ゼネテスが駆け込んだ先は、水路の上を渡る橋の上。
そのすぐ下の行き止まりになった場所を見下ろすと、いましもかぎ爪をリュミエに向かって振り下ろしかけた女の姿が、最初に目に入った。
「のわ!」
とっさにゼネテスは、ツェラシェルの身体を下の女達に向けて放り投げた。
「わぁぁぁぁ!」
頭上からの声に頭を上げた女達は、目を丸くする。
「兄さん!」
慌てて落下地点で構えた妹たちが、落ちてきた兄の身体を受け止めた。
ばしゃっと派手な音を立てて、3人が縺れるように水中に膝をつく。
「兄さん!けがしてる!」
ヴィアリアリが悲鳴を上げた。ツェラシェルの肩には、まだ短剣が突き刺さったままだ。
「抜くな、出血するだろうが」
ツェラシェルは、急いでそれを抜こうとしたもうヴァイライラを制した。
「手当は後だ…」
苦々しげに言うツェラシェルの言葉に続き、彼等の背後でもう一度派手な水音が響く。
顔を上げたヴァイライラは、驚愕に息を飲んだ。
自分達とリュミエの間に、立ちふさがるようにゼネテスが立っていた。
「兄さん…」
小声でそう呼ぶヴィアリアリに、ツェラシェルはばつが悪そうな顔をする。
「こちらの旦那はその小娘が何があっても必要なんだとさ。こっちは命令で動いてるってのにさ。
邪魔しようって、張り切ってここまでお出ましだ」
「お前らがどんな命令を受けようと、俺がそれを認めてやる義理はないね」
ゼネテスは冷たく言うと、しゃがみ込んでリュミエを抱き起こした。
「おい、生きてるか?」
一瞬だけリュミエは目を開いたが、ゼネテスの顔を認めたようには見えなかった。
すぐに目を閉じ、またぐったりとなってしまう。
そのぼろぼろになった姿に、ゼネテスは焼け付く怒りを感じた。
「…遅くなって悪かったなぁ。すぐに外に連れて出てやるから、もうちっとだけ、まっててくれよな…」
そっと顔にかかった髪を撫でつけてやりながら、低い声で呟く。
立ち上がり正面から向かい合うゼネテスに、ヴァイライラは言い聞かせるように話し出した。
「ゼネテス様、王妃様のお気持ちもお考えください。これまで王妃様はゼネテス様の我が儘を、ずいぶんと
黙認してくださいました。そろそろ、王妃様のお心に報いてあげてください」
真摯とも言える女の言葉に、ゼネテスは苦笑ぎみに頭をかいた。
「叔母貴に報いるために、リュミエを見殺しにしろってか?じゃ、誰がこいつの恩に報いてやる?
こいつは、何の義理もないのにロストールのために命を張ったんだぜ?」
ヴァイライラは顔を顰めた。
「お前らも兄貴と同じ事を言うんだろうな、おそらく。リュミエと叔母貴じゃ、比べものにならないと。
叔母貴が『邪魔だ』と言ったら、使い捨てにしても何の痛痒もない、その程度の存在だと」
一歩踏み出したゼネテスから潰されそうな威圧感を感じ、ヴァイライラは逆に後ずさると困り顔で兄を見る。
「説得なんて無駄だぜ。今は逆上せ上がって、まともな価値判断が出来ないらしいや。
とりあえずその旦那へのお説教は王妃の仕事で、俺達がしてやることじゃない。俺達は命令された仕事を
こなすのが先だ」
ツェラシェルは妹たちに目配せをした。
「ゼネテス様、そこをお退きください。どうしても邪魔をなさるというのならば、私達にも考えがあります」
ヴァイライラが声高にそう告げた。
「どうする?俺を殺すのか?」
ゼネテスは可笑しそうに言う。
「いいえ、私達はゼネテス様に危害を加えるつもりなど、毛頭ございません。そしてゼネテス様は、自分に殺意の
ない者を手にかけられるような方ではないと、信じております!」
その言葉にゼネテスは思わず吹き出しかけた。
「随分、お前さん達に都合のいい信用のされ方だ」
「御免!」
女が二人同時に動いた。
ヴァイライラの鋭いかぎ爪がゼネテスの顔面を襲う。
左右どちらに避けようとも、その隙に背後のリュミエに襲いかかれる体勢だったが、ゼネテスはよけなかった。
身を沈めて片手でその手首を押さえると同時に、もう片方の肘を女の腹に入れる。
短い悲鳴と共に気を失った女の身体が、がっくりとゼネテスに被さるように倒れてきた。
そのすぐ後ろから、ヴィアリアリが短剣を翳して襲いかかる。
