゆらりと何かが動く。
ひゅっと風の唸る音がして、何かがオスカーの頬に薄く当たった。
 
その部分に手をやったオスカーは、皮膚一枚が切り裂かれ、薄く血が滲んでいると知った。
瞬時に全身が戦闘態勢にはいる。
オスカーは使い慣れた大剣を抜き放つと、鋭い目でゆっくりと辺りを見回した。
 
ヒュンと視界を鋭い光が飛びすさる。
その動きを目で追うと、交差してゆく別の光。
鋭角的ないくつもの光が、オスカーの周囲を飛び回り、隙をつくように身体ぎりぎりを掠めていく。
触れた部分の布が、鋭利に切れる。
 
オスカーは忌々しげに鼻を鳴らした。
「なるほど。妨害はないとは、言っていなかったからな」
『その通り。強さを司るものよ。そなたの行く先はこの道の向こう。足を踏み外せば、その場で全ては終わりだ』
「俺を甘く見たものだな」
ひゅっとオスカーは手首を返した。
 
金属的な音を立てて、彼の身体を掠めようとした光が足下にたたき落とされる。
オスカーは身をかがめてそれを拾い上げた。
蜂によく似た形の生き物、と言って良いのだろうか?妙に作り物めいた大きな針を持っている。
オスカーは拾ったそれを放り投げると、神経を集中させた。
武人としての鍛錬は伊達ではない。
全身で気配を感じ取る。
狭い崖の上で、オスカーの大きな体が驚くほど俊敏に動く。
マントを大きく払い、身体のまわりを飛び回る「虫」を一気にたたき落とした。
 
『ほう、なかなかやる』
空気を振るわせるようにして、老人の声が直接脳内に聞こえた。
「リサーチ不足だな。これくらい、俺にとってどれほどのものでもない。首をあらって待っていろ」
『そうかも知れぬ。それは認めよう、だが炎の守護聖よ。そなたも私を甘く見ている』
音もなく足場が崩れ始める。
まるで子供が気まぐれに描いた絵を消しゴムで消しているように、輪郭がぼやけ、霧の中にまぎれて行く。
 
『ここは私の世界。ここにあっては私こそが絶対の至高の存在。そなたの存在の矮小さを知るがいい』
――それを知ることが、そなたが今ここにいる理由――
「何を勝手なことを!」
老人の声を聞きながら、オスカーは怒鳴った。
だが急速に消えつつある足場は、いまはもうオスカーの足下を残すのみだ。
その下は深い深い底すら見えない雲の向こう。
 
すっと消えた足下の感触に、さすがのオスカーの全身もすうっと冷える。
一瞬だけ宙に浮いたあと、急降下する。
「くそ!」
オスカーは舌打ちをした。
落ちていく、というより、何かに吸い込まれていく感覚だ。
 
ふわりと何かが自分を包む気配がした。
『オスカー』
耳元で聞こえた柔らかい声は、拘束されている恋人のもの。
オスカーの身体は何もない白い空間にゆらりと浮かんでいる。
『ここはイメージの世界。ここにいるのは、あなたの肉体ではなく、精神だけ。イメージを強く持ってくださ…』
語尾が苦しげに震え、小さく消える。
「リュミエール、どうした!どこにいる!」
オスカーが乱れた声で名前を呼ぶ。
すでに声は聞こえず、リュミエールの気配も感じられない。
彼のために、おそらくかなりの無理をして「声」を届けてくれたのだと思うと、オスカーがいままで感じていた
何かに飲み込まれそうな恐れにもにた感覚が綺麗にぬぐい去られてゆく。
 
オスカーは何もない空間でいながら、自分で自分の身体の制御を取り戻していることをしった。
『イメージの世界』
そう言われたように、オスカーは意識を集中してイメージする。
自分が空中を自在に動くところを。
ひゅっと身体が浮き上がった。
 
その体の回りにさっきよりも大きな光がまとわりつく。
首筋に浅い痛みと、そして髪が何本か切れて目の前を流れてゆくのを感じた。
 
『落ちてしまえ、地の底までも』
ぎゅんと鋭い音と共に、強い耳鳴りがした。
頭上から凄まじい勢いで襲ってきた光の蜂の大軍が、オスカーの身体を雨のように打ち付けてゆく。
 
「うお!」
たまらずバランスを崩したオスカーを、行きすぎた蜂達が再び襲おうと急上昇してきた。
空中で流れそうになった身体を立て直したオスカーの意識が、爆発する。
 
「俺をなめるな!」
声と共に、手にしていた剣から炎が立ち上った。
巨大な松明のように一度ふくれあがったかと思うと、それはいくつもの触手を持つ炎の竜となって、
一気に蜂達を焼き尽くす。
 
それでも足りないのか、炎の竜は空間を走り回る。
一見果てのないようにも思えた空間のそちこちで炎の竜はぶつかり、反射し、火花と共に、
周囲を一気に焼き尽くしていった。
その炎の中心に空気を踏んで立つオスカーは、己の放った炎の勢いに、我ながら驚いたらしい。
空気がおののいているような気がした。
 
再びオスカーは意識を集中すると、手にしていた炎の剣を横に一閃した。
彼の望んだとおり、剣の炎も、あたりを思う存分焼き尽くして暴れていた炎も、嘘のように綺麗に消え去り、
次に足下に赤茶けた乾いた大地が現れた。
荒涼とした荒れ地をイメージさせるそれは、まっすぐに果ての一点に向かって伸びている。
 
「貴様が俺を招いているのは、あそこだな。待っていろ、いますぐ行ってやる!」
主導権を取り戻したかのようにオスカーは宣言すると、力強い足取りであるきだした。
彼が向かう先には、地の果てに落ち込む擂り鉢状の滝が出来ていた。