軽いノックの音と共に、女が部屋に入ってきた。その手には灯のともった燭台が握られている。
「やっぱり、明かりをつけてなかったのね」
日が暮れた後の暗い室内には、時間が過ぎたのも忘れているような男がベッド脇の椅子に座っていた。
女――ディンガル新皇帝ザギヴは、自ら燭台の火を部屋のランプに移してゆく。
室内が暖かい色合いの光に満たされた。
「貴方は少し休んだのかしら?」
からかいを含んだ口調で言うと、ザギヴは男の隣の椅子に座る。
「食事はちゃんととったの?まさか、座ったまま眠ってるんじゃないでしょうね」
「休んでるよ」
ゼネテスが苦笑気味に答えた。
「隣室のベッドは使われてなかったって、女官が言ってたわ」
「その辺で寝たさ」
「…野生児ね」
呆れたように微笑むと、ザギヴはベッドで眠っているリュミエの顔を覗き込む。
「意識は戻ったって聞いたけど」
「ちょっと起きて、スープだけ飲んで、また寝ちまったんだ」
不安そうなゼネテスに、ザギブはまた微笑んだ。
「魔法を使いすぎたせいよ。傷の治療もすんでるし、命に別状はないわ。とにかく眠って、起きたら何か食べて。
今はゆっくり療養するのが一番なの」
そう言ってから、ザギヴはちらりとゼネテスを見る。
「それは貴方にも言える事ね。この2日、まともに横になってないでしょう?」
ゼネテスは無言のまま、酷く辛そうな顔つきになった。
「責任を感じて眠れないの?リュミエは、自分が殺されかけた理由を知ってるのかしら?」
「さて、しらんと思うが…」
言いかけたときにリュミエが目を開けた。
実にすっきりとした風に目を見開くと、ベッド脇で自分を見下ろしてる二人に気が付く。
「あ…、ゼネテスに…、ザギヴさん…」
なんでいるのか?と不思議そうなリュミエに、ザギヴはにっこりと笑いかける。
「ここはエンシャントの王宮内よ。貴方は2日前から、私のお客様としてここに滞在してたの。覚えてないの?」
「全然、分からない」
ぼーっと答えるリュミエに、ザギヴは可笑しそうにゼネテスの顔を見た。
「報われないわね。この人ったら、怪我した貴方を抱えて、いきなり会議の席にテレポートで現れたのよ?
ま、他に出て変な騒ぎになるよりかはマシだったけど。慌てふためいて元敵に助けを求めてきたのに、
肝心の貴方ったら呑気だこと」
くすくす笑いながら言うザギヴと対照的に、ゼネテスは苦虫を100匹くらいまとめて噛みつぶしたような顔をしている。リュミエは前後の事情がよく思い出せずにきょろきょろした。
「…ゼネテス、私、変な所にいたんだけど」
変な夢を見ていたような心持ちで、リュミエはゼネテスに訊ねた。
ザギヴがちらりとゼネテスに目配せをする。
ゼネテスは仕方なさそうに頭をかいた。
「あんまり知って嬉しい事情じゃねえが、…聞くか?」
リュミエはこくんと頷いた。
数十分後――ベッドにすわって話を聞き終えたリュミエが、酷く困惑したような顔で俯いている。
「私、ティアナ王女や、エリス王妃様を傷つけてたんだね」
その言葉に何かを言いかけたゼネテスを制し、ザギヴはリュミエの手を握った。
「いいえ、貴方のせいじゃないわ。権力者が自分達の論理で、自分達に都合の悪い人間を排除しようとするのは、よくあることだわ。だからって、大人しく殺されてやる義理なんて貴方にはないんだもの。それに」
ザギヴはゼネテスを見る。
「これは貴方の問題じゃなくて、彼の問題よ。彼が決着をつけるべきであって、貴方が責任を感じる必要はない」
「ああ、ザギヴ皇帝の言うとおりだ」
リュミエは上目遣いで、そう言いきったゼネテスの顔を見た。
「俺がぐずぐずしてたせいだ。叔母貴達を傷つけたって言うなら、それは俺の責任だ。
あげくにお前まで巻き込んで、悪かった。――もう2度とこんな事はさせない」
すっとザギヴは立ち上がった。
「ゆっくり話し合ってね。力を貸せることがあるなら、何でも貸すわ」
そう言いおいて部屋を出てゆく。
二人きりになった部屋で、リュミエは困り顔でゼネテスを見た。
「…ゼネテス、ロストールに帰るの?」
上目遣いでそう聞く少女に、ゼネテスはおどけた顔で頭をかいた。
「近くにいられると、迷惑か?」
「そうじゃないってば。ゼネテス、帰ってティアナ王女と結婚するの?」
「他の女に押しつけられるとは、やっぱり迷惑なんだな」
芝居がかった動作で傷ついた真似をするゼネテスに、リュミエは拳を振り上げた。
「ふざけたことを言ってるんじゃないの!ゼネテスがどうする気なのかって聞いてるの!!」
元気よく怒鳴りまくるリュミエに、ゼネテスはげらげらと笑う。
「調子が出てきたようだな。安心したぜ」
「ゼネテスを安心させるために、怒ってるんじゃないやい!!」
ふくれっ面をするリュミエに、ゼネテスはなお嬉しそうになった。
「それだけ元気があるなら、少し1人で留守番できるな?」
とたんにリュミエが心細げな表情になる。
