◆夢に見た場所◆
 
 
 
初めて酒を口にしたのは、けっこう昔のことだと思う。
子供の頃、食事の度に父親のうんちくを聞きながら、判りもしない味のワインをちびちびと舐めるように
飲んでいた。
初めて酒が上手いと思ったのは、冒険者になって少したった頃の都会の下町にあった小さな酒場。
安酒も、気安い連中と酌みかわせば、極上の味になるのだと知った。
一緒に飲んでいて特別に楽しいと感じた連中は数人いるが、その中の1人に元冒険者で、酒に魅せられて
結局作る方になってしまったという爺さんがいた。
若い頃の冒険談、酒にまつわる失敗談や思い出話。
酔うほどに滑らかに出てくる豊富な話題に、ゼネテスは会うたびにこの爺さんが好きになっていった。
その爺さんが姿を消した。
冒険者を引退したあとも、たった1つだけ忘れられなかった夢を追いかけて。
 
 
リベルダムの西、竜骨の砂漠近くの村にその爺さんの家はあった。
葡萄畑に適した土質ということで、葡萄酒作りが盛んな場所である。
その中でも爺さんのつくる葡萄酒は、その酒にたいする熱愛ぶりが反映してか、特別に上手いと評判だった。
普段、酒の卸は息子や娘の婿さんに任せているのだが、時々酒場の雰囲気が恋しくなるのか、
年に何度か自らリベルダムの酒場に配達に来ては、そこで若い連中と飲みかわしていくのである。
ゼネテスはこの爺さんに気に入られ、何度か自宅や畑を訪れては、売りに出さない家族用の特別な酒を
振る舞って貰っていた。孫ほどの年齢のゼネテスをこの爺さんはかわいがり、各地で見聞きしてきた伝説や、昔話もたくさんしてくれた。
その礼にと、各地で珍しい物を手に入れた時は必ずそれを土産に、ゼネテスは訪ねていっていた。
自分では、けっこう親しくなっていたつもりだった。
だからこそゼネテスはショックだったのだ。
数ヶ月ぶりに訪ねていったゼネテスに、爺さんの娘が心配顔で「行方不明になってしまったの」と告げたときは。
 
 
◆◆
 
 
爺さんが語ってくれた伝説の中には、「砂漠の中の葡萄の木」という話があった。
竜骨の砂漠の奥には、常に枯れることのない原初の葡萄の木があり、旅人のために最上級のワインを
その虚に蓄えているのだと。
その木は、年に一度、冬のある一日だけ、人の前に現れるのだと、そう目を輝かせて言う爺さんは、
一度でいいから、自分もその酒を味わってみたいと願っていた。
 
「爺さん、そんな、たまーにしかお目にかかれない場所、一体どこの誰が見て確認したんだよ」
若いゼネテスがそう言うと、爺さんは赤ら顔をさらに赤くして言い返したものだ。
「誰かが見ていなくて、そんな話があとに伝わるものか。わしは信じているぞ、あの砂漠の奥には、
きっと誰も飲んだことのない素晴らしい酒が、今もねむっておるのじゃ!」
「誰も飲んだことのない酒が素晴らしいって、なんで言い切れるんだ」
「たわけが、屁理屈ばかりこきおって!酒飲みの風上にもおけん!心の舌で味わうのじゃ!」
「むちゃくちゃ言ってらあ」
そう主張する爺さんの言葉を、ゼネテスは冗談のように聞き、笑っていた。
今更、そんなあやふやな言い伝えを信じ、旅立つなど思っても見なかった。
 
「老い先短いわしじゃ。どうしても、あの伝説の葡萄の木と酒を飲んでみたい」
体調を崩した爺さんはそう繰り返し繰り返し、砂漠を見ながら言っていたという。
それでも、誰も本当に旅立つなど思っていなかった。
爺さんは急に足腰が弱くなり、リベルダムに酒を運ぶにも1人では無理な位だったからだ。
行方不明になったことに気が付いた家族は、村人全員を動員して爺さんの行方を捜した。
冒険者達にも声をかけ、さがして貰うように手配した。
それでも見つからなかった。
心労でやつれた娘は、ゼネテスの顔を見て何度も何度もすがるように訊いた。
「本当に、お父さんのこと、知らない?本当に?お母さんも心配で寝込んだの。知っていたら、教えて」
そう言われても、ゼネテスには答えようがなかった。
知らないことも確かだし、何より、自分が置いて行かれたような気がして、胸に穴が空いたような寂しさを覚えたからだ。
ゼネテスは、この爺さんが大好きだった。
でも爺さんは、自分の人生の最後の最後に、1人で夢を追いかけていく方を選んだのだ。
 
