闇が深くなる頃、決まって囁く声が聞こえる。
『お前はこんな所で終わるような者ではないのに』
声の主は長い銀髪に血の色の瞳。
聞く者を唆し、その気にさせるような声音。
だが、それはレムオンの神経を逆なでする。
レムオンは怒り、ベッドサイドのランプを掴んで投げつける。
ガラスの割れる音と、吹き込む夜の風に翻るカーテン。
窓際に立って外を見るが、声の主はどこにもいない。
「窓は今日の昼過ぎまでに間違いなく修理させておきます」
朝食の給仕をしながら、忠実な執事が気むずかしい主にそう告げる。
レムオンは不機嫌に顰めた顔のままで頭を振った。
「何度修理しても同じ事だ。鎧戸だけをつけさせろ」
ゼバスチャンは言い返すことをせずに、「はい」と頭を下げる。
この数ヶ月の間に何度か繰り返された会話。
壊された窓ガラス、入れ替える鎧戸。何度も変わった寝室。
そして、その度にレムオン邸の警備は強化され、不寝番が続く。
だが不審者が入り込んだ様子はない。
主に逆らうことなく食堂を出たセバスチャンは、苦悩に眉を歪めて息を吐く。
(……レムオン様は病んでおられる)
カーテンを閉め切り、薄暗い書斎でレムオンは両のこめかみを揉んだ。
あの囁く声が聞こえるようになってから、まともに眠っていない。
(セバスチャンはこの俺がおかしくなったと思っているようだ)
陰鬱にレムオンは笑う。
幻聴ならいい。だが、間違いなく声は聞こえ、その姿を見ることも出来る。
それなのに、侵入者はいない。
レムオンは硬く目を瞑り、椅子に深く背を預ける。
あの夜から、レムオンの中で何かがざわついている。
王妃エリスの間諜が忍び込み、彼の本性を暴いたあの夜。
義理の妹と、エリスの甥である男に全てを知られたあの夜から。
レムオンの神経はささくれだち、僅かな刺激でも暴発しそうな程に張りつめている。
眠れないことが拍車をかけ、今では館中の者がピリピリと神経質になっていた。
人々に忌み嫌われるダルケニスであるという事。
今はその秘密を知る者はほんの数人であり、義妹と、そして宿敵とも言える立場の男の情けによって表だって語られることはない。
だが、あの女は知っている。
いつかそれを盾にレムオンを失脚させようと手ぐすね引いている。
(あんな雌ギツネの策略にはまってたまるか…そんな事は許さない)
誰かの掌で踊らされ、いいように扱われるなどレムオンの誇りが許さない。
もしも本当にその事が知られたなら、レムオンは自分自身で決着をつけるつもりだ。
誰にも後ろ指差されることのない完璧な終わりを、自分自身で演出してみせる。
だから、その秘密を示唆する「囁く声の主」は忌々しいばかりだ。
(俺の神経をずたずたにする気か?これもエリスの企みか?俺が疲れ果て、自ら馬脚を現すのを待っているのか?馬鹿なことだ――思い通りになどなるものか)
疲れからか意識がぼんやりと霞んでくる。
椅子に腰掛けたまま、レムオンは自分が浅い眠りの中に落ちていくのを自覚した。
ほんの少しだけのつもりで彼は目を閉じる。
『そんなに無理をして否定することなど無いのに』
途端に聞こえてきた囁き声にレムオンは目を開けた。
薄暗い書斎の片隅に、長い銀髪で顔を半ば隠した者がいる。
どっしりとした生地のローブでも着ているのか体格がはっきり判らず、くぐもる低い声は性別も判らない。
身体は金縛りのように動かず、レムオンはただその場で眉を険しくする事しかできない。
『なぜそんなにも神経を張りつめているのか。なぜそんなにも苛立たなければならないのか。なぜなのか、お前は考えたことがないのか?』
次の瞬間、レムオンの体は自由になった。机を足場にその相手に飛びかかる。
「貴様は何者だ!どこから入ってきた!」