「…やっぱりロストールに帰るんだ…」
「数日で戻るつもりだ。その間、ここでザギヴが面倒見てくれるはずだから。大人しく待ってられるな?」
子供に言い聞かせるようなゼネテスに、リュミエはそっぽを向く。
「帰るつもりなの?帰ってこないんじゃないの?」
「帰ってくるって」
ゼネテスはなお宥めるようにいった。
「エリス様は帰さないかも知れない。だって、エリス様はゼネテスを頼りにしてる。王女様と一緒になって、
自分を支えて欲しいって思ってる」
「…そうだなぁ、大昔は、それもいいかと思ったことがあるが」
そう懐かしげに言うゼネテスに、リュミエはきゅっと目を閉じた。
そうしないと、気弱になっている今は泣き出しそうな気がしたからだ。
ふわっと何かが唇に触れた。
薄目を開けてみると、すぐ目の前のゼネテスの顔。
抱き寄せられ、今度ははっきりキスされたと分かる。
「必ず戻ってくるって」
「…そういうのって、きっと無責任な我が儘って言うんだよ…」
憎まれ口を叩きながら、リュミエはしっかりとゼネテスにしがみついた。
「今更なんて言われたって怖くないさね。何たって俺は『ファーロスの放蕩息子』だからな。
そんなに簡単に出来が良くなるはずがないさ」
リュミエを抱きしめたまま、ゼネテスが笑う。
「…しっかりとケリを付けてくる」
「もしも、戻ってこなかったら…」
リュミエは泣きべそ顔で脅かすように言った。
「そしたら、今度は私が探しに行くからね。地の底までだって追っかけていくから。もしもどっかで結婚式なんて
あげてたら、派手にぶち壊してやるからね」
「おっかねえな。じゃ、何が何でも戻ってこないと、2度と婿に行けない身体にされちまう」
笑って言うと、ゼネテスは立ち上がった。
「じゃ、行って来る。いい子にしとけよ」
保護者ぶった物言いに、リュミエはまた拳を振り上げる真似をした。
そのままの格好で、涙をぽろぽろ零しながらリュミエは笑っている。
ゼネテスは、わずかな間目を細めると、名残惜しげな顔つきで薄く笑った。
そのまま小さく頷き、部屋から出ていく。
ゼネテスの姿がドアの向こう側に消えても、リュミエはそのままでずっと見送っていた。
「今から行くのね」
廊下に出たところで、待ちかまえていたザギヴとであった。
「落とし前は、早めにつけておきたいんでね」
不敵な冷ややかさのゼネテスに、ザギヴは警戒するような顔で笑った。
「怖い人ね。敵に回したくないわ」
「あんたがあいつを裏切らない限り、俺が敵になることはないな」
今度はザギヴが冷ややかになる。
「取り消してちょうだい。万が一にも私はあの子を裏切らないわ。あの子は私を闇の底から救ってくれた。
あんな子は今までいなかった。冗談でも裏切るなんて言葉を使わないで」
「――ああ、その言葉を聞いて安心した。俺が戻るまで、あいつを任せたぜ」
「頼まれなくたって、任されるわ。いっそ戻ってこなくても良いのよ?あの子はディンガルでもらうから」
皮肉たっぷりのザギヴに、ゼネテスは声を立てずに笑う。
「行きだけは私が送ってあげるわ。帰りは自分の意志で、自分の足で帰ってらっしゃい」
ザギヴが毅然と命令口調で告げる。
ゼネテスは了承の意を片手を上げることで告げた。
「必ず戻るのよ」
念を押すザギヴに、ゼネテスは笑いながら「分かった」と答え――その直後、消えた。
ザギヴの強力なテレポートの呪文にのって。
◆◆
「ゼネさん!」
ロストール、賑わっていたスラムの酒場で、常連客達の声があがった。
「リュミエさんはどうなったんだ?」
「この数日、何をどうして――」
矢継ぎ早の質問にゼネテスは、気さくに笑った。
「心配かけたなぁ。あいつは見つかった。みんなのおかげだよ、今日の飲み代は俺のおごりだ。
ぱーっといってくれ」
ワアッと酒場の中に明るい波が走る。
ゼネテスはカウンター席に座り、その様子を眺めていた。
「良かったなぁ、ゼネさん。リュミエは来てないのかい?顔を見せてくれれば、みんなもっと安心するのに―」
言いかけた主の前に、ゼネテスは多めの金貨を渡すと、1つ頼み事をした。
「そうだな、一ヶ月が二ヶ月…、ほとぼりが冷めた頃、王宮の裏門の門衛連中に酒だる1つ届けてもらえれるか?
約束しちまったんでな」
その奇妙なほどに神妙な声音に、主はわずかに頬を引きつらせた。
「…ゼネさん、どっかにいっちまうのか?」
「どうなるかはわからんが――まあ、何でも良いところ取り、とは行かないだろうさ」
ゼネテスは笑って席を立った。
「じゃあな、親父」
片手を上げ磊落に笑いながら出ていくゼネテスを、主は黙って見送っていた。
沸き立つ酒場内の客達がゼネテスがが出ていったことに気が付いたのは、それからしばらくしてのことだった。
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