微かな振動音。ぼんやりと瞼を開いたリュミエールは、そこがまた見覚えのない部屋であることに気が付き、
さっと緊張の色を走らせた。
「目が覚めたのか?」
覗きこむ瞳に、ほっと身体の力を抜く。
「オスカー」
 
記憶が混乱しているのかリュミエールは屈託のない笑顔を見せた。
このまま忘れていればいい――この数日間の事など、何もかもすっかり忘れてしまえば――そんなオスカーの想いと裏腹に、リュミエールの精神はそんなに都合良くできてはいなかった。
頭がはっきりしてくると同時に、今までグランブルーで何があったのか、全て思い出す。
そして自分が宮殿で眠りに就いてから、山の城で目覚めるまで、丸四日経っていたことを始めて聞いた。
空白の四日間、そして今ここに至るまでの数日。
頑丈が取り柄と公言しているオスカーの顔にやつれが見える。この何日かでどれほど心配を掛けたのかと思うと、リュミエールは申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
そんな思いを敏感に察して、オスカーは明るく笑ってみせた。
 
「どうだ、精悍ないい男になっただろう。惚れなおしたか?」
おどけた口調に、リュミエールはくすくすと笑った。
顔色をいうなら、リュミエールの方がよほどひどい。血の気の失せた顔は蝋のような白さで、
そのまま灰になって崩れてしまいそうな程に脆く儚く見える。
 
心配を顔に出してはいけない、逆にリュミエールが心配する、そう思ってオスカーは朗らかな表情を保ち続けた。
あまりうまくなかったが、幸い疲れ切ったリュミエールは、オスカーの表情の裏を探るほどの余裕がなかった。
ぼんやりとした瞳がベッドから見上げてくる。オスカーは存在を確かめるように、そっと頬に触った。
なつかしい大きな手の平の感触。
 
オスカーはリュミエールに対し身体を求めてくる事はなかったが、しきりと頬に触りたがった。
二人きりの時はいつも、何かというと頬に手を当ててきた。
柔らかい肌の感触を楽しむようにふんわりと撫でる手は、リュミエールにとってもいつのまにかずいぶんと馴染み深いものだった。
 
彼の出向期間を入れても一月程度しか離れていたわけではないのに、
もうずっと感じていなかったような気がする。
そっと手を伸ばし、オスカーの手に重ねる。大きくて固い手の感触に、たまらない懐かしさを感じる。
宇宙に浮かぶ王立宇宙軍基地の一室。
ようやく戻ってこれたのだと安堵した。
オスカーが側にいてくれる、もう大丈夫――そう落ち着くと同時に、サイノスの消息が気になりだした。
あそこから落ちたのだから、助かるまいと思いつつも微かな望みを捨てられない。
尋ねられてオスカーは露骨に嫌な顔をしたが、リュミエールの頼みを断れる彼ではない。
渋々答えるが結局、公式には死亡、正確には不明、死体を回収する事ができなかったと告げた。
「……そうですか」
 
目を閉じてそれだけ呟いたきり、リュミエールは黙って大きく息を吐いた。 
そんな彼をオスカーはやりきれない目で見つめる。
救出直後、気を失ったリュミエールは本来であればその体調を考えて、グランブルー上で休養を取るべきだったのだろうが、オスカーがそれに反対した。 
同じ惑星上であれば、どんなに隠しても国王のスキャンダルについての騒ぎを耳にしてしまうかもしれない。
その後の後始末のごたごたを耳に入れるのも嫌だった。
何よりもつらい思い出ばかりを多く残したこの星へ、一時たりともリュミエールを置いておきたくなかった。
 
「お前の所為じゃないから」
気休めかもしれないと思いつつそう言うと、リュミエールはあえかに笑ってみせた。
「……誰の所為だったのでしょう、誰かの責任に出来れば良かったのに……」 
強いて言えば、サイノス自身の所為。だがそれを言うには、サイノスの気持ちが哀れすぎた。
あの幼い日、ほんの少し、暖かい気持ちを向けてくれる人が側にいたなら、サイノスがリュミエールだけに固執することもなかったろうに。 
この悲劇も起きず、立派な王としてその名を残しただろうに。
オスカーは話題を変えた。
 
「身体、痛いところはないか?青痣だらけだ」
「……見たんですか?」
「手当てしたのは軍医だ。着替えは俺だがな」
「ご迷惑をおかけしました」
「こういうのは眼の保養というんだ」
戯けてみせるオスカーに、リュミエールは一瞬だけ吹き出しそうになった。
「少し寝ろよ。休んで身体が楽になれば、又気分もかわるから」
子供をあやすように、毛布の上から軽く身体をたたくオスカーの手を、リュミエールは手を伸ばしてつかんだ。
「どうした?」
優しく覗き込んでくるオスカーに、リュミエールはめずらしく甘えた気分になっていた。
 
「……少し我侭を言っても良いですか?」
「何でも言ってみろよ。エアリア星の白薔薇百万本でも、すぐに取り寄せてやるぞ」
宇宙一大輪と呼ばれる希少な白薔薇だ。
「……薔薇より百合の方が好きですね」
ふんわりと微笑むリュミエールの瞳がぼんやりと潤みだした。疲れた体は、確実に睡眠を欲している。
 
