◆ 儀式 ◆ 

窓の外から聞こえる低い音にエリスは目を覚ました。
早朝、清掃係の下男達が動いている音だ。
貴人達が目覚める前に、健やかな眠りを邪魔せぬように、息を潜めるようにして夜の間の埃を取り除いている。
その僅かな音に目を覚ますようになってから、もう何年たつだろう。
侍女達が朝の支度のために寝室に訪れる前に、必ずやる事がエリスにはある。

エリスは衣装室にある姿見の前に立ち、己の姿を眺めた。
寝乱れた夜着を整え、髪を編み直す。
そして鏡に映る顔。
化粧を施していない顔には、隠しようのない心身の衰えが浮かんでいる。
エリスは鏡に映る自分の顔を睨み付けた。

どんな時であっても、人前に弱った姿を曝してはならない。
例え一晩中眠れず、目を赤く充血させていようとも、表情に疲れを残してはいけない。
エリスは鏡の中の自分を叱咤する。

「しっかりするのです、エリス。お前に嘆くことは許されない。
お前は、常に胸を張っていなくてはならない」

そうでなければ、つけ込まれる。
名前以外、頼りにならぬ兄。
妻を厭う夫。
母を憎む娘。
それら全てに王妃エリスの心が痛めつけられているなどと、誰にも知られてはならない。

エリスは鉄の女でなければならない。
情けを知らぬ雌ギツネでなくてはいけない。
そうでなければ、あっという間につけ込まれてしまうだろう。

自分の裁量で事を運ぶことを知らぬ夫は、すぐに耳に心地よいことを言う者に心引かれ、知らぬうちにこの王国の屋台骨をボロボロにしてしまうだろう。
プライドだけで現実を知らぬ娘は、自分の信じていた足下の脆さを思い知り、屈辱の底に沈むだろう。
私が盾にならなければならないのだ。

そう強く考えた瞬間、エリスは鏡に映る女の姿に息を詰めた。

ここに映る女は誰?
くすんだ肌に気弱げに顰められた眉、力を無くして落ち着きのない瞳。
エリスは震えながら鏡に両手を当てた。鏡の中の女の手が、彼女の手に合わさる。

「これが私か?このくたびれ果てた女が、ロストールの王妃エリスか?」

吐き捨てる語気の荒さとは裏腹に、鏡に映る女の表情は、救いを求めるように弱々しい。
争うことを知らず心弱さを美徳と思い込んでいる、男の庇護を受けたくて仕方がない甘えた女の顔だ。

エリスは鏡に当てた手をぎゅっと強く握り、一度目を閉じた。
「私は強い――自分で考え、行動することの出来る女だ」
エリスは何度も呪文のように繰り返す。

「私は強い。そして考える頭を持っている。甘い言葉を疑うことも、向けられた刃を避けるのにもっとも良い方法は、先に刃を向けることだという事も知っている。私は人を陥れることを躊躇わない。私は、血を怖れない――私は!」

目を閉じたまま、エリスは床に崩れ落ちる。自分の顔を直視することが出来ない。
エリスは怖れている。
自分が今まで行ってきた所行が神に咎められ、裁きを受ける時がくるかも知れないなどと考えることすら恐ろしいと、そう心の深い部分で怯えている。

――本当のお前は、卑小な女。一国の命運よりも、今日の晩餐の献立を考えている方が好きな女。いっそ全てから手を引き、お前に成り代わりたいと願っている者達に全てを渡してしまえばいいのに。

「でも、それではダメ。彼等はファーロス家そのものを憎んでいる。私が退いたところで、今更手を取り合うことなどは不可能」

――でもそうしなければ、お前の戦いは終わらない。

「ダメよ。彼等が欲しいのは、自分達に都合のいい傀儡の王。彼等が私を憎むのは、私がその都合の良い王を手に入れたと思っているから。初めに裏切ったのは彼等の方なのに、彼等は都合よく自分達こそが抑圧された被害者だと思っている。彼等は私達を許さないでしょう」

――お前が背負う荷ではない。夫である男に任せてしまうがいい。あれはそれを望んでいる。

「……ダメ、ダメだわ。あの人は、自分が王になったのは、ファーロス家のごり押しの所為だと思い込みたいの。私が妻になったために、自分が余計な荷を背負い込んだと思っているのよ」

――自分が望んだことの筈なのに?王は王になりたくなかったの?

「判らないわ、判らない。私は嫁いだだけ。私は――傀儡が欲しかったのではない」

――では、お前は何が欲しかったのか?

「私は、私は自分の家族が欲しかったの。夫と子供を持ちたかったのよ」

エリスは顔を上げた。鏡に映る女の顔。
消えることのない心労に、眉間には険しい皺が刻まれている。
人前では平然とした顔を見せつつも、一人きりになったときは常に怯えおののいているただの女。

「私が欲しかったのは、私の家族。私の家族を守るために、私は盾にならなければならいの」

ぺたりと床に座り込み、エリスは鏡に向かって呟く。

「誰もその盾が傷ついているなんて気が付かない。でも――それは私が望んだことだわ」

己の心中の問いに答えていくたびに、己への信頼が蘇り、エリスの声には力がこもっていく。

「私は強くなることを望んだ。誰よりも強く、非情に。何にも負けない力を欲しいと、私が望んだのだ」

エリスは立ち上がった。
鏡に映る女の顔はすっかり様変わりしている。
瞳には力が蘇り、弱々しく顰められていた眉はピンと弧を描き、不安にすぼめられていた唇は傲然とした笑みの形を作り、そこには高貴な美しい女が映っている。
戦うことを選んだ女。
何も出来ないただの小娘であった自分を、意志の力で不屈の女に鍛え上げた自信に満ちた女。
エリスは鏡に映る自分の顔をしげしげと眺め、満足そうに微笑んだ。

「そう、これが王妃エリス。エリスは常に誰よりも強く、美しい女でなくてはいけない。例え、私を敵と思う輩にもそれをはっきりと知らしめなくてはいけない。エリスは誇り高い、敵として戦うに足る女であると」

エリスはぴんと背筋を伸ばすと、サイドテーブルに置いてある鈴を高らかにならした。
すぐに洗面具を持った侍女達が寝室に訪れるだろう。
エリスは彼女たちが入ってくるはずの扉を一瞥してから、もう一度鏡を見た。
そこには気高く誇り高い「支配者」の顔を持つ女が映っていた。


 
 
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