後ろ手にねじ上げ、その身体を床に押しつけてから、レムオンはそう怒鳴った。
囁き声の主は、密やかに笑う。
『どこから?それも気が付かないほどに、お前は何に気を取られていた?お前は肝心な事をいつも知りそびれている』
レムオンはかっと目を見開いた。
彼は椅子に深く腰を掛けたまま、薄暗い書斎には他に人の気配無く、背中には冷たい汗が流れている。
「今のは夢か?」
呟きながら立ち上がり、窓を開け放った。
外には人の気配はなく、手入れされた庭の木々が瑞々しい色で疲れた目を癒してくれる。
レムオンは手で額を押さえ、窓枠に突っ伏した。
眠るのが恐ろしくなった。
夜の闇が深くなっていく。
レムオンは寝台の中で目を開けたまま横になっていた。
また、あの闇が来る。
声が聞こえるのを待ちわびてさえいる気がする。その考えに呼応するように、声が聞こえる。
『認めれば楽になるのに』
レムオンは灯りもつけずに半身を起こした。
隣の居間に続く扉の影に、誰かが立っている。
長い銀髪が見える。
『拒むから、怯えるだけだというのが、なぜ判らない』
声はレムオンの深い部分を刺激する。けして頷いてはいけないと知っている、そんな禁忌の部分をしきりについてくる。
「俺は怯えてなぞいない」
レムオンは寝台から下りると、傲然と顔を上げて声の主のいる場所へ歩み寄った。
『では、なぜ、認めない。答えなどとうに出ているのに』
「貴様などに、何が判る!」
レムオンは扉を開け、声の主に掴みかかった。だが、彼の手に触れたのはすべらかに光る物。
レムオンはそれと正面から向かい合い、呆然となる。
「これはなんだ――」
彼の前にあるのは、等身大の姿見。そこに映っているのはレムオンの姿。
長い銀の髪に、赤い瞳。青ざめた白い肌に映える血の色の唇。
それは彼が否定し続けた、ダルケニスとしての本性の姿。
レムオンは己の顔に見入った。
鏡の中の整った顔が、にやりと笑う。
そして聞き慣れた声で言う。
『ようやく気が付いたのか?』
レムオンは低く笑った。
鏡に映る己の顔を見ながら、笑いながら言った。
「そうか、あれは俺か。俺の本心か」
鏡に映るダルケニスは、今まで見たどの人間よりも高貴な気高い姿をしている。
「俺はなぜこんなにも人の世の身分に固執していた?なぜ人間であることを渇望していた?人間など――我が本性たるダルケニスと比較したら、全てにおいて劣っている下賤の生き物ではないか」
そうだ、と言いたげに鏡の中のダルケニスが頷く。自分であって自分ではないように見える男の顔。
『人間は、我々ダルケニスが自分達よりも高貴な魂と強靱な身体と長い寿命を持っていることを怖れた。ただ、数を増やすことしか脳のない下等な人間が作り上げた世界などに、なぜお前はそんなにも居場所を求めたがる?』
「人の世で育ったが故に、俺は縛られていた――人間が、自分達が他の種族に対してどれだけ卑劣で残酷なことをしてきたか――その罪から目を逸らそうとして作り上げた昔話を信じていたのだ。今、俺はその呪縛から解放された。俺の誇りは――人間の作った浅はかな身分などではなく、ダルケニスという高貴な種族の上にある」
『それでこそだ。お前は王と呼ばれるのにふさわしい。人の世の終わりの後に来る世界を統べる王として』
「そう、俺こそが王となるにふさわしい」
深まる夜の闇の中にレムオン・リューガと名乗った男の姿は溶けて消え、闇の王としての姿が浮かび上がる。
『そう、あなたこそふさわしい。闇の王と呼ばれる存在に』
鏡に映る銀髪の貴公子の笑う顔に、黒髪の少年の姿が重なった。
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