ゼネテスはにやりと口の端で笑うと、自分が支えた形になっていた身体をヴィアリアリに向けて突き飛ばした。
ヴィアリアリの体勢が崩れる。
ゼネテスはその懐に飛び込むと、剣を持っていた腕を背中にねじりあげた。
「きゃあ!」
鋭い悲鳴が女の口からこぼれる。自らの麻痺の剣が、ねじりあげられた弾みで自分の身体を掠めたのだ。
女の身体が二人続けて水中に落ちた。
瞬きするほどの短い、一瞬の攻防で勝負はついていた。
足下に横たわる二つの身体を見下ろし、ゼネテスはわずかに顔を動かして1人残ったツェラシェルを見る。
「お前は来ないのか?」
そう聞く声は、喩えようもなく冷たい。
「…あんた、本当に王妃にそっくりだよ」
ツェラシェルは喉にからんだような声でいった。
「一見人の良さそうな顔つきで、そのくせ自分が大事なやつ以外は、実はどうでもいいんだ」
「当たり前だ。俺は自分が正義のヒーローだなんて思ったことは、一度もない」
リュミエの前では、けして見せないような冷ややかな表情でゼネテスは言った。
「自分のしている事をよく見るんだな。お前は誰も信じていない。そのお前を、誰が本気で友人だと思う?
相棒と引き替えにしてまで顔を立ててやるだけの借りを、俺はお前に持ってたか?
あいにく、俺は博愛主義者じゃないんだ。何をしたって救われる権利があると思うな」
ゼネテスは大事そうにリュミエを抱き上げると、もう一度冷ややかにツェラシェルを見る。
「あばよ、ツェラシェル」
その言葉だけを残し、ゼネテスは消えてしまった。
結界が解かれた今、脱出魔法が使用可能となっていたのだ。
しゅっと鏡面扉の前に、リュミエを抱えたゼネテスの姿が現れる。
結界をとぎれさせたその場所は、いまだに暗い穴が開いたままだ。
ゼネテスはリュミエを水路の壁に寄りかかるように座らせると、黄金竜の首飾りを取り出し、その前に翳した。
扉が開くときとは全く逆の手順で、魔法陣が復活してゆく。
しばらくその表面の文様をちかちかと点滅させた後、鏡面扉は落ち着きを取り戻した。
ゼネテスは何の感慨もなく、その鏡の表面を眺めると、持っていた金の首飾りを
地下水道の流れの中に放り込んだ。
ちゃぽんと流れに小さな波紋を作った首飾りは、あっという間に水流にながされ、その姿が見えなくなる。
リュミエが小さく身じろいだ。
「…大丈夫か?」
ゼネテスが顔を覗き込んで言うと、多少は意識が戻ったのか、ぼんやりしたままリュミエが頷いた。
「よしよし、もうちょっと我慢しろよ。すぐに手当てしてやるからな」
ゼネテスがリュミエを抱き上げると、腕の中で少女は不安そうに声を震わせる。
「…あの人達は?」
その言葉にゼネテスはちらりと鏡面扉、それから水の流れに目を向けた。
「運がよけりゃ、誰かが探しに来るだろうさ。…運がよければな」
ゼネテスは再び呪文を唱えた。
『テレポート』の詠唱が終わると同時に、二人はどこへともなく飛び去っていった。
◆◆
「ヴァイ、…ヴィア…」
「う…」
兄に揺さぶられ、ようやく妹たちは目を覚ました。
「兄さん、あの二人は…」
「逃げられちまった。至急、王妃に報告だな」
ツェラシェルは渋い顔をした。信用を落として報酬をけずられたら事だな、などとぶつぶつ呟く。
「仕方ないわね。ゼネテス様がお出でになったところで、失敗だったわ」
「エリス様、なんと仰るのかしら。すぐに次の手を打たないと…」
そう言いながら、三人が同時にエスケープを唱える。
「きゃ!」「うわ!」
結界に弾かれた三人が、重なるように水路に落ちた。
「…結界が復活している…」
呆然と呟くヴィアリアリに、ツェラシェルは青ざめる。
「…俺達を…置き去りに…?」
ヴァイライラがはっとして戦闘態勢をとった。
低い獣の唸り声。それが前方と、そして頭上から聞こえる。
三人はゾクリと背筋を振るわせると立ち上がった。
何頭もの魔獣が、三人を包囲するように集まってきていた。
そしてその数は――増えつつある。
誰かが唾を飲み込む音だけが響いた。
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