霧の向こう 1
 
 
その朝、聖地は一面の深い霧に包まれた。
 
オスカーは足下も定かでない霧の中を、1人歩いていた。
なぜ自分がこんな霧の中を歩いてるのか、どこに向かっているか、何一つ判らず、ただ何かに導かれたように、
一点を目指して歩き続ける。
歩き続ける彼の目前で霧が形をなし、巨大な扉となって招き入れる。
清浄にして、荘厳な空気がオスカーを包む。
目の前に広がる威圧感に、オスカーは目に力を込め、その得体の知れない「相手」を凝視した。
 
 
『ようこそ、炎の守護聖』
傲慢なほど高圧的な「声」が、脳内に直接響いてくる。
「俺を招いたのは、貴様か」
オスカーはその張りのある声に、やや硬質な響きを交え答えた。
「俺がここに来る理由はないはずだ。なぜ俺をここに招いた」
彼の前に広がる空間に、その「相手」の姿が浮かび上がる。
さらに増した威圧感に、オスカーは眉根を潜め、傲然とその顔を見上げた。
 
「顔」は遙か高見よりオスカーを見下ろしている。
床に着くほどの長い白髪に、これも床に着くほどの白髯。
皺に埋もれた目はほの白く光り、白いローブから覗く年老いた手はまるで木肌のように乾いた質感である。
まさしく人ではあり得ないその姿に、オスカーはいっそう眉を寄せた。
 
「貴様は何物だ」
『幼きものよ。そなたの考えの及ばぬ世界に生きる者よ』
その人を小馬鹿にしたような物言いに、オスカーはこの相手に友好的な配慮は無用、と判断したらしい。
表面的取り繕っていた礼儀を全て放り投げると、腕組みをしてぞんざいに言った。。
「俺が炎の守護聖と知って、なおもそんな事を言うのか。何様のつもりだ?」
『小さき者。そなたを支配する者ぞ』
一斉に空気が震えだした。
皺に埋もれて見えない表情の奥で、老人が大笑しているのを知ってオスカーは冷笑を浮かべた。
 
「ほう、この俺を支配するか。女王陛下の忠実な臣である俺を貴様が。生憎だったな。貴様はどう見ても
俺の女王陛下には見えん」
『女王陛下以外の者には屈しないか。では、このものの存在は、そなたになんの影響も及ぼさぬと、
そういう事だな』
今度の笑いは嘲笑のようだった。
老人の姿――正確にはローブをまとった身体の中心付近――の色が薄れ、透明になったかと思うと、
ぐんと辺りの空間全てが巨大な広がりをもった。
老人のローブの中。
そこは1つの宇宙だった。
漆黒の空間の向こう側に、広がる星の渦。
その世界に浮かんだオスカーは、闇の向こうにもう1人の姿を見つけ、目を見開いた。
 
「リュミエール!」
宇宙空間に半ばとけ込んだような形で、リュミエールがそこにいる。
両腕を張り付けの形に広げ、その細い手と白い長衣をまとった腰から下は、完全に宇宙と同化しており
まったく見えない。
俯き加減の目は閉ざされ、意識をまったく失ったように長い髪の先だけが、わずかに揺れていた。
その身体が、ずっと闇の中に引きずり込まれそうになる。
オスカーは思わず叫んでいた。
「止めろ!」
 
ぱっと空間が元の場所に戻る。
目の前には先ほどの巨大な老人。
違うのは、彼の後ろ、やはりオスカーには手の届かない高みに、先ほどと同じ形のリュミエールが幾重にもねじれて絡み合った蔓に拘束されているという事。
 
オスカーは怒りも露わに老人を見上げた。
「貴様、ふざけたマネをしてくれる…」
『どうした?そなたを支配できるのは女王のみだと、己自身の口で言ったのだろう。ならばこの者が
我のうちに取り込まれようとも、そなたには関わり合いのないことであろう』
瞬間的にオスカーの身体から形を取りそうなほどに強烈な怒りの波動がわき上がった。
だが、次にはオスカーをそれを意志の力で押し込める。
 
1つ舌打ちをして、オスカーはまっすぐに老人を見上げた。
「判った。俺に何をさせたい?」
『ほう、急に素直になったな』
「さっさと言え」
イライラというオスカーに、老人は口の端で笑った。
 
『簡単なこと。これから我が示す道の先に進むこと。それだけだ』
オスカーは怪訝そうに眉を潜めた。
「目的はなんだ?」
『今言ったとおり。我が示す道の先を進み、その最奥にたどり着く。それこそが目的だ』
「俺がそこにたどり着ければ、リュミエールを間違いなく返すのだろうな」
『そなたが、そこにたどり着き、なお戻る意志があるというのなら』
「それが嘘でないと、誰が言える」
『誰も言えぬ。そなたが疑い、従えぬと言うのであれば、この者はここに留まるのみ』
リュミエールは目を閉じたまま、ぐったりと気が付く気配もない。
もう一度舌打ちをしたあと、オスカーはまっすぐに老人を睨み付ける。
 
「判った。貴様の言い分に乗ってやる。そのかわりに約束は守ってもらう、女王陛下の名にかけて、な!」
老人が笑ったのが、空気の動きで判った。
『女王陛下の名にかけて。そなたがやり遂げることができたのであれば、結果は出るであろう』
こちらの神経を逆なでするような冷笑を感じながら、オスカーは自分が不意に違う空間に
放り出されたのを知った。