◆ 例えばの話 ◆ 

たとえばの話し。

たとえば100人に同じ言葉を吹き込んでやろう。
お互いに名前も知らない、顔も知らない、だけど同じような不満を抱えた100人。
その人間達がある日突然行動を起こす。

たとえば、酒場で。
たとえば、道の真ん中で。
たとえば、王宮の、たとえば王の目の前で。
そうしたらどうなるだろう。

たとえば彼等がしたのが突然歌い出すことだったら。
突然、水を被って走り出すことだったら。
突然、剣を抜いて相手構わず切りつけることだったら。
そうしたら、どうなるだろうか?

ネモはそんな夢想に1人ほくそ笑んだ。

ウルグの使徒の1人魔人ネモは、今は仔猫の姿に封じられ、強大な魔力をふるっていたころが嘘のような生活をしている。
のんびりと日溜まりで昼寝をして日がな一日過ごすという、猫そのものの生活。
すっかり馴れた今となっては、そんな風な暮らしも気に入っていて、何がなんでももとの力を取り戻す、などと息巻く気も起きない。

それでもあまりに退屈すぎると、ふと悪戯心が起きる。
ネモは「名前を知る者」の別名の通り、その気になればありとあらゆる人間の名前を知り、そして心を知ることが出来る。
「無限のソウルを持つ者」として賢者を初めとした大物連中にも密かに注目を集めるあの小娘でさえ、時に落ち着かない顔で見知った人間が自分をどう思ってるか?などと訊いてくる。
面白い。
じきに世界の命運をかけた戦いに臨むはずの娘が、頬染めて友人つき合いやら、思いを寄せた相手の事などこっそり相談に来るのだから。
むろん、いつでも時間をもてあましているネモは懇切丁寧に話を聞き、知る限りのことを教えてやる。
彼にとっては造作もないこと。
彼は名前を知る者。その気になれば、大陸中の人間の名も、彼等が何を望んでいるのかも知ることが出来る。知るだけではあるが。
残念ながら往年の魔力を失っているネモには、せいぜい占い師の真似事をする程度のことしかできない。
それでも、相手の僅かな隙に取り憑き、言葉を吹き込み、相手の気持ちをゆらしてやることは出来る。
あのゴブゴブ団に禁断の聖杯を盗ませ、一度はこの賢者の森にまで呼び寄せたときのように。

日溜まりの中でネモは意識を拡散させ、取り憑くのに都合のいい意識を持つ人間を捜す。
一番手っ取り早いのは不満。
誰だって自分の生活全てに満足するなんて事はない。
女なら皺が増えた、隣の女の方が若そうだ、綺麗に見える、いい男を捕まえた、なんてそんなたわいのない事でも不満を募らせ、心の中で唇を尖らせて悪態を付く。
男なら、なんであいつの方がいい給料を貰っている、良い地位についている、女房恋人が美人だ、俺の家より良い家に住んでる、などと細かい不満を胸に抱えている。
ネモはその中でもさらに切実で大きな不満を抱えている者を探す。

今にも爆発しそうな程にギリギリのところで平静を保っている人間。
自分よりも幸せそうな、恵まれた連中全部に唾を吐きかけてやりたいと、心密かに思っている人間。
そんな連中は判りやすい。
いつでも意識が他人に向いているから。
そんな連中は絶対に自分を見ない。
不遇なのは自分のせいだ、などとは絶対に思わない。
抑制が利きすぎている人間は、感心はするが興味は湧かない。
そういう人間達は、耳に甘い言葉に誤魔化されないだけの強い意志を持っているからだ。ネモがどんなに囁いても、頭をふって「とんでもないことを考えてしまった」と魔よけの印を結ぶだけだろう。
ネモが可愛いと思うのは、甘い言葉を欲しがっている連中。
「俺の言うとおりにして見ろ、そうすれば、お前は幸せになれる」なんていう胡散臭い言葉を真に受けてくれる、愚かで可愛い脳みその持ち主達だ。

日溜まりの中でゆっくりと目を閉じながらネモは夢想する。

あの王宮の水場で働いている下女達に囁いてやろうか?
洗濯前のドレスから外した宝石を一個だけ、自分の古いエプロンのポケットに隠してみろよ、と。
素知らぬ顔で町を出て、遠くの町で売り飛ばせばあとは安楽に暮らせるよ、と。

あの門の前で退屈そうに立っている門番に囁いてやろうか?
夜中に仲間を集めてこっそり屋敷の中へ手引きしてやれよ、と。
鍵さえ開いていればあとは楽勝だ、金を持ってトンズラしろよ、と。

1人2人なら追っ手が掛かるかも知れない。
でも、下っ端の召使い全員が一斉に逃げ出したら、そもそも追いかける奴がいないだろう。
空っぽの屋敷で呆然としている主達の顔を想像したら、さぞ面白いだろう。
火の点け方も、水の汲み方も知らない偉いさん達は顔も洗えずに右往左往するだろう。
想像しただけで面白い。

たとえば、それが町ぐるみだったら。
たとえばそれが国ぐるみだったら。
大陸中を巻き込んで大騒ぎになるかも知れない。

たとえばそれが戦の真っ最中だったとしたら。
戦場から戦士達が揃って逃げ出したら。
――どうなるのだろう?

「ネモーー、ご飯よ」

呼びかけてくる声にネモは楽しい夢想を中断した。
声高に呼ぶのは賢者の養女、ハーフエルフのケリュネイア。
現在自身も仔猫の姿になっている養父オルファウスのために、館で家事一切をまかなっている。
意外と料理上手で、その味付けをネモは気に入っている。

「ネモ、早く来ないと、父さんが全部平らげちゃうわよ?」
「今行くから、ちゃんと残しとけよ!」

ネモはそう返事をしてから身体を起こし、大きくのびをした。

たとえばの話し。
ネモは大陸を混乱に陥れることが出来る。
でもそれはかなりの精神集中を必要とするだろう。
想像するのは楽しいが、実行するのは面倒くさい。
いずれ本来の身体を取り戻してからならともかく、この小さい体で気力体力を絞るのもかったるい話だ。
どっちにしろもうすぐ混乱の時が来る。
ほっといても楽しめるのに、自分で労力を使うこともない。

それにたとえばの話し、これからする世界征服と、今目の前にある美味しい食事。
それのどっちを選ぶかと訊かれたのなら。

「当然、目の前の飯が優先だな」
ネモはそう1人ごちると、美味しそうな臭いを漂わせる館へ急ぎ足で帰っていった。


 
 
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