霧の向こう 3
 
 
パチパチと空気が放電しているようだった。
彼が進む道を、わずかなりとも阻もうというのだろうか。
うっとうしげにオスカーはマントを払った。
見えない泥でも跳ね上げたように、布の表面で何かが弾ける。
 
「今度はなんだ?」
オスカーは不敵に笑った。
「どんなお持てなしをしてくれる?」
大気中の放電が激しくなったような気がした。
この空間の「持ち主」の動揺を示しているのだろう。
 
(今更、ざまあみろだ)
オスカーはその震える気配を辛辣にとらえていた。
「さっさとリュミエールを返せ!そうしたら、大人しく帰ってやる!」
オスカーは挑発的に叫んだ。
空気がピリピリと波打つ。
それきり――さっきまで響いていた老人の声も聞こえない。
 
オスカーは周囲を見渡し、小さく勝ち誇ったように笑う。
その顔に反発するように、それは起きた。
『炎の守護聖よ。この世界が誰のものであるか――思い出させてやろう』
ぼこっと音を立てて大地に亀裂が入った。
大地を二つに割った亀裂は、さっきまで遠くに見えていた擂り鉢状の滝壺に変貌していく。
うねるように逆巻く水の流れ。
跳ねるしぶきがそそり立つ垂直の虹を作り出す。
 
「虚仮威しはもうたくさんだ」
空中に浮かんだオスカーは舌打ちして言った。
「俺に畏怖心を与えようというのなら、とんだ勘違いだ」
小馬鹿にしたように水底に向かって吐き捨てる。
『炎の守護聖。そなたに望むのは、そのようなものではない。私が欲しいのは――』
 
虹の中央に何かが浮かぶ。
水飛沫と光を弾く、長く揺れる水色の髪。
仰向けに横たわったリュミエールの身体が、ゆっくりと滝壺に向かい下りてゆく。
ゆらゆらと水底の藻のように、長い髪が揺らめいて目を閉じた顔をオスカーの目から隠している。
「リュミエール!」
叫んだオスカーは、水底から何か巨大な気配がわき上がってくるのに気が付いた。
 
いつのまにか虹を作り上げていた光源は消え、空は厚い黒雲に覆われている。
視界が狭くなる中、その巨大な何かが地の底でゆっくりと顎を開く。
オスカーは勢いをつけて空間をけると、少し離れた場所を降下して行くリュミエールに向かい、
まっすぐに飛んだ。
リュミエールは意識がないらしく、動く気配はない。
ゆらりと首が傾ぎ、流れた髪の間から目を閉じたリュミエールの蒼白な顔が露わになる。
「リュミエール!」
オスカーがリュミエールの身体を両手で抱き留めた刹那、地の底から伸びてきた触手がオスカーの全身を
絡め取った。
 
「くそ!」
オスカーはリュミエールごと触手に巻き付かれ、そのまま引かれそうになるのを、空中でこらえた。
ぎりぎりと締め付けてくる触手に、オスカーの動きが封じられる。
『形勢逆転だな。炎の守護聖殿よ。もはや手も足も出まい』
老人の声が嘲笑となる。
『炎の守護聖よ。愛する者と共にくるがいい、我の中へ』
 
オスカーは地の底を見つめ、ぎりっと唇を噛んだ。
触手の伸びてくる先から、灰色の霧をかき分けて、うっそりと何かが浮かび上がってくる。
輪郭すら定かでない『それ』。
小さく光る目らしきものと、全てを飲み込む暗い虚のような顎が、二人に向かってくるのを感じた。
 
オスカーの腕の中では、リュミエールが目を閉じたままぐったりとしている。
引き付ける触手の力の強さ。
目の前に迫る巨大な口に、オスカーは叫んだ。
 
「欲しければくれてやる!だが、守護聖二人、貴様ごときに飲み込めるなどと思うな!」
リュミエールをしっかりと抱きしめたままのオスカーが、逆に自ら『それ』の顎めがけて飛び込んでいった。
歓喜にざわめく『それ』。
しかし――。
 
『これは――何を』
『それ』がおののき、地の底へと後ずさる。
飛び込むオスカーは存在自体が巨大な炎の固まりとかしていた。
「よくもこれだけふざけたマネをしてくれた。――俺をこれほど怒らせたことを、後悔するんだな!」
身体を包む炎――文字通りそれはオスカーの身のうちに満ちるサクリアが具象化したもの。
逃げようとする『それ』を追いかけ、炎と化したオスカーが閉じる寸前の口中に飛び込む。
 
空間が震えた。
『それ』が巨大な体を揺すり立てる。
閉じた口があえぐように大きく開かれ、そこから炎の柱が天まで立ち上った。
先の炎よりもさらに巨大な炎の竜が、『それ』を押し包み、逃がさないように戒め、焼き尽くす。
 
『これは――そなたは――』
老人の声が、吹きすさぶ風のように寂しく広がった。
「これが守護聖さ」
空中にリュミエールを抱いて立つオスカーの身体は、周囲を炎が結界のように渦巻いている。
「お前は確かにこの世界の王かもしれん。だが、計算違いだ。
――俺は自分の愛するものと共に死ぬのなら満足、なんて考え方はしない。共に生きるんだ、愛するものとな」
オスカーは燃え尽きてゆく『それ』を、青い目に冷酷な光を浮かべて見下ろす。
老人の答えが返ることはない。
オスカーの周囲が暗転した。