◆ それはダメ!◆ 

暗闇の中にレイヴンは1人でぽつんと立っていた。

――ああ、俺は死んだんだ。

ソウルイーターに破れ、竜王につかの間の仮の命を与えられ、そして今、あるべき姿に帰ったんだ。
俺は死んだんだ。

レイヴンは目を閉じて息を吐いた。
自分の死は怖くはない。さんざん人を殺し、その罪悪すら知らなかった人形のような俺も、最期は誰かを助けることが出来た。ノエルの役に立てた。それだけで満足だった。
もう思い残すこともない――レイヴンは密やかな満足感を噛みしめる。
目の前には細い光の柱が天頂に向かって伸びている。
優しく誘う神々しい光に、レイヴンは目頭が熱くなるのを感じた。
こんなにも穏やかな気持ちで、死者の国の門をくぐれるなど、想像だにした事もなかった。

ありがとう、ノエル。君の行く先に幸いあれ――。

目を閉じてそう心の中で祈り、レイヴンは光に向かって歩き出す。
すると、その服の裾が引かれた。
目を落とすと、布の人形を抱いた少女がレイヴンの上着の裾を掴んでいる。
「お兄ちゃん、遊ぼうよ」
無邪気そうなくりくりとした目を輝かせ、少女はレイヴンをそう誘う。
レイヴンは首を捻った。
ここにいるという事は、この少女も死者なのだろうか。

(可哀想に…こんなに幼いのに)
暗殺者であった頃なら決して感じる事のなかっただろう痛ましさに、レイヴンは膝をつくと少女と目線を合わせた。
「お兄ちゃん、遊ぼうよ」
「……ああ、遊んであげるよ…でも今はダメだ。一緒に行こう…行くべき場所へ」
そう言って抱き上げようとするレイヴンの腕の中から、少女はするりと身をかわす。
「逃げてはダメだ、俺と一緒に行こう」
「どこに行くというの?」
少女を追いかけようとしたレイヴンの背後から、冷たい女の声がした。
ひやりとした感覚を感じながら振り向くと、首筋の大きな傷からまだ血を流し続ける若い派手な夜着の女が立っている。
レイヴンはその着ている夜着に見覚えがあった。
胸元から袖にかけての贅沢な刺繍は薔薇の花。
ある大商人の妾だった女だ――かつて依頼を受けてレイヴンが殺した女。


「私を殺した男がどこへ行くというの?そんなの許さない」
女は血を流しながらレイヴンに迫ってくる。
ざんばらにほどけた髪。寝化粧が浮き上がって見えるほど青ざめた肌。
その怨念に満ちた姿に、レイヴンは喉の奥で引きつった悲鳴を上げて後退った。
「怖いの?殺し屋のくせに。殺した相手を見るのは怖いの?」
女はそんなレイヴンの姿を嘲笑う。

「私はね、お前に殺されて、悔しくて悔しくて、憎くて憎しみに囚われて、どこにも行けないの。神の国にも入れずにこうやって彷徨っているの。それなのに、お前は神の国へ行こうというの?そんなのダメ、許さない――」
ぼこり、と沼から気泡がわき上がるような音がして、闇の足下から手が伸びた。
死蝋の色をした手は何本も何本も地の底からはえだし、レイヴンの足首を掴む。
そして顔。

骨に皮だけ張り付いたような顔がいくつも手と共に湧きだし、怨嗟のこもった悲鳴を上げた。
苦しい、苦しい。ただそれだけを喚く声。
レイヴンは一瞬喉が詰まったような声を出し、次いで絶叫した。
いくつもの顔、それはかつてレイヴンが手に掛けた人々の顔。
まるで物を壊すように何の躊躇いもなく奪い去った人々の命が、今も苦しんで藻掻いているのがいやと言うほど判る。 耳をつんざく人々の声にレイヴンは悲鳴を上げ、そして何度も何度も「許してくれ」と叫んだ。

「俺は何も知らなかったんだ!命を奪うことの罪悪がどんなものか、俺は知らなかった!頼む、許してくれ!俺は償いをした、償ったんだ!」
「償ってなんかいない」
女は冷酷に言い捨てる。
「誰が許すの。誰がお前の償いを受けたの。私達が今もこんなに苦しんでいるのに、どうして私達にその苦しみを与えたお前が償ったなんて言えるの。その子をご覧なさい!それは私の子よ!」
最後の言葉を女は悲鳴と共に吐き出した。

レイヴンの服の裾を掴む少女の顔。
顔は骨に皮が張りついただけで目の部分は暗い二つの洞、髪は蜘蛛の巣のようにパサパサとなり、その愛らしかった容貌は文字通り動くミイラのような醜悪な姿に変わっていた。
その少女が声だけは変わらぬ無邪気さでレイヴンを誘う。
「お兄ちゃん、遊ぼうよ」
全身が氷のように冷え、声を出すことすら出来なくなったレイヴンに、女はすすり泣きながら訴えた。

「私が死んだ後ね。正妻は私が商人から与えられた家から、その子を追い出したの。腰抜け商人はその子を守ってくれなかった。誰も助けてくれなかった。その子はね、たった1人で飢えて死んだのよ。道ばたで犬のように死んだの。その身体が骨になるまで、誰も葬ってさえくれなかった」
女は泣きながらレイヴンを指差した。
「お前はその子を殺さなかった。でもその子はお前の所為で死んだのよ」
レイヴンの瞳から光が消え、彼は声もなく膝をついた。
闇から伸びる手がレイヴンの足から膝、太股へと絡みつく。
青ざめた顔のレイヴンは息することすら忘れ、焦点の合わぬ目をただ前方に向けていた。
「お兄ちゃん、遊ぼうよ」
ミイラになった少女は、しきりにレイヴンの上着の裾を引く。
干涸らびた皮膚から細い骨が飛び出している指で。
「知らなかったなんてそんな言葉で許さない。お前が心穏やかに神の国へ行くなんて許さない。私達は、お前を永遠に許さない」
女の呪詛の言葉を背に受けたレイヴンの頬を、涙の筋が伝う。

「ねえ、お兄ちゃん」
なおも誘う少女の身体を、レイヴンはぎゅうっと抱きしめた。
「ああ、遊ぼう…」
その返事に少女は笑う。唇の肉が落ち、むき出しになった歯を鳴らして、嬉しそうに言う。
「わあい、ねえ、鬼ごっこしよう?それから、かくれんぼ!あと石蹴りと、お人形さんでも遊んでいい?」
「ああ、いいよ……ずっと遊ぼう。ずっとずっと、遊ぼう…」
少女を抱きしめ、涙をこぼしながらそう言うレイヴンの身体を、闇から伸びてきた手が覆い尽くす。

天から伸びた光の柱も消え、レイヴンを飲み込んだ闇は永劫の闇の底へと沈んでいった。



 
 
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