 
次の冬、砂漠の遊牧民相手の行商人から砂漠上空に雲を見かけたと聞き、ゼネテスは1人で旅立った。
『砂漠の上空に雨雲がでると、その下に葡萄の木が現れるのじゃそうだ』
『砂漠に雨なんて降るのかい?』
『このもの知らずが…砂漠にも雨期というものがあるんじゃぞ』
爺さんとかわした、そんな会話を思い出す。
孫に教えをたれるような、そんな言い方だった。
この老人が生きて元気な姿で見つかるとは、ゼネテスは思っていない。
ただ、老人が長い間忘れられずに抱き続けていた夢の欠片を、形だけでも追いかけてみないと、
とても思い切れそうになかったのだ。
 
行商人から聞いた言葉を頼りに、ゼネテスは代わりばえのしない砂漠の中を歩く。
陽炎がたつほどに熱く、乾いた世界だ。
汗が乾いて肌の上に塩になり、口の中はいつのまにか入り込んだ砂でざらざらしている。
この世界が一時でも潤う瞬間があるのだろうかと思いながら、ゼネテスは口元まで覆っているマントを少しばかりずらし、革袋の水を僅かに口に含んだ。
この世界から逃げようと思えば、脱出呪文でいつでも逃げ出せる。
だが再び砂漠の奥へと進入しようと思えば、それだけまた日にちがかかる。
水が完全になくなるまで、気力が付きかける瞬間まで、ゼネテスは雨雲を探すつもりだった。
陽が高くなると、砂丘の影に潜んでじっと夜になるのを待つ。
そんな日が数日続き、ゼネテスが持ち込んだ水も食料も乏しくなった。
 
…やっぱり、よた話はよた話だよ、爺さん…そんな話を信じて、爺さんはこの砂漠のどこかで
ひからびちまったのか?
底で頼りない水音を立てる革袋をふり、ゼネテスは明日の昼になったら砂漠を脱出することを決めた。
これ以上はいくら探しても無駄だろうと、そんな諦めの気持ちだけが大きくなっていた。
 
夜の間中、砂漠を歩き回ったゼネテスは、薄く陽が昇りかけたところで休憩をとった。
じきに、またあの熱い時が来る。
最後の水を口に含み、ゼネテスは空を見上げた。
からからに乾いた色合いの晴れた空が陰ることなどあるのだろうか、そんな事を考えたときだった。
不自然なほどに黒い雨雲が一気にゼネテスの上空に広がり、たたき付けるような豪雨になる。
 
「マジか?雨?」
町中なら忌々しく感じるような雨も、この乾いた世界で浴びるには心地がよく、ゼネテスは歓声を上げた。
目の前も見えなくなるような雨に、ゼネテスはマントを深くかぶり直しながら、革袋の口を広げた。
あっというまに、乾いていた袋が水で満たされていく。
雨は降り始めたときと同じほどの唐突さでやんだ。
そしてゼネテスはまるで雨に砂が流されてもしたかのように、辺りの光景が変わっていることに気が付いた。
崩れる砂丘はどこかに行き、所々で水たまりが光る荒野が広がっている。
そして、その先に――。
 
ゼネテスは我が目を疑った。
その荒野の真ん中に、青々とした葉を茂らせ、たわわな葡萄の実を付けた一本の大樹がそびえていたからだ。
 
 
まるで幻覚を見ているようだ。
そう考えながら、ゼネテスはその木に向かって歩いていった。
近付くにつれ、大樹と見えたその葡萄の木は、無数の蔓が寄り集まっているのだということが判った。
その絡まり合う蔓の一ヶ所に、ゼネテスは見慣れた色合いを見つけ足を止めた。
蔓に抱きしめられるように、一体のミイラがそこにある。
それがまとっている服の色にゼネテスは見覚えがあった。
孫娘が初めて作ってくれたと言って、爺さんが喜んで愛用していた上着だったからだ。
 
ミイラが絡まっている蔓の間に、小さな虚があった。
そこから、芳醇な香りを漂わせる液体が、まるでそのミイラに饗しているように、したたり落ちている。
ゼネテスはその濃い紫色の液体を手のひらで汲み、一口だけ飲んでみた。
 
極上の自然の葡萄酒。爺さんが言っていたような、最高の味の――。
 
ゼネテスは少しの間呆然と立ちすくみ、それからミイラの前にしゃがみ込みこむと、膝に腕を乗せ、
まるで生きている人間相手のように話しかけた。
 
「なあ、爺さん――これはちょいとずるいんじゃないのか?」
湿気のある風が、ゼネテスの濡れた髪を揺らす。
「爺さんの嫁さんも、娘も、息子も、孫も婿も嫁も――みんな爺さんの心配をしている。
村の人も、酒場の常連も、みんなみんな、爺さんのことを心配しているってのに、爺さんはこんな所で
1人で酒盛りとは、ちょいとひどいと思わないか?」
 
