夢の中では笑いかけてくれる。
夢の中では、手をさしのべてくれる。
私だけを見てくれる。
私だけに語りかけてくれる。
でもそれは夢。
過去も未来も、あの人はそんな風に笑わないし、そんな風に話さない。
とても優しい私だけの恋人。
でも、それは夢。
過去も未来も現在も、あの人は私の恋人ではあり得ない。
ケリュネイアは頭痛を堪えて目を開けた。
ベッドの上に身体を起こすと、もう日は高い。
「……調子に乗って飲み過ぎたのかな。頭が痛い」
頭を抑えながら、ケリュネイアは昨夜見た夢を思い出す。
とても幸せな恋人同士の夢。
でも、それはあくまで夢だということをケリュネイアは知っている。
勇者ネメアと呼ばれた男は、今は別の少女と別の大陸にいる。
ケリュネイア1人を残して。
「ケリュネイア、随分と遅いお目覚めですね」
美女にしか見えない酒豪の賢者が、スープ鍋をかき回しながら言う。
「スープが出来たところですよ。食べられるなら、お皿を出しなさい」
ケリュネイアはその言葉に従い、スープ皿を戸棚から取り出した。
自分と父と、そして猫の姿の魔人分と三枚。
オルファウスは皿を持って隣に来た娘の顔を見て、心配げになった。
「顔色が悪いですよ。具合が悪いのではないですか?」
ケリュネイアは首を振る。
「飲み過ぎよ。父さんのペースに併せると酷いことになっちゃう」
「そうですか。では、あとで酔い覚ましのお茶を入れてあげますよ」
「ありがとう、父さん」
食事の後、再び休むために部屋に戻った娘のために、オルファウスは薬草を煎じるためにお湯を沸かし始めた。
足下にネモが来る。
「お湯がかかっても知りませんよ」
見もしないでそう言うオルファウスに、ネモは含み笑いをした。
「いいのか?あのままで」
「何がですか」
オルファウスの言い方は不機嫌だ。
「お前だって気が付いたろ?ケリュネイアがなんでここに戻ってきたのか」
「何のことです」
オルファウスはネモを蹴立てるようにして戸棚からカップを取り出した。
「ケリュネイアはネメアが恋しくてたまらないんだよ。1人でいると寂しくてどうしようもないから帰ってきたんだ」
「そんな事ですか。もったい付けて何を言うかと思ったら」
「へー、気が付いてたか」
「当たり前です」
ひょいとテーブルに飛び乗ったネモを睨みながら、きつい口調で答える。
「ケリュネイアは確かに傷ついています。でも、あの子はそんなに弱い子ではありません。きっと立ち直ります」
「へー、どうやって」
オルファウスの視線が文字通り火花を散らす。ネモは尻尾の先に熱を感じて飛びすさった。
「時間が解決してくれます。ネメアがあの子、無限のソウルの持ち主と旅に出ることを選んだのは、あの子も納得しているのですから」
「へいへい、さすがの賢者様も親ばかか。『私はあの子を信じます』ってか?」
嘲笑するネモの言葉に、オルファウスはぎっと視線を厳しくした。
「何が言いたいんですか」
「時間なんて解決しないよ。ケリュネイアはネメアを理想化して、この人しかいないって思い込んでた。そしてその通りに振る舞ってた。自分が想ってた以外のネメアを認めたくないんだよ」
「そんな事はありません」
「あるよ」
険しい顔で否定するオルファウスをネモは軽く笑い飛ばした。
「そりゃ、頭では理解してるさ。でも心じゃ納得してない。ケリュネイアの心は恋人に裏切られて捨てられた、そんな風に感じてるのに、愚痴を聞いて欲しいお父様は自分を捨てた男と新しい恋人を祝福してるって具合だ。あげくに見当違いの『信じてる』で泣かせてもやらない。可哀想なケリュネイア」
「言いたいことはそれだけですか」
氷点下の声にネモはぴたりと黙る。
ふん、と一つ鼻を鳴らし、窓に飛び乗った。
「勝手に親ばかやってろよ。恋する女ってのは、理性なんてどっかに捨てたくなるときがあるのさ」
「ケリュネイアはそんな娘じゃありません」
オルファウスは思わず手にしていた薬缶を投げつけた。
お湯がかかる前にネモは外へと消えている。
オルファウスは不機嫌に開いた窓を睨み付けると、ケリュネイアが休んでいる部屋へと目を向けた。
「……時間が解決してくれます、きっと…」
1人になったケリュネイアはベッドに横たわり、目をとじる。
暗闇の中にすぐに男の姿が浮かび上がる。
ケリュネイアは寂しさを紛らわすためにその幻想に取りすがる。
ネメアが側にいる。
私を見て「愛している」と言ってくれる。
私だけを見て、ずっとずっと側にいてくれる。
これは私の願望、夢。ちゃんと判っているわ、父さん。
だってネメアは一度だって私にこんな風に笑ってくれたことはないの。
私に心を許してくれたこともない。
私はネメアの一番近くにいた、そのつもりだったけど、ネメアにとって私は一緒に暮らしていた「妹みたい」な者。
恋人にも妹にもなれない、そんな中途半端な存在だったって気が付いている。
だから、私のことを考えてくれない。
私の理想を叶えてはくれない。
過去も未来も現在も、ネメアは私の者にならないの。
現実を私は知っている。
ちゃんと頭では判っているの。
ネメアが欲しかったのは、後を追いかけて一緒に歩いてと呼び止める私じゃなくて、自分の隣を自分の力で一緒に歩める人だったって。
私はそうなれなかった。
だから置いて行かれても仕方ない。
でも心はそれを嫌がっている。
ネメアと一緒に居たい。
私に笑いかけてくれるネメアは私の夢の中にしかいない。
だからずっと眠っているの。
ずっとずっと、優しいネメアと一緒に居たいの。
ずっとずっと夢の中にいる。
ケリュネイアはそう自分に暗示をかける。
ずっとずっと、ネメアと一緒に、夢の中にいるの。
私だけを愛してくれるネメアと一緒に。
目尻からこぼれる物に気がつき、ケリュネイアはそれを指でなぞった。
涙が指先を濡らし、ケリュネイアは身体を起こして濡れた指先を見る。
「判ってる、これが現実なの。明日も明後日も何年経っても、私は夢の中でネメアと逢い、そして目覚めて泣くのよ」
溢れ出る涙を感じながら、ケリュネイアは顔を手で覆った。
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