「貴方もお疲れだと思いますけど……お願いですから、もう少し、ここにいてくださいませんか?
目が覚めたら、どうしても、貴方に言いたいことがあって……」
絡んだ指先から力が抜ける。オスカーはそれをしっかりと握り直した。
「ずっとここに居る。一日でも二日でも一週間でも、お前が居る所に居る」
力強い宣言に、リュミエールはようやく安心したように瞼を閉じた。
……次に眼が覚めたら――今度こそ、きっと……・
額に触れる唇を感じ、久しぶりの穏やかな眠りの中にリュミエールは意識を委ねた。
 
☆☆
 
 
グランブルーの事件から一ヵ月後、聖地に新しい情報が届いた。
宇宙空間にいるかのように全面に星空を映した王立研究院の一室で、
リュミエールはオスカーと共にその報せを聞いた。
エルンストが淡々と告げる。
「グランブルーは王制から、議会民主制へと体制が移行しました」
 
彼の地ではすでに数年の歳月が流れていた。
国王の死により、グランブルーは新たな政権をめぐる内紛へと突入した。
王族たちの勢力争いが繰り広げられる中、かつてサイノスのスタッフとして働いていた若者たち中心の改革派が台頭しはじめ、最終的には民衆の支持を受けた改革派が勝利したのである。
貴族たちから卑しめられながらも独学で学び、才能に身分は関係ないことを示したサイノスは、
間違いなく民衆達の英雄であった。
全面スクリーンが現在のグランブルーを映し出す。豪華な宮殿は今では一握りの特権階級だけの物ではなく、
自分たちの力で平和な国を造ろうと顔を輝かせるたくさんの市民の物だった。
 
「それでは、もう招待状が送られることはありませんね」
ぽつんとリュミエールが呟いた。
すべては一通の招待状が始まりだった。
最初の招待状で、サイノスはリュミエールに出会い、二番目の招待状で彼は自らを滅ぼした。罪のない、そしてもっとも罪深い招待状が、聖地に届く事はもう無いのだ。
 
「そういうことになります」
律儀に返事をしたものの、エルンストもリュミエールがそれを誰かにいったものではないという事に気が付いていた。オスカーが目線で合図を送り、エルンストはその場を辞去する。
 
リュミエールは再び星空に戻ったスクリーンを見上げている。以前よりも憂いを増した瞳は、
星よりも向こうを見つめている。
オスカーはたまらなくなってその肩を引き寄せた。まるで星空に消えてしまいそうに見えたのだ。
リュミエールがオスカーを見上げ、心配いらないというふうに微笑んでみせる。
華奢な感触が痛々しい。
 
微笑みを返しながら、オスカーは考える。あの時、サイノスとの間に何があったのか、リュミエールは断片的にしか語らない。もっとも肝心な部分については、はぐらかしたままだ。だがオスカーには想像がついた。
サイノスは彼に多くの嘘を吐いたが、リュミエールに関する事だけは真実だったのだろう。
誰よりも愛しい、心の支え。始めて出会って過ごした一ヵ月、あれだけが全てだった。
 
追跡行の間、サイノスに感じていた怒りや憎しみは、今では哀れみにかわりつつある。
共に同じ人を愛し、傍らに居てほしいと強く望んだその結果、彼は命を落とし、自分は望みをはたした。
もし自分が彼だったら。
 
意味のない例えだと思いつつも考えずにいられない。自分だってリュミエールのためなら命をかけられる。
今すぐだって死んでみせる。
だが、自分は決してそれを実行したりはしないだろう。以前ならいざ知らず、今のこの、憔悴しきったリュミエールの姿を見た後では。
命をかけた恋、聞こえはいいが、残されたほうはどうなる?
愛する者に、不幸と重荷を背負わせるだけではないのか?
この変わらぬ静かな表情の影で、どれほどの嘆きに耐えているのか。
リュミエールは決して、そんな事を望んだりはしないのだ。
もしも自分だった――これは本当に、もしもで終わらせたいのだが――もしも自分だったら。
それでリュミエールの笑顔が守れるのであれば、きっと笑ってさようならを言う事も出来るだろう。
彼が笑っていられるのならば――。
 
 
(もしも自分が彼だったら――)
あの時自分だけが望みだといった彼に偉そうな事を言ったものの、もし自分が彼だったら?
抱き寄せてくれるこの暖かさ、これを永遠に失うのだと言われたら、自分はどうするのだろう?
温めあう肌の喜びを知った今なら、なおのこと。
見苦しいと思われようとも、必死でしがみつくのではないのだろうか?
他に幸せがあるかもしれない、そんな事は考えられないだろう。
今、この腕だけが全てだと、自分だってそう感じている。
離したくない、離れたくない、たとえ別れは確実にくると知っていても。
 
ふとリュミエールは息を吐いた。考えまいとするから、余計につらい。
認めなければいけない、いずれ来る別れに。
同じ時間に同じ場所で愛する人と最期を迎える、そんな幸運が誰にでも与えられる訳が無いのだ。
ならば認めよう、愛し合う時間にも限りがあるのだと。この幸福な時間、例え終わった後も忘れないように、魂に深く深く刻み付けて。
精一杯愛し合おう。
そして祈らずにはいられない。
見上げる星の一つ一つにいる、今の自分と同じ不安を抱えている人々のために。
 
リュミエールは身体の力を抜いて、がっしりとした肩に体重を預けた。
抱き寄せる腕に力が入り、逞しい身体がびくともしない事に喜びを感じた。
どうか、愛することに怯えないで。想いを伝えることを惜しまないで、精一杯互いを思いやって。
そして、その想いが強さと優しさをうむのだと、気が付いて。
全ては自分の中にある。