喋っているうちに、喉から鼻の奥にかけて、ひどく熱くなっていくのをゼネテスは感じた。
そして全身はいくつもの部位にわけられ、その一つ一つからは逆に熱が失われていく冷えた感覚。
気持ちが悪い――追い払える物なら追い払ってしまいたい、そんな不快感が全身を包む。
 
「なあ、爺さん…そんなにこの場所が恋しかったのか?みんなを悲しませても、ひきかえにしても、
どうしても我慢できないほど、…ここに来たかったのか?」
喉が詰まって、声が掠れた。
ゼネテスは下を向くと、もどかしげ何度もに首を振った。
 
「なあ、爺さん…そんなに諦めきれなかったのか?」
蔓に絡みとられた老人のミイラは、幸せそうな穏やかな顔をしている。
時折、流れた葡萄酒が口元をぬらし、風にかたかたと揺れる頭部の動きせいで、まるで丁寧に味わっているようにも見える。
 
こうしていたかったのか?
最期の最期、これが爺さんが選んだ結末だったのか?
誰を泣かしても、苦しませても、譲れなかった夢が叶って――幸せだったのか?爺さん。
 
ゼネテスは何度か息を吸い込んで、震える声を静めた。
「因果だな、爺さん。冒険者の性ってやつか?どうしてもどうしても諦めきれない夢があるなら、
思い切って探しに行く。その結末がどんなでも、何もしないで悶々としているよりも幸せなんだろうな。
…判るよ、多分俺も一緒だ」
 
何を捨てても、誰を悲しませても、譲れない、妥協できない、そんな想い。
判りすぎるほど判るゼネテスは、老人に置いて行かれたと思ったときに感じた嫉妬にも似た悔しさを
振り払って立ち上がった。
辺りを見回すと、爺さんの水袋が蔓に引っかかって揺れているのが見えた。
「これを貰っていくよ、爺さん。ちゃんと教えてやらなきゃ、家族はみんないつまでもいつまでも待ってる。
爺さんは夢を見つけた――ずっと醒めない夢の中にいるって、俺が説明してきてやるよ」
 
また、風に老人の乾いた頭部が揺れる。
ゼネテスの言葉に頷いているように見えた。
「調子のいい爺さんだな。まったく、人を使うのが上手い爺だぜ」
苦笑しながら水袋に手を触れると、しっかり蔓に絡まっていたように見えていたのに、それはあっさりと外れて
ゼネテスの手に収まった。
「間違いなく、預かったぜ。爺さん」
そう言いながらも立ち去りがたく、ゼネテスはその場に立ち続ける。
水気のあった風はいつのまにか乾き、砂漠の細かい砂をのせて吹き始めた。
ゼネテスはぼんやりと頭を巡らした。
広がっていた荒野は、葡萄の木の周辺だけ残して砂の壁に埋もれつつある。
 
「…そうか、お別れなんだな…じゃ、行くよ、爺さん」
ゼネテスの顔に自然と笑みが浮かんだ。
悲しくて泣きたくて、それでも乾いた目をして、ゼネテスは笑う。
この陽気な爺さんとの別れには、泣き声よりもその方がふさわしい。
ゼネテスと老人の間をふさぐように、風が小さな竜巻を造り、砂がまいあがった。
思い切って後ろを向き、その場から歩き去る。
少しだけ進んだあと、ゼネテスはもう一度振り向いた。
砂の向こうに、名残を惜しむように緑の葉が一瞬だけ揺れ、そして完全にその地は消えた。
風が止み、ゼネテスの目前に広がっているのは、見慣れた砂漠の風景だけ。
 
ゼネテスは、いつまでも引きずる思いを振り切って呪文を唱えると、砂漠の入り口に戻った。
見渡しても、もう何も見えない。爺さんの姿も、あふれる程に実を実らせた大きな葡萄の木も、
そして芳醇な幻の酒も。
ゼネテスは遠くを透かすように仰ぎ見た。
この砂漠のどこかに、あの彼岸の地がある。
酒好きの陽気な爺さんを抱いて、またいつの日か、旅人が訪れる時を待っているのだろう。
 
「…いつかまた、俺にも振る舞ってくれるかい?とびきりの酒をさ…なあ、じいさん?」
 
そう呟き、砂漠に背を向けたゼネテスの背後から吹く風に、微かに酒の香が混じる。
 
『まってるよ、坊主』
そう言って笑う爺さんの声が、聞こえたような気がした。
 
 
